2.人間として。
一ノ瀬に教えを乞うたものの、それが自分の首を絞めることになった。
教えてもらえれば貰うほど、僕と一ノ瀬の思考は全く別物と言うことを痛感せざる得なかった。どこの塾に行ったと聞けば、一ノ瀬は塾にも予備校にもいったことがなければ家庭教師に教えてもらったこともないと言う。
使っている筆記用具もどこにでも売っているものであり、勉強も最低限しかしていないようだった。
前の学校のときは勉強しかしてなかった、と言っていたけれど本当かどうかはわからない。ただの謙虚の可能性も高いのだ。昔から伊藤は一ノ瀬のことを知っているようで、あいかわらず頭がいい、などと言っているのを見ると『本物の天才』と言っても過言ではないのではないかと思う。
――僕は焦った。
努力してなんとかなる以前の問題なのだと痛感した。
どれだけ努力したって、僕は一ノ瀬に勝てることは一生ないのではないか。僕が一ノ瀬のことを上回る予想すらも出来ない。
朝登校するときそんな悩みに直面して、モヤモヤしながらバスに揺られた。『一ノ瀬の頭脳が羨ましい、ああなりたい』そうは思っていた。妬ましくて、僕に持っていないものを持っている、一ノ瀬が羨ましくて仕方がなかった。けれど本人にあんな風に当たるなんてことは考えていなかった。
友だちとは何なのか、僕にはいないからよく分からなくて、一ノ瀬も分からないけれど僕とのことを『良い関係』だと言ってくれた。
僕も、一ノ瀬のことを羨ましいと思うと同時に……僕の言うことに眉を寄せることも怪訝そうな顔一つせず受け入れて静かに話を聞いてくれる、一ノ瀬とともにいることを悪くないと思い始めていた。
叶野の絡みも今ではそんなに悪いものでもなくて案外湖越も伊藤も話しやすい、そう思うようになっていた。
彼らの近くにいるのが嫌ではないのだ。もちろん勉強が一番大事だと思っている。けれど、彼らと過ごす時間を長くとりたくなってきたのも事実で。
これが原因で成績が下がってしまっていたらどうすればいいのだろうか。そんなことを考えながらバスを降り、学校に向かう途中。
後ろから誰かに肩を軽く叩かれた。
僕に進んで話しかけて肩を気安くたたいてくる奴なんて叶野ぐらいしか思いつかないが、叶野は電車で僕とはまったくの逆方向のはず。誰だ、と訝しむ顔を隠すことなく振り返った。
そこにいたのは、濃い茶色の天然なのか人工的なのかファッションのことに疎いから分からないがウェーブがかかっている髪に、遠めからは黒だと思っていたがよく見ると深い紫色の瞳が印象的な、こいつは。
「……梶井」
となりのクラスの梶井信人だった。緩く笑みを浮かべるその顔はなにを考えているのか、一ノ瀬と違った意味で読めない。
「おーっ!おれも有名人だね~。おれのこと知っててくれてうれしいよ~わしおくーん」
「……僕に何か用か?」
警戒心を隠すことなく簡潔に要件を問う。
梶井信人。ある意味有名人だが、顔をこうして合わせて話すのは初めてだ。何故僕のことを知っていてかつ、僕にわざわざ話しかけたのか。同性で同い年で同じ高校でとなりのクラスの生徒ぐらいしか接点なんてない。
いつも口元が緩くて常に笑みを浮かべていて、僕も垂れ目の部類だが……何故か目付きが悪いと評される僕と違い、緩やかな笑みに合う穏やかな印象を与えられる。
そのだらけた姿勢のせいもあるのだろうか。緩くかけられたパーマがそう印象付けられるのかどうかはどうでもいい。とにかくその容姿だけならば、きっと叶野と同じぐらい『接しやすい』部類なのだろう。
けれど、水咲高校に通っている奴ならみんな知っている。1-Aの梶井信人は『おかしい』のだと。
見た目だけなら人畜無害にしか見えないが、中身は『爆弾』と言うことを皆知っている。伊藤の起こした暴行事件の黒幕はこいつだからだ。何故知っているか。バラしているからだ。誰かが梶井がやったとかバラした訳でも、梶井と手を組んでいた奴が裏切られた訳でもない。
――自ら、名乗り上げたのだ。
『いとーくんの起こした事件ね、あれおれのせいだからー。おれがくろまくでっす!いちねんえーぐみのー梶井信人くんがやりました~。ごめんなさーい』
事件が起こった二日後、態々校内放送を使って、あきらかに反省なんてしていない何の重みのない言葉でそう言った。まるで小学生のような謝り方が、逆に恐ろしかった。
『でもさ~み~んなさ!いとーくんの話を聞かずに悪者扱いなんだよねぇ!『あの顔いつかやると思ってた』てさ!それ聞いてておれがはずかしくなっちゃったよん!
とんだふうひょーひがいだよねぇ。あはは!ざーんねん!『伊藤まじ怖いよなー』と聞かれてそれに『そうだねー』頷いたおれがこの事件のくろまくですよー!あははその驚愕に歪んで顔面崩壊してる表情、さいこーだよっそれはさいこーにおもしろいよー!A組の西くん!!』
まるで見ているかのようなそんな梶井の話し方にクラスメイトたちは辺りを見回す。A組の西のことなんて知らないが、梶井はどこまで見ているのかわからない。どこかに隠しカメラでもあるんじゃないかとそう思っての行動だった。
『そんなバカみたいに顔ふらなくていいよぉ?おもしろくないしー』
つまらないものを見た子どものようにそういう梶井に冷静さをクラスメイトは取り戻したようだった。クラスはざわつき始める。
『あははーきょうのとこはこのぐらいにしておこうかなー。また忘れられたころにやってきますよっ!それではまた次回をおたのしみに~。みなさまに楽しい学校生活をお届けにまいりますよ~』
そう締めくくって、ぶつりと放送が切られた。この一件で、伊藤は被害者で梶井は加害者だと言うことを僕たちは植え込まれた。とはいえ、いくら伊藤が被害者側だとしても元々その目付きの悪さとその髪色と制服を着崩しており不愛想なので事件が起こる前から、疎遠気味でありあの事件の際には見ていて引くぐらい暴れていたのは事実のうえ、先生に連れられても平然とした顔をしていたものせいか伊藤に積極的に話そうとするのはお人好しの叶野ぐらいのものになった。
伊藤は恐れられる存在になり、梶井は『狂人』として扱われることになったのだ。
そして、その『狂人』は目の前にいる。
「ん~おれがいるのにかんがえごと~?」
「……うるさい、用がないのなら先に行く」
上目遣いで明らかに高くした猫撫で声で鬱陶しく絡みついてくるのを僕は切るように振りほどいた。香水なのか何なのか分からないけれど、むせかえるほどの甘ったるい匂いに鼻がマヒしそうで距離をとる。そのまま先に行こうと、梶井に追いつかれないぐらいの早足でその場を立ち去ろうとする寸前。
「わしおくん、あの~?えっと転校生。かれなんてなまえだったけ?あの神丘学園から来たっていう美形の天才くん」
「……一ノ瀬だ」
「あ、そうそう、いちのせくん。いや~かれすごいよねぇ。ものすごーくあたま良いあの神丘学園で学年トップを小学校のときに転校してきてからずーっと維持したまんまだったんだって!しかも!国語以外の教科は満点でさ!!」
「……!」
うすうす、一ノ瀬は他と違うとは思っていたが、まさかそこまですごいやつなんて初めて聞いた。順位はどのくらいなのかと聞いたとき、一ノ瀬はそれに答えようとしなかったから、知らなかった。何故梶井が知っているのかなんて、そんな疑問はその時の僕には思い浮かびもしなかった。ただ上には上がいて、その上が自分が上回る予想すらも出来ないほど格上であるその現実を受けいれようとするのに必死だったから。
黙り込む僕がなにがおもしろいのか笑みを浮かべながらなおも言い募る。
「さすがは、天才って感じぃ?うらやましいよねぇ。あ、おれはべつにうらやましいなんておもってないけどっ!わしおくんやーあと叶野くんもかな?きみらからすると羨ましくて仕方ないよねぇ」
「……かのう?」
小ばかにしたような梶井の言葉に一つ引っ掛かりを覚えた。僕のことを言うのは癪だが分かる。だが、何故この話題で叶野が出てきたのか分からなくてつい聞いてしまった。梶井はわざとらしく「あっいっけなーい。これはみんなに秘密のことだったなぁ~聞かなかったふりしてちょー」と棒読みでそう言った。なにが。
どうしてこの話題にわざとらしく意味深そうに叶野の名前が出た?今にして思えば、梶井は叶野のことを気になるように仕向けていたのかもしれない。
そもそも何故梶井が一ノ瀬のことも叶野のことも僕のことも、そんなに詳しいのか。それを聞こうとする前に梶井は笑う。
「とにかくさ!わしおくんはいちのせくんに勝てないよね~1位に固執するわしおくんが苦労してでも取れないのにね!でも、いちのせくんはさ!とくに1位に固執しているわけでもなくて、苦労もせず普通にしているだけでとれるんだもん。神様がいるならほんと不平等だよね~そう思わない?」
そう、大きな声で言った。まるで道化師のように鬱陶しく躍るような身振り手振りを加えながら、歌う様に。
梶井の浮かべる笑みは、変わらない。口角は上がっているくせに、何の感情ものせていないかのような冷たい目のままだ。
一ノ瀬の綺麗で冷たくも感じる無表情より、梶井の表情のほうが恐ろしかった。そして、なにより。梶井の言っていることが……僕がこれからそう思ってしまうであろうこと、代弁してくれたのが……救いのように感じた自分が今となっては恐ろしい。
よくわからない自分のなかに燻っていたものの正体を梶井は教えてくれた。梶井も僕の思っていることを代弁してくれたと言うことは梶井もそう思っていることだと、勝手にそう思った。
別に、梶井は代弁しているだけなのに、な。
「絶対的な天才を前にするとさ、頑張っている凡人は霞むんだよねぇ。とくにわしおくんは分かってるよねぇ?これ以上ないってぐらいの現実的主義で、頑張って努力をし続けてきたのに結果を出すことが出来なくて。挫折を知っているきみにはさ」
「……」
「悲しいねぇ。どうしてこんなに頑張っているのに、1位になれないんだろ。どうして、一ノ瀬は簡単に自分が欲しいものをとっちゃうんだろうねぇ。何の苦労もしていないようにしか見えないのに」
ふざけた雰囲気から一変して、次は諭すように静かに哀れむように話し出す。僕のことをどこまで知っているのか。そんなことはもうどうでもよかった。何度も、梶井は僕が一ノ瀬に勝てないと言う。刷り込むように、何度も。嫌味にならない声音でそう言う。心底哀れんでいるように聞こえる声音で。
――そうだ。一ノ瀬は……ずるい。悔しい。羨ましい、どうして。
僕が欲しいものを、すべて持っている。努力し続けている僕が望んでいても貰えないものを、どうして一ノ瀬は簡単に特に望んでいるようにも見えないのに、貰えているんだろうか。
――どうして、どうしてどうして。
苦しみながら努力する僕よりも一ノ瀬は上にいる。僕より勉強していないのに、僕より遊んでいるのに、僕より、楽しそうなのに。ずるい、僕にないもの挫折してしまったものすべてを持っている一ノ瀬が。妬ましい、羨ましい。僕もああなりたかった。そうなれば僕はもっと父に褒められたのに。僕を認めてくれたのに。悔しい。
「……憎い」
そう心のなかにいた醜いものを吐き出した瞬間、一ノ瀬に感じていた『友情』に近い感情が塗り重ねられ、醜い感情が僕の心を満たした。それが少しだけ怖かった。自分ではない自分になった気持ちになった。
梶井は今までに感じたことのないほどの強い感情に恐ろしく感じていたのを察したように、宥めるようにわらう。
「その『憎い』と言う感情のままに行動しちゃえばいいんだよぉ。だいじょうぶ、だれにだってそんな感情生まれるよ。ただみんな行動に移せないだけ。でも、わしおくんはそんな弱虫じゃないでしょ」
「ああ。僕は……みんなと違う、努力してきた」
「そうだよ。鷲尾くんは頑張ってきた。その頑張ってきたのを踏みにじるようなやつになんだってしていいんだよ」
「……そう、なのか」
「うん、いいの」
「そうか。……良いんだな……」
梶井の言葉に僕は勇気をもらう。自分は何一つ、間違っていないのだと錯覚した。梶井のその甘い匂いが麻薬のように僕の脳を犯していく、さっきまで不愉快に思っていた匂いが何故か落ち着くものにも思えた。
僕は感じたことのない感情を誰しも味わっているものに安心した。そして思ったことを行動できないやつと自分は違うのだとそう強く出れた。梶井の言葉が救いのように感じた。……今は、幾つもの顔と声を使い分け、馬鹿にしたように話したり哀れむように話したり宥めるよう僕を上手く使う梶井に恐怖を感じる。
僕の弱いところに付け込み、受け入れ宥めて諭す。でも、今考えると梶井は自分の意志は一つも言っていなかった。あと……顔も声も変えていたが、あの瞳だけは温度を感じなかったような気がした。
朝の僕は梶井の言うことすべてが正しいように感じた。……先に行く僕のことを梶井の笑みがさらに深くなり、その瞳がさらに冷たく僕のことを見ていたなんて知らなかった。
――――
背中を押す梶井の言う通りに、僕は自分の醜い感情のままに行動した。
話しかけてきた叶野も、梶井が意味深に名前を出していたのを考えると成績なんて興味が無さそうなふりしてなにか裏があるんじゃないかと疑い、初めて叶野を本当に無視した。いつもと違う僕に戸惑ったように見えたが、別に僕一人いつもと違っていても何も変わらない。
叶野も湖越も伊藤も、一ノ瀬も。いつも通り過ごしているように見えた。なんだ、僕なんていなくたって何も変わらないのだ。無視したのは自分のくせに、勝手に傷ついた。
良い関係だと思っていると一ノ瀬は僕にも言ってくれたが、一ノ瀬には伊藤が常に隣にいる。親友とかよくわからないと言うが、そんなに一緒にいるのだから自分が自覚していないだけで『親友』と言っても過言ではないだろうと確信した。
よく僕に絡んでくる叶野は湖越だったりクラスメイトだったり他のクラスのやつなり色んなやつの隣にいる。
――ひとりでいるのは、僕だけだ。
昼、僕のことなんて知らないと言わんばかりにいつも通りの一ノ瀬たちの姿を遠目で見て、ぐうっと胸あたりが苦しくなった。いつものことのはずだ。僕は、1人で勉強することが一番だとそう思っていたはずだ。
今が今の今まで望んでいたはずの状況だと言うのに。どうしてこんな引っ掛かりを覚えるのはなぜだろうか。
叶野を無視しておいて、叶野が傷ついた様子がないのが喜ばしいことのはずなのに、どうして腹が立つのだろうか。
そう思うことも出来ず勝手に腹立たしく思う自分はやはり醜い。なんて身勝手なのだろうか。彼らの姿をこれ以上見ていると自分がどうにかなってしまいそうだった。すぐに図書室へ移動した。
教室を出る寸前の彼ら……叶野はいつも通りの笑みでグループに溶け込んでいたように思う。窓際、一ノ瀬と伊藤の席に叶野と湖越がいて昼食をともにする姿。前までは、僕もそこにいたはずなのに。自分でそうしたくせにそんなことを思ってしまった自分の反吐が出るほどの身勝手さに舌打ちした。
すでに自分の醜い感情に振り回されていた。一回認めてしまった自分の感情に、どう対処していいのかどう処理していいのか分からない。自分がなにをすべきなのか分からなくなる。初めて向き合う感情。だが、自分は間違っていないのだ。梶井はそう言っていた。
そうだ、それでいいはずだ。なにか違和感を覚える。けれど僕は言い聞かす。僕は僕の思うがままに行動していいのだ。
みんな思っていてもしないことをやればいい。騒がしい外の声を聞きながら1人図書室に籠って耳を塞いで呪文のように「これでいい」と呟く。
『これは間違っているのではないか』と疑う自分を抑えつけて殺した。
叶野を無視し今まで望んでいたひとりになって。変な虚しさを覚えても。一ノ瀬のテストの点数をクラスメイトの前で大きな声で言ったのは決してわざとではなかったが、自分が思うがままに吐き出した言葉に一ノ瀬と伊藤が傷ついた顔を見て。鳩尾辺りが苦しくなっても。
英語の時間の最中、僕からはよく聞こえていなかったのだが、テスト返却の際後ろのほうの席の名前の知らぬクラスメイトが一ノ瀬のことを見ながら何か言っているのを見て。不快感が胸を襲っても。
『間違ったことしていない、自分が自分の感情の思うがままにやっていただけで、自分は何も悪くない。』と。
そう幾度となく言い聞かせた。
間違ってなんかない。不正解を選んでいる訳じゃない。僕は僕の思う通りにやってなにが悪いと言うのだ。僕は間違ってない、不正解を選んでなんかいない。狂ったように、何度もそう思った。
真っ直ぐ黒板を見ながらも先生の話は全く聞けず集中なんて出来なくて、終了のチャイムが聞こえるまで僕は全く集中できていなかったことに気が付くことがなかった。
気が付いたときには授業は終わっていて、ノートは真っ白だったことに絶望感を覚えた。何をしているのだ、僕は。
自分は正しいとそう言い聞かせるだけで授業を無駄にした。しかも黒板に書かれていることのひとつもノートに書くこともなく。何と言う失態を犯しているのだ。呆然とまっさらな自分のノートを眺める。
そんな僕の耳に、賑やかな声が聞こえてくる。
「叶野、テストどうだったんだ?」
「あー俺、ぜんぜんだめ!」
「まじかよ。ちょっと見せて見ろよーどれどれ?」
「あ、ちょっと!見ないでー!」
声の正体は名前は知らないが……顔に見覚えのあるクラスメイトと叶野だった。今近くに湖越は見当たらなかった。伊藤と一ノ瀬は後ろのほうにいるからなにをしているのかわからないが、さっきの英語のとき席を立つのを先生が許さなかったせいか授業が終わったあとに互いのことを確認しているようだ。
クラスメイトが叶野の状況を聞いていて、叶野はそれにオーバーに駄目と言う。クラスメイトは叶野のテストをのぞきこんだ。まさか。と思った。
勉強会の際に叶野はこの高校の授業でも習っていない僕の塾の課題を解いたのだ。
叶野の言うそれはただの謙遜だろう。それよりもこのなにも書かれていないノートをどうするべきなのかを僕は考えないといけない。
自分には頼れる友人はおらず、朝のときやさきほどの自分の行動から今更叶野や一ノ瀬に見せてほしいなんてどの面をさげて言えるだろうか。湖越も伊藤もそれぞれの親しい友人があんな対応とられたのだから、僕のことを嫌悪しているだろう。
素直に先生に言うべきか。そう判断がつく、そんな手前。
「んだよ、そんな言うほど悪くねえしむしろ良い方じゃん」
「いやいや、自慢できるほどの点数でもないっしょ……」
「あー…いや、でもそんな過剰反応するほどでもねえだろうよ」
「じゃあそっちはどうなの!」
「俺は無理みせれねえー」
なにをー見せろよっ!とクラスメイトにつかみかかろうとする叶野に僕は近寄る。僕から背を向けていたから叶野は気が付かなかったが、クラスメイトはこちらに近付いてくる僕に気が付いたようで首を傾げてこちらを見ているが、どうでもいい。
今、僕が意識を向いていたのは叶野のテストだけ。叶野が目の前のクラスメイトが自身の後ろのほうを見て固まっているのを不思議に思い振り向くのと同時に僕は叶野のテストをひったくった。
その点数を見て、僕は心底驚いた。叶野は僕の塾の課題をパッと見て理解出来ていたはずだ。叶野の頭脳はどれほどのものなのか想像もしていなかったがただ曖昧に、普通よりはいいはずだとそう思っていた。
それなのに。僕の想像に反して叶野は決して世間一般からすれば悪いとは言われない点数ではあるものの、叶野の頭脳のことを考えればこんなものではないだろうと、そう思ってた。
父さんに初めて見放されたときと同じ点数のテストに既視感を覚える。あのときと同じような胃の痛みと嫌な胸騒ぎ。そして、梶井が言っていた……。
『さすがは、天才って感じぃ?うらやましいよねぇ。あ、おれはべつにうらやましいなんておもってないけどっ!わしおくんやーあと叶野くんもかな?きみらからすると羨ましくて仕方ないよねぇ』
梶井は僕の名前だけではなく叶野の名前も出していた。どうしてなのかそんな疑問しか朝は持たなかったが、今は違う、いや違わないのだろうか。このとき僕は混乱していた。
テストの点数、どうして叶野はこんな点数なのか、そうじゃないだろ、どうして梶井は天才である一ノ瀬を叶野は羨ましくて仕方がないと言っていたのか。
短時間で色んなものがぐちゃぐちゃになって、纏まらない思考のなか叶野は青ざめた顔で僕を見ていた。
どういうことなのか、もう自分には分からなかった。でも、叶野に裏切られた。そう感じた。だって、叶野はあのとき僕の間違いを指摘していたのに、それよりも断然簡単な文法でさえ間違っていて。僕はこう思った。
叶野は、本気を出していないのだと。僕の脳はそう答えを導き出した。
その頭脳を生かすことなく不真面目に取り組んでいたのだ。勉強会まで開いていたくせに。とんだ、茶番じゃないか。
そんな答えを見つけ出してしまった瞬間。もうだめだった。
「どういうことだ、叶野!!お前が、そんな点数な訳ないだろう!」
気付けば叶野のその軽くなで肩のそれを強く掴んで真っ直ぐに叶野を見て責め立てていた。僕は叶野を責めていた、裏切られたと思い込んだ。でも、それ以上にどうして手を抜いたのか聞きたかった。それだけだった。けれど叶野は笑った。
「……鷲尾くんは、俺を期待して評価しすぎだよ。俺はこんなものだよ」
僕に目を合わすことなく、青い顔のまま自嘲気味に癖なのか少し笑みを浮かべた表情でそう僕を突き放すようにそう言った。その笑顔はいつもの楽し気なものではなくて、頭にこびりついて離れなくなるほど、虚しい表情だった。
あきらかな作った顔。それは、目の前に目に見えない薄くて強固な壁がはられているようだった。
「…鷲尾くんの期待に沿えなかったのは申し訳ないけどさ、俺はこれが限界なんだよ」
そのままの表情で叶野はそう続けて、熱くなった頭がさらに熱を帯びたようで、湧き上がる感情のままに叶野を問い詰める。
それでも聞かれたことをはぐらかして突き放すようにこの話題を終わらそうとする叶野に、腹が立って感情のままに肩を掴む手に力を込めると叶野は痛そうに顔を歪ませるのに構わず、湖越が止めに入るまでこのまま僕は叶野を離すことが出来なかった。
そして、僕を突き飛ばすようにして叶野との間に入った湖越に僕の行動の矛盾を突かれ、僕は自分自身の矛盾に気が付くことになる。
何故。一ノ瀬なりに全力でやっていたことを知っていたのに全力でやったことを、僕は一ノ瀬に後悔させるようなことを言ってしまったのか。
何故。叶野が手を抜いたことを僕は一ノ瀬を責めた同じ口で本気を出さなかったことを怒り裏切られたと勝手に感じて、問い詰めているのか。
なにかを言おうとするが、口から出るのは変な呼吸音のみ。今更、自分は間違っていたのだと気付く。だが、もう遅かった。
湖越はそんな自分のことにさえ鈍感な僕のことを苦々しい表情で見つめて、今まで湖越なりに僕のことを受け入れていたとそこまで告げて、深呼吸のように浅く息を吸って吐いたあと。
「……だけど、今は最低な奴だと思ってる」
冷たく、僕を睨みつけるように一直線に僕の顔を見てそう言い切った。一瞬頭が真っ白になる。けれど、当然だ。僕はそう思われることをした。だから……父さんのように僕のことを切り捨てられても僕は何も言えない。けれどこういうとき僕は友人なんていたこともなければ、こうして面と向かって言われる経験もなかった。
「別に何とも思っていない貴様にそんなことを言われたところで、どうだっていいことさ」
思ってもいないことを言ってまた強がって、僕は自分の荷物を掴んで逃げるように教室を出る。まだHRが終わっていないことなんて頭には無かった。今になってようやく思い出したぐらいだ。
教室を出てしばらくすると走るような足音が僕を追いかけてくるようだった。僕を追いかけてくるなんて誰だろうか、湖越だろうか、伊藤だろうか。
親しい友人を傷つけておいてなに逃げているのか、そう問い詰めて教室に引きずり戻そうとしているのか、それとも報復か。どちらでも構わなかったしどちらもされても仕方がないことだとも思った。
それぐらいのことをしてしまった自覚ぐらいはある。一ノ瀬も叶野も僕から逃げなかったのに、自分は逃げているのだから。そう、僕は逃げているのだ。逃げるよう、なんて曖昧なものではなく本当に逃げている。誰かを傷つけておいて、誰かに傷付けられたから、僕は逃げている。
なにされたって僕は文句ひとつも言える立場じゃない、罰を受ける側なのだ。なんだって受け入れよう。そう心から思った。けれど、走る足音は一定の距離まで僕に近づいてからと言うもの、その音は止んで次はただ歩いているだけのようにゆっくり歩いている音になった。けれど一定の距離を保ちながら。
――なんだ?僕を責めに来たのではないのか。そんな僕のことを窺うようなその足取りはなんだ。そもそもわざわざ僕なんかを追いかけてくる奴は誰なのか。
誰なのか確かめようと階段を降りていって踊り場でくるりと回る際、僕の次に下ってくる奴のことを盗み見た。
艶やかな黒髪に、日本ではほとんど見ない薄い灰色の瞳をした奴。触らなくても分かるほどの真っ直ぐな髪と不思議な色をした瞳に該当する奴は、一ノ瀬ただひとりだ。
髪と瞳の色は分かったものの一ノ瀬がどんな表情をしていたのかどうかだけは分からなかったが、こうして僕を追いかけるぐらいなのだからきっとそれほどまでに怒っているのだろう。伊藤にも失礼に値することを言ってしまったのだから。
話しかけないのであれば僕は知らないフリを通す。話しかけるのであれば、すぐにでも反応しよう。そう結論付けてしばらく一ノ瀬は僕の尾行をするような形のまま学校を出て裏門を通り、中途半端な時間だからだろうかいつ雨が降ってもおかしくないほどの天候のせいか、誰も人のいない自身の通学路を歩いていく。
そのまま何も話すこともなく、広場に差し掛かってようやく一ノ瀬は僕に話しかけた。どう話しかけていいのか……どう僕を罰するか決めたのだろう。僕は罰を受けるべきだ。
何にしても、一回立ち止まって話すべきだろうと判断して一ノ瀬のほうを振り向くことは出来ず広場へと入る、一ノ瀬は静かに僕についていく。
中に入って周囲には誰もいないことを確認して、僕は相変わらず振り向くことなく、居心地の悪い気持ち悪さを抱えたままに一ノ瀬に早口で捲し立てるように話しだす。
何も考えてはいない。ただこの空気に逃げ出したい気持ちを抑えて、自分が落ち着くがために言葉を紡いでいく。本当はされたくないことを。だがされたくないことをされるのが罰なのだから。
僕の言葉に何も返さない一ノ瀬に少しの苛立ちを覚えながらも、一ノ瀬にどんなことをしたってかまいやしないと僕はそう言った。
道化師を演じているかのような気持ちで、わざとらしく何の気持ちを込めていないまるで相手を煽るかのように手をあげる、自分が見たら苛立つであろう行為を一ノ瀬にあえてしてみせた。
そうすれば、一ノ瀬も激高して罰を与えてくれる、そう思ったから。だけど。
「それは、鷲尾がされたいことなだけだろ」
言葉に言葉を重ねて挑発している僕に、一ノ瀬はそう言い切った。一刀両断するように責めるように。でもその言葉に冷たさは無いむしろ優しささえ感じる不思議な声音でそう言った。表情は分からない、僕が見ないように一ノ瀬から背を向けていたから。
何を言われているのか瞬時に理解出来なくて、情けなく声が震えるのを抑えながら「……なにを言っている」と問うことしかできない。
そんな僕を畳みかけるように一ノ瀬は告げる。静かなくせして、嫌味なほど通る綺麗な声で。
「もし、俺が鷲尾が言っていたことを全てしたとしても。お前の感じているであろう罪悪感は消えることなんてない。自分がしたこと……俺に言ったことも。ぜんぶ」
……うるさい。
「叶野に言ったことも消えることなんてない。鷲尾がされたいことは叶野を傷つけた罪滅ぼしになんてならない」
ッうるさい、うるさい……。
「そんなの自己満足だ。傷付けた叶野の意志を無視して、勝手に許された気になるだけ。それだけだ。言われた本人の意志なんて気にしてない」
うるさいうるさいうるさい。
「ただ自分が、楽になりたいだけだ」
うるさいっ!!!
淡々とした一ノ瀬の言葉はすべて僕の胸あたり刺さっていく。痛みと同時に、『楽になりたいだけだ』とそう言う、どうして僕のことを分かっているかのようにそう言うのか。
図星を指されていたのもあるのだが、それと同時に僕のことなんか僕じゃないのだからすべてをわかっていないくせに、どうして僕の本当の感情を見ているかのようなその物言いに脳が熱くなった。
そうして熱くなったままに何も考えず叶野のときのように、でも叶野のときよりも激しい感情を抑えきれず、ついに一ノ瀬のほうを振り返り、早足で歩み寄り胸倉を掴み自分のほうに乱暴に近づける。
「っお前に何がわかる、なにを知ったかのような口を利く!お前は僕のことなんて知らないじゃないか!何故そう言い切れる!!」
激高させようとして結局自分が激高しなにも考えられず、何も考えず一ノ瀬にそう問い詰める。感情のままに。でもその感情が怒りと言うよりも、八つ当たりだとどっかの冷静の頭がそういう。
自分が本当に思っていたことを誰にも言われたくないことを指摘されたへの羞恥からも来ていた。
僕に揺さぶられたせいで一ノ瀬のその真っ直ぐの黒髪は揺れる。前が見えにくいほど長い前髪はふわりと揺れて目が見えなかった。揺れていた髪が本来あるべきところに戻って一ノ瀬の瞳が見えるようになって、僕は息をのんだ。目の前の一ノ瀬の瞳は掴みかかり歪んだ顔をする僕をその薄い灰色は映していた、そんな僕を見つめるその瞳は、どこまでも悲しそうにもどこまでも優しげにも見えた。
「俺がそうだったから」
僕に睨まれて掴みかかられて揺さぶられているのにかかわらず、一ノ瀬は抵抗せず……ただ一言そう言った。柔軟剤の匂いなのか分からないけれど、清潔感があって心地よい香りが鼻に残る。
悲し気にでも優しくも嬉しそうにも聞き取れる、声だった。表情は変わっていないのに綺麗な眼は真っ直ぐ僕を見て、不思議な声音で僕に告げる。
そんな一ノ瀬に僕は、今の状況を忘れただ見惚れるしかできなかった。