2.人間として。


 しかたねえやつらだなーと呟く伊藤とともに叶野たちを眺めていると、唐突に誰かに話しかけられた。
 名前は呼ばれなかった。でも、俺の近くで強い口調でそう言われたからたぶん俺のことを呼んだと無意識下に認識して反射的に声のした方を顔を向ける。
 いつの間にか俺の席のそばに鷲尾は立っていた。俺は席に着いているから、立っている鷲尾を自然と見上げることになる。その声で鷲尾と言うことは分かっていたけれど、驚いてしまう。

 驚いたのはいつの間にか俺の近くにいたことにもだったが、立っているせいで自然と俺を見下ろし鷲尾の目が酷く冷めているような気がしたから。その目が少しだけ桐渓さんを思い出して、怖い、と思う。

「さっきのテスト見せろ」

 鷲尾は声が大きくてなんというか有無を言わせない、かなりはっきりしていて冷たさを感じさせることが多々ある話し方をする。でもそれも鷲尾の特徴だと思っていた。普段の鷲尾には特に俺として思うことはなかった。
だけど、今の鷲尾はずいぶんと高圧的な気がする。
鷲尾の言う通り特に見られて困るものではなかったから、机にしまっていた先ほどのテストを鷲尾に差し出した。それを乱暴に俺の手から奪い取るような雑さで手に取った。手がジンジンと痛んだ。

「……98点か」

 ……さっきも言ったけれど、鷲尾の声は大きい。そして通る声をしている。すでに呼び掛けた地点でクラスメイトがこちらに注目してしまうぐらいには。そんななか点数を呟かれたら、な。

「まじか、やっぱり神丘学園にいるだけあるのか」
「へー。一ノ瀬ってすげえな」

 クラス中に俺のテストの点数が知られてしまうのである。たぶん、鷲尾からすると目に入ったから無意識に言葉にしてしまったんだと思う。けれど結果として皆に知られてしまうことになった。悪いことではないが、少し居心地が悪い。そんな俺に気が付いた伊藤がギッと鷲尾を睨む。

「おい!突然こっち来たかと思ったらなにしてやがるんだっ」
「……伊藤、俺は気にしてないから」

 気分が良いとはちょっと違うけれど、気にしていないのは本当だ。見られて恥だと思っていないし、前の学園のときは上位50まで掲示板に貼られていたから。そのつもりで言ったのだが。

「ああ、さすがだな。神丘学園にいたやつはやっぱり少し違うのか。まぁ一ノ瀬は天才だからな。一般とは違うと言うわけか」
「……そんなつもりでは」

 まさかそういう風に解釈される思わなくて、咄嗟に声が出なくなる。辛うじて小さな声で否定したけれど、酷く冷めていてそのうえ大きくて通る声でかき消されてしまう。

「羨ましい限りだな」

 そう言って、鷲尾は嗤った。口角だけ上げて、そのくせその冷たい瞳で俺を見下ろした。目の前の鷲尾が脳内にいる桐渓さんと被って見えて、ヒュッと喉が引き攣って声が出せなくなる。

「てめえ勝手に透のテストの点数を読み上げておいてよ。透が悪いような物言いは何なんだよ」
「そうだな。そこは謝るさ。悪かったな、一ノ瀬。ああ、でも一ノ瀬は気にしていないんだよな。さすが、あの名門の出のお方は育ちも何もかも違うんですね?」
「鷲尾!」

 鷲尾の棘のある言い方についに伊藤は勢いよく立ち上がり、鷲尾に掴みかかる。
 このまま鷲尾を殴ってしまいそうな雰囲気の伊藤に、さっき言われたことも忘れて詰まりそうになりながら伊藤の名前を呼んで制止しようとしたのとほぼ同時に、鷲尾は伊藤に怯まず言い放つ。

「なんだ?伊藤。先輩や先生らを殴ったあとは次は僕なのか?」

 そう、鷲尾は言った。その言葉に伊藤はその振り上げかけた拳は鷲尾の顔間近でピタリと止まる、クラスのみんなもシンと静まり返る。そんななか唯一俺は何のことか分からなくて首を傾げる、いや、鷲尾がいった言葉がうまく理解できなかった。
 伊藤が?先輩や先生を、なぐった?……予想が出来ない。だって、伊藤はあんなに優しい。
 昔からの親友なのに、伊藤のこともすべてを忘れてしまった俺を伊藤は笑って受け入れてくれた。過去のことを話したとき涙を拭ってくれた、生きることをあきらめないでくれと叫んでくれた。そんな伊藤が人を殴ったなんて、鷲尾の言ったことと俺の脳内の伊藤と上手くリンクしてくれない。

 だけど、たぶん……鷲尾の言っていることはきっとほんとう、だと思う。

 その証拠に、クラスのみんなは気まずそうにこちらと目を合わせず静まり返っていて……何より、伊藤は否定していない。鷲尾が言い放った言葉に、なにも……反応すら見せない。
 俺に背中を向けているから伊藤の表情は分からない。固まってしまった伊藤に「離せ」と鷲尾は掴まれた手を振り払う。力なくだらりと伊藤の腕が重力に逆らわず腰あたりに揺らめくのが、目についた。

「へえ。一ノ瀬の反応を見る限り自分がしたこと言っていなかったのか。あんなに一緒にいるくせに。ともだちってそんなことも言えない存在なのか。友達ってやっぱりただのじこまんぞ……」
「っ鷲尾くん!」

 小馬鹿にしたように嗤いながら静かな教室で鷲尾の意見が響いていたけれど、誰かが名前を呼んで制止する。
 悲鳴にも聞こえるような、悲痛な声だった。そんな声をあげたほうを見ると、眉を寄せて声と同じような苦しい表情を浮かべる。呼ばれて叶野の方を見た。
 伊藤に凄まれても怯まなかった鷲尾が、止まる。

「鷲尾くん、どうしちゃったの。どうして、そんな、みんなを傷付けるようなことを……」
「……これが本来の僕さ」

 これ以上は話すつもりはないといわんばかりに、切り捨てるようにでも這いだすような自嘲しているようにも聞こえる声でそう言って自分の席に戻っていった。
 わしおくん、弱弱しく叶野は名前を呼んだけれどタイミング悪く次の教科の先生が来てしまった。

「こんにちは。眠いと思いますが授業を始めますよ。…あら、どうしましたか?」

 普段は騒がしくも和やかなのに反して、今酷く静かで空気の悪い教室に英語担当の上品な女性教師が戸惑いがちにそう首を傾げて聞く。

「なんでもないです。ほら、のぞみ。みんなも席に着け」
「……うん」

 湖越に促され席に戻っていく。伊藤は、固まったままだ。今どんな表情を浮かべているんだろう。

「……伊藤」

 俺の声に反応して、振り向く。どんな顔をしていいのかわからないような、複雑な表情を浮かべている。この場から逃げ出してしまいたいような、そんな顔。一瞬どう声をかけようかと迷った。

「……さっき、俺のために怒ってくれてありがとう。授業、始まるから。座ろう?」

 あえて今伊藤が浮かべている表情に反応せずさっきのことをお礼と座るよう促しただけにした。鷲尾の言ったことは本当だとして…俺のために怒ってくれたのも本当だと思う。それはさっきのことだけじゃなくて。
 もう1ヶ月半も前の話になるのか。生きようとしない俺に怒ってくれたのも、心配してくれたのも、泣いてくれたのも。
 クラスメイトが気軽に俺が引っ越してくる前の伊藤の話をしようとしないのも、湖越が話そうとしたのを止めていたのも分かった。
 伊藤も、確かに話しにくいことだとおもう。どういった経緯でそんなことが起こったのか分からない。

 だけどクラスメイトが伊藤のことを話そうとしているのを止めた後『伊藤は何も悪くない』そう湖越は言っていた。
 結果はどうあれきっとなにか伊藤にも事情があったんだ。伊藤は俺の記憶喪失のことを受け入れてくれた、うそじゃないと責めもせず信じてくれた。なら、俺も伊藤のことを信じたい。

 疑わず俺に言わなかったことを責めず、伊藤のことを信じる。伊藤から言いたくなるまで待つ。言いたくなったら、真剣に聞く。伊藤が、俺にそうしてくれたように。

 それが、きっとたぶん『親友』と呼ぶんだ、と思う。

「…………ああ」

 たっぷり間が合って伊藤は頷いた。事件のことをすぐにでも伊藤が俺が話すのを待ってくれたように俺も伊藤が話してくれるのを待つから。それまで、俺はいつも通りを演じるから。
 クラスが妙な空気になっているのも俺のことを気にする伊藤の目線をあえて気付かないふりをしていつも通りに授業が始まった。

――――

「一ノ瀬くん、はいどうぞ」
「……どうも」

 いつも通りにしようとしたけれど、どうしても視線が俺に向かってきているのを感じてしまって知らず知らずのうちに肩に力が入る。50音順で言えば俺の苗字は前のほうですぐ配られるのだが、転校生だから一番最後に俺が来るのもあって目立つ。特にさっきの岬先生の授業とは違って英語の先生は『自分が配り終えても席を立っているのは駄目です、静かに待っていなさい』と言うのと……あまり言いたくないけれど、鷲尾がさっきのテストを堂々とクラスで口外したのもあると思われる…。
「一ノ瀬の点数、やっぱ良いんだろうな」
「まあ名門入ってるって言ってたし、こんぐらい普通に出来ちまうんだろうな」
「いいよな、頭の良い奴って。人生楽じゃん?俺も楽してーなー」
 ……小声だけれど、そんな話をしているクラスメイトの声が耳に確かに入る。

 どんな目で俺は今見られているのだろうか。また、桐渓さんのような目なのかもしれない。また……物珍しい動物を見るような目、なのだろうか。
 軽く俯いて、だれとも目を合わせないようにしながら早足で自分の席に戻る。こういうとき、一番後ろで良かったと思うべきなのか、前の方が良かったのか……いいや、どこでも、きっと視線はついて回るんだ。
 さっきテストを帰してもらうために教卓の前にいたときと同じよう一番前でも後ろからの視線は感じるし、中間でも前からも後ろからも見られて挟み撃ちで、今一番後ろでもこうして俺の様子をチラッと見るクラスメイトが良く見えて、居心地は良くない。でも、前者二つよりはまし、かな。
 最近になってようやく俺のことを物珍しさとかそう言ったのと無縁の普通に男子高校生として接してくれたクラスメイトも、今はまた転校してきたのと同じぐらいのときと同じ感じになってしまったことを察してしまう。
 不幸中の幸いと言うべきか、英語の先生は誰が上位とか最高得点どうでだれが取ったとかは言わずに、優しい物言いだけど淡々と引っかかりやすいところを黒板に書いている。

 ……まぁ、あまり先生の話は聞いていないみたいだけれど。グッと拳を握りしめる。痛みがあるぐらい、手が白くなるぐらいに。そうでもしないとこの視線に耐えられそうにない。
 テストはすぐ机の中にしまってしまった。テストの点数を誰にも見られたくなかった。また変に視線を集めたくなかった。万が一にも見られたくなかった。いっそ破って捨てても良いとも。
 見られて恥ずかしいものではないと思っているのは本当のこと。だって、英語は間違っているところはない。三桁の点数だ。
 確かに、俺は鷲尾の言う通りここの高校の人たちと少し違うのかもしれない。前の神丘学園が俺にぴったりだった、なんて思いもしないけれど。
 普通よりは勉強が覚えやすい頭をしている、かもしれない。伊藤たちに教えていたとき、薄々気が付いていたけれどこうしてあからさまに他人に言われるのは違う。
 でも、決して勉強をしていない訳じゃない。楽している訳ではない。ひそひそ、先生に聞こえないぐらいの音量だけど、俺からは聞こえてくる声。

「いつも余裕そうな顔で問題解けてるし」
「一ノ瀬が焦っているとこ見たことねえよな、それに愛想も悪いし。あれか?一般市民が通うとこなんて余裕で俺らみたいなのとかかわりたいってかんじか?」
「それちょう嫌味だなー」

 クスクスと俺をチラチラ見ながらそう言うクラスメイトは話したこともない。……俺のことを勝手に予想しているようだ。

――きもちがわるい。

 彼らたちが、とかではない。自分のなかが、なんか、気持ち悪い。俺のなかに無理矢理異物をいれられた感覚がする、胃のなかに流し込まれているようだ。
 余裕なんてそんなものいつもないし、愛想が悪いのは表情筋がうまく機能していないだけだ。一般市民、なんて。そんな思いもしなかった。
 だって、俺も彼らも先生も全部同じ人間じゃないか。嫌味のつもりなんてない、のに。どんどんクラスメイトが俺を決めていく。俺じゃないことを俺だと決められていく。

 俺じゃない誰かに『俺』を造られている気分だ。前の、ときみたい。顔を隠すなにかが欲しい。見たくない、誰の視線も見たくない。

 こんな風になるなら。俺は、真剣にテストに取り組むべきではなかったのだろうか。もっと、手を抜いていれば鷲尾にあんな目で見られることもなかったんだろうか。

「さて、このぐらいでしょうか?なにか他に質問したい人はいらっしゃいますか?」

 気付けば解説が終わっていた。右手は拳を作ったままで左手は無意識に胃を擦った。
 作った拳を戻そうとするけれどうまくいかない、力が上手く抜けない。深呼吸をしようとするけれど、深く息を吸うことも出来ない。苦しい。
 息が苦しい、胃の中が気持ち悪い。誰の顔も見たくない。誰にも見られたくない、辛い、いたい。
 俯いた顔を上げられない。はやく、上げないと。先生がこのまま質問の時間を終えてしまったら、通常授業になるんだろう。ここで俺が俯いていたら気にかけてしまうかもしれない。さっさと力を抜いて、拳を解いて胃を擦るのを辞めて……顔を上げないと。
 鎖を全身に巻き付かれたように動かない。自分の身体でさえ言うことを聞いてくれない。どうしよう、どうすればいい。混乱で目がまわりそうだ。

 俺のこと、すべてを理解しなくていいから。俺のことを、決めつけないでくれ。ハッ、と不規則な呼吸音が漏れた。

――だれか、たすけて。

 拳を作ってしまったままの左手をトントンとだれかに軽く叩かれた。2回、俺の様子を見るかのように軽く叩く、俺の反応がないからかまた2回叩かれる。しばらくそれが繰り返される。なんだろうと左手を恐る恐る見た。

 俺のとなりの席はだれか、なんて冷静な頭で考えればすぐにわかることだったけれど、でも軽く混乱状態になっていた俺には誰なのかもわからなかった。隣の人間が誰だったか分からなくなっていたけれど。

 でも、この俺よりもゴツゴツしている男らしい手の主が誰かはすぐに分かった。誰よりも俺のことを信じてくれる暖かくて優しいその手。俺が知っているその手が誰かなんて、すぐに分かった。


 力の抜けない手の甲をずっと、伊藤は人差し指と中指で規則正しく叩いてくる。どうして叩いてくるのか、咎められているにしてはあまりにもその叩いてくる力は優しい。呼吸をうまくできるようになって、いきぐるしさを感じなくなってきたのが分かって、ようやく伊藤の方を見る余裕が出来た。
 席に着く前の頼りなさそうな雰囲気は嘘のように、今は穏やかに俺を見つめている。俺がやっとこっちを見たのに気が付いたようだ。
(こっちの手、ひっくり返してくれないか?)
(……?)
 俺の左手を見ながらそう口パクで伝えられた。こっちの手、と言うのは伊藤が何度もたたいている力を抜くことを忘れた左手のことだと分かった、
 どういうことなのか、なんでひっくり返さなきゃいけないのか、内心疑問は尽きなかったが言われた通りひっくり返した。
 力が入りすぎて、爪が皮膚を破りそうなぐらい握りしめている手。痛い、と思う。だけど、どうしてもこの力だけは抜けなくてどうしていいのかわからない。

 諦めにも呆れにも似たような感情で自分の左手を眺める。そこに、暖かい伊藤の手が覆いかぶさってきた。
 伊藤の手は、あたたかい。俺の手が緊張とかで冷たくなっているせいか、伊藤が人より体温が高いのかは分からないけれど、でも伊藤の手は暖かくて心地が良い。

 冷たい俺の手に驚いたように一瞬震えたけれど、そのあと冷たい俺の手を温めようとしているのか痛みを感じない程度にぎゅうっと握ったり、擦ったりされる。
 俺の手と伊藤の手が触れ合っているのをじっと見ているとなんだか、恥ずかしく思う。手は冷たいのに反して俺の顔が熱くなった。
 叫んでこの場から逃げ出してしまいたいような、このままずっとしていてほしいのか、もうよくわからない。
 さっきとまた違う意味で混乱する、これ以上見るのはなんとなくいけないような気がして俯いた。顔は真っ赤になっていると思う。

 そんな俺を知ってか知らずか手全体を使ってなだめるように数回叩いた後。
(……っ?)
 握り込んでいる指の隙間に伊藤の指が入ってくる。強引に、ではなく少しずつ少しずつゆっくりと、伊藤の指が入り込もうとする。優しく、入り込もうとするのを俺は止められない。
 先ほどから冷えた手を温められて自分でも知らず知らずのうちに徐々に力が抜けていたようで、あんなに強固に握りしめていた手がいつの間にか軽く握り込んでいる程度になっていて、伊藤の意志だけならすぐに入り込むのはたやすいことだろう。だけど、伊藤はそれをしない。
 俺がこの手を開けるのを待っているようなぐらいじっくりとゆっくりとじわじわと指先が入ってくる。どうしよう。開けてしまってもいい。別に、いやではないのだから。嫌なら、また握りしめればいいのだ。俺の意思次第なのだ。
 俺の意志を伊藤は待っている。すでに伊藤の第一関節まで入り込んでしまっている。ずっと密着していた指と掌の間に差し込んでいるのだから、手汗が滲んで湿っているだろうから、きっと不快だろうし、伊藤にそれに触れられているのがかなりの羞恥を煽っている。
 いっそ、強引に伊藤が開いてしまってほしい。進むことも戻ることも出来ないこの状況をどうするべきなのかどう反応するべきなのか分からなくなってしまった。
開けてしまえば、いいんだろうか。でも、どうしてか……ひどく恥ずかしい。どうして恥ずかしく思っているのか俺にもわからない。誰に言われたでもなく自分自身の意志で開けてしまえば、後戻りできない気持ちになっているせいだろうか。
 伊藤にされることで嫌なことはない。俺も開けるのも嫌な訳でもない、そもそも伊藤はきっと俺の異変に気が付いて俺の手を開けようとしているのだから、今自分の意志で開けられそうなのだから抗うことなく開ければいいのに。頭の中ではそう分かっている。
 そもそも何に恥だと思っているのかもわからない。どこに恥ずかしく思うことがあるのだ。伊藤が俺の異常に気付いてそれをなんとかしようとした。その異常は俺の意志で何とかできる。

――何も、迷うことはない。
 自分に言い聞かせながら、何も恥ずかしくないと呪文のように脳内で唱えながら周りに気が付かれないよう深呼吸をする。意を決して、指の力を抜いて握りしめていた手を解いた。

 解いたと同時に伊藤の手が俺の手をしっかり握った。マッサージをするように俺の手をぎゅっぎゅっともまれる。きっと、あまりに力を入れていたから痛くなっていないかを案じているだけだと思う。俺のことを、労わってくれているんだと思う。頭では分かっている。そう分かっているんだ、何も恥ずかしくないとあんなに脳内で唱えていたのだ。これは、恥ずかしい行為じゃない。


 何度も何度も呪文のように唱えたけれど効果はなかったようで俺の顔はやっぱり熱い。見なくてもわかる、俺の顔は今真っ赤なのだと。
 恥ずかしくて逃げ出したい、今なら奇声を発しながら逃げられると思う。

――だけど、そのぐらい同じように。このまま握られていたい、暖かい気持ちいい、離れたくない、とそう思ってしまうのが尚更質が悪い、と思う。
 ドクドクと自分の心臓の動きが早くなっているのが聞こえた。握られている手から、俺の心臓の音が伊藤に聞こえてしまったらどうしようと馬鹿みたいなことを思った。


 あんなに冷えていた手が、今では熱いとも感じるほど温まった。もう大丈夫そうだな、と言わんばかりにポンポンと叩かれて伊藤の手が離れていった。
 漸く離れたことに安堵したような、少し残念な気持ちになった。浅く深呼吸をしてやっと黒板のほうを見た。すでに先生は解説していた、俺らのことには気が付いていないようだった。
 すっかり温まった左手をそっと右手で添えてみる。温まれた左手のほうが熱いと感じた。ジンジンと熱を持っている、自分の右手が冷たくも感じるほど。
 ……。
 恥ずかしくて、でも嬉しいと思うこの感情は友情なのだろうか。よく分からない。けれど悪いものではないとは分かった。自分のなかに溜まった熱を吐き出すように息を吐く。
 とにかく今は先生に指摘されないうちに思考を授業に切り替えなくては。たまたま先生に気が付かれなかったようで指摘されなかったけれど、あまりにぼんやりしていたらさすがに気付かれると思われる。半ば無理矢理黒板の問題に集中する。

 あとで叶野に見ていなかったところのノートを見せてもらおうと算段する。さっき俺のことを話していた話したこともないクラスメイトに視線を向けてみたけれど、もう話していないしこちらをチラチラ見ていなかった。
 かと言って授業に集中しているわけじゃなくてノートをとっている様子もなくなにか落ち込んだように下を向いていた。
 どうしたのか、とも思ったけれど一番最後の授業だから眠くなったのかも、と思い直して黒板を見た。正直言うと神丘学園ではもうやっていた内容ではある。鷲尾が俺に発した言葉が脳内で木霊する。神丘学園にいただけ普通とは違う、とそう言われた。……俺は、俺自身を特別なんて思わない。記憶喪失のくせして、俺の脳は勉強が出来るようで。

 なんて皮肉なのだろうと何度思ったか分からない。

 桐渓さんにも、祖父にもそこを突っ込まれたことがある。あのときの俺も、きっと本当はさっきみたいに感じていたはずだ。
 感情に蓋をしていたから、自分が傷ついていることにも気が付かないでいたけれど。俺は客観的に見たら、満たされているように見られるのだろうか。
 俺の中身なんて、空虚なもののほうが多くて、欠点ばかりで。伊藤が俺を受け入れてくれなければ到底俺として生きていこうとも思えなかった臆病者なのに。
 ……でも、これを訴えるのもおかしな気もする。人が人を完全に理解なんてできないと思うし、話したこともないクラスメイトに自分を決めつけられたところでなにも傷つくことなんてないだろう。
 俺も、彼らを理解出来ていないのだから。それだけ、だ。冷静に考えればどうってことはない。

 鷲尾の後姿を盗み見る。猫背気味の背中ばかりのなか一人ピンっと姿勢よく堂々と座っている。今、鷲尾はどんなことを考えているんだろうか。
 普段通りのしかめっ面なのだろうか。それとも、叶野を見ていたのと同じように傷ついているような表情を浮かべているのだろうか。どう足掻いても鷲尾の顔を見ることは出来ないので予想しかできないけれど。
 ほんの少しでも鷲尾の世界には俺がいるのだろうか。もし、いるとして俺は鷲尾のなかでどこにいるのだろうか、さっき言っていた通り他と違う人間とでも思われているんだろうか。
 それは、いやだな。否定し尽くしたい。話したこともないクラスメイトみたいに理解が出来ないのはお互い様なんて言葉だけでどうしてか済ませられなかった。
 俺もまだ鷲尾のことを理解できていないのに。それでも、否定したい。俺は、ほかのみんなと何も変わらない、ただの『人』なのだと。

 そんなに言われるほど、特別なんかじゃないんだって。そう言いたい。

 どうしてそんな意固地になっているのか、そんなの俺にもわからない、ただ俺がそうしたい。
 それだけだった。でも、それをいつ告げるまでは決められなかった。また桐渓さんと同じような目で鷲尾に見られたら……と思うとそうしようと思っても行動には当分移せそうにない。
 やっぱり俺は弱いままだ。自分が自分で嫌になる。弱い自分に溜息を内心吐く。いつまで俺は捕らわれたままなのだろうと悔しくも感じる。

 情けなくて仕方がない自分に嫌になっていた俺は、案外すぐに鷲尾に自分の気持ちを告げることになるとは露ほども思わなかった。


「はい、今日はここまで」

 最後の授業の終わりを告げる鐘が教室のスピーカーから流れてくる。それと同時に先生は授業を切り上げ、起立礼をしたあとすぐ教室を出ていった。
 先生がいなくなったことで緊張が抜けたようで、終わったーとホッと安堵の声を上げたりテストどうだった、と焦ったように他の奴に聞いている声も聞こえてくる。
 俺の方を見ながらも誰もテストの点数のことを聞こうとしないクラスメイトの気遣いに感謝しつつも、視線が苦手でそれに逃れるようにしているとまた俯いてしまう。

「……伊藤」
「ん?」
「……突くの、やめろ」

 そんな空気を読んでいないのかあえて読んでいないのか俯く俺の頬を伊藤は何故か突いてくる。さっきの優しい手が嘘のように痕になりそうなぐらいの結構な力で。割と痛い。

「いや、透の肌白いなーと思ったらつい」

 よく分からない。とりあえず頬を突かれるのは良い気がしないので、伊藤の手を掴んでこれ以上突かせないようにした。がしっと握手するよう伊藤の手を掴んで、自分の親指で伊藤の親指を制した。

「12345……はい、俺の勝ち」
「いや、これはフェアじゃねえ。無効だ、無効!」

 勝ちを宣言してみたけれど、伊藤から苦情が入る。なら、正々堂々と勝負しようと目で訴えれば伊藤はそれに乗って、合図すると同時に俺の親指を追いかけてくるのでそれから俺は逃げる。
 一回伊藤に制されれば俺の負けは確定するので、なんとか一瞬隙を見つけるため避け続ける。

「……なんか、伊藤といる一ノ瀬って面白いよな」
「それなー。ああいうの見てると美形も人間なんだなって安心するわ」
「つか鷲尾の言ったこと二人とも気にしてないんかね?」
「あー…気にしないことにしたんじゃね?まぁ本人たちがそれでいいなら良いだろ」
「まぁ、な。仲が悪くなるよかいいけどな。なんとなく、あいつらって良い関係だよな」
「見た目は正反対だけどな」

 沢木と沼倉が俺らを見てそう話して笑っていたのは、伊藤と指相撲に集中していたから気が付かなかった。沢木たちだけじゃなく、ほとんどのクラスメイトは俺らのほうを見ていて、鷲尾にああいわれてどうなるのかっていう好奇心と、あいつら仲悪くなっていないよなと言う心配の目で見られていたことには気が付くことはなかった。いやそのことを気が付こうとする前に、気付くことの出来ない状態になってしまったのだ。

「どういうことだ、叶野!!」

 突然、俺らとは関係のないところ……前の席でそう叫ぶように問い詰める声が聞こえてきて、指相撲に熱中していた伊藤と俺も、俺らを見ていたクラスメイトも声の聞こえたほうを見る。
 呼ばれた名前も叫ぶ声にも聞き馴染みあったから、なおさら。何があったのか、と注目してしまう。

 叫ぶ声は予想通りやっぱり鷲尾で、呼ばれていた叶野も想像していた通りの叶野だった。今日鷲尾の様子がおかしかった。だけど、叶野はいつも通りだったはずだった。
 珍しく鷲尾は叶野の両肩を掴んで責めるような困惑しているかのようなそんな声で叶野を問い質している。
 また珍しくいつも鷲尾に対し飄々としていていじるぐらい肝の据わっていたはずの叶野は、鷲尾の目を合わせようとせず顔を真っ青にしていた。

「お前が、そんな点数な訳ないだろう!」
「……鷲尾くんは、俺を期待して評価しすぎだよ。俺はこんなものだよ」

 真剣に真っ直ぐ叶野を見てそう問い質している鷲尾とは裏腹に叶野は視線を合わせずへらりと笑いながらそう言う。鷲尾は怒りのせいか興奮しているようで頬が赤い、叶野は緊張しているのか怯えているのか、顔が真っ青だ。

 対照的なふたりだ。そんな感想がすぐに浮かんだ。
 普段から対照的だと思っていたけれど、いつも思うそれとは違う。
 ふたりの間にはあきらかな『壁』が見えた、目には見えないだけど確かな鷲尾と叶野の間にある『壁』が、存在していた。今、俺は初めて知った。

 もしかしたら、叶野が見せようとしなかったものだったのかもしれない。
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