2.人間として。
普段よりも1本早いからか、人は意外と少なかった。
部活も今はテスト前なので活動しているところもなく静かなものだった。下駄箱で靴を履き替えていると誰かに声をかけられる。
「あれ、伊藤くんに一ノ瀬くん。おはよう」
「っす」
「……おはようございます」
職員用玄関から来たのであろう岬先生がすれ違い、少し意外な顔をして俺らに声をかけた。
「今日は早いんだね」
「あーまぁたまたまお互い早起きしたんで」
『さすがに鬼ごっこしながら今日来たんです』とは言えなかった。ちょっと面白くなって高校までの道もずっと軽い鬼ごっこのようなものをしながら来たら、こんなに早くなってしまったなんて言えない。
伊藤が適当に誤魔化しているのを俺は無言を貫いた。
「?そうなんだ。たまには早く来るのもいいよね。…あ、そうだ。ごめんね、伊藤くんちょっと今いいかな?」
俺らの挙動がおかしかったのか、少し首を傾げつつも岬先生は誤魔化されてくれた。このまま別れようと、思ったのだがすぐ少し申し訳なさそうに伊藤を呼んだ。
「なんすか?」
「すぐ終わるんだけどね、ちょっと出席について話さなきゃいけないことがあってね……」
「あー……はい、了解っす。悪い、透先に教室行っててくれ」
「……分かった」
「一ノ瀬くんもごめんね。すぐ終わるからね」
伊藤個人のことで、きっと岬先生だからとにかく話を聞くこともなく怒ることは無さそうと思い、後ろ髪を引かれるような気持ちになりつつも先に教室に行くことにした。少しだけ、周囲を見回して……桐渓さんがいないことを確認して、自分の教室へ向かった。
3階を上り切って自分の教室のドアを開けると、だれもいなかった。ピシッと背筋を伸ばした、前のほうの席に座る鷲尾以外は。
俺から見ると後姿しか見えないが、あの真っ直ぐな姿勢で勉強しているのは確実に鷲尾だ。随分早い時間に来ているのだな、と少し意外だった。鷲尾は勉強に集中しているようで俺が来ていることに気が付いていないようだった。
そうだ、今なら二人で話せる。荷物を自分の机の上に置いて鷲尾のほうへ近づいた。
「……おはよう」
鷲尾に自ら声を、さらに挨拶を自分からするのは初めてのことなのでちょっと緊張した。
「一ノ瀬か。今日は随分早いな。どうした?」
俺の緊張しながらした挨拶を返さず要件を即求めてくる鷲尾になんとなく安心する。要件はなんなのかと堂々と言ってくれた方が俺も言いやすいので、結構ありがたいと思ってる。
「……友だちって、人それぞれに答えが違うらしい」
順序良く話そうとしようとしたのだが、うまく口がまわらず端的な物言いになってしまう自分に苛立つ。時間かかれば相手がどう思うのか心配になるし、こうして少し焦っていると端的にしか言えない。
「…そんな曖昧なものなのか?」
鷲尾が相手だったので、頭の回転が速いおかげか何のことなのか察したようで、会話をつなげてくれた。ありがたいと思うと同時に自分が情けないとも思う。鷲尾の言葉に横に首を振る。
「……曖昧、とは違うと思う。ただどんな存在なのか、それはその人にしかわからない、て」
「考えれば考えるほどよくわからんな。結局あれか、自分で答えを見つけるしかないってことか?」
その言葉に次は首を縦に振る。顎に手をやって考え込む鷲尾に、俺は一つ質問する。
「……鷲尾は、今は友だちが欲しいと思う?」
「さあな」
「……俺は、前はいらないとかじゃないけど……出来るはずがないって、そう思い込んでた」
「……」
「でも俺が良いって、伊藤は言ってくれた。どんな存在が、友だちと呼べるか分からない。けれど、そう考えこまないでいいんだ、て。そう言われた。俺は、考えすぎるって言われた」
「考えこまない?考えなければ分からないだろう?考えこむのは人間の特権だろう?それを駆使しないのは動物同じだろ?」
「…俺は鷲尾の言うことを、否定はしない。そう言う考えが、自分にあるよう……ほかの人はまた違う考えがある。それだけ、だ」
「……」
「…勉強の邪魔して、ごめん。また、話そう」
少し偉そうだっただろうか。確かに、そうして自身の意志を曲げずにいることを否定するつもりはさらさらないし、鷲尾の美点とも思う。だけど、その鷲尾の考えをほかの人に求めるのは違うと思った。鷲尾は鷲尾であるように、俺は俺で、他人は他人なのだ。
他人の意志をすべて肯定しろとか受け入れるべきだとかそんな押し付けはしないけれど、ただ知っておいてほしい。鷲尾には信じられない考えをして生きている人がいると言うことを。
自分の意志を他人になにか言われたら苛立ちを覚えるのと同じように、他人の意志を自分がなにかを言うのも同じだ。それだけは、知っておいてほしかった。
「…貴様の意見は分かった、頭の隅にとどめておくぐらいはしておいてやる」
席に戻ろうとしていると鷲尾の堂々とした声が教室に響いた。俺は鷲尾のほうを振り返るけれど、鷲尾は俺のほうを見ることなくノートに問題を書き進めている。
「……ありがとう」
今、勉強に夢中になっているから聞こえているか分からないけれど、それでも俺の言ったことを蔑ろにしなかったことに感謝した。
――――
あの後すぐに伊藤が戻ってきて、他のクラスメイトもぼちぼちやって来て、叶野と湖越も登校してきた。
俺たちに挨拶もそこそこに叶野は机に鞄を置いて、
「このがり勉野郎さんっ」
「五月蠅い、チャラいの」
また、鷲尾に絡みに行った。
最初は叶野の絡みに鷲尾は静かなのだが、煽られ続けることによって少しずつヒートアップしていくからどんどん声が大きくなる。クラスメイトは鷲尾と叶野に集中していたが、俺の視線は湖越に向けていた。いつもどおりの様子に少し安心する。昨日メールが来なかったのは体調不良じゃなかったようだった。
どうしてメールが来なかったのか、疑問は残るけれどあまりしつこすぎるのは良くないだろう。湖越が言いたくなったとき、そのときでいい。漸く鷲尾とのじゃれ合いに一段落が付いたのか叶野は席に戻る。
時計を見れば、もうすぐ予鈴が鳴る時間だった。……トイレ、行ってくるか。
「……トイレ、行ってくる」
「おー急げよー」
伊藤に声をかけてトイレへ向かうべく教室を出た。
「あっ俺も行っておこっとー」
叶野も俺の後を追う様についてきた。軽い雑談をしながら二人で廊下を歩く、と少しして叶野は周りをきょろきょろと見回して、辺りに誰もいないのを確認したようでホッと息を吐く。
「昨日はあんまり煮え切らない答えになっちゃってごめんね?うまく言葉が出て来なくてさ」
「…いや、俺こそ答えにくい質問して、悪かったな」
「ううん、まぁ確かに答えにくいけど考えてみないと案外自分の思っていることにも気が付かないものだよ」
「……そんなものなのか」
昨日は考えなくてもいいと言っていたけれど、考えないと思っていることにも気が付かないものなのか。理解していこうとすればするほどよくわからない。
「うん、そんなもの。俺は考えてないから考えないといけないけど、一ノ瀬くんはたぶん考えすぎるから考えない方がいいよって言っちゃったー」
ちょっと矛盾するねと叶野はのんびりとそう言った。
……要は、それも人それぞれで考えない奴もいれば考えすぎる奴もいる、と。
盲目的になってしまうから、時折バランスをとってやらないといけない、と言うことか……?
「なかなか単純そうに見えて難解で、難解そうに見えたら案外その辺に転がってるんだよねぇ。なんだか、皮肉だよね…」
「……むずかしい、な」
「ま、ちゃんと理解してる人のほうが一部分だよ。結局自分が良ければすべて良しで治まっちゃうのが人間だからね」
そう言う叶野はどこか冷めた目をしている気がしたけれど、すぐに馴染みのある笑顔を俺に向けた。
「あのさ、誠一郎上手く答えを文章で伝えられなかった上に昨日弟くんが熱出しちゃって大変だったみたいでね、メール出来なかったんだって。誠一郎も口下手なところあるからさ、本人が言うまで待っててあげてほしいなーて」
「……わかった。弟、いるんだな」
「そうそう!弟も妹もいっぱいだよ、誠一郎の家!」
「……大家族、なのか?」
「うん、テレビでよく見るような……そうだね、ビックマミィみたいなかんじ!」
「……それは、大変そうだな」
夕方の報道番組でやっている大家族で暮らす肝っ玉母さん、と言う特集だった気がする。
ああいう感じなのか。名前からして長男なのかもしれない。そうか、湖越本人じゃなくて家族の方が体調崩していたのか。俺のことより家族のことを優先してあげてほしいし、むしろ俺のことを気にしなくていいとも思う。
答えにくい質問だと言うのも察したので、無理強いするつもりは元々なかったが、さらに強固となった。叶野と雑談しながらもトイレを終えて教室へと戻った。その日1日、いつも通りの日常だった。
――――
そのあと1週間とちょっとの間、放課後勉強会を開いたり伊藤が家に来て勉強をしたりして中間テストに備えた。
テスト期間、と言うだけでほとんどいつも通りの日常と変わらない気がした。いや、ちょっと違うのかもしれない。テスト期間前は伊藤と2人でいることが多かったけれど、勉強会を定期的にしていたから叶野たちと過ごす時間が長くなった。
特に、鷲尾は放課後残るようになった。『一ノ瀬の教え方はためになる』とは言っていたが、結局のところ俺はほとんど伊藤と湖越に付きっきりで、鷲尾は叶野と指摘し合うほうが多かったけれど。
鷲尾も楽しそうにしていたと思う。笑っていたかいなかったと言えば笑ってはいない。けれど、遠慮なく言い合えるのはきっと良い関係だと思える。……それが友だちとして、なのかどうかは俺には分からないけれど。不思議な関係性だなと思う。
勉強会をしたり、伊藤と2人で勉強をしたりとテストまでの期間を過ごし、漸く今日『テスト』と言う縛りから解放された。
「と言うことで!テストお疲れ様でした~!」
「お疲れさーん」
「おー」
元気な叶野の声とそれに少しやる気の無さそうに形だけ労わる言葉を出した湖越に、それに適当に相槌を打つ伊藤。俺はこくり、と頷いた。俺の隣に座る鷲尾はもはや無言である。
今、俺ら5人は学校の近くにあるラーメン屋に来ている。
元々ラーメンに行こうと伊藤と約束していたけれど、何故人数が増えているのか。
それはテストが始まる前日に叶野が『ねえねぇ、テスト終わったらさみんなで打ち上げいかない?親睦をさらに深めようぜ~!』と言ったことがきっかけだった。
俺と伊藤に叶野、湖越は同じく電車通学なのだが方面が違うし、鷲尾はそもそもバス通学だ。高校近くじゃないとそれぞれ遠くなってしまうので、近くのラーメン屋に行こうと言う話になったのだ。
鷲尾は最初叶野の誘いを断っていたのだが、どうやら粘りに粘ったらしい。昨日まで『僕はいかないぞ』と頑なに言っていたのだが、叶野はどれほど粘り何を言ったのか不機嫌そうな顔をしつつも俺らに着いて来ていた。
「……たかが学校のテストだろ。こんなことする意味あるのか?」
「チッチッチ、
一仕事終えた後のラーメンのうまさを知ってもらおうと思ってさ~。ほらほら早く食べないとラーメン伸びちゃうよ」
眉を寄せてそう聞く鷲尾にのらりくらりと交わしながら叶野はラーメンを啜った。鷲尾は叶野の言うことに納得したのか問い詰めることをあきらめたのか、1回溜息を吐いてラーメンを啜る。
「カルボナーラ―メンの味は?」
「……意外とうまい」
新発売、と派手なロゴにつられてつい頼んだカルボナーラとラーメンを一体化させた名前そのまんまのそれは意外と、と言うのは失礼かもしれないけれど、うまいと思う。
「おおー一ノ瀬くんがラーメン食べてる……!」
「……そりゃ、食べる」
珍獣を見るような目で俺を見てくる叶野に少し呆れた気持ちで返した。そんなに俺がラーメンを食べているのは意外なのだろうか。別にラーメンが嫌いな訳でもないし俺は叶野達と同じ人間なのだしカップ麺だって普通に食う。……それより、伊藤の方がすごい。
「叶野が言いてえことは何となく理解できるけどな。まぁ透も俺らと同じ男子高校生なだけだ」
「いや、つか伊藤の食ってるその赤い物体はなんなんだよ…」
「『泣く子が泣き叫ぶ赤鬼激辛ラーメン』だな」
「うん。伊藤くんのほうが、なんか違う生き物に見えてくるね!」
「隣にいるだけで目いてえんだけど。…おい、一ノ瀬。伊藤のその唐辛子をとろうとしている左手を止めろ」
「……もう数回は止めてる」
伊藤が何度目の前で唐辛子をとろうとして、俺はそれを何度はじいているやら……。伊藤の両隣りである湖越と俺はすでにその刺激的な匂いで若干目に来ているのになんで平然と食ってんだ……。
「……伊藤貴様、味覚までもおかしいんじゃないか」
「おい、までってなんだ」
「自覚がないのはよっぽどだな」
「ああ?」
「……俺を挟んで喧嘩しないでくれ」
両隣で言い争われたらたまらないと手を挙げて懇願する。
「あはは、二人が一ノ瀬くん取り合っているようにも見えるねー」
「いや、金髪の不良と強気な優等生の仲を取り持つ大変なやつにしか見えねえよ……。周りの迷惑になるからそのぐらいにしとけよー」
おもしろがっている叶野と俺を哀れに思ったのか助け船を出してくれる湖越。昼時で周りの席も埋まっていて俺らに負けず劣らず店内は賑やかで多少騒いでも目立ちはしないとは思うが、万が一があったら困る。
湖越の言葉に渋々ながらも言い争いを辞めてくれた。助かる。
「透、唐辛子をわたせ」
「……断る」
「そう言いながら僕にわたすな」
いくら弾こうと伊藤の左手が唐辛子をとろうとするので、ついに俺が没収したら凄まれた。
渡したら最後、きっとこの左手は見ていてこっちが辛くなるほど大量にこの唐辛子をいれるのだろうと言うのはすぐに予想できた。ので、すぐに鷲尾に渡した。
何故僕に……とぶつぶつ言いながら自身の醤油ラーメンに数回振りかけて、伊藤から手が届かないところに置いた。
俺の確固たる意志に伊藤は軽く舌打ちして、湖越側にある唐辛子をとろうとしたのか振り返る。
「……希望、パス」
「えー俺ラーメンには唐辛子入れない派なのになぁ」
察したのか湖越が素早くとなりの叶野に唐辛子を渡した。
これでもう座ってとるのは出来なくなった、立ち上がって鷲尾か叶野から強奪するしかない。しばらく伊藤はどうするか迷ったように俺のほうと湖越のほうを左右に数回見る。そして。
「……そんなに、か?」
「……そんなにだ」
意外そうに呟く伊藤に俺は頷いて返す。そうか、と納得していないのかしたのか分からないが、大人しく赤いラーメンの汁を飲み始めた。
「……まぁこれでもうめえんだけどよぉ……」
未練がましくそうに物足りない顔をしながら伊藤がつぶやいたと同時に湖越と叶野のツボに入ったのか噴き出した。
――――
湖越と叶野が噴き出し、店員に怪訝そうに見られつつラーメンを慌てて食い終えていた。視線が恥ずかしかったみてえで二人とも俺に自分たちの代金をわたした後『俺らは外で待ってる!』と言って店を出ていってしまった。
「どうしたんだ、あいつら」
「……さぁ」
「気にすんな。とりあえず食っちまうぞ」
湖越たちがいなくなったので唐辛子をとることに漸く成功する。4、5回ぐらい振ってぶっかける。
「……」
「んだよ、透……鷲尾も」
「……鷲尾、席交換しないか」
「断る!」
「……そうか」
「だから、なんだなんよ」
俺がそう聞いてもなんでもない。と珍しく透と鷲尾がはもる。鷲尾も「先に出る」と言って席を立ってしまった。
「僕はこいつと同じレベルと思われたくないからな」
……俺も人のこと言えたものではないが、鷲尾も大概口が悪い。嫌味とかではなく本気でそう思っていてそれを隠すつもりのない感じがするのがさらに苛立つ。
「あんだと?」
「……頼むから、俺を挟んで喧嘩しないでくれ。」
俺らの間に挟まれた透は居心地悪そうに身動ぎしながらそう言うもんなので「あ、悪い」と謝って鷲尾に食いつくのを辞める。さっきも透に言われたばかりなのによ、本当自身の頭の悪さ加減に呆れる。
「あと、鷲尾。……言いすぎだ」
「ふん。……まぁ、悪かったな」
「……あ?」
「全般的に僕が悪いと思ってはいないがな」
一瞬何を言われたのか分からなくて、間抜けた声をあげてしまう。余計とも言えることを言っていたことをようやく理解して言い返そうとしたときには鷲尾はもういなくなっていた。
「……そんなに、意外か?」
「……」
ずぞーと少し間抜けた音をたてながら汁を飲んだ後、俺に首を傾げる透。透の言う通り、渋々ではあるし完全な謝罪とまではいかないが、あんなに透の言う通りに謝るのに驚いてしまった。
「…多分鷲尾にはちゃんと伝えれば、理解しようとはする、と思う。…口は悪いけど、な」
「……そんなもんか」
「……たぶん」
透も確固たる自信はないようで曖昧な返答が来た。
……確かに鷲尾の謝罪にも驚いたけれど、透が鷲尾のことを理解していることにも驚いてしまった。完全な理解、とまで行かないのだろうけれど。まぁそこは人間同士なんだから完全な理解することは出来ないだろう。
元々透は人のことをよく見るほうだ。前も確かに良く見ていたけれど自分のことを守るためにあえて見ないふりをしていたところがあったんだと思う。
昔も整った顔立ちとその頭の良さからかクラスの女子からモテていて、困っているところを気にかけて助けてあげることがあると、それを自分への好意なのだと自分は特別なのだと勘違いされたり、周りからその子がいじめられるのを見てきたから、したくても出来なくなっていった。
今は自分の身を守るための理由も忘れているから、こうして気にかけられる。のかもしれない。記憶のある透とない透の違いが今目の前で起こっていた。
忘れているからこそ、出来たこと。俺は、1人でいたところに透に気にかけてもらって1人じゃなくなって、透と一緒にいるようになって。俺は救われていてうれしかったけれど。
俺以外を寄せ付けようとしない透に、なんとも言えない気持ちだった、俺が近くにいることを許されて嬉しくあると同時にこれでいいのかと言う後ろめたさがどこかにあった。
けれど記憶のないまっさらの状態の今なら、透は自分がしたいことが出来る。今の透が生きていく上で、過去の記憶なんて必要はないのかもしれない。思い出したところで、思い出そうとしている今でさえ苦しいと思うのなら、いっそのこと……。
「……伸びる、ぞ?」
「…あ!」
透に指摘されて俺の前にあるラーメンに集中する。あえて一つの可能性に行きついてしまいそうになったことをなかったことにしてラーメンに集中した。自分の都合の悪いことから見て見ぬフリをした。
――――
俺が激辛ラーメンを食べているところを苦々しく見つめながらも食べ終えるのをなんだかんだ隣に座って待ってくれた透とともに会計を終えて店内からでた。
叶野たちは店の出入口付近で待っていた。叶野と湖越は先に出たことを謝られて、その謝罪を軽く流した後、
「よし、今度の期末の打ち上げはファミレスかな!」
叶野は凝りもせず笑顔でそう提案する。
「……またするのか」
「いやいや、ご褒美は大事だよ!苦しみのあとに楽しみが待っていたほうがいいっしょ。それにわっしー結構楽しかったんじゃなーい?」
「知らん」
うりうりと指先で突く叶野に、鷲尾はそっぽを向いてしまった。頭ごなしに否定しないぐらいには悪くはなかったようである。
「鷲尾って素直じゃねえな」
湖越の独り言のように呟いた言葉に俺と透は頷いた。
叶野も湖越もこの後バイトで、鷲尾は塾らしいのでここでお開きとなった。鷲尾はバスだからここで別れ、湖越叶野とは逆方面だから駅で別れる。
初めての学校外、しかも透以外とは初めての食事は案外あっけなく終わったが、こんなものか、と納得もしている。
「この後何すっか」
「……夏用のYシャツを、買いに行きたい」
今日はバイトをいれていないし、透もバイトしてないから二人で過ごすことになるだろう。このまま透の家に行ってもいいかと思いながら透に何かしたいことがあるのかと問うとそう返ってくる。
ああ、確かに暑いのが苦手な透だ、今は長袖のYシャツの袖を捲っているが鬱陶しいとでも思っているんだろう。
「じゃあついでに何か服も見ようぜ」
「……いや、それは」
「……あの少しの量の服で夏乗り越えられるのかよ?」
俺も買おうかとも思いながら提案するが透は気が乗らないようだったが、俺は食い下がらなかった。
その理由と言うのも、透は持っている服が異様に少ないからだ。長袖も少ないが、夏服にいたっては本当数着しか持っていないのだ。確かに夏の晴れた日はすぐ乾かせるだろうが、汗臭くて着替えたくなったときとかのためにも余分にいくつか持っておいた方が良い。特に透の部屋は冷房が無いのだから。俺が言いたいことがわかったんだろう、透は渋々ながら頷いた。
「よし。じゃあ駅前のほう覗いてみるか」
「……お手柔らかに」
「それは出来ねえ約束だな」
せっかくの美形なのだから着飾った方が良い。そう幾度となく言っているが透は嫌そうな雰囲気を隠さず、むしろ積極的に醸し出している。
美形の真顔は迫力があるが、まぁ透の場合普段とそこまで変わらない表情なのでスルーする。
俺が聞く耳持つつもりはないことを察したようで、溜息を吐かれる。…こうして、また透と遊べることがまるで奇跡のようだな。
最近やっとここに透がいて隣を歩いていることに現実味を帯びてきたけれど、いつも夢にまで見た光景だったんじゃないかってこれは現実じゃなくて夢だったんじゃねぇかって、朝起きたときたまに思う。
だから、朝待ち合わせていくときそこに透がいると安心する、待ち合わせたとき俺より後から透が来るときは夢でも妄想でもなかったとやっと安心する。
透も俺に打ち解けてくれてうれしい。うれしいんだ、うれしいはずなんだ。
たとえ、透が俺のことを覚えていなくても。
「……」
ぐっと無意識に拳を握りしめていたことに気が付いて、透にバレていないか横目で確認しつつ意図的に力を抜いた。
――――
――カタン、カタン。定期的に電車が揺れて、そんな音が耳に残る。
「テストどうだったー?」
「勉強会していたおかげか、いつもより解けた気がする」
「そっか!勉強会誘ってよかったなー」
いつも俺が聞くと誠一郎は歯切れが悪そうに「……まぁまぁ」と言うのに今回はさらっとそう言えるぐらい自信があるようだ。うんうん、俺が教えるときより一ノ瀬くんから教えてもらったときのほうが断然理解していたもんね、ちょっと妬けちゃうけど、確かに一ノ瀬くんの教え方はうまかった。
ちゃんと理解できていないと勉強は教えることは出来ない、数学なんて俺って結構感覚的にやっているところあるから、それを言葉にするのはかなり難しいのに、一ノ瀬くんはうまいこと無口ながら要点を突くのが上手かった。質問してもその無表情な顔を少しも変えずに、かと言って馬鹿にする訳でもなくただただその質問に真摯に向き合ってくれる。
出会った当初はその無表情さに正直、ちょっとだけ怖いなと思ったけど質問に無表情で真摯に向き合ってくれているところに安心さを覚えるんだよ、一ノ瀬くんって不思議な人だね。
「お前はどうだった?」
「……俺は、まあ、うん。いつもどおりだよー」
変わった誠一郎の返答とは逆に俺はいつも通り変わらない返答。変えることができない、返答。
そんな俺のことを察してくれたように、あえて気にしていない顔をして「そうか」とだけ返してくれる誠一郎に俺は救われている。
誠一郎は勉強が出来るようになること自体は喜べる。
親友が良い意味で変わることに喜べる自分に、安堵を覚える。
でも、臆病な俺は変わることが出来なかった。あれだけ勉強会を誘ったのにね、鷲尾くんにもあんなに強引に誘っておいて、他人には『変われ』と強要しておいて、そんな自分は『変わることが出来ない』ただの臆病者。
なんて醜いのだろう、過去の自分が今の自分を嘲笑う。
決して、今のままで良いとは思っていない。変わりたいと思う。でも、変わりたいと思うのに変われない。変わりたくないと思えたなら、こんなに自分が嫌いにならないんだろうな。
鷲尾くんのように周りのことなんて気にせずに自分を押し通すことが出来たのなら、もう少し生きやすいのかもしれないね。
「…自分のこと、あまり責めるなよ」
「……うん」
押し黙る俺に誠一郎は元気づけるかのように軽く俺の肩を叩いてそう言ってくれる。誠一郎、今の俺が唯一信じられる、大事な友だち。
俺のことを見捨てないでいてくれる、親友と言ってくれる、そんな存在がいることは確かに俺の心の支えとなっている。誠一郎がいなかったら、今俺はこの場に立っていなかったとも思う。
愛する家族がいて俺のことを裏切らない親友が1人でもいる、きっと俺は恵まれていると思う。
俺よりも不幸な人間はたくさんいる。そんな中だったら、俺は全然恵まれていると思うし、俺は世界で一番不幸だなんて口がさけても言えない。
そんな恵まれた環境の中でこう思うのは、ぜいたくなのだろう。
――おれは、このままでいいの?
人に囲まれて1人でいたくない、そのくせ心は冷めきって誰のことも信じられないままで、本当にずっとこのまんまで良いんだろうか、と。
家族や誠一郎に聞けば「それでいい」と返してくれるんだろう。俺が傷つかない答えを探して、そう言ってくれるんだろう。その気遣いはとてもありがたいものであり、とても罪悪感を覚えるものだ。
気遣わせてしまった。言わせてしまった。……申し訳ないな、とそう思ってしまう。
常に不安にさいなまれながらも、平気な顔を張り付けて日々をなんとか乗り過ごし続ける。たまに、誠一郎にバレちゃうけど、完璧に自分の思っていることを言えずにいる。
……俺の悩みをもし一ノ瀬くんに聞いたら、勉強のことを質問したときと同じように表情を変えずに、でも真摯に考えてくれるのかな。伊藤くんに聞いたら、俺が考えつかないようなことが返ってくるのかな。
鷲尾くんに聞いたら……怒られちゃいそうだなぁ。
ああ、もう。一ノ瀬くんには偉そうに一緒にいて楽しいと思う人を友だちと定義していいんじゃないかな、とか言ったけど!俺もわかんないや!送った内容がすべて嘘ではない、あの答えは俺の、理想的な答えだった。俺がいつかそうなりたい、そう戻りたい答え。
小さいころは本当にそう思っていた答えなのに、なぁ。今はもう分かんないや。
でもね、クラスで孤立しそうな雰囲気のするクラスメイトをそのままにしておくことは出来ないんだよ。一ノ瀬くんも伊藤くんもそうだけど。
一番気になるのは、鷲尾くんきみなんだよ。
鷲尾くん。勉強だけは確かに裏切らないけどさ、人間は裏切るんだよ。他人も。……自分も。
だからさ。俺みたいになっちゃいなよ。
俺みたいに、テストをそれなりの力で済ましちゃおうよ、そのほうが、楽だから。そのほうが何も気負うことないよ。
なんて、本人に言うつもりはさらさらないけど。