2.人間として。

「透って辛いもの嫌いだよな」
「……痛い、とは思ってるが、嫌いかどうかは……」
「進んで食おうとしねえのと食いたくねえって思うものは嫌いな食べ物になるんだぞ」
「……そう、か」
「嫌いなもんは俺が作っても言ってくれよなー」
「……善処する」

 せっかく作ってくれたのに、それを『嫌い』とは言えない自分はすぐに予想が出来た。好きなものが漸く分かってきたのだ、と伊藤に報告してみると「じゃあ今度から何が食いたいって質問に普通に答えられるな」と嬉しそうに笑ってくれた。
 前までの俺は特に出されたものを食べてきただけで、そこに『美味しい』『不味い』『好き』『嫌い』が無かったのである。食事を楽しむことを知らずにいる俺に伊藤は驚きの表情を浮かべられたのは記憶に新しい。
 こんなに楽しいものが『普通』と言うのなら、確かに伊藤が俺に驚くのも無理はないなと最近分かってきた。
 確かに伊藤や叶野達と食べるのと家で一人で食べているのとでは味が違う気がするのだ。昼休みが最近楽しみになってきた。そして伊藤と話していて初めて知ったが自分の嫌いなものは『辛いもの』らしい。
 あまり意識していなかったが、確かに一味唐辛子があってもかけたいと思わないし麻婆豆腐を食べたときは食べたもの以上に水分を取っていたような気もする。
嫌いと言うことにも気が付いていなかった俺に、伊藤は苦笑する。
 伊藤、よく気が付いたな…。人のことを良く見ているなと感心した。
 学校も終わり、電車で自宅の最寄り駅まで向かっている。

――――

 帰りの際『明日にでもまた勉強会しよー!』と叶野が誘ってくれた。
「なんかね、さっき鷲……わっしーに聞いたら明日は家庭教師も塾もない日なんだってさ。たぶん一ノ瀬くん質問攻めだからがんばってね!」
 勉強会は最早誘うのではなく、確定しているらしい。
 昨日から変わらず鷲尾のことをわざわざ言い直してあだ名で呼んでいる。今日鷲尾はそう呼ばれる度に「やめろ!」と返している。
 そうやって呼ばれるたびに毎回反応するから叶野は辞めないのではないのだろうか思ったりするが、本気で嫌がっているようには見えないので何も言うまい。
 とにかく、明日は勉強会するとして、今日はそれぞれ帰った。テストまで2週間を切ったもののみんな焦ったりしている様子は特になく、むしろ部活動が休みになることを幸いに遊びに行く奴らの方が多い。『まだ』1週間以上期間があると考えるのか、『もう』2週間切ってしまったのかと考えるのは人それぞれだと思うが、前の学校では考えられないことばかりで俺ばかり戸惑ってしまう。前の学校は明らかに後者のほうが多い…と言うか後者しかいなかった。
 テスト前は勉強が当たり前、とそんな空気だった。それが当たり前だと思っていたから何も疑問を感じたことはなかった。まだ進路にそこまで響かない1年生だろうとなんだろうとクラスメイトに置いて行かれないように頑張る、と言うのが普通だった。
 いくら大金持ちが集まると言えど、不正をしない限りはテストの順位は自分自身で勉強しなくてはどうしようもないから一生懸命勉強していたと思う。

 普通の高校に慣れない俺に気が付いていないのか気付いているのか伊藤はそんな俺のことを突っ込むこともなく、いつも通りに接してくれるからどちらにしてもありがたい。
 昨日に引き続いて今日は伊藤と少し気まずくなってしまったが、昼休みを過ぎたあたりからまたいつも通りの空気感に戻ってきた、と思う。

「他の科目の勉強もボチボチやっていきたいんだが、またいいか?」

 最後の授業を終えて、帰りのHR前にそう聞く伊藤に俺は頷いた。自ら他の勉強をしようとやる気になったようだ。やる気が出ているときにやるのがきっと一番集中できるだろうし、叶野たちからメールが来るとは分かっているがそれ以外の予定はない。

「……なに、したい?」
「あーんー……じゃあ英語で」
「……分かった」

 何をやるかまでは考えていなかったようで少し考えてからそう答えた。昨日叶野が言っていたのを思い出してのことなのかもしれない。まぁやりたいと思った理由は何であれ伊藤の意志を止めるつもりはない。俺らが勉強すると言っているのを前の席の叶野が聞いており、そこから明日勉強会をしようと言う流れになった。

 伊藤と話すのは安心する。叶野にさえもまだ少し緊張してしまうのに、伊藤にだけは緊張せずに話せる。きっと、信頼してるんだと思う。
 自分のことをまだ理解するのに時間はかかりそうだけれど、これだけは割とすぐに分かったことだ。信頼できる人がいる、そんな人がいるだけでこんなに、気持ちが違うものか、そう思う。

「……伊藤の好きなものは?」
「塩辛とかキムチとか、あと塩唐揚げとか美味いな。」
「……そうか」

 塩唐揚げ以外俺には食べれなさそうだな……。伊藤が辛いものが好きなのは知ってる。たまにカップ麺を食べるとき、伊藤が選ぶものは真っ赤なパッケージのもので、スープもパッケージと同じぐらい真っ赤なものだ。
 うどんなど食べるときだって唐辛子で真っ赤になっていて見ているだけでも目が痛くなるほどだった。
 それを顔を顰めることなく平然と食べているのを見て、本当に同じ人間なのかと疑ってしまったこともある。

――――

 家に着いてしばらくテレビを見て雑談して、一休みして勉強しようと英語の教科書を開いた。
 元々数学より興味があったのか、昨日一昨日で勉強するコツを掴めたのか俺に聞くことなくさらさらと日本文を英文にしていく。分からないところは聞いてくるだろうし、俺も自分の勉強をしよう。なんだかんだであまり自分の勉強をしていなかった気がするしな。
 一昨日伊藤と勉強したとき久しぶりに数学の勉強をしたが問題は無さそうだったし、持って帰ってきた教科書を復習がてら流し読みすることにした。

「……」
「……」

 しばらく部屋には、俺の教科書の頁を捲る音と伊藤がノートに英文を書く音とテレビの音だけが響く。気付かれないよう様子を窺ってみるけれど、特に戸惑っている様子はない。悩みもせずさらさらと書いている。特に得意とも不得意ともなにも言ってはいなかったが、英語は得意科目なのかもしれない。
 伊藤に聞かれたら答えればいいし、やってみてそれを見て間違っているところを指摘すればいいか。集中しよう。目の前の教科書に意識を向けた、と同時に机に置いていた俺の携帯電話が震えた。メールが着たみたいだ。
 誰からだろう、と思ったらそこに出ていたのは『叶野希望』の文字。昼休み後で送ると言う約束のことだろう、そう思いながら携帯電話を開いた。
 自分が思った以上に叶野達の答えが気になっていたんだな、と叶野からのメールだと認識した瞬間すごい速さでそれを開いて見てしまったのをどっかの冷静な部分が自分のことながら引いている。一瞬何してんだろ、とか思うけれどそれよりも、とメールの覗いた。

『やっほーさっきぶり!昼に言ってた俺なりの答えなんだけど、結構恥ずかしいこと書いちゃったからさ、絶対誰にも見せないでね!特に誠一郎には!!お願い!』

 文面でも叶野の必死さが伝わり、無意味にうなずいてしまう。暫くは空白が続き、少しスクロールしていくと(恥ずかしくなったのかとんでもなく改行されている)、こじんまりとこう書かれていた。

『俺にとっての友だちは、一緒にいてお互いを支え合える、そんな安心できる存在だよ。そんな存在が俺にとって誠一郎が一番近いと言うか、信頼できる人なんだ。
でも一ノ瀬くんが友達って言うのがよくわかんなくても、一緒にいて楽しい人もきっと友だちって言っちゃっていいと思うよ!一ノ瀬くんが楽しいならきっと相手も嫌なんて思ってないよ!』

 ……書かれている内容に前半はなるほど、と思う。確かに、叶野は湖越に対して頼っていると言うか、一番砕けていると言うか、気が抜けているように感じる。
 支え合える存在。安心できる存在。叶野の言うことと俺が感じることと同じかどうか分からないが、確かに俺にとって伊藤は安心できる存在だ。俺を傷つけようと思っていない、そんな優しい目を初めて向けてくれた人。
 前ならともかく、記憶のない俺が伊藤の支えになれているのかは、分からないけれど。問題は後半部分だ。
 ……気遣ってくれているのは分かっているけれど……。
 良いのだろうか。俺が楽しいと思ってても相手がどう思っているかなんて、そんなこと分からないのに。
 そんなもので、良いんだろうか。相手のことを考えなくてもいいものなのか?聞いてみるべき、か。
 携帯電話を片手に顎に手をやってついつい考え込みながら、返信ボタンを押して質問を打ち込む、答えてもらっておいて偉そうに質問だけするのも何だから、一言添えた方がいいかとか色々考えていて完璧に教科書の存在を忘れる。
 目の前のことに集中しすぎて、いつの間にかノートに書きこんでいた音が聞こえなくなっていたことに気が付かなかった。

「うぐッ」

 集中していたということもあったが、最近見つけた弱点である腋に唐突な衝撃で思わず情けない声を発してしまう。反射的に身を縮こませて固まる、驚いてなにも出来ない俺に相変わらず腋をくすぐるようなにかが蠢いており、むずむずして身じろぐ。
 これが今出来るのは、1人しかいない。

「い、とう?」

 変な声を耐えながら伊藤の名前を呼んだ。伊藤は俺の呼びかけに返事はすることなく、無言だった。脇に蠢いているなにかは伊藤の手だった。

――――

 前に悪戯されたときは、先に俺を掴んだのは叶野で伊藤は悪ふざけとして乗っていただけだった。確か、そのとき伊藤は笑っていたと思う。侮辱とかじゃなくて、ただおもしろがってじゃれているだけだと分かるそんな笑顔、あの空気感には確かに戸惑ったし辞めてくれとも思ったけれど、別に悲しいとか怖いとか、そういうのではなくてただただ戸惑っていただけ。
 叶野がふざけていて伊藤はそれに乗ってて、鷲尾が来るまで結局その悪戯が続けられたわけなのだが。学校だったから二人きりじゃなかったから誰かが来る可能性があったから。
 色んな理由を考えてみるけれど、俺が今思う感情と脈絡が無い気がする。

ただ、この場に鷲尾が来たのと同じように誰かがやって来てこの空気が壊されることなく続く。それが少し、こわくなる。

「やめ、ろ」

 テレビの音にかき消されそうになるぐらい俺の情けなく弱弱しい声。いやだ、と首を振っても未だ伊藤の手は俺の腋を這い回る。ぞわぞわする感覚が不愉快で身悶える。伊藤はずっと無言で、俺の声に何の反応を返してくれない。ただ、片手で後ろから俺を抱きしめるような形で拘束して、もう片方でずっと腋をくすぐってくる。
 抵抗しようとするけれど伊藤の力が強くて引き離せない。顔が見えないせいで伊藤がどんな表情をしているのかわからなくて混乱する。

 いつもなら、俺が名前を呼べば聞こえていないときを除いて、笑顔で返事してくれる。太陽が似合いそうな笑顔で優しい低い声で「どうした」と言ってくれるのに。

 どうして、返事してくれないんだろう。いくらテレビの音があってもそこまで大きくないのに、こんなに近くにいるのだから俺の声が聞こえていない訳じゃない。どうしてずっと、俺が弱いって伊藤が教えてくれたところをずっとくすぐり続けるんだろ。
 拒否の声も黙殺されて、くすぐってくるから息をし難くて、精神的にも肉体的にも苦しい。
でも、それよりもなによりも悲しい。

「…っ、いや、だ」

 こわい怖い怖い嫌だ嫌だ。
 俺の声を無視してもいい、くすぐられるのも嫌だけど我慢するから。悲しくても我慢、出来るから。
 なんでもいいから。

「いと……かお、みた、い……」

 せめて、顔を見させてほしい。怒ってても何でもいいから、伊藤にならなんだってされてもいいから、我慢するから。だから、せめて顔が見たかった。
 伊藤になんでこんなことをされているのか分からなかったけれど、これだけなにも言わずにじゃれるの範囲の通り越して延々とくすぐりを続けているのだから、なにか怒っているんだろうな、とは思う。
 何をしてしまったのか分からないけれど、伊藤が怒ってしまったのだからよっぽどのことを俺はしてしまったんだろうと思う。
 俺を受け入れてくれた伊藤に俺はやっぱり傷付けてしまうばかりで、とんでもなく悲しかった。顔も目も熱くてしかたがない。混乱とか息苦しさやらで涙が出そうになるのを我慢する。
 罰と言うなら甘んじて受け入れるけれど、ならばせめて伊藤がやっているのだと伊藤に触れられているのだと実感が欲しかった。伊藤にされるなら、殴られたって俺は良いんだ。

 懇願する俺に、伊藤はやっぱり何も言わずに、でもくすぐるのも拘束するのもやめた、拘束する腕が離れて自由になったのを認識して目に溜まっている水滴を拭ったあと、すぐに後ろを振り返る。そこには、俺以上に泣き出しそうな顔をする伊藤がいた。

「…ごめん、透、ごめん……ごめん。俺がいるのに、携帯に夢中になっているの見て、少しカッとなったんだ。ごめん」

 壊れたように謝罪を繰り返す伊藤を俺は責めるつもりはなかった。ただ、疑問が残ったのでそれだけはぶつけてみた。

「……怒って、ないのか?」
「…怒ってねえ、よ。ただ、嫉妬しただけ。俺が勝手にそれを透に押し付けただけ、八つ当たり、しただけだ。それより、透が嫌だって言っているのに辞めれなくて、ごめん」

 また一言謝るとそれっきり黙って俯いてしまう。俺はどうしていいかわからなかった、感情をぶつけられるのは慣れてはいるけれど、謝られたことはなかったのでその謝罪にどう返していいのか分からなくて。
 別世界のテレビのなかの司会者とアナウンサーの陽気な笑い声が、遠くに聞こえた。……俺にしたことを後悔している様子の伊藤の手は震えていて、俺は何も考えずその手を握りった。1か月前、俺が記憶が無くて謝罪していたときも伊藤は俺の手を握ってくれていたから、と言うのもあるけれど、俯いて手が震えているのを見てなんとかしたくなったから。
 あのとき、暖かった伊藤の手は緊張のせいか俺よりも冷たくなっていて、なんとか温めたくて両手で擦る。

「…透?」
「……気にしてないから。謝ってくれたし、もういい」
「でもっ」
「……俺もごめん。せっかく伊藤といるのに、携帯に集中してて」

 普段一緒にいるときだって、話さないことだってあるし互いに好き勝手しているときだってあるけれど、それでもメールに集中するのは今回初めてだったから、きっと失礼になるし、伊藤が俺のこと放っておいて誰かとのメールに熱中されるのを想像して…なんとなくいやだな、と思う俺も伊藤にそうされたら何かしら八つ当たりしそうだ。
 お互い省みる点があると思う。そう言ったけれど、でも、と食い下がる伊藤にするつもりのなかったことを言う。

「……今度、仕返しするから。だから、もう気にしないで良い」

 この間のように、くすぐられたことへの報復は本当はするつもりはなかったけれど、このままだと伊藤が納得せずにずっと繰り返しになりそうだったから、そう告げる。
 これ以上このことを持ち込んで伊藤との仲が微妙になってしまうのが嫌だから、そのぐらいならこうして言ってお相子にすればいい。それなら、いいだろう?

 伊藤はポカリと口開けて俺を見ている、それに動ずることなく目を合わせる。しばらくして俺が思っていることが通じたのか。

「…覚悟しておくわ」
「……俺の仕返しは倍返しだからな」
「あーまた泥だらけにされるのか」
「……うん、それもいいかもな」

 冗談のつもりで言った伊藤の言葉にうなずいてみると
「勘弁してくれよ」
そう言って下手くそに作った笑顔を浮かべた。俺も多分同じような顔をしているだろうけれど、互いにそれを指摘することはなかった。

 そのあとしばらくは勉強も何もするでもなく、何となく並んで座ってテレビを見た。めでたいニュースも暗いニュースも確かに見てちゃんと聞いているはずなのに、どこかに通り抜けていくように頭に入らなかった。それでも伊藤のとなりでぼんやりと眺めた。

 しばらくしてから、近くに転がっていた教科書を拾って目を通した。教科書を読み始めてしばらくして、伊藤も元々座っていたほうにあったやりかけの問題であろうノートと教科書と英和辞典を引っ張って俺の隣でやり始めた。

 気まずい訳ではないけれど、少し居心地が悪いような感じもしつつ、でも離れるつもりは毛頭なかった。たまに文字を書いている伊藤の腕が当たったりしても、どくつもりはなかった。狭いと思うし、いくらなんでも男同士で近すぎる気もするけれど、それでも移動するつもりはなかった。伊藤になにか言われたら移動しよう。
 そう思った。

 結局俺らはそのままの位置で、伊藤から何の指摘もなく結局勉強会が終わるまでそのまんまだった。トイレだとか小休止と一旦離れることはあっても、結局戻っているのだから伊藤も離れるつもりはなかったみたいだった。
 いつもより口数は少なかったけれど、昨日のような気まずさは感じなかった。普通に伊藤は分からないところを質問してきたりしていた。
 勉強会のあとにまた伊藤が夕飯を作ってくれて、食べる位置はいつも通り向かい合って食べていた。それが普通なのに、どうしてかとなりが涼しいなと思った。
 冷房のない扇風機しかない部屋で、じっとりと纏わりつくような暑さがあるのだから近くにいられて暑くて嫌だったはずなのに、特に暑さが嫌いなくせに涼しい気がする自分に違和感を覚える。
 その違和感の正体を掴めることはなく、そのまま伊藤が帰る時間になって玄関まで見送った。靴を履いて、出ていこうとするけれど伊藤はまた気まずそうに俺に目を合わせず、何かを言いあぐねている。
 謝りたいのだろうか。でも、俺も省みるところもあるのだし、その謝罪はもういいのだと俺は切り出している。だから何を言うか迷っているようだった。

「……明日、また」

 俺が望んでいるのは気まずそうな伊藤と過ごすのではなく、ここ1か月ほどで『当たり前になった日常』だ。
だから、伊藤がなにか言いたそうにしているのを気付かないふりをして、『いつも通り』にそう言った。

「ああ明日、またな」

 俺に倣ってなのか、どうなのか。少しだけ、安堵したかのような表情を浮かべて、伊藤も『いつも通り』に返した。
 軽く手を振って伊藤を見送って、ドアが閉まって少ししてから鍵を閉めてそのまま風呂場へ向かう。

――――

 風呂の準備をして、お湯をはり終えるまでの時間に居間へ戻って携帯電話を開いた。パチリ、と開くと叶野に返信しようとしたままになっている、さきほどの伊藤からのくすぐり攻撃に紛れて誤って送ってしまっていなくて少し安心した。改めて叶野からの答えを見る。
『一緒にいて楽しい人もきっと友だちって言っちゃっていいと思うよ!一ノ瀬くんが楽しいならきっと相手も嫌なんて思ってないよ!』そう書かれているメールを少し考えてから打ち込んで、そのまま送った。

『そんな簡単な考えでいいのか?叶野は嫌だと思っていないか?』

 思ったままを送って、少ししてこの言い方は少しあれかもしれないと思い始める。せっかく質問に答えてくれたのに『簡単』と言ったり、嫌だと思っていないかを本人に聞くのは違う気もする。そう思ったときには『送信完了』と言う無残な文字で。

 後悔して悶々と布団に寝っ転がりながらそう考えていると、手に持っている携帯が震えて驚いてつい枕辺りに投げてつけてしまう。……名前は見ていないけれど、たぶん叶野か湖越か、伊藤なんだろうけれど。とにかく今の精神上見るのはきつそうなので…風呂に入ることにした。


 少しでも長く風呂に入っていようと普段そんなに念入りに洗わないところを洗ってみたり意識を違うところに向けようと思って湯船につかりながらぼんやりしようと思ったけれど、メールが気になって仕方がなかった。
 あまり見たいと思えないのにそれでも気になるのは、もうどうしようもないのだろう……。最早あきらめの気持ちでさっさと風呂から上がる。
 寝間着として使っているTシャツとジャージを身に着け髪を拭きながら出て、投げたままの状態で枕のところにある新着のメールが来ていることを知らせるランプをちかちかさせる携帯電話を開きながら画面を開いた。

 メールは2件、伊藤と叶野からだった。メールが来た時間を見ると伊藤のメールが先に来ていて、叶野のメールは俺が風呂から上がる少し前だったので、つい携帯電話を投げ飛ばしてしまったときに来たのは伊藤からのメールだったらしい。……確かに、そんなにすぐ返信が来ることはないかもしれない。うん。何となく伊藤に申し訳なく思う。
 先に来ている伊藤のメールから先に見たい気持ちがあったけれど、叶野からの反応の方が気になって仕方がないので伊藤に罪悪感を覚えつつ叶野からのメールを開いた。
 怒っているんじゃないかとか不快な気持ちにさせてしまっただろうか、とかそんな不安な気持ちのままに開いたのだが、

『簡単でいいよー!一ノ瀬くん頭良いから色々考えこんじゃうんだろうけど、そんなものでいいんじゃない?まぁ俺の意見だから軽く流してくれていいしね!嫌だなんて思ってないよっ。むしろ一ノ瀬くんにうるさいかなーって思われてないかなって少し不安だったからさ、一ノ瀬くんに嫌だと思われてなくて安心したよ!』

 そんな不安な気持ちが吹き飛ぶほど叶野からの返信は穏やかなものだった。……色々考えこむとか伊藤にもそういえば言われたことがあったことを思い出す。
 自分が考え込むほうとは思っていないが、確かに行動するより先に考える方が多い気もする。……別に悪いこととは言われていないけれど、なんとなく引っかかるものを感じる気がする。気のせい、だろうか。
 ふと感じた違和感を一先ず置いておいて、メールを読み進めると叶野は自分のことをうるさいと思われているかもと書いてある。嫌だと思ってない、そう書かれてあって少しほっとしたけれど、俺は確かに叶野のことを明るくて賑やかだとは思っていたけれど、うるさいと思ったことはない。でも、確かに本人にこう思っていると伝えていないことだから、本人は俺にどう思われているかなんて知らずにいるだろう。そして、俺も叶野にどう思われているのかを知らない。
 当たり前だ。超能力でもなければどう思われているかなんて本人は知らない。……自分のことでも分からないときもあるのに、それでも『誰か』がどう思われているかをすべてを把握なんて出来ない。
 言葉にしないと、伝わらないんだ。当たり前のことを、でもその当たり前のことで俺は確かに救われている。そしてその当たり前のことに傷を付けられるのも俺は身を以って知ってる。
 祖父と桐渓さんに言われた事実と言葉。そして、伊藤が言ってくれた事実と言葉。どっちも本当のことで嘘偽りはないのだ。傷つくのも救われるのも、紙一重なんだろう。

「……」
『ありがとう。俺は叶野のことをうるさいと思ったことはない。むしろ、俺に話しかけてくれる叶野に感謝してる。一緒にいて楽しいと思う。ありがとう』

 俺は言葉を知っているのにそれをうまい使い方を知らない。だから、端的に思っていることを書くしかできなかったけれど、それでもいいと思う。『送信完了』の文字列を見ても、もう悶々と考えることなく、そのまま伊藤からのメールを開いた。……なんとなく、なにを書かれているのか察しているけど。

『悪かったな。もうああいうのはしないから。だから、離れないでほしい』

 何に謝っているのか主語はなかったけれど、十中八九伊藤が言うには八つ当たり?の件のことなのだろう。1か月前俺が伊藤に謝ったときとは逆の立場になっているな、と心のなかで思う。あのとき伊藤は何度も謝る俺に何度も『良いって』と笑って返してくれた。
 伊藤が望むのであれば何度だって俺も同じ返答をするけれど一つだけ、言わせてほしい。

『良いよ。もし次があっても顔見せてくれるなら、いいよ。離れるつもりもない』

『顔が見たい』これに尽きるのだ。
 今の今まで髪を引っ張られたりぶたれたり、責められたりされてきたのだから、伊藤が本気で怒っているのならくすぐるだけじゃなくてあのゴツゴツした拳で殴られるのもやぶさかではない。だけど、今日みたいに顔が見れないのは苦しい。くすぐられる息苦しさよりも胸辺りが締め付けられるように苦しかったから。そう書き込んで送った。一息つくと、また携帯電話が鳴る。
 伊藤についさっき送ったばかりだったから、たぶん叶野だろうと思ったけれど、そこに表示されている名前は伊藤だった。速い返信に驚きながらも来たメールを開いた。

『もし次あったらちゃんと顔を見て話し合うから』

 ……うん。伊藤になら殴られてもやぶさかではないとは言ったものの、決して殴られたいとかそんなわけないので、最悪の場合はそうしてくれっという意見なのでそうしてくれるとありがたい。伊藤も好き好んで人を殴ったりしたいわけでもないだろう。

『そうしてくれ。じゃあ、また明日な』

 簡潔に返信。さっきも言った言葉だけど、不自然じゃないし良いよな。伊藤からも同じように返信が返ってきた。今日はこれでお終いと言う合図のようなものだ。
 言葉にしないと伝わらないのは、きっと伊藤も例外じゃなくて。聞きたいことがあるのに聞けずにいるのは俺に勇気がないだけで。
 それをいつか聞けるぐらい強くありたい。罪に苛まれても、それを乗り越えずに受け入れられるぐらいになりたい。そう、なりたい。

 表示されている時間を見れば22時半を少し過ぎたぐらいだ。伊藤とのメールのやり取りが終わっても叶野からの返信は来ないので、もう眠ってしまっただろうか。
 そう思い始めたころそれを察したかのタイミングで叶野からメールが来た。

『そう言ってくれると嬉しいな!じゃあ俺と一ノ瀬くんは友だちってことだね!やったね!あっ、俺そろそろ寝るねっおやすみ~またあしたね~』
『そう言うことで。ああ、おやすみ。また明日』

 友だちが増えた。いや、叶野理論で言うならば叶野はもっとずっと前から友だちのはずだ。叶野だけじゃなくて、伊藤は勿論湖越だって鷲尾だって、俺にとって友だちだ。

 このことは鷲尾にも報告するべきなのだろうか。叶野に鷲尾にも友だちはなんたるものなのか教えていいのだろうか。湖越には教えないでほしいと言っていたから、叶野にとってあの答えは恥ずかしいものだと分かったから気軽に誰かに言えるものではないと言うのを察した。
 ……教え合う、とまでは鷲尾は言っていなかったのだし、叶野も人それぞれによって違う答えがあると言っていたし、最終的に俺も自力でその答えを見つけなくてはいけない。
 とりあえず、友だちの定理は人それぞれで違う、とだけは確定しているからそれだけは教えるのは有りだろうか。叶野から教えてもらったとも何も言わずに通せば大丈夫、だろう。歯を磨きながらそう結論付けた。
 コップに水を入れて一口飲んですぐに洗って、電気を消して布団に寝っ転がる。目覚ましついでに携帯電話を確認してみたけれど、湖越からのメールは来なかった。送るって言っていたけれど……あ、今日中にとは言われていなかったか。そうだった。
 勉強で忙しいのだろうか。もう眠ってしまったんだろうか。決して無理強いしてまで答えてほしいとまではいかないけれど、具合などは悪くなっていないだろうか。
明日、湖越が普通に学校に来ていればいいなと思いながら目を閉じた。

――――

「そう言えば、昨日誰とメールしてたんだ?」
「……叶野」
「あ、叶野からか」

 少しだけ気まずそうに伊藤に聞かれて、隠すことなく答えれば少しほっとしたような表情だ。伊藤も叶野に対して信頼していると思う。確かに俺が転校してきた日も伊藤に普通に話しかけていたしな。
 いつも通り、公園で待ち合わせて伊藤と学校に向かっている途中だった。昨日のことを気にしている素振りを見せなかったけれど、歩きはじめてしばらくしてそう聞かれた。
 気まずそうにしながらも俺のメールの相手が気になってしまったようなので、俺も内容は言えないが相手がだれかぐらいは特に隠す必要性はないだろうと判断して普通に答えた。
 これは、もしかしたら叶野とメールしているのを隠していたらまた大変なことになっていたかもしれない。素直に答えてよかった、と思う。
 また昨日のことを謝りそうな雰囲気の伊藤に、無言で首を横に振ってそれを拒否した。もう済んだことだ。もうほじくり返そうとしなくていい。そう思った。本気で俺が嫌がっているのを察したのか、少しだけ伊藤の肩が抜けた、のを見計らった。今だな。

「うぎゃっ!」
「……はい、昨日の仕返し」

 油断して俺から視線を外しているところで、素早く背後に回り込んで両方の腋の下に両手を突っ込んだ。突然道の真ん中で伊藤の情けない声が響いて、周りの社会人や俺らと年の変わらない学生が伊藤の方に注目した。
 周りの目が伊藤に向いているのを見て、俺は少し早足で……伊藤から逃げるように先に行く。
 何をされたか分かっていない様子の伊藤だったが、周りの視線が自分のほうへ向いているのに気が付いたようで「とおる、待てってめ!」と大きな声で言いながら俺のあとを追いかけてくる伊藤の気配を背後から感じる。
 俺が早足で逃げているのを合わせているのか、伊藤も走ってはおらず同じように早足だ。なんだかそれが面白くて、自然と早足だったのが、普通に走ってしまった。
 伊藤もまた俺に合わせて走った。何故か謎の鬼ごっこが始まってしまったことが、冷静に考えれば何が楽しいとかわからないのに、面白くて仕方がなかった。

 まあ、足の速さも体力も伊藤のほうがあるので駅に着く前に捕まってしまった。

「……ははっ」
「……ははは!」

 何で朝から鬼ごっこしながら駅まで行っているんだ、とお互い正気に戻ったが、この変な状況が面白くてつい笑うと伊藤も笑った。
 傍から見れば、でかい男子高校生が二人でなにしてるんだと見られてしまうんだろうけれど、そんな周りの視線なんて関係なかった、どうでもよかった。ただただ伊藤と声を出して笑いながら改札を通った。
 走って来たおかげでいつもより一つ早い電車に乗れてしまった、そりゃあれだけ走ったらそうなるだろうと冷静に考えれば、今も頭が冷静ならただそう思うだけ何だろうけれど。
 今は「マジかー」て伊藤が言っただけでも笑ってしまった。きっと今ならほんとうに箸が転がっても笑えると思う。いつも通り、だけどいつも以上に楽しく今日は電車に乗りこんだ。
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