2.人間として。


 鷲尾は家庭教師が来るみたいで、俺らより先に家へ帰っていった。結局鷲尾とはそこまで話せずに終わってしまった。少し申し訳ないが、勉強会なのだから分からない人を教えるほうが最優先だろう。そう自分なりに納得してあまり気にしないことにした。それに、鷲尾は勉強会じゃなくとも聞いてくるのであまり変わらないだろうし。

「塾に家庭教師に、自習もしてるんだよね。わっしー大変そうだね」
「そのニックネーム定着させる気満々だな」
「あははは、あだ名あった方が親しみやすくない?」

 明日からみんながいる前でよんじゃおっと!そうニコニコしながら湖越に漏らしている。

「……叶野って、鷲尾には容赦ないよな」

 そんな叶野を見て前々から思っていたことをついポロっと零した。
 鷲尾に容赦のないことを別に悪いとは言わない、鷲尾からすると変に気遣われるよりきっと楽だろうから構わないと思う。だけど、俺や伊藤に……親友であろう湖越にも叶野はずけずけと言うことはないのだ。俺は付き合いがまだ浅いってこともあるのだろうが、俺よりは付き合いの長い伊藤にも、一番親しいであろう湖越にもそこまで容赦ないことはしないと言うか。
 そう言うのが二人の距離感だとは思っていたが、つい零れ落ちてしまった。

「えっ」
「確かにな。湖越にもそれなりに口悪いけど、鷲尾には結構えげつないよな」
「えー……そうかなあ?」

 驚く叶野とは逆に伊藤は俺の言うことに同意する。
 敵視、とまでは行かずとも鷲尾にのみでちょっと厳しいような、でもその割には絡みに行く頻度は高めだなと思う。昨日だって頭突きかましてたしそれに鷲尾も応戦してたな。

「いやいや?俺平等だよ?だって一ノ瀬くんにも悪戯したし?」
「それとこれとまた違ってて……なんつうんだろうな。」
「……鷲尾にはあまり気を遣わず話している感じはある」
「あーそれだ。そう言うことだな。まぁ、あいつに気遣ったところでその気遣いに気付かないだろうし、そんぐらいでいいんだろうな」

 確かに、と伊藤の言葉に頷く。言葉をそのままに受け取ってかつ無意識に人を傷つけてしまいそうな物言いをしてしまうところは、ちょっと不安に感じるところがある。
 俺もそうだが、鷲尾も俺とは少し違った意味で国語が苦手なようでこの人に隠された思いを答えなさいと言う問いに『何故隠す必要が?』と首を傾げているのを幾度と見ている。
 俺はその登場人物に同調できなくて、鷲尾はなぜ隠すのかがそもそも理解していない。正直俺もちゃんとは理解できないので、暗記しているだけだ。隠したい思いがある気持ちは分かっても、どうしても出てくる登場人物に自己投影は出来ないのである。
 鷲尾はまず隠したいことなんてないんだろうな。あれだけ堂々としていて自分に自信がある、そんな姿勢を見習いたい。

「え、えー俺ってばそんなに鷲尾く……わっしーに遠慮なかった?」
「いや、わざわざ呼び方を言い直さなくてもいいんじゃないか」
「安心しろ、希望。お前は俺にも容赦ない」
「誠一郎ってさフォローする気ないよね!いや、その通りだけどさ!」
「まぁな」
「……」

 湖越と叶野の会話が始まってしまい、結局叶野は自覚はなかったらしいとうやむやに会話は終わった。流されたように感じられたが……別にそこまで深堀するような話題でもないか、と少し違和感をおぼえつつも気にしないことにした。とりあえず湖越に数学はあらかた教えたから、きっと大丈夫だろう。

「な、透」
「……ん?」
「ここどう解けばいいんだ?」
「……この公式の応用、だな」

 伊藤に聞かれて意識をそっちに向けた。昨日に比べて随分意欲的になったのは教えた俺からすると誇らしく思う。ただ、中間は期末と違って5科目しかないもののそれでも伊藤のブランクを考えると他のもやるべきだとも思うので、明日でも明後日でもいいが他の科目を少しずつ手を付けていったほうがいいかもしれない。
 数学ばかりやって他の科目をまた1からやるのもつまらなく感じてしまうだろうし、少しずつ慣らしていくべきかも。

 そう思いながら伊藤に勉強を教える。湖越と叶野も会話をやめていつの間にか勉強していた。
 叶野が湖越に勉強を教えているのを見て、やっぱり叶野って頭良いんだなと再確認した。静かに勉強してたまに質問されてそれに答えて、て言うのを繰り返していればいつのまにか夕方になっており、見回りに来たであろう岬先生が少し驚いて「まだ残ってたんだね、勉強は捗ったかな?お疲れ様。でもごめんね。そろそろ下校時間なんだよね」と声をかけてくれるまで勉強会は続いた。


「いやー一ノ瀬くんのおかげですごい捗っちゃった!ありがとね!また勉強会しようねー」
「……ああ」

 いつの間にか時間が経っていたことに驚き帰りの準備をして皆で教室を出た。
 俺のおかげだと叶野が笑いかけてくる、捗ったのは別に俺のおかげではなくみんなが頑張ったからだと思うが、叶野の言葉に伊藤も湖越も頷いているので否定するのも申し訳ない気もしてそれだけ返しておくにとどめた。

「そう言えば鷲尾……わっしーって塾に家庭教師って、いつフリーの時間があるんだろうね?」
「さぁな。いつもはHRが終わればすぐ帰るよな」

 鷲尾のことをわざわざ言い直してまであだ名で呼ぼうとする叶野は何の執念があるのか少し疑問に思う。湖越ももう突っ込むつもりはないようで、スルーして普通に会話をしている。
 確かに、鷲尾と昼休みをともにするようにはなったが、放課後に鷲尾と話したことはない、と言うか気付けばすでに姿が消えている。何をしているかだとか聞いたことはないが、毎日昨日と違うプリントを持ってきていることから少なくとも平日は塾なり家庭教師なりがあるようだ。
 鷲尾にとって勉強は強制されるものではなくて趣味、とはまた違う気もするが、似たようなものなのかもしれない。勉強に対する彼の姿勢はなんというか、鬼気迫るものを感じる。
 あの感じだと多分何もない日も勉強をしているんだろう、そんな予想がすぐについた。

 彼が放課後残ったところは見たことがない。別に、放課後なのだから残るなり帰るなりそう決めるのはそれぞれ決めることなのだから、こちらがとやかく言える立場ではないとは理解しているが。
 勉強以外に時間を費やすことが多くなった俺からすると、鷲尾にとって勉強する時間は叶野たちといることよりも有意義な時間なのだろうか。そんなことをつい思ってしまった、聞こうとするつもりはないが、心のなかでふと思い浮かんだ。

「あ、桐渓先生だ」

 階段を下って一番下までみんなで歩いていると前にいる叶野がそう声を出した。その名前が出た瞬間、鳩尾のところがさぁっと冷えていく。無意識に立ち止まり、息が詰まった。

「おーお前らまだ帰っとらんかったんか?なんや、言いつけ破って遊んでたん?」
「いやいや!みんなと勉強会してたんですよっ」
「ほんまかー?」

 誰かと普通に穏やかに話している桐渓さんがどこか不思議で、ついつい彼を見つめていたのがいけなかったのだろう。

 桐渓さんと、目が合う。

 俺がいたことに驚いたように目を見開いたのは視界に捉えたけれど俺は俯いて視線を逸らした。前を歩いていた叶野と湖越は俺のことに気が付くことはないだろうけれど、俺の隣を歩いていた伊藤には気付かれてしまったかもしれない。でもそんなことを、今は思いつかないぐらい俺は動揺していた。

 こわい。

 そんなことを真っ先に思ってしまった。桐渓さんと顔を合わすのは、あの日以来初めてのことだった。
 意外というべきか、俺は桐渓さんにあれ以降呼び出されたことはなかった。
 メールが来ることはあったけれど、少し慣れてしまって文面だけだと怖いとは思わなくなってきたところだった。今なら、桐渓さんと会っても平気な顔を出来るかもしれない。そんなことを思うぐらいになったけれど。
 名前を聞くだけで身動きが出来なくなって、目が合えば恐怖を覚えた。伊藤と一緒にいる日々は、穏やかで優しくて俺を傷つけるようなものは何一つ無かったから、そんな日々を知ってしまったから、こわい。
 桐渓さんにされてきたことは、恐怖を覚えるもので味わいたくないものだと知ってしまったから、怖い。

 未だに前にいる叶野と湖越が桐渓さんと親し気に話しているのが聞こえたけれど。

「っは……」

 息が苦しくなる。
 もし、あの日と同じように保健室に来るよう言われたらどうしよう。俺のせいで両親を失って、あの日逃げてしまったのだから、責められるのは当然でもこわいものはこわい、嫌なものは、いやだ。
 呼吸が乱れる。駄目だ。平常心だ、落ち着けそう自分に言い聞かせてもどんどん呼吸が不規則になっていく。
 少しでも自分を落ち着かせたくて、自分がおかしくなったことを悟られたくなくて、胸に手をやってひっそり深呼吸を繰り返す。

 自分の手が酷く冷たい。緊張と恐怖からなのだろうと理解は出来ても、温かみを感じない自分のもののはずのこの手は少しも俺を落ち着かせてはくれなかった。
 呼吸がうまく出来ない俺を気付かれたらまずい、俺の異変に保険医である桐渓さんに保健室で休んでいきな、とか言われてしまえば叶野達は従いざる得ないことになる。だから、少しでも落ち着かせたいのに、いつも通りの平静を保ちたいのに感情は何も言うことを聞いてくれなくて、混乱する。
――どうしよう。どうしようどうしよう。
 焦って、どんどん呼吸がうまく出来なくなっていく。呼吸の仕方を忘れてしまう。それにまた焦りを覚えての繰り返しになっていく。焦燥感やら恐怖やらどんどんあふれ出してテンパりそうになる、苦しい。

 そんなおかしな様子になったであろう俺の冷えた手に暖かい何かが重なり、俺をぐいっと引っ張られる。

「悪い、叶野湖越。今日ちょっと卵が大安売りがあるの今思い出したから帰るな!」
「お、おう。わかった」
「え、あ、そうなんだ、焦ってこけないようにね!ばいばーい」
「おう。じゃあ透、行こうぜ!」

 伊藤に声をかけられて、何がなんだかわからないままに手を引っ張られるがままに走る。いきなり走り出して、何故か俺は伊藤に引っ張られ走っている。俺の手に重ねられたのは伊藤の手であることに、今気づいた。俺の手を痛いほどに握ってくれるその手が嬉しい。
 走る伊藤の後姿は広く見えて、今まで見た何よりも頼もしかった。

――――

「……」
「あー、今日卵じゃなかったな」
「……」
「肉だったな、肉が特売だった。いや、どちらにせよもう時間的に終わってるんだけどな……」
「……」
「どうせならもっと格好いい言い訳とか思いつけよ。俺……。なんだよ、卵の特売日だから先に帰るって、庶民派アピールかよ……」
「……伊藤」
「あー…本当、格好つかねえなあ……はあ」
「……」

 伊藤の名前を呼んでみても俺の声は届いていないようで、頭抱えている。何故か反省会をしている伊藤に声をかけていいのか迷っている。1回意を決して名前を呼んでみたが聞こえていなかったようで何の反応もない。
 俺としてはこのままでも良いけれど、伊藤が気にするかもしれないし、何よりそろそろ視線が痛くなってきた。学校から駅までの道を伊藤と歩いている。
 学校から出てしばらくはそのままの勢いで歩いていた伊藤だったが、5分ほど経ってから少しずつペースダウンしていき、今に至っている。
 段々と肩が落ちていくのを俺は後ろから見ていた。前を歩く伊藤が独り言を言っているのは分かるのだが、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。
 卵じゃない、とか肉だったとか断続的に聞こえてくる。あのとき余裕が無かったからなにも考えていなかったが、そう言えば特売をしていたのは卵ではなく肉だったな。時間的にとっくに終わってしまっているけれど。
 どうやら間違えてしまったことに落ち込んでいるようだ。……さっき、伊藤が俺を引っ張って連れ出してくれてよかった。あのままあそこにいたら、きっと俺の予想通りになっていたと思う。
 あそこから連れ出してくれた伊藤が、自分の手を握りしめてくれた手が、うれしかった。

「……伊藤」
「ん?」

 また俺の声が聞こえなかったらどうしようと思ったが、杞憂に終わって伊藤は俺の声に反応した。手を繋いで歩いて大丈夫なのかとさっきは聞こうとしたのだが、今はそれより言いたいことがあった。

「ありがとう」

 あの場から連れ出してくれて。心のなかでそう続けた。俺は伊藤にしてもらってばかりで、伊藤に俺は何も返せていないからせめてお礼を言うことだけは忘れないようにしたい。
 気取って格好つけて何を言うか迷われるよりも、その場で適当に言い訳して手を引っ張ってくれたことが、なによりうれしい。俺のことを気遣ってくれることが、その気持ちがうれしい。格好なんて、つかなくていい。伊藤は伊藤らしくあってほしい。

「……おう!」

 そんな俺の想いはきっと伝わっていないんだろうけれど、俺の言葉に笑顔で返してくれる伊藤を見ると胸が暖かくなる。
 心臓のあたりが、きゅうと締め付けられる。居心地が悪いような良いようなよくわからない気持ちになる。でも、逃げ出したいとか思わないから桐渓さんに向けるのとは違うものなのだろう。

「なぁ、透」
「……ん?」

 伊藤が立ち止まったので、俺は少し歩いて伊藤のとなりに来てから同じように立ち止まる。そろそろ繋がれている手がついに気になったのか、と思って首を傾げて伊藤の反応を待ったが、どうやら違ったらしい。
 何かを言いたそうにしつつも口を開けて、後ろめたいのか俺から視線は外している。いつもと違う態度が不思議だった。どうしたのだろうか。

「あ……えーっと……いや、透さ。昨日何か俺になにか聞きたいことなかったか?」

 しばらく伊藤は挙動不審で視線を斜め上に向けていたが、俺の目を見てそう聞いてきた。
 きのう。ああ、俺が転校してくる前の伊藤を知りたいと思った。湖越に言われた通り、伊藤本人に聞こうと思った。でも、それを聞くか聞かないか迷って、伊藤に寝ているか寝ていないか賭けのような気持ちで名前を呼んでみたけれど返答はなく寝てしまったのだと思ったのだが。

「……昨日、起きてたのか?」
「?何のことだ?」
「……いや、なんでもない」

 昨日呼びかけたとき返事はなかったが、もしかしたら起きていたのかと思ったが違ったようだ。聞こえていなかったりしたのならともかく、聞こえていたのなら返答がないのは可笑しい、よな。聞こえているのに聞いていないふりをするなんて考えられない。そのはずなのに一瞬伊藤を疑った自分を恥じて内心謝る。

 でも……俺が、気軽に聞いていいものなのだろうか。
 きっと聞けば答えてくれるだろうけれど、決して伊藤が言いたくないことを無理矢理言わせたくはないんだ。伊藤が俺を傷つけないけれど、俺が伊藤を傷つけてしまわないか不安だった。
 俺の言葉で、傷付けたりはしないだろうか。『俺に聞かれたから』てそんな理由で、無理矢理答えさせてはいないだろうか。今まで人の輪に入って行かず、罪の意識からずっと1人でいることを選んでいた臆病な俺は弱虫で。

「……いや、今のところは、何も無い」

 伊藤の過去のことだが聞きにくくて、一瞬『友だちってなんなのか』と言う質問も頭に思い浮かんだものの、それも聞くのは、俺は伊藤に対し何の遠慮が無さ過ぎなのではないのかと思いとどまる。
 いくらなんでも記憶がない俺も親友と言ってくれた伊藤に、首を振って、何もないと……うそを吐いた。
 どれが伊藤を傷つけてしまうのか分からなくて怖かった。さっき桐渓さんに会ったときよりも、正直こわかった。

「そう、か」

 伊藤がそう言って、俺は頷いて微妙な空気のまま歩みを進めた。胸の内がもやもやするけれど、それを晴らす方法を俺は知らなかった。どこか居心地の悪さも感じるけれど、それでもつないだ手を伊藤は離さなかった。俺も離そうとも思わなかった。さっきの俺の返事が正解なのかもわからない。
 どう、答えるべきなのか分からなくて、伊藤を傷つけたんじゃないかって、そんなことばかり考えてしまう。
 あの日から、悩むことが増えた。今の今までその日を流されるように生きていた、そんな日々を過ごしてきた自分がこんなに悩む日が来た。これが人らしい生き方なのだろうか。
 もし、これが人らしい生き方と言うなら、予想以上に人として生きるのはしんどいものなのだろう。

 それでも。今のほうが、ちゃんと生きていると思える。目の前の伊藤がいてくれるから。知らず知らずのうちにぎゅうっと伊藤の手を力を入れて握りしめた。

 結局駅に着いて定期をとろうとした際に、伊藤が今の今までこの状態でいたことに気が付いて、羞恥のせいか顔を真っ赤にして「悪い!」と叫ばれ、繋がれていた手がついに離されてしまった。
 手のぬくもりが消えて涼しくなってしまったことに少し寂しいと思ったのは……内緒にすることはないが、わざわざ言うこともないから言わないことにした。

――――

 帰り道、また微妙な空気になるかもなと思ったけれど、案外そんなことはなかった。
 肉も卵も特売はやっていなかったが、トイレットペーパーの安売りしていたのでそれを買ったり普通に買い物をしているうちに徐々に伊藤はいつも通り俺に話しかけてくれるようになった。
 俺も何か話せればよかったんだが、うまいことを言える気がせず結局伊藤が話しかけてくれるまで無言のままだった。
 今日はもう帰るな、と荷物だけ俺の家に置いて、昨日洗ったTシャツを持って伊藤は帰って行った。今日は勉強会もしたんだし、充分だろう。そう思うが、さっきのことがあってつい深読みしようとしてしまう。やっぱり、気まずくなったんじゃないかって。少しずつ気分が落ち込んでいく。

 伊藤がいないこの家はずいぶんと静かだ。テレビはあるが特に見たいものもないので消しているのが相まって無音だった。
 別に伊藤と常に話しているわけではない、無言で互いに好きなことしているときだってあるのに。スーパーで買った唐揚げ弁当は、伊藤の料理より美味しくはなかった。いつもは伊藤が見たい番組があるとかでテレビを付けていることも多かった。昨日、伊藤が泊まりに来たのとは打って変わってつまらないものだ。

 弁当も食べ終わって片づけて、風呂に入って居間へと戻る。

 なんとなく窓の外を見る。曇っていて月どころか星も見えない、そんな空だった。何の気紛れにもならない。諦めて窓を閉めた。もう眠ってしまおうか。
 眠気はまだやってきていないけれど、前だって眠気を感じなくても目を閉じていればいつの間にか朝になっていたんだから、大丈夫だろう。
 そう思って部屋の電気を消して、布団に潜りこみ目を閉じる。

 さぁ寝よう。
 ………寝よう。

 …。
 ……。
 ………。


 ……眠れない。

 目を閉じて、眠ろう、寝よう、寝ろ。そう自分に言い聞かせてもいつまでたっても眠れなかった。昨日は大雨で伊藤の返事がなかったことに悶々としたものの眠れていた。どうしてか。……きっと、帰り道のもやもやが原因だ。
 こうなるぐらいならちゃんと伊藤に聞いた方が良かったのではないか、と思うと同時に何を馬鹿なことを、と前者の考えに至る自分を否定する。なんだか頭がぐちゃぐちゃだ。なんか、もう、いやだな。伊藤のことを知りたい、でも傷つけたくない、傷つけたくないから質問したくない、そもそも記憶がない地点で伊藤を傷つけている。
 伊藤がそれでも良いと言ってくれても苦しい。うれしいと思うことに罪悪感を覚える。色んな感情が湧き出て、その上にまた色んな感情が更新されていく。混乱する。

「……伊藤」

 つないでいた手をそっと宝物をふれるようにもう片方の手でなぞる。
 俺よりも少しだけ大きくて高い体温の掌。
 170cmを超えている男子高校生二人が手を繋いで歩いている姿なんて傍から見れば不可思議なものだろうし、伊藤からしてもついつないだまま歩いていたんだろうけれど、それでも指摘して離そうと思えなかった。
 むしろ、手を離されたことのほうが…寂しいと思った。
 伊藤といるのはうれしい。笑ってくれると楽しい。悲しそうな顔をされると、辛くなってくる。だから傷つけたくないけれど、距離感がつかめない。
 どうしたら、良いのかわからない。どうすれば笑ってくれるのか、どうすれば傷付けずにいられるのか、何もわからない。勉強が出来る、なんて。羨ましがられるけれど、一番知りたい答えを出せないのだから、たいしたことない。
 ……ともだち……か。
 伊藤は俺のことを親友だと言ってくれる。だけど俺はどんな存在が友人なのか分からずにいる。鷲尾に聞かれて言った通り、伊藤にも叶野達にも良くしてもらっている。良い関係だと勝手に俺は思っている。けれど、友人と言うべきなのか俺が勝手に言っても良いものなのか分からない。
 伊藤には聞きにくくて、鷲尾は俺より先に『友人はどんな存在なのか』を疑問に思い俺に質問してきた張本人だ。……それなら、叶野と湖越に聞いてみようか。彼らは小学生からの親友だと言っていた。俺も二人は仲が良いと思っているしあれこそ友人なのだろうと思う。
 あの2人なら、答えを知っているはず。

 分からないところがあるのなら聞けばいい。
 少しずつ、一歩一歩答えに近付いていけばいい。
 俺は、もう一人じゃないのだから。そう思えるようになれた。こちらに引っ越してきたときには考えられないことだったけれど、今は人の輪に俺はいる。大丈夫。

 少しだけ気持ちが晴れつつも、鳴らない携帯電話を見つめてはどこか穴が空いたかのような焦燥感に襲わて仕方がない。どうして伊藤から連絡が来ないだけで、こんなにざわつくのか分からなかった。

――――

 昨日のことを無かったかのように振る舞って、いつも通り伊藤と学校に登校した。
 普段より口数が少ない伊藤に俺は何も言えない。いつも通りに見せつつも、見えない距離感が生まれてしまったことに胸が痛んだ。

「んーと……一ノ瀬くん、伊藤くんとなにかあった?」
「……」

 昼休み、叶野に焼きそばパンを手に持ち、俺のことを窺いながらそう聞かれる。伊藤はトイレに行っていて、鷲尾は今日は家庭教師と塾の課題に追われているようで机に齧りついている。伊藤がいないことを狙ってのことなのかどうなのかは分からないが、周りに聞こえないよう小声で叶野に聞かれる。いつも通りを装っているつもりだったし、誰にも突っ込まれないから気付かれていないと思った。

「……ちょっと、な」
「まじか、喧嘩でもしたのか?つか希望良く気付いたな」

 俺らのことに気が付いていなかった湖越が少し驚いたように叶野に聞く。まさか気付かれていると思っていなかったので俺も驚いた。湖越の反応を見る限り他のクラスメイトたちも気が付いているようには見えない。

「んー何となくいつもと違う気がしたから?いつもより伊藤くん口数少ないしね、一ノ瀬くんも伊藤くんと目を合わせないしね」

 席近いから案外見てるし聞こえちゃうんだよね!と笑いながらそう言う叶野に、感心する。空気が読める、とは思っていたけれど、そこまで見ているとは思わなかった。

「まぁまぁ、俺のことはともかく。何か俺に出来ることある?一ノ瀬くんと伊藤くんの友情を取り持つお助けになれるなら、協力もやぶさかではないよー」
「……」

 人懐っこい接しやすい笑顔でそう明るく言ってくれる叶野に、昨日考えていたことを思い出した。今日になって伊藤に会って少し昨日考えたことが抜けていたけれど、今なら質問するのに良いタイミングなのかもしれない。いつもなら、人に話しかけることすら至難の業なのだから、今が一番いいタイミングだ。そう思い叶野と湖越に聞いてみることにした。

「……2人にとって、友だちって、どんな存在なんだ?」

 そう問うと叶野と湖越は呆気にとられたような表情を浮かべる。唐突な質問に驚いているのかそれとも他に理由があるのかは分からないが、何故か驚いた顔をされた。

「えっと、一ノ瀬くんにとって伊藤くんって友だち、じゃないの?」
「……良い関係だとは思ってる。だけど、なにを持って友だちって言っていいのかも俺にはよくわからないんだ」
「別に自分が友だちだと思ってるなら『友だち』て呼んでも良いんじゃねえの?」

 そんな当たり前のことをどうしてわざわざ質問するのか、とでも言いたげな表情の湖越。確かに、普通に生きているのなら悩まなくても良いことなのかもしれない。俺が普通の『一ノ瀬透』と言う人間であるのなら、疑問に思わなかったのかもしれない。けれど『俺』は少しだけ事情が違っていて、記憶と言う機能に障害があって、そんな俺のことを親友と言って笑ってくれる伊藤のことを思い出そうともしていない、そんな汚い俺が伊藤を『親友』と呼んでもいいのかだろうか。そんなことを考えてしまう。
 伊藤のことを『友だち』だと胸を張って言うことも出来ない記憶もない俺が、伊藤に踏み込んでいいのかもわからないのだ。
 伊藤の優しさに甘受しているだけならそれでも問題はないのだろうけれど、俺が伊藤のことを知りたいと我儘になってしまったがゆえにこうして思い悩むことになっているのだ。湖越の言葉に何も返せずにいる俺に、叶野はあえてなのだろうか、明るい声で俺に話しかける。

「まぁ、デリケートなことだしね、色々と事情あると思うしこの辺は俺はノー突っ込みでいきまっす!俺から振っといてなんだけどさ、傍から見たら一ノ瀬くんは伊藤くんとかなり親しい仲ではあると思うけど、一ノ瀬くんが聞きたいのはそう言うことじゃないんだよね?」

 ね?と少し首を傾げて人好きする笑みを浮かべながら、毒のない優しい口調で問いかける叶野に俺は頷いて返した。湖越はさっき言ったことを少し後悔しているようでばつの悪そうな顔で「……わるかったな」と謝られた。それには気にしてない、と意志で首を横に振った。

「一般的に友だちってなんなのか、てことだよね?ううん、それはそれで難しいことを聞くなぁ……」
「難しいのか?」
「うん。勉強と違って一つの答えじゃないからね。友だちの定理って人それぞれで違うから、人の数だけの答えがあると思うんだよ。なんていうか……感覚のようなもの?なんだよね」

 ……国語、のようなものだな。困った顔をしながら叶野が言うことを聞いて、第一にそう思った。国語が苦手な理由は数学のように一つの答えしかないのとは違って、感じたものを答えよ、と言ったハッキリしておらず、どこか曖昧なものだからだ。

「俺や誠一郎の答えが一ノ瀬くんの答えと限らないんだよね。それでもいい?」
「…………ああ、参考にさせてもらう」
「うん、了解!じゃああとでメールで教えるよ~」
「今答えるんじゃねえのか」

 少し考えて頷いたのにあとでメール、と言う叶野に間髪入れず湖越が突っ込む。俺も内心そう思ったので叶野の様子を窺う。叶野はてへ、と舌を出す。

「いやね、伊藤くんそろそろ帰ってくるかなって言うのぞみくんの細かなお気遣いと、一ノ瀬くんに偉そうなことを言ったけど自分の思う友人という存在をどう言葉に表すべきか考える時間が欲しいと言う本音が混じった結果ですよ」
「後者ががちの本音だろ」
「バレたかー。とにかく、放課後にでもメールするね、誠一郎もちゃんと送るんだよ!」
「おー、一ノ瀬の役に立つのか分かんねえけど、まぁ俺のなかで友だちってどんな存在なのかっていう質問の答えを一ノ瀬に送ればいいんだな」
「そうそう~、それでいいかな?」
「……ああ、ありがとう」

 二人の答えを思っていたよりも後になったが教えてもらえることにホッとした。いや、決して2人が意地悪をするとかそんなことは思っていないけれど、良い奴らだと思っているけれど、それでも俺が聞いていいものなのかそんなことをつい考えてしまうのだ。無意識に胸に手をやって安堵する。

「まだ食ってんのか。食い終わってるかと思ったわ」
「あ、伊藤くんおかえりー待ってたんだよー」

 丁度トイレから戻ってきた伊藤に叶野が声をかける。嘘つけよ、と伊藤は叶野の言うことを軽く流して弁当箱を開けた。いつも通り俺はみんなの会話を聞きながら、たまに質問に答えながら伊藤が作ってくれた弁当を食べ進める。甘めの卵焼きが最近弁当の中で一番好きだな、と自分の好みがわかった。また一つ自分のこと知る。
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