2.人間として。


「……で、ここにこの公式を当てはめる」
「こうか?」
「……ああ、正解だ。出来てる。ここまで出来てればもう次の授業は大丈夫だな」
「おお、サンキューな。……あー、俺にも出来るんだなぁ」

 伊藤は感慨深そうにそう言った。最初の頁から今やっているところまで教えるのは大変だった。伊藤が素直に分からないと言ったところを分かるまで付き合って教え続けた。伊藤も俺の言ったことを理解しようとしてくれたので俺も伊藤が理解できるよう頭を動かし続けていたので、正直疲れた。自分が勉強するよりも数倍はカロリーを消費した。
 自分が理解していることを人に教えるのはかなり難しいことだった。自分さえ出来ていれば問題がない、とはいかないんだと痛感した。よくもまあ、安請け合いをしたものだ。無知とは恐ろしい。朝の自分に言ってやりたい。そんな人に教えると言うことは簡単なものではないのだと。

 頭をフル回転し続けて徹底的に伊藤と向き合ったのでかなりの労力を使った、すごい大変だとも思う。……けれど、こうして分かっていないことを教え込んで、教えてもらってちゃんと理解出来てしかも自分自身の力で出来た、と喜んでいるのを見るのは気持ちがいいものなんだな。

「本当、ありがとうな。全教科出来る自信なんかねえけど、数学は特にわかんねえしそのうえ担当が牛島だからわかんねえところを聞きに行く気もしなかったからよ」
「……そうか」

 確かに牛島先生には聞きに行くのが骨が折れる気持ちになるのは仕方がない、としか言えない。あの教え方では……いや、教え方以前にあの態度では聞きにくいにもほどがある。伊藤を何故か怖がっているようなので、伊藤と仲が良いと言われている俺に対してはもう突っかかってくることはほとんどないが、ほかの生徒には相も変わらずなのだ。それを堂々と注意できる鷲尾はすごいと思う。間違っていると思うことには真っ直ぐな鷲尾はきっと素直な人間なのだろう。
 あんな態度では授業外で聞きに行く気もなくなってしまうのもわかる。まず教えてくれるのかも分からない。

「透、教え方うまいな。1日でここまで理解出来るなんて思いもしなかったわ。……ほかの科目も、頼む。数学ほどではないとは思うんだけど、まぁ頼むな」
「……」

 苦笑いで他の科目も頼む伊藤の顔は特に陰りはない。今度はちゃんと分からなさそうなところで声をかけれるよう精進しないといけないな、とは思う。教えるほうも省みる点があることを理解したけれど、他のところに俺の思考は持っていかれていた。それはクラスメイトに事件のことを聞こうとした俺に湖越の言った『伊藤本人から聞いた方がいい』のひとこと。
 牛島先生が異様なまでに彼を怖がっていて、周りの誰も彼もが笑顔で学校にやってきた彼を驚愕の目で見ていたこと。あまり学校に来ていない様子の伊藤。伊藤自身には何の陰りもなくて、むしろ何も気にしていない。
 いや、気にしなさすぎなのだ。一緒に登校したあの日だってあれだけ視線にさらされているのに何の反応もなくて、彼だけを見れば何もないただ生活しているだけなのだけれど、そう済ますだけではあまりにも彼の周りは異常だ。岬先生や五十嵐先生以外の先生の反応だって、牛島先生ほどではないにしてもどこかよそよそしくて、桐渓さんのように冷たく彼を見ている人だっていた。
 伊藤がなにかよっぽどしたのか、そう考えるのは道理だった。でもその考えを押し付けるにしては俺は随分と伊藤に優しくしてくれていて、そう思えなくて思いたくなくて、正直混乱している。
 ……周りはどうあれ、俺は俺の眼で伊藤のことを見よう、と決めた。周りのことばかり見ては伊藤の本質を見失ってしまうだろうから、伊藤は俺のことをちゃんと見てくれたから、だから俺も伊藤のことをちゃんと見よう、て思った。
 そう思ってはいてもやっぱり伊藤のことが気になったから今日聞いてみたんだ。何となく本人に聞いていいのか分からなかった。だけど湖越に正論を言われて『わかった』としか答えられなかった。湖越が言っていたことは正論ではあるけれど、正直ちょっとだけあと少しで聞けたのに、と我儘な気持ちになってしまった。素っ気なくなってしまったかもしれない。教えてくれた湖越にそんな態度をとってしまったことに今になってまた自己嫌悪に見舞われる。自分に嫌になってちゃぶ台に自分の額を乗せた。少し勢いをついていたせいでゴン、と鈍い音が響いた。

「お、疲れたか。悪かったな……ってもうこんな時間か!飯の用意してくるな」

 自己嫌悪に落ち込んで顔を上げたくない俺の頭を軽く撫でられたような感触のあと、目の前を立ち上がる気配を感じる。しばらくしてから顔だけを台所のほうへと向けると伊藤は冷蔵庫を物色していた。……まだ、俺は過去を思い出すことはなくて、思い出すつもりすらもない。段ボールにしまってあるアルバムすらも未だ見れてすらもいないのだ。
 そんな最低な俺だけど、それでも今日言う日をちゃんと生きると決めたから、罪悪感を持ちながらそうすることが罪だと自分を責めてもそれでも伊藤は笑ってくれるから今日も人間として生きている。俺を受け入れてくれた伊藤には感謝が尽きることはない。それこそ忘れてはいけないものだ。
 少しでも役に立てるのなら、と思って勉強を教えることになったが逆に自分が教わった。伊藤といればいるほど俺は人らしく生きているんだ、そう思える。

 俺のことを知っていてくれる伊藤だけれど、俺は伊藤のことをあまり知らない。言いたくないのならそれでいいと思っていた。朝もそう思っていた、だけど……こう、俺の知らない伊藤を話しているのをみると、変な感情が芽生える。
 気持ちいいとはとてもじゃないが言い難い、どちらかと言えば不快にも近いもやもやした何かが胸あたりに滞っている感じがするんだ。その胸に滞るものを解消するには伊藤のことを知ることなんだろうけれど、周りの雰囲気だとか今も俺に自発的に教えようとしていないのを見ると本人に聞くのが憚られた、だから他の人に聞こうとしたが、湖越に注意されてしまった。
 結局聞くことは出来なかった。でも、今冷静に考えてもやはり湖越の言ったことは正論だった……それに本人に聞くのが怖いからと言って他の人に聞くのは、間違っている気もする。少し冷静になった頭ならそう思えた。

 多分、伊藤は聞けば答えてくれるんだ。言いにくいことでも食い下がればきっと。でもそれはただの俺の我儘になるわけで、彼が言いたくないことを言わすのも間違っている。それは伊藤のことを俺が大事にしていないってことになると思う。俺のことを大事にしてくれる人にそんなことは出来ない。

 ……なんだかんだ言い訳を並べてみたが、結局のところ俺に聞く資格なんてない、と思っているから。
『一ノ瀬透』じゃない自分を少しずつだが受け入れられるようになってきたとは言っても、彼がどれだけ認めてくれたとしても、伊藤と親友だった記憶もない自分がそこまで踏み入っていいのかわからない。
 伊藤は優しいからそんな俺も受け入れてくれるのだろう。聞けば戸惑いながらも教えてくれるんだろう。分かっている。聞きたいのなら聞けばいい。伊藤のことを無視してでも聞きたいと言うのなら。そう傲慢になれるのなら。

「……」

 そこまで考えて、やっぱり俺は自分が気になるからと言う理由だけで伊藤のことを無視することは出来ないし、したくないと思う。伊藤の鼻歌が聞こえてくる、この間伊藤に聞かせてもらった歌とリズムがよく似ているのでその曲なのかもしれない。料理をしている伊藤はご機嫌に見える。それを曇らせるところは見たくない、な。

「……はぁ」

 溜息を吐いて、とりあえず、今日は聞かないと決めた。話の流れももうつかめないし、勉強を教えたことによっていつもとは違う頭の動かしかたをしたせいか俺の脳は上手く機能してくれない。また、自分が苦手とする国語の勉強も終えていない。明日は叶野たちとも勉強するのだし、当分は勉強中心となるだろう。
 せっかく伊藤が数学を理解してくれたのでそこで変に気を逸らさせても良くないだろう。問題は解決していないし、それを先延ばしているだけなのかもしれないけれど。だけど、湖越が言うには伊藤は悪くないって言っていた、真剣な表情で何かを知っているようにも見えた。湖越のあの表情も、気になるけれど。

 いつかは、ちゃんと聞こう。自分が優柔武断で弱虫で不甲斐なくて嫌になる、またひとつ溜息を吐いてちゃぶ台に額を打ち付ける。ゴンゴンと鈍く頭を打ち付けている俺を伊藤が心配して声をかけてくれるまでしばらく繰り返した。

――――

 野菜を切っていると居間の方から何度もゴン、ゴンと鈍い音が聞こえてくるのでどうしたのか、と声をかけてみたが。

「……ナンデモナイ」

 透は視線をこちらに向けることなくちゃぶ台に突っ伏しまんま、何故か片言でそう答えられた。何故か凹んでいる様子の透に首を傾げながらも大人しくなったので何も言わないことにした、きっと、あれだろう。俺にぶっ通しで数学を教えてくれたから疲れたんだろう。そう結論付けた。

 それにしても、無表情なわりには随分と行動のバリエーションは豊かなのは昔から変わらない。いたずらをされたらやり返すのも、理由は分からないけれど凹んでいるときに力なく項垂れているのも変わらない。やっぱり記憶が無くなったって変わらないところのほうが沢山あるんだ。目の前の透の存在がそう証明してくれている。

 こうして料理を振る舞うのも、もうすぐ両手で足りなくなるのかもしれない。

 透の家の冷蔵庫のなかやら食器の場所やらはきっと透より俺の方が知っている。一人暮らしも初めてで、自分への関心を持たないようにしていた透についつい甘やかしてしまう。と、言っても俺が甘やかそうとしても透も俺に悪いと思っているのか食器洗いとかしてくれるけどな。やっぱりしっかりしてるよな。

「……手伝えること、ある?」
「じゃあスプーンとか用意しといてくれ、もう出来る」

 あとこうして手伝えることを聞いてくるのは、なんだか微笑ましい。スーパーの野菜を物色するのにも透の勉強の教え方が上手すぎて珍しく集中して数学に齧りついていたので、時間をかけてしまったのは俺なんだから、気にすることはないとは思うが透がそう言ってくれるのなら、とその言葉に甘えて手伝ってもらう。
 さっさとチキンライスを卵に包んで、軽くサラダも用意したのを持っていく。透はスプーンとフォークと飲み物を用意してくれている。「さんきゅーな」と軽く言えば透は首を振って「……こちらこそ」と言う。この会話は毎回やっているが、まぁ良いだろ。
 オムライスを乗せた皿をわたすと、両手で大事そうに持って、無表情のその目を少し輝かせて見ている。いつも、俺の作った料理を宝物を見るかのような目で見るのは少々照れくさいが悪い気はしない。

 俺も座って手を合わせて「いただきます」と言って口をつける。俺は作っている方だから、美味しいとかそう言う感想はなくて大体計算した通りの味だな、と言う感想ぐらいしかないが。透の方を盗み見る。
 その小さな口をいっぱいに開けてその儚げな印象を受ける容姿とは裏腹に、男らしく雑に頬いっぱいに詰めて食べる。
 食べるときのその顔も無表情なのに、美味そうに食ってくれる。再会した日の夜や次の日の昼とかも食べている姿は見たけれど、本当に無表情に食べていて速さもゆっくりだった。今もコンビニの弁当を食べているときはここまで早く食べていない。
 一回「そんなにうまいか?」と聞けば頷かれた。鷲尾曰く透が前にいた神丘学園は金持ちの集まるかなりレベルの高い進学校らしいし、きっと俺の料理なんかよりも断然良いモノ食ってきたと思うんだが。
 それでも俺の料理も美味そうに食ってくれるのはうれしい。作っているほうからするとその食いっぷりはなかなか気持ちが良い。

「……ごちそうさま」
「おーおそまつさま」

 いつも俺よりも透の方が早く食べ終わる。サラダもしっかり食べているようだ。よしよし。

「オムライスは好きか?」
「……ああ」
「そうか」

 何か作ってほしいものがあるか、と最初に聞いたときに透は「なんでも」と答えた。詳しく言ってほしいと食い下がって聞いてみても困ったように眉を寄せて「分からない」と言われてしまった。出されたものをとりあえず食べてきた。何も考えずに食べれたし食べてきたから特に好きも嫌いもない、と。
 確かに人間らしく生きることを放棄してきたと言う旨のことは聞いたが、まさか食に関してもそんなことになっているとは予想もつかなかった。透がそこまで自身を責めていたことに胸が締め付けられる痛みとともに周りの人間たちに対して苛立ちも覚えた。

 どこまで透のことを見ていないんだ、どうして透をそこまで追い詰めるんだ。

 小学4年生なんてまだまだ小さな子どもで、守るべき存在であるのに、記憶を失って不安定な心をズタズタに傷付けて、まだ10歳になるかならないかの人間に全てを押し付けて、『自分』を文字通り殺して、生きることすらも諦めて、自分の好きな食べ物も分からないそんなふうにさせて、なにがしたいんだよ。
 悲しくて仕方がない。透が、俺に恐いのを我慢して自分のことを教えてくれた時と同じぐらい痛かった。
 傷ついているのは透なのに透は自分自身の痛みに気が付いていないようで、むしろ痛みで歪んだであろう顔をしていた俺を心配そうに見ていた。そんな透を見て、正直激高しそうになった。
 どうしてそんな普通の顔をしているんだ、どうして痛いのはお前なのに俺の心配をしているんだ、とそう言いそうになった。だけど気付いた。
 今の透は何が悲しいのか苦しいのかがいまいちわかっていないんだってことに。第三者で言う当たり前のことを透は知らずにいたからだってことに。ずっと、悲しくて苦しいなかにいたから。普通の人なら知っている記憶を失う前まで当たり前に貰っている優しさを知らず責められ無視され、ときとして暴力も受けたと聞いた。
 俺に吐き出したのを聞く限りされてきたことへの苦しみだとか辛さをやっと自覚出来た。何が好きか嫌いかも、透はいまいちしっくり来ていないのは知らないからだ。誰も透のことを求めず認めず、そんな扱いを受けてきた。「なにを食べたい?」て誰も聞いてこなかった。聞いてくれなかった。気にかけてくれる人は、いなかったんだ。

 あのときの、俺みたいに。

 心配そうに俺を見る透をあえて無視をして言った。下手くそな笑顔を作って「じゃあ適当になにか作るから、それを好きか嫌いかだけ教えてくれ」と言ったのだ。

 今日まで透が前に好きと言っていたものやこれはどうだろうか、思ったものを出してみた。最初に作ったハンバーグや今日作ったオムライスは前から好きといっていただけに好評だ。食べるスピードも早いので案外分かりやすい。逆に辛さが目立つ麻婆豆腐などはゆっくり食べるし飲み物もたくさん飲む。「どうだった?」と問えば「……うまい」と答えてはくれるが、それはきっと俺が作ってくれたのに嫌いと言うのは、と考慮しているだけだ。我慢して食べさせたいわけではないから言ってほしいのだが、まぁそんな謙虚なところも透らしいと言えば透らしい。

 どうも刺激物は得意ではないようだ。食べると痛いとは教えてくれた。昔から変わらない理由だった。確かにうどんを出しても唐辛子をいれないし刺身にワサビはほんの少しだけしか入れないところを見ると辛い物は嫌いと言う俺の考えは合っているんだろう。そうなると中華料理の一部と韓国料理は苦手になるだろう。辛いものが多いしな。

 時計を見ると8時半を少し過ぎたところ。これ食ったらお暇するか、と考えながら食べていると皿洗いと風呂を沸かし終わった透が戻ってきて窓を開ける。雨の様子を見たかったみたいだ。家に入った瞬間に土砂降りだった雨も今は小さい粒になったようで、音もたいしたこともなくこれなら帰れるだろうと思い『これ食ったら俺帰るな』と言おうとした瞬間。

「……」
「……」

 まるで透が窓を開けるのを見計らったかのように、小さな音しかしていなかった雨がこの家に帰ってきたと同じぐらいの大粒の雨が降り始める。本当に一瞬の間に雨の降り方が変わったことに驚いて絶句した。それはきっと透も一緒だろう、窓の外の様子を見たときのまま固まっている。

「……泊まっていくか?」
「……そうさせてもらうな」

 透の言葉に甘えることにした。透の言葉すらも聞き取りにくいほどの雨の中帰りたいとは思えなくて、透の提案はとんでもなく有難くてなにも考えず頷いた。


 後片付けも終わり、風呂に入らせてもらってもうあとは就寝するだけになった。俺が風呂に入っている間も透は勉強しているようで、数学ではなく国語の教科書を見ている。集中しているせいか、俺が上がったのに気が付いた様子はなく特に何も感情を映すことなくその顔は教科書に注がれている。……さっき、何故すぐに透に聞かなかったか。どうしてだか俺にも分からない。
 透が言っていたように分からないところがあればすぐに聞けばよかったのに。言い訳になるが、最初はちゃんと聞こうとはした。本当は教科書を開いてすぐにやべえと気付いたのだ。割とすぐ、序盤のところで。けれど、透はさらさらと何の淀みもなく苦戦する様子もなく解いているのを見ていると、何となく自分が場違いな感じがした。

 それが……なんつうか、恥ずかしくなったんだ。

 幼いころから透と俺の頭の良さは全く違っていて、透の頭はとんでもなく良くて俺の頭はとんでもなく悪いことぐらい、分かっていた。分かっては、いた。だがここまで差を見せつけられてしまうと、少し意地を張りたくなった。なんとか一人で解こうと思って透に教えてもらうと言ったのを忘れて自分自身の力だけでやるのに躍起になった。
 まぁすぐに透に見破られて白状させられたが。何となく自分が汚い存在に思えて、後ろめたくて怒っているであろう透を予想してしまって目を合わせられなかったが。

『……分からないところがあったら、言ってほしいのに。そうじゃないと、教えられない』

 と、どこか拗ねた色をした声で透が言うものだからバッと顔を上げて透の顔を見た。少し寂しそうにも見えたその表情は胸が苦しくなった。沸いてはいけない感情が湧き上がってしまう気がしてこれ以上見てはいけないと思いつつも見てしまっていた。そのあと何故かすぐに謝られてしまったことに驚いて、湧き上がる前に終わってくれたのに安堵した。
 最初にお願いしたとおり、何とか透に教えてもらうことになって、とんでもなく分かりやすかったうえ、何度同じ質問をして透が答えてくれても俺は要領を得ず、首を傾げてしまう俺に透は根気強く教えてくれた。
 きっと透からして初歩的なことで、担当教師である牛島に聞けば馬鹿にされてしまうぐらい序盤の問題なのに透は何とか俺の目線に立って俺が分かるように挑戦し続けてくれた。何度も言い方を変えて俺を理解させようとしてくれた。ぶっちゃけ言うと、俺の学校の行っていなさは高校どころか中学も共通している。
 透にはあまり言いたくないが、今もまぁ素行が良いとは言えないんだろうが、中学のときはその倍以上酷いもので、売られた喧嘩はなんでも買っていたしここまでしなくてもいいだろうと今なら思えるぐらいの暴力行為をしていたこともある。教師どもも岬先生や五十嵐先生のような人なんていなくて、家族には何の期待もしていなかったものだから、同学年はおろか大人も全部が俺にとって敵以外の何物でもなく学校に行く意味も見失っていたから、正直変化のあった最後の半年ぐらいしかちゃんと行っていない。
 高校も行くつもりは本当はなかったが、とりあえず行っておけと透の両親以外で初めて出会った信頼出来る大人の人に言われたから渋々定員割れしたこの水咲高校に入学した。色々ごちゃごちゃ並べたが、とにかく俺はほとんど中学校にも行っていなかったので、勉強はからっきしだ。きっと普通なら中1から習わないといけないレベルだ。
 本当ならいくら教師と言う立場でそれが岬先生らのような人でも、俺のことを教えるのはかなりきついだろうな。中1の問題から見つめ直さなければならないのだから。なんで透に頼んでしまったんだろうと頭の悪い俺でも後悔した。それでも透はあきれた様子も馬鹿にした様子も見せずに真剣に打ち込んでくれた。
 透も教える側になるのは初めてのようで言い回しがぎこちなく少しだけ苛立った様子を見せたのは俺にではなく上手く教えられない自分に苛立っているのが分かって申し訳なく思う。透が真剣だったから、俺も真剣に理解しようと思った。なぁなぁで終わらせるんじゃなくて恥も捨てて分からねえところを遠慮なく聞いた。ようやく理解して、解けたときの爽快感はすごいものだった。透も嬉しそうだった。

 透が教師であれば、きっと良い先生になれるんだろう、そう心から思った。

 最初に感じていた不貞腐れた気持ちは吹っ飛んで、疲れたであろう透に料理を振る舞うべく台所へと向かった。さっきまで教えてもらう前に感じた情はどこかに消えてしまっていたのだが、1人教科書に熱心に見ている透の姿に今また復活している。

 自分のことなのに首を傾げた。なんだろうか、何故だろうか、どこから生まれるんだろうか、この感情は。綺麗か汚いかと聞かれれば汚い。どす黒いもやもやが胸に住んでいるようだ。何故、透はただ1人で勉強しているのを見ただけだろう。それなのにどうした、この感情は。

「……ん?あがったのか」
「あ、おう」

 自問自答していると透は俺に気が付いて教科書から目を離して顔を俺に向けた。目が合うと、少しだけ胸のなかの影が晴れたような気がした。俺の感情とは真逆に透はくあ、とのんびりと欠伸をした。生理的に溜まった涙を拭っている。

「そろそろ寝るか」
「……ああ」

 チラッと俺の姿を一瞥して押し入れから毛布を出して俺に手渡してきた。そういえば週末に1回透の家に泊まったが、明日も学校がある平日の真ん中で泊まるのは初めてだな。なんとなく駄目なことをしている気がしておもしろい。

「寝るか、明日も学校だしな」
「…………そうだな」

 いつもよりも少し長めの沈黙のあと、やっと俺の言葉にうなずいた。電気を消すために立ち上がる透を俺はなにも考えずに見ていた。さっきのような感情はもう生まれない。けれど、今日少しだけ感じていた疑問が今また生まれた。
 今日の透は俺になにか聞きたいことがありそうな雰囲気があるのだが、どこか言い淀んでいるようだった。待てばいつか聞いてくれるだろうか、それとも今俺が聞いた方がいいのか、とか考えたのだが、明日学校もあるのに今も結構遅い時間で透も(俺もだが)勉強をして疲れたんだろう、夕飯を食い終えた後透はいつも以上にぼーっとしているし口数も少ない。聞かないでいるべきか聞くべきかを考えるのも明日することにしよう。時間は、たくさんあるんだから、焦ることもない。

「おやすみ、透」
「……おやすみ」

 そう声を掛け合って透は布団の中、俺はその辺で毛布だけ借りて座布団を二つ折りにして枕代わりにして横になった。普段なら耳障りで眠り難くもなる酷い雨の音も疲れた脳には関係なく、すぐに眠りについた。

「……どこまで、行ってもいい?どこまでなら、伊藤のなかに行っても…大丈夫、か?」

 雨音にかき消されてしまうぐらい小さな声で透がそう俺に聞いていたのを、知る由もなかった。


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