2.人間として。

 本来の予定としては本日のテストを終えたらすぐ塾だったのだが、叶野からの強引な誘いを断り切れず塾に遅れることを家にいるであろう母親に連絡した。

「あら珍しいですね。お友だちと?」
「……そう言うわけではない」

 ふわふわした母親の物言いに僕はいつも苛立ちを覚えそれを隠すことなく母親にぶつけるが、笑われて流される。

「ふふ、分かりました。塾には連絡入れておきますね。ゆっくりしていってくださいね」

 ただ昼食をともにするだけだ。ゆっくりするつもりなどない、と反論しようとしたときには電話は切られてしまって思わず舌を打つ。
 あのマイペースとどうして父は結婚したのか分からないし、僕に本当に母親の血が流れているのか常々疑問を覚える僕の感覚は間違ってなどいないはずだ。……まぁ、何故叶野の誘いを断り切れない自分にも疑問を覚えるが。
 普段勉強してきた結果を出すだけのことなのに、どうしてあんなに皆浮かれているのか。どうしてわざわざ集まって打ち上げと称した昼食に行くのだろうか、そんなことを叶野に聞いても「いいじゃん!こう言うこと出来るのは学生の特権だよ!」と訳の分からないことを言われたうえ『そんな特権を使わないなんて、むしろわっしー不健全だよ?ねぇー?』と煽ってきたから……。
 気付けばすぐに家に電話していた。……どうしてか、叶野の誘いを切ることが出来ずにいるのだ。叶野が煽ってくるって言うのも理由の一つだと思うけれど、本当に嫌ならば無視すればいいそれだけのことだ。今日、叶野や一ノ瀬たちと食事していたら正直時間を忘れた。
 どうして同じだけ時間が流れているはずなのに勉強をしているときとちがって叶野たちといると時間があっという間に過ぎていくように感じるのだろうか。ああやって同級生と一緒にいることに理解が出来ない。
 そうして群れている時間があるのなら学生らしく勉強に費やすべきだ。それは昔も、今も変わらない。
 今日は、僕はそんな群れている奴らとは何も変わらないことをした。くだらない話をするなんて誰かといるなんて時間の無駄なのに、それを楽しんでいる自分がいた。今まで無駄だと思っていたことを僕はした。
 それをして、今まで味わったことのない高揚感を、今僕は確かに味わっている。

 この場を離れるのが、惜しい。なんてことを、思ってしまった。

「……ハァ……」

 バスを降りて溜息を吐いた。これから、塾だ。何となく気が乗らない。いいや、やるべきだ。
 学生の本分でありこれからの人生を安定していくためには必要なことである。それは分かっている。だけど、初めての高揚感をどう処理するべきか分からない。
 1人で勉強しているときでは知らないことばかりだった。
 誰かと言い合いながら勉強することが、誰かと外食するのがこんなに時間が短いことなんだと知るのも、抑えきれない高揚感に苛まれるのも。さっきまでの時間が惜しいと、そう思ってこれから塾なのに切り替えられなくてもう一度溜息を吐く。

 ……いいや、それじゃいけない。僕はもうこれ以上父からの期待を裏切るわけにはいかないのだ。
 ただでさえ僕は高校受験を失敗している。ちゃんと言いつけ通り勉強して、今度こそ体調管理を万全にしなければいけないのだ。勉強する時間を増やすためにこの高校を選んだのだのだから。塾と家庭教師の時間を増やして学校での勉強はその復習としてやればいいのだと割り切ることにして、この水咲高校を選んだ。

 他のクラスメイトと僕はちがう。あいつらと違って僕は努力して上へと目指していかないといけない。
 他の奴らとかかわっている暇なんて、僕にはない。今から勉強しないといい大学には受からないのだ。母は『そんなに無理しないでいいんですよ』と悠長なことを言うが、そんなわけにはいかないんだ。

 今度こそ、ちゃんとしないと。今度こそ、父に認めてもらわないと。そうしないといけないんだ。

 無理矢理さっきまで騒いだ記憶と自身の胸に宿る高揚感を隅に追いやって、勉強への意気込みを新たにした。
今度こそ。父の期待に応えないと。

――使命感に捕らわれて急いで家に帰った。

 父の期待に応えることこそ、僕の役目だとそう思い込んでいた。

 父の期待に応えたその先のことを考えもしないで、ただ言われた通りを追いかけていることに夢中だった。

 本当の意味で『自分のしたいこと』なんて考えもついていなかったことに、僕はそれに気づくことも出来ないぐらいそのぐらい追い詰められていたんだと。
 僕は、気付かない。気付かない、ふりをしてた。そうすれば傷つかなくて済んだから、だ。

 水咲高校は進学校ではない、一般的な高校だ。せめてそのぐらいのレベルのなかで僕は1位をとらねばいけない。
 予習復習もしてきて、塾と家庭教師の時間を遅らせ勉強会までしておいて成績なんて下げたら何を言われるか考えたくもないし、そんなこと考えるつもりもない。いつかは、一ノ瀬に勝つのが第一の目標にしなくては。
 父にはまだ一ノ瀬が来たことを言っていないが…次のテストで勝てなくとも、この在学中に勝たなくてはならない。

 絶対にそうしなければならないのだから、そうするのだ。それが自分自身がしたいことなのか強迫観念なのか。今の僕にはわからなかったけれど、でもそうせねばならない。そう、しなくてはいけない。

 それが僕に与えられた義務なのだから。

――――

「……ものすごいことに、なった」
「こんぐらい必要だろ。いくらなんでもあれだけの服だけで夏を乗り越えられねえだろ」

 そうなのだろうか……。いや、それでも多い気がするような……。
 昼ちょっと過ぎぐらいに服屋に行って…外をみれば空は橙色になりつつある。
 単純計算4時間はいたことになる。
 ほとんど伊藤の着せ替え人形状態だった……。なすがままにあれもこれもと試着させられて、途中どういうわけか一人ファッションショーのようなものになっていた。
 他の人にすごい見られたしな…。

「やっぱり透は美形で細身だから、なんでも似合うな」
「……そうか?」

 伊藤がそう褒めてくれるけれど、毎日見ている自分自身の顔なんてただの顔でしかなく誇れるものでもなければ、好きでも嫌いでもない、何の感情も持たないものだ。……自分の顔が好きとかただの気色悪い人間だしな。美形と言われてもいまいち反応に困る。

「髪染めても似合いそうだな。叶野ぐらいの茶髪とかも……ああでも綺麗な黒髪だから染めるのは、もったいねえ気もするな」
「……俺としては男らしい伊藤の顔とかのほうが好きだけどな」

 これ以上褒められるとこそばゆいので、俺も伊藤のことを褒めることにした。本当に思っていることでもあるしな。
 その意志の強そうな白目の割合のほうが多い眼も、太い眉も大きな口も、健康的な肌色もがっしりとしたその体格も俺からすると好ましい。特に伊藤が言ったように俺は薄っぺらい身体だから、その厚みのある身体は正直少し羨ましい。
 俺よりも力があるって言うのも、分かってはいたがこの間実感させられたし。自分にはないところを伊藤に言ってみると、顔が真っ赤になった。

「ああー……これきついな、身体かゆくなる」
「……それ、俺がよく味わってる感覚だからな」
「う、うわー……これ恥ずかしくもなるな。もうちょい手加減するわ」
「そうしてくれ」

ら照れたように頬を掻いて、居心地悪そうに身動ぎする伊藤に思わず笑う。

「……よく、笑うようになったな、透」
「……ん?ああ、伊藤のおかげだな」

 伊藤が俺のことを認めてくれたから、あの日の出来事が無ければ今もきっと罪悪感に苛まれてただ生きていただけだったんだろうと思う。
 俺がそう返すとまた黙りこくって、そのままちゃぶ台に突っ伏してしまった伊藤に首を傾げつつも買った服を出して値段タグを切っていく。この間は俺がそのちゃぶ台に突っ伏していたのに逆の立場になった。

 値段タグを切り終えて箪笥にいれていく。余白の多かったけど随分と賑やかになってきたもの。『夏休みには海も行くぞ!』と伊藤に言われるまま水着まで買ってしまった。さすがに夏休みまでまだ遠いのでこれは押し入れにいれておこう、そう思い押し入れの戸を引いた。
 ……押し入れの中にはまだ未開封の段ボールがある。未だ昔のアルバムの入った、段ボールは開けれていない。これを開けるにはまだ勇気が足りない。

 いつか、開けれる日が来ればいいと思う。今の俺には予想も出来ないけれど、それでも、いつかは。今はただ日常を過ごすのに懸命だから、もっと自分を受け入れられたそのときは、きっと。だけど今は、自分なりの友だちとはなんなのかの問いをもう少し考え詰めたい。

「今日、楽しかったか?」

 ちゃぶ台に突っ伏した状態のまま伊藤が俺のことをじっと見上げている。窺うような心配するような、不安そうな、色んな感情が入り混じっていそうな瞳で俺を見ている。
 押し入れの戸を閉めて、伊藤のとなりに向き合うように座って同じ目線になって伊藤を見つめ返した。少しでも、俺の伝えたいことが伊藤に分かってもらえるように。

「……ああ、楽しかった」
「そうか。俺も楽しかった。また行こうな。みんなでも、ふたりでも」
「……うん」

 俺の返答に伊藤もパッと嬉しそうに笑う。俺も笑いながら頷いた。友だちとは何なのかという答えは未だ出ないけれど、それでも俺が楽しいと言って伊藤も楽しかったと答えてくれたから、今はそれで満足だと思える。
ちゃんと生きると決めて、罪悪感に胸に宿しつつも自分のこととか周りのことだとかいろんなことに悩むようになってきたけれど、それでも俺は今のほうが良い。幸せかどうかなんてわからないけど今のほうが良い。悩みも出てきたけれど、今のところ人間関係は順調なほうだと思う。

 また、伊藤の言う通り皆でああやって集まりたい。みんなが許してくれるなら、毎日だって俺は良いと思う。そのぐらい、たのしかったんだ。

 こんな日常が続けば良い。心からそう思った。この先起こることをちっとも知らない俺は、そんなことをのうのうと思っていた。



 無知って、恐ろしいよな。皆それぞれに思い悩んでいることがあるなんて、俺は少しも考えつかなかったのだ。

――――

「おはよう!久しぶりー」
「はよ、一ノ瀬に伊藤」
「おー」
「……おはよう。叶野、湖越」

 テストが終わってそのあと数日休みで、学校に行くのも久しぶりで伊藤以外のクラスメイトに会うこともなかったので、叶野と湖越に会うのも久しぶりだ。

「相変わらず二人とも仲良いねー」
「……そっちもな」

 叶野はよく俺と伊藤のことをそう言うが叶野だって湖越とよく一緒にいるし、叶野も湖越もそれぞれに友人がいるようだけれど、それでも何かと一緒にいるイメージがある。確かに俺と伊藤はよく一緒にいるし、行動するのも大体一緒にいるけれど叶野と湖越もまた違った意味でよく一緒にいるのだから、それを仲が良いと称していいだろう。

「いやー一ノ瀬くんと伊藤くんには負けるかな?あ、わっしーおはよ!今日は随分のんびりだねー」

 教室に入ってきた鷲尾に叶野はいつもの調子で話しかける。あと数分で朝のHRが始まるであろう時間に鷲尾が登校するなんて珍しいこともあったものだ。
 また叶野の挨拶を無視して『わっしーと呼ぶな』と返すのだろう、そう思いながら叶野たちの方をぼんやりと眺める。

「……」

 鷲尾は席に着いた。
 叶野に何の反応を返すこともなく、チラリと視線をやりながらも何も話さず何もアクションを起こさずに、叶野の横を通り過ぎた。
 二人のことに注目しているのは俺だけじゃなくて、たぶん鷲尾以外のクラスメイトのみんながしていた。少なくとも俺が転校している以前から続いていたであろうやり取りを、今日久しぶりに聞けると思っていた俺もクラスメイトも驚きを隠せずにいる。
 でも外野の俺たち以上に、無視された叶野が一番驚いていると思う。遅く来たことをからかおうとしたのか軽く肩を叩こうとしたのであろう右手を浮かせたまま固まっていた。
 俺らから背を向けている状態なのでどんな表情を浮かべているのかは分からなかったが、その後姿に哀愁が漂っているような気がして、なんとなくこっちがいたたまれない気持ちになる。

「のぞみ、」
「……はっ!……あ、あー、なんだかわっしーご機嫌斜めだったみたいだねー」

 いち早く正気に戻って叶野に声をかけたのは湖越だった。湖越が叶野の名前を呼んで、少し間が合った後漸く叶野は自分の名前を呼ばれたことに気が付いたようでビクッと体を震わせたあとこちらを振り返ってそう茶化すように笑ってそう言った。
 ごめんねーと背を向けている鷲尾に叶野は謝るも、軽く肩が動いただけで鷲尾は何の反応はなくただ参考書らしき本のページを捲るだけだった。

「珍しいな、鷲尾が何の反応がねえのっ」
「なんだかんだ叶野が話しかけてたら何かしらのリアクションが来るのにな」

 今までにない鷲尾の反応にいつも遠巻きに二人のことを見ているクラスメイトも困惑しているようで、こんな会話が耳に入ってくる。

「……」

 叶野はざわつくクラスメイトに「そういうときもあるかもねー」と宥めるように言いながらも少し困ったような笑みを叶野は浮かべている。鷲尾の今までにない反応に驚きを隠せず本当なら動揺しているだろうに、それでも鷲尾のことを悪く言わなかった。
 今まで口喧嘩することはあっても無視することはなくて、テスト終えた後なんだかんだ鷲尾も楽しそうにしていたのに、いきなりどうしてこんなことをするのだろう。
 鷲尾のことを見てみてもこちらを振り返ることはなかった。どこか居心地の悪い空気のままHRの時間になって岬先生が来てとりあえず皆各々席に着いた。
 教室を入れば蒸し暑さとは違う、妙な空気感が立ち込めていて岬先生は首を傾げながらも、いつも通りの笑みで挨拶をしていつも通りにHRを終わらせた。

――――

 結局、朝の件があってか叶野は鷲尾に話しかけることなく、鷲尾もこちらに少しも視線を向けることなくそのまま昼になってしまった。
 いつも通りを装った空気感に、ほんの少しの息苦しさを覚える。ただ教室が暑いだけなのか精神的なものなのか分からない。とにかく、昼用に買ったパンを食べる気にもなれず机でだらだらしていた。

「透、大丈夫か?」
「……んー」
「だいじょうぶ?保健室いく?」
「嫌だ」
「珍しく即答だな?」

 叶野が心配してくれているのはよくわかるが、保健室に行くと言うことは精神的にかなりの負担がかかるのである。……桐渓さんから前まであんなにメールが来ていたのに、今は何の音沙汰がないところが、また怖いのである。心のなかでそう溜息を吐く。あと、もやもやする。
 俺なりに鷲尾がどうして叶野を無視するような行動をとったのか、授業中考えてみた。叶野を傷つけるようなことを言うつもりはない、が、勉強にあれだけ熱心に取り組んでいる鷲尾だから、もしかしたら俺が鷲尾と叶野と話しているのを楽しそうにしていると思っていたのは全く的外れで、前々から本当は話しかけられることを快く思っていなかったのかもしれない、と残酷なことを考えついてしまったのだ。
 楽しそうに見えていたのは、俺の目の錯覚だったのかもしれない。それなら、一応の筋は通るかな、と思った。その予想が当たっていたとするなら、俺としては何とも嫌な気持ちになるけれど、でも鷲尾のことを問い詰めたいとは思えないし、鷲尾の意志に俺の意見を押し通す訳にもいかない。かと言ってこの予想を叶野に言う気もない。
 傷付けないように言うなんて高度なことは出来ないし、傷つく結果になるのは火を見るよりも明らかだ。
 このまま、妙な空気感に慣れるしかないのかもしれない。そんなことを思っていた。

 でも、鷲尾は俺らを見た。

 叶野と湖越がいつも通り俺と伊藤のところに来て昼を一緒に食べようとした際、鷲尾はいつもと違って教室を出ていった。
 その際俺はつい鷲尾のことを見ていたのだが、そのとき一瞬だけ。本当に、ずっと鷲尾をよく見ていなければ気付かないほどの微かに、確かに俺らを見ていた。俺が見ていたことには鷲尾は気が付いていないようでそのまま教室を出ていった。
 方向として俺らを見ていたんだろうけれど、たぶん見ていたのは俺らではなくて正確に言えば叶野だったんじゃないかと思う。だって、一瞬だけ振り向いたその顔が、眉間に皺を寄せて苦しそうな後悔しているような、そんな複雑な表情を浮かべていたのだから。

「……」

 それなら、どうしてあんな叶野を傷つけるような態度をとったのか。俺の考えていた最悪な答えと違っていたことに安堵するけれど、さらにわからなくなってしまった。自分があんな答えに行きついてしまったことに罪悪感さえ覚えてしまう。鷲尾は口が悪いだけでそんな奴じゃないって、そう思っていたはずなのに。自己嫌悪に苛まれる。

「透」
「……ん?」
「……おらっ!」
「ぶっ……!?」
「ええええ!?」

 伊藤に呼ばれて口に思いっきり何かを突っ込まれる。突然のことに間抜けな声をあげてしまう。叶野は伊藤の行動に驚いて悲鳴をあげた。結構な力で口の中に突っ込まれたのでこれがなんなのか認識せずに飲み込んだ。幸い気管には入らなかった、口の中に突っ込まれたのは一口サイズのチーズ味のパンだった。普通にうまかった。

「……いきなり、なにをするんだ」
「このままだと食わないで昼を過ごしそうだったからな」
「どや顔で言うことじゃねえだろ…、まぁ食わねえよりはいいんだろうけど」
「……食べる」

 このままだと再度伊藤にパンを突っ込まれることになる、一旦考えることを辞めて今日買った牛タンおにぎりに手を出した。

「おにぎり食べてる一ノ瀬くんも絵になるね!どっかのCMみたいだね!」
「……どういう感想なんだ、それ」

――――

 伊藤のおかげで昼食に集中できたおかげか気持ちに落ち着きを取り戻す。冷静に考えてみれば俺がここまで思いつめることはないのではないか、と今ならそう思う。
 人それぞれで思いは違っているのだから、鷲尾の気持ち俺が勝手に予想していいものでもないだろう。突然の鷲尾の豹変に驚いて焦ってしまってついつい考えすぎてしまうのは、あまり良くないと思う。でも、叶野が無視されていて寂しそうなのとか、無視した鷲尾が苦しそうにしているのをせめて気にかけるぐらいは、いいのだろうか。

 国語の授業中が始まって、テスト返却の最中考え事していたため俺の名前が呼ばれていることに気付かず、隣の伊藤に肩を叩かれてようやくそのことに気が付いてテストを取りに行く。

「一ノ瀬くん、頑張ったね!」

 国語の時間に習ったものを暗記していたおかげでテストの結果は相応に出せた。……作者の隠された思いとか、この作品を読んでどう感じたのか30文字以内で答えよ、の問題は苦手で満点は無理だった。
 今の今まで国語で満点は取ったことはない。国語担当の岬先生は、俺のことを何の邪気のない全開の笑顔で俺を褒めてくれた。
 出来て当然だという環境の中で育ってきたためか、こうして褒められることに慣れていないのでどう反応していいのかわからなくて咄嗟に素っ気なく「……どうも」と不愛想に返事しかできなかった。
 嫌な対応してしまった、と岬先生の反応を窺ってみたけれど嫌な顔をせずニコニコと言った効果音が似合うぐらいの全力の笑顔だ。むしろどうして俺がこう自分の顔を窺っていることに首を傾げている。

「……ありがとうございます」

 さっきのことをなかったことにして今度こそ言いかったことを言って自分の席に戻る。
 席に着けば伊藤がテストの結果を聞いてくるので、こんな感じだったとテストをそのまま見せる。まじまじと俺のテストを見て、少しして岬先生と同じようにパッと笑った。

「やっぱりすげえな、透っ」

 キラキラした無邪気な眼で俺を見て、力強く頭を撫でられた。自分の頭がぐしゃぐしゃにされる。
 ぐしゃぐしゃにされながら伊藤の顔を見る。その目は何の陰りもなくてどうしてそんな目で俺を見てくれるのか疑問だ。
 どうして、俺のことを自分のことのように伊藤はこんなに喜んでくれるのだろう。きっと聞いても『親友だから』と至ってシンプルな答えが返ってくるのは、分かっているのだけれど。
 この間五十嵐先生にも撫でられたけれど、あのときは余裕が無くてただ慣れないことをされたなとしか感じなかったけれど、今は伊藤に頭を撫でられて恥ずかしいようなもっとしてほしいような不思議な気持ちになる。

「……伊藤は、どうだった?」

 やっぱり恥ずかしくなって、伊藤の手を掴んで辞めさせてそう聞いて誤魔化した。伊藤のテストの結果が気になっていたのも本当だった。……考え事に熱中しすぎてテスト返却していたことに気が付かなかったけれど。

「ん?あーまぁ、こんなもんだ」

 伊藤は少し口ごもりながらも俺にテストを見せてくれた。そこに書かれていた点数は62点とかかれていた。

「……前より、良くなったのか?」
「倍にはなったな。透のおかげだな」
「……俺のおかげかは分からないけど……とりあえず、良く出来ました」

 前の点数を知らなくてどう反応をしていいべきか迷ったけれど、倍になったのなら良く出来たと思う。俺のおかげと言うが、俺は教えていただけでちゃんと解いたのは伊藤自身の力だ。
 そもそも俺は国語が苦手な部類だから、他の科目ほど上手く教えられたとは思えないのだからきっと誰でもない伊藤ががんばった結果だと思う。
 伊藤はどうしてか自分のテストが伸びたことへの関心が無いようだったけれど、伊藤がやってきた努力を称えたいとそう思った。
 だから、さっき伊藤に撫でられたように…とまではいかないが、伊藤のそのてっぺんが多分地毛の茶色なっているところを軽く撫でた。ついでに、自分の色とは真逆の金髪も気になってそろっと撫でた。
 昼間太陽に照らされた金髪はふわふわしているように見えたけれど、やっぱり無理矢理髪の色を変えているせいか痛んでキシキシしていた。髪質も俺より硬いかもしれない。触り心地が良いとは言えないけれど、つい撫でたくなる。
 自分以外の頭部を初めて触れたせいかどうしても好奇心が抑えきれなかった。

「……、あの透」
「……ん?」

 戸惑いがちに俺を呼ぶ伊藤に、どうしたのかと顔を見れば心底困っているような、かと言って嫌がっている訳ではなくただ頬を赤らめ照れて居心地が悪そうな表情の伊藤と目が合う。

「……伊藤、お前も俺を撫でただろ……」
「……するのと、されるのは違うだろ」
「……まぁ、な」

 多分伊藤が感じているものはさっき俺が感じたもので、俺が感じているものは伊藤が感じていたものだろう。撫でられるのは恥ずかしく居心地が悪いのに、かと言って逃げたいわけではなくもっとしてほしいような変な気持ちになるから質が悪い、と思う。
 だから、今度からはこれをしないと言う選択肢を選びたくないわけで。

「……」
「……」

 俺は伊藤から手を引っ込めたものの、何も言えなくなってテストの結果のことでにぎわっている教室の中、俺らだけ変な空気で無言になった。

「はい、皆そろそろ席に着いてねー!」

 岬先生が教室のみんなに聞こえよう大きな声で誘導する。岬先生の声に従って賑やかながらも各々席に戻っていく。
 いいタイミングで岬先生が誘導してくれてホッとする、これで伊藤と仲が悪くなるわけではないと思うけれど、それでも変な空気が流れていてどうしていいかお互い分からなくなっていたから、良かった。

 岬先生は間違いやすい問題の解説をしていく。それを耳で聞きながら窓の外をチラリと見てみると、朝は少し雲があるぐらいで青空さえ広がっていたのに今はすっかり空を覆い隠すような雲だらけで暗くなっていた。今日は洗濯物をベランダに干したまま来てしまったから、家に帰るまで降らなければ良いのだが……。


「一ノ瀬。前よりテストの結果良くなったわ。ありがとうな」
「……どうも、だけど国語は教えていなかったと思うが」

 国語の授業が終わり、次の授業が始まる間の休み時間に湖越にお礼を言われた。確かに俺は湖越に勉強を教えていたけれど、それは理数教科だけで国語や英語は叶野の方が理解していると思ったからそっちはノータッチだったはずだ。テストの結果が良くなったのなら湖越の努力の結果だ、俺は関係のないことだと指摘したが前の席の俺と湖越の会話に入ってきた。

「一ノ瀬くんがちゃんと教えてくれたおかげかね、やった分だけちゃんと結果が出ることに気付いた誠一郎のやる気スイッチが入ったみたいでさー前までは俺が国語とか教えようかって言ってもあんま頷かないし、頷いてもすぐ寝ちゃってたんだよ。もうね、世話やけるのよ。でも、今回はとても意欲的で、誠一郎くんは良い子でしたね~」
「うるせえよ」
「いだ!暴力は反対ですぞー!」

 叶野がそう茶化しながら湖越が俺に礼を言った理由を教えてくれた。恥ずかしくなったのか湖越は雑に叶野の口をべちっと音が響くぐらいの勢いで掌で抑えた。
 叶野が言ったことにまさかと思ったけれど湖越は否定はしなかったから、本当のことらしい。

「……でも、ちゃんとやったのは湖越の意志だろ?……それに、実際湖越に教えたのは叶野だ」

 俺のおかげだとそう言ってくれるのはうれしいと思うけれど、きっかけが本当に俺であっても国語もちゃんとやろうと意欲的になったのは湖越自身のおかげで、国語のテストで良い点数を取れたのは国語を教えてくれた叶野のおかげだ。俺に礼を言うのは間違ってはいないかもしれないけど、でも本当にその力になってくれた人にも礼は言うべきだと思う。それは親しき仲にこそ、適応される、と思う。
 ならば叶野に礼をいえ、なんてことは先ほどの俺と伊藤のやり取りが微妙な空気感になったつい先ほどの出来事があったので、強要するつもりはないけれどそれでもちゃんと教えてくれた人のことも思い出してほしい。もしかしたらもうちゃんと礼を言っているかもしれないけれど、な。

「じゃあ、誠一郎の自分のおかげってことで!俺は手伝ったけど、結果出したのは誠一郎だもーん」
「俺は俺に礼を言えと?……いや、どんなナルシストだよっ」
「わはははは!」
「のぞみ、笑うな!」

 叶野はそう湖越に返した。やっぱりうまいこと空気を読む力に長けているな、と感心する。湖越が叶野に礼を言ったらさっきの俺と伊藤みたいになってしまうだろうことを察したのだろうか。いや、叶野はさっきの時間テストの返却のとき他のクラスメイトのもとにいたから俺らのことを知らないと思うが。
 少し前まで人との関り方を放棄してきた俺ときっと違って叶野は今の今までたくさんの人と関わってきて色んな空気を味わっている人何だと思う。たぶん元来の気質もあると思うけれど。俺はもしもすべてのことを克服したとしても、叶野のようにはなれないと確信している。
 伊藤のはなしを聞く限り、前の『俺』もそこまで変わっていないようって言っていたから、叶野のように愛嬌のある皆から慕われる人間ではないと確信する。
 なれるなれないとかそう言ったのを取っ払った上で叶野のその空気を読む能力を長けているのは尊敬する。
 叶野のようになれないとしても、そう言った姿勢を忘れないようにしたい。…俺は、あまり空気を読むことに長けていないのを最近学び始めているから。叶野のそう言ったところは少しだけ、そうだな、羨ましいのかもしれない。楽しそうに笑う叶野と顔真っ赤にしてそれを止めようとする湖越を眺めながらぼんやりとそんなことを考えた。

「おい」
「……?」
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