2.人間として。

『俺らが勝手に教えていいものなのか判断がつかなくてな』

 伊藤のことについて教えてくれないのか、と問う一ノ瀬に俺はそう言った。そして伊藤本人に聞いた方が良い、と続けた。一ノ瀬は俺を見つめた後、納得したのか正直どう思ったのかも分からないいつも通りの無表情さで『分かった』とそれだけ言って立ち上がった。先生のもとへ向かおうと一ノ瀬は俺のとなりを横切った、俺も後を追うようにして歩き始めた。

 さっき自分が言った言葉を繰り返し脳内で反芻すしてみる。……上手い言い訳だな、自分を嗤った。
 結局自分は我が身が可愛いだけだ。ああ言えば俺は伊藤のことを考えて言わないでいるのだから自分はこれ以上聞くべきではないだろうと相手に思わせるには充分だ。自分が言ったことで誰かが傷つくのが恐いだけだ。
 その俺が恐いと思う理由も、俺が正直にあの事件について一ノ瀬に言って、2人の友情にヒビが入ることではなくて『伊藤は何も悪くない梶井がすべての元凶』だなんて俺の口から言いたくない、それだけなのだ。
 そう言ってしまえば俺が認めなくてはならない気がして。記憶の中の梶井があの梶井と同一人物なのだとどうしても認めたくなくて。でも梶井のことを知らない誰かが梶井のことを言うのは許せなくてそのくせ自分も言いたくなくて、結局一ノ瀬が伊藤意外のだれにも聞かないほうが良いとそう誘導したのだ。なんて醜態な様なのだろう。突き付けられるのが嫌で誰かが梶井のことを言うのも嫌で、自分が傷つくのも嫌。なんて醜いんだろうか。

 前を歩く一ノ瀬を見る。顔が綺麗なだけではなく背筋をピンと伸ばしてしっかりと歩いている。その背中は俺よりも細いのに、その真っ直ぐに歩くさまは大きく見えた。……転校してきた日はどこか自信が無さそうで儚い印象だったのだが、昼休み戻ってこないと思ったら伊藤とともに早退して、次の日登校してきた一ノ瀬の雰囲気はずいぶんと変わっていた。
 無口で無表情なのは変わらないし、どこが変わったのか昨日今日の付き合いでは分からなかった。希望も不思議そうにしていたが、日の浅い付き合いなので踏み入るつもりはなくてそのまま流した。ただ、初日に比べて伊藤にしていた遠慮が少なくなっていたのは分かった。最初の内はあの伊藤が誰かと一緒にいてかつ笑っているなんて、とか色々と気になってはいたが非日常も1ヶ月も同じように続いていれば日常へと変化するものらしい。
 今ではたまに話題になるぐらいで気にする人はもういない。あれだけ伊藤といることで視線にさらされても一ノ瀬は気にせずに隣にいて話している。その2人の姿はいつも楽しそうに見える。
 あの伊藤といる一ノ瀬がすごいのか物凄い美形といる伊藤がすごいのか、という話題がちょくちょく開かれ始めている。ちなみに未だに答えは出ていない。いつまでも平行線である。

 ……俺は、もし希望がまたあのときと同じ繰り返しになるとするのなら、黙っているつもりはない。俺に話しかけてくれて俺の罪を受け入れてくれた。そんな希望を見殺しに近いことなんてしない。あのときも同じ学校だったらあそこまで希望が追い込まれることなんてなかったのに、あのときもっと話を聞いてやればよかった。
 そんな後悔はもうしたくなかったはずなのに、どうしてまた俺は同じ後悔をすることになったんだろう。

 言い訳にしかならないが、それはもうタイミングが悪かったとしか言いようがなかった。いつも俺はタイミングが悪くて、そのせいで梶井だけでなく希望にも自責の念を抱くようになった。希望は気にしなくていいと言ってくれたが、決めたのだ。大切な親友だから、もう傷付けられるのをもう見たくない。だれが何を言っても俺だけは希望の味方であろうと決めた。

『僕のことはもういらないんだね』

「……っ」

 脳内で響いた声に鳩尾付近をグッと抑えられたかのような痛みに吐き気まで催してきた。胃を片手で抑えて立ち止まる。背中に汗がじわりと滲んできたのが分かる。前を歩いていた一ノ瀬が振り向く、俺の足音が止んだのに気がついてのことだろう。無表情ながらもどこか悪いのかと言わんばかりに静かに灰色の瞳が俺を映す。
 冷たく見えるはずの無表情に無口さなのに意外にも一ノ瀬の瞳は優しい。穏やかと言うべきか、あまり見慣れない灰色の目が感情的に揺れることもなければ冷徹と言うほど冷たくもない。常ならばその瞳になにかを思うことはないのだが、今はその眼で見ないでほしい。

 自分が『汚いモノ』に思えてしまうから。

 一ノ瀬の視線に気が付かないフリをして、横切ってみんなの集まるところへと歩いた。脳内に響く梶井の声も、現在進行形で感じる一ノ瀬の視線にも、裏切った罪悪感からも目を背けて。いつだって俺は自分が傷ついてしまうことを、何よりも恐れているんだ。

――――

 後ろを歩いているはずの湖越の足音が止んだのでなにかと思って後ろを振り返ったが、すぐに湖越は横切って行ってしまったので首を傾げつつも俺もみんなのもとへと向かった。このあと体育は雨が降ることなく終わり、昼休みに少し雨が降ったものの帰りには止んでおり持ってきた傘が無駄になったな、と思った。
 体育のとき違和感のあった湖越だったがそのあとは特になにもなく、俺の気のせいだったのだろうかと思い始めてきた。帰りのHRも終わって伊藤と話しながら帰りの支度をする。……ああ、そう言えば。
「今日から勉強するか?」
 朝に勉強教えてほしいと伊藤に言われたのを思い出してそう聞いてみる。まだ二週間あるが、俺は今日から予習復習を最近していなかったので勘を取り戻すついでに少しずつやっていこうかと思っていた。あまり本格的にテスト勉強はまだするつもりはなく国語と数学を持って帰ってやるつもりだ。
 伊藤は少し考え込むようなしぐさをした後。
「あー……そーだな。やるわ、頭の出来悪いけどよろしくな」と頷く。少し嫌そうなのはあまり勉強をしたくないからだろう。何持って帰るかな、と机のなかをものを引っ張り出しているのを待った。
 教科書とノートをいれて重さを確認するため軽くバックを持ってみると重く感じた……前の学校のときはちゃんと毎日教科書持って帰っていたときは特になにも思わなかったが、たった二科目いれただけで随分と重く感じたのは少し情けなくも思う。だが一回置いて帰るのを知ってしまうと、バックが軽くて楽過ぎてもう戻れない。前と違って勉強しかすることが無い訳でもないしな……そう自分に言い聞かせた。

「2人は今日から勉強するんだ?えらいな~…あっそうだ。明日放課後空いてる?良かったら俺にも勉強教えてほしいな~」

 俺らの会話を聞いていたらしい叶野が感心しながら少し眉を下げて人懐っこい笑顔で手を合わせてお願いされる。特に断る理由もないので頷けば、ぱあっと全開の笑顔で「ありがとっ」と言われる。叶野は表情がコロコロ変わる。不思議だったり困ったようだったり、驚いたり笑ったり。笑顔のバリエーションも豊富だよな。さっきみたいに困ったようにしつつだったり嬉しいときは全力の笑顔だ。
 見ていて飽きない上に多分距離の取り方も上手いのだろうとも思う。叶野がさらっと会話に入ってくることに戸惑うことはほとんどない。

「じゃあ明日は俺と一ノ瀬くんと、たぶん誠一郎と……俺の勘だと鷲尾くんも入りそうだから、伊藤くんも入って5人で勉強会だね!」
「何気に自然と俺をいれたな。何も言ってねえのに」
「えっ一ノ瀬くんがするんだもん、伊藤くんもするっしょ?」
「……まあな」
「でっしょー」

 サラッと頭数にいれられた伊藤は叶野に突っ込みを入れたが、逆に俺がいるのだからするのは当たり前と言わんばかりの表情で断言した。突っ込みを入れたものの断るつもりはないようで頷いた伊藤に叶野は得意げな顔で頷いた。最近俺と伊藤がいることがワンセットとして扱われることが多い気がするが、気のせいだろうか。確かに行動を共にしている方が多いので否定するつもりは毛頭ないが。……俺と伊藤がそんなに仲が良いと思われているのなら少し照れくさい気もするが伊藤からすると不快ではないだろうか。そんな考えが過る。
 ……でも今の伊藤を見る限りそんなに不快だと思われてはいないようなので安心する。どうも今のところは伊藤が誰かといることが物珍しいと思うほうが勝っているようなので、こうして面と向かって言うのは叶野ぐらいか。叶野も普段湖越といるしな。……そう言えばいつもなら叶野の隣にいるはずの湖越がいないな。

「……湖越は?」
「ん?誠一郎は今日バイトだから先に帰ったよー。俺も今日は他のやつと遊びに行くしね」
「……そうか」

 バイトをしているとどうしても会わない日は出てくるのか。叶野と湖越はよく一緒にいて、細かい話は知らないけれど互いに名前を呼び合っているし、互いの空気が慣れ親しんでいるのが分かるぐらい2人が話しているときの表情は穏やかなものだ。てっきり親友とは常に一緒にいるものだと思い込んでしまっていたが違う形もあるらしい。俺と伊藤が離れるのは伊藤がバイトのときぐらいなものだ。

「おーい、叶野行こうぜ」
「おう!じゃあ2人ともまた明日ね!」

 他のクラスであろう生徒が叶野を呼んだ。それに反応して叶野はカバンを持ってバイバーイ、と俺らに手を振って別れた。手を軽く振り返してそれを見送る。

「叶野は相変わらず人気者だな」
「……良い奴だもんな」
「俺と進んで話すのってあいつぐらいだったしな。とりあえず今日は数学教えてもらうことにするわ。一番出来ねえ自信があるし」
「……一科目でいいのか」
「地道にやると言うことにする。とりあえず透の家そのまま行くわ。さ、帰ろうぜ」

 一気に詰め込み過ぎてもちゃんと身にはならないだろうし、まだ2週間あるのだしゆっくりやっていけばいくのもやり方の一つか、と納得して教科書を詰め込み終えた伊藤が帰るのを促すのに頷いて教室を出た。右肩に背負ったスクールバックが重たかったが我慢する。
 正直授業以外で勉強をするのも久しぶりのことであり、誰かに勉強を教えるのはおろか一緒に勉強するなんてことも初めてのことだ。少し緊張するけれど、それと同時に楽しみである。
 今の今までずっと1人でいて、何かをするしないにも関わらず特に楽しいとも苦しいとも思ったことなんてなかった。だけど伊藤と行動をするようになって、分かり合って誰かと共感する楽しさを教えてくれた。
 初めて遊びに行ったのも楽しかったし、同じ空間でなにも話さなくても誰かといるのは嬉しかった。俺の話に相槌を打ってくれるのも嬉しかった。今までと比べて俺の視界は色鮮やかなものになった。
 誰かとご飯を食べたり明日を楽しみにしながら就寝したり、当たり前のように挨拶を返してくれる今がとても楽しいんだ。だから、きっと勉強も伊藤とすれば楽しいと思う。ちゃんと教えられるよう頑張ろう。そう内心意気込んだ。

――――

「叶野ってさ、一ノ瀬とも仲良くなった感じなん?美形な上にあの伊藤とよく一緒にいるとかいう転校生とさ」
「えっ」

 一ノ瀬くんたちと今日の別れを済ませて隣のクラスのやつと合流してすぐにそんなことを聞かれて思わず驚いてしまった。1人がそう聞いたものだから俺に一ノ瀬くんのことをガンガン聞こうぜ、と言う流れが出来てしまった。あああみんな目が好奇心の満ち溢れていらっしゃる。
 いや、確かにね。他のクラスの人からすると一ノ瀬くんに話しかけづらいのも分かるよ。人生の中で一度も染めたこともない艶々の黒色の見るからにサラサラな髪に女性的とも男性的ともとれる中性的で彫刻かのように整った顔に毛穴ひとつないようにも見えるきめ細かい白い肌で、とどめにあまり見たことのない灰色の瞳をしているからね。
 下手なアイドルよりも話のかけづらい存在なんだろう、と言うのも予想は出来る。しかも伊藤くんと頻繁に一緒にいるからね……クラスメイトでさえも最近になってようやく慣れて来て、一ノ瀬くんに話しかけられるようになるぐらいのレベルだから。

「仲良く……なったのかなぁ……どうだろう」
「分かってないんかい!」
「いやね、一ノ瀬くんって伊藤くん以外には平等というかなんというか……」
「びょうどう?」

 苦笑しながら頷く。一ノ瀬くんだけではなく、伊藤くんとも正直仲良くなったと言うよりもやっと打ち解け始めたと言う方がしっくりくる。2人はよく一緒にいて互いにきっと無言でも居心地が良いんだろうな、と言う空気感を醸し出していている。
 それは決して第三者をいれたくないと言う閉鎖的で攻撃的なものでもなくただただ穏やかで、実際俺が会話に入っても迷惑そうな顔はされたことはない。……一緒にい過ぎでは?と思うときもあるけれど。一般的な男子高校生はいくら親友と言えど一日のほとんどを毎日のように、共にすれば嫌にもなるんだろうけど2人にはそれがない。
 一ノ瀬くんがやってきた初日にあった妙な空気は次の日にはどこかへ消え失せて首を傾げた。やっぱり一ノ瀬くんは上の名前で呼んで伊藤くんは下の名前で呼んでいるのは少し疑問には思うけれど……俺が踏み込むところではないと言うのは分かる。互いの存在が特別、というのは分かる。そして互い以外に対して穏やかに平等に接しているのも分かる。
 たぶん一ノ瀬くんからすると俺も誠一郎も鷲尾くんもたぶん先生も同じ世界線にいて悪人善人の境界線もないんだろうな、と思えるぐらいの澄んだ瞳をしていて、その目に自分が映るのが正直恥ずかしい。照れる意味ではなくて、自己嫌悪的な意味である。汚い俺を見ないでほしい。

 俺は確かに話しかけていて一緒に行動をともにするのも多くはなったけれど、それが仲良くなったんだと周りに言われるとつい首を傾げてしまう。……正直、これから遊びに行く彼らのことも、『友だち』と自分から呼ぶには恐怖がある。
 あーあ。あれから随分と俺は臆病になっちゃったな。小学生のころだったら『友だち』と言い張れたのに、今ではすっかり臆病者だ。そのくせして誰かの輪に入りたいと思う自分に嫌気がさす。

「?叶野?」
「っ人のことを気にしているそんな優しいきみたちは、勉強してますか?!テストまであと二週間ですよ!!」
「うおっ唐突に的確に心に刺さるを言いやがってっ」
「叶野、てめえ!」

 考え込んだままなにも発さない俺を訝しんで名前を呼ばれて驚いたままに変な口調でそんなことを聞いてしまった。耳をふさいだり、心臓を辺りを抑えながら呻く彼らを笑う。そして道化を演じる自分を嗤った。うまく答えられないからって皮肉気な言い方で気にしていることを言い放つ自分への自己嫌悪からである。

「勉強してた?」
「いや……やべえなぁ、いや、まだ二週間あるし、うん」
「だよな!一週間前から勉強し解けば余裕だろ!」
「……俺には一夜漬けの未来が見えるなぁ」
「うるせえ!」

 話題はさらっとテストの話題へと流れていった。一安心したけれど、さっきの話題ほどではないにしても俺にはあまり心象はよくはない話題でもあった。

 ……うん、ここは公立だから、そこまでテストの順位なんて気にしなくていい。それでも用心するに越したことはないけれど。大丈夫。前とは違って誠一郎もいる。俺のことを味方になってくれる人がいるから、だいじょうぶだいじょうぶ。何度も自分にそう言い聞かせる。色んな人と一緒にいて、いろんなひとに絡んでいって俺はきみのことを知りたいな、と優しい顔を繕っても、結局俺の心は変わることはないようで苦しいままだ。なにも、変わっていない。恐怖をひたすら隠すのは結局それから逃げているだけなんだって。
 分かってる、分かってはいても、これを変えられる方法を俺は知らない。いつになれば抜け出せられるかな。

 笑みを浮かべて『仲良くしてくれる人』に話を合わせて俺が求められているキャラを演じて。こんなに誰かに媚びを売る自分が虚しい気持ちで遠くで見ていた。

 作り笑いばかりの俺には、だれのことを気にせず自分が思ったほうへ真っ直ぐで1人でいることも苦ではないように休み時間も勉強している鷲尾くんの姿が、とんでもなく眩しかったんだ。今日だってHRが終わればさっさと帰って行った。誰とも話さず認めたであろう一ノ瀬くんにすらも別れを言わずに。俺の見送る視線にも気が付かずに。

 背筋をしっかりと伸ばして教室を出ていく鷲尾くんの背中が、どうしてか広く見えたんだ。

――――

 このまま夜も食べるからだろうから、と伊藤とともにスーパーに寄った。
「まだ卵も米もあるし、オムライスにでもするかー」
 そう言いながら野菜を吟味する伊藤。俺から見るとすべて一緒に見える野菜でも伊藤から見るとまったく違うのだとか。確かによく見れば違いも分かるが俺一人なら気にもしないだろうな……。伊藤がこうなると結構な時間がかかるが、さらっと俺の家の冷蔵庫のなかのものを言えるぐらいには伊藤は俺の家によく来ては飯を作ってくれる。
 料その料理もかなりおいしいので俺は文句も言わず静かに伊藤の吟味をとなりで買い物かごを持って待つ。もちろん食べさせてもらうだけではなく料理の手伝いもしているし、食事を終えたら皿洗いもするけれど、世話をしてもらっている感はどうしても否めないしこれもおいしさの一つでもあるんだと思うし、何より買い物をする伊藤が楽しそうなのでそれを否定する気もなれなくて、かなり時間を費やしても伊藤の楽しそうな顔をとなりで見ているだけで俺も面白いので時間が経ったように感じない。

 結局1時間と少しが過ぎたころに漸く買い物を終えて帰路に着いた。

「……またやっちまった。悪いな、透」

 雨は降りだしていないものの、相変わらずいつ降ってもおかしくはない曇天の空に振り出す前に帰ろうと気持ち早足で俺の家へと向かう。時間を費やしてしまったことに肩を落として落ち込んだ様子の伊藤。それに首を振って気にしていないことを伝える。

「料理、好きだよな」

 今までやったことのない家事に四苦八苦する俺を見兼ねてちょくちょく俺の家のことを手伝ってくれる面倒見のいい伊藤だが、料理は真剣さが違うように感じる。キャベツの千切りを普通に俺と話しながらやっていたり、卵を普通に片手割ったりするところを見る限りかなり手馴れている。
 前の家で同じものを食べても伊藤の料理の方が美味しいと思った。いや、前の家のときはちゃんとした料理人が作っていたし決して不味いと思ったことはないが、そこはたぶん俺の好みの問題なのだろう。そもそもあのときは味を楽しむ余裕もなかったからどんな味かも覚えてはいないけれど。

「まあな。和洋中一通り趣味も兼ねてだがバイト先に叩きこまれたからな。カレーもスパイスから作れるぞ。」
「……器用だな」

 伊藤のバイト先は飲食店なのか。しかもキッチンのほうか。少し意外だが料理人は結構力仕事と言っていたし、向いているのかもしれない。ホールにいて注文を聞いたりする接客よりも、ひたすら料理を作っている方がイメージにも合っている。髪の色もキッチンなら関係ないしな。

「料理なんてレシピ通りにとりあえずやっときゃ誰でも出来るって」

 少し照れたように鼻を擦りながらそういう伊藤だが、普通の男子高校生は卵を両手で割るのも一苦労だと思う。謙遜する伊藤に思ったままを伝えた。

「……それって、伊藤は教科書が無くても出来るってことだよな。それは俺には出来ないことだから、やっぱりすごいことだし格好いいとおもう」

 俺は確かに勉強は出来る方に入るのかもしれないが、料理とかしたことがなくて正直学ぶ興味もなかった。自分が料理をする想像すらもしてなかったのに、伊藤はさらっと出来た。それを自慢するでもなく当然のようにやっていて料理を頬張る俺にうまいか、とだけ聞く伊藤は格好いいと思う。
 お世辞でもなんでもなく伊藤が当然のように料理をするのと同じように、俺もすごいと思っていたことをつげただけだ。

「……」
「……?」

 突然立ち止まってしまった伊藤にどうしたのか、と俺もすぐに立ち止まる。今日はどうして一緒にどこかに行こうとするとみんないきなり立ち止まってしまうのか。鷲尾然り湖越然り本日三回目である。『本日はあなたと一緒にとなりを歩く人は突然立ち止まるでしょう』とかそういう運勢があったのだろうか。いや占いとかあまり見たことないからどんなことを言うのか知らないが。
 しばらく伊藤の様子を見る。

「……っ」
「……!?」

 顔が耳まで赤くなったかと思ったらそのまま走り出してしまった。突然のダッシュに驚いて声をかける暇もなかった。しかも俺の前髪が揺れるほどの猛スピードで、驚きから戻ってきたときにはすでに伊藤の背中は見えなくなっていた。俺も走って伊藤の後を追いかけた。
 今日体育もあってペースも何も考えていない全力疾走を見る限り、そこまで遠くにいってはいないはずだ。俺の家の方へと走って行ったので最悪そこにいるんだろうと根拠もなくそう思った。しばらく一本道を走った。案の定体力的に苦しくなったようで電柱に寄りかかって苦しそうにしている伊藤を見つけた。

「ゲホゴホッ…ハァ、ハァ……」
「……大丈夫か?」

 呼吸が整わないようで背中を擦った。触れた瞬間何故かビクッと背中が震えていたが、たぶんいきなり触れられて驚いたんだろう。今度またこういうことがあったら触ると言ってから触れようと決めた。

 伊藤の呼吸が整うのを待って、呼吸が落ち着いた頃に家へ帰る。俺が鍵を開けて伊藤がドアを閉めて鍵を閉めたと同時に、ザーと室内でも外の音が聞こえるぐらいの大雨が降った。
 窓を開けて外を確認すると大粒の雨がこれでもかっていうぐらい降り注いでいるのを確認できた。朝からぐずついた空だったが体育のときには降らずに昼休みに少し降ったが帰るころには止んでいて、それでも雨はいつ降ってもおかしくはない空模様だったがまるで俺らが家に入ったのを確認したかのようなタイミングで降り出した。窓を開けていると雨が入ってきた。閉め切ってしまうとエアコンのないこの家では蒸すような暑さが襲ってくるので少しだけ開けておくことにした。少しでも涼もうと思って扇風機を付けた。

「すげえ雨だな」

 土砂降りの雨に嫌そうな顔をしながら窓の外を見ていた。そんな伊藤とは逆に俺は少しだけ心が躍った。今まで何とも思わなかったけれど、雨の音を聞くのが好きだ。音がすごいなか家にいるのって何となく心が躍る。外にいるときに降られるのは嫌だが、家にいるときだけは嫌いではなかった。
 とは言え限度と言う物もあるが。このアパートはお世辞にも綺麗とも言えずどちらかとも言わずともボロいのである。雨漏りしなければいいな……。


 まだ夕飯にするには早すぎる時間であり、伊藤曰くオムライスはそこまで時間もかからない料理らしいので準備するのも早いので、予定していた通り勉強をすることにした。俺がカバンから持って帰ってきた教科書とノートを取り出すと伊藤も嫌そうな顔しつつも数学を取り出した。

「あー…本当に俺、頭悪いからな。たぶん透が嫌気さすぐらい。しかも数学は一番不得意だからな……」

 嘆きながらもやる気はあるみたいで教科書を広げ始める、嫌気を指すことはないとは思うが授業でやる範囲内なのだし、そんなに難しいものでもないからきっと大丈夫だろう。そう思いながらも何も言わず頷いた。
 とりあえず最初の内は互いに自分の勉強することにして「分からないところがあったら遠慮なく言ってほしい」と伊藤に伝えて俺も教科書を広げた。


 しばらくページを捲る音とノートに書きこむ音が誰も話していない部屋で雨の音の合間に微かに聞こえる。伊藤が数学をやっていたので俺も数学を軽く復習してみた、鷲尾が言っていた通り俺が前にいたところは結構頭のいいところだったみたいで今授業で習っているものは中学のときにはもう習っているところばかりだ。
 勉強は日々やっていないと忘れてしまうこともあると聞いたが、皮肉にも記憶力がよく覚える容量も俺には多めに出来ているようで公式などもすぐに当てはめられた。数学はそこまで心配はないと言うのは分かった。この分なら問題は無さそうなので国語を中心にやっておいたほうがいいのかもしれない。漢字の書きなどは大丈夫でも細かい心理描写が俺は前から苦手だから。
 あと1頁数学を終えたら国語に切り替えようかな。そう言えば伊藤の進行具合はどうだろうか。ずっと無言だが捗っているのだろうか。数式を書き続けていた手を休めるついでに伊藤の方を見てみる。

「……」
「……」

 伊藤は無言でとんでもなく難しい顔をしていた。ノートを盗み見れば空白である。教科書を睨め付けながら熟読しているが、顔は険しいまま戻ってこない。どうやら本当に数学が苦手みたいだ。何とか自分で解こうとしているのは見ていて分かるが、どうしても分からないようで苛立ったように伊藤の手は後頭部を掻いた。

「……伊藤」
「……はい」

 声をかけるとビクッと体を震わせたあとすぐ何故か畏まった返事。

「どこから、わからない?」
「……正直言えば、最初から」
「……最近の授業は分かったのか?」
「……まったく。ぜんぜん」

 質問しても俯いたまま返答。目も合わせないところ見ると後ろめたいようだ。先生に質問もしていなかったし俺にも特に何も思っていないようだったのでてっきり理解していたと思っていたが違ったらしい。
 ……周りのうわさを聞く限り、俺が転校してくる前までほとんど学校も来ていなかったようだったし、わからないのも当然なのかもしれない。怒っていると思っているのか俺の目を見ずにうつむいたままの伊藤に思わずため息を吐いた。

「……分からないところがあったら、言ってほしいのに。そうじゃないと、教えられない」

 別に怒ってない。苦手得意なんて人それぞれちがうわけだし、そもそも伊藤は学校に来ていないのだからまずスタート地点が違うんだから。でもこのぐらい出来るだろう、分からなかったら聞いてくれるだろうと俺も思い込んで自分のことばかりになってしまったのはいけなかったか……ほんの少しモヤモヤする。
 自分はそう言うつもりはなくとも、知らず知らずのうちに傲慢になっていたのかもしれない。俺も省みないと行けない点もある。伊藤だけを責めるのはお門違い、だな。

「……ごめんな」
「え、いや!透は謝らなくていいし、謝るところじゃねえだろ?」
「……でも、俺の今の言い方は感じが悪かったと思う」

 伊藤だけを責める物言いになってしまったことには反省しなければならないところだ。

「いや、でも透は悪くねえよ。勉強教えてほしいって言っておいて変なプライドで言わないでいたんだしな……」

 最後の方は小声でほとんど聞こえなかった。首を傾げるが伊藤は誤魔化すように少し自嘲気味に笑って白状した。

「……何でかお前の前では少しでも格好つけたくなっちまうんだよなぁ。聞こうと思ってお前のほうを見たら何も悩んだ様子もなくさらさらと問題解いているの見たら、もうちょっと自分の力でやりてえなって思っちまったんだよ」

 そう言った。聞こうとしていたのにそれを俺は見逃してしまったようだ。教えてほしいと頼まれていてそれを快諾したのに、自分のことに集中しすぎていたようだ。そのせいできっと伊藤にとって言いたくないことを言わせてしまったのだ。そう気付いてしまった。出来ないことを教えを乞うことに勇気がすごいいること、俺は分かってたのに。
 1か月ぐらい前まで、俺は世界に対して怯えていた。それが今では大分平気になってきて視線を気にしなくなったのは、俺のことを見ていてくれた伊藤が気遣ってくれていたおかげなのに。自分が頼られる立場になると、自分のことをしながら他の人を見るのは難しいんだと今気が付いた。自分に嫌気が指した。伊藤に謝りたいけれど、なんて言っていいのか分からなくて乞う様に伊藤の方を見ているしかできなかった。

「そんな顔するなって。ほらこことか教えてくれよ。理解するまで時間かかるぞ、俺は」

 眉を寄せているけれど笑ってそういう伊藤に俺は何も言えなくて、伊藤の指をさしているところへと視線を映した。結局のところ、俺はこの1か月でまだまだ変わったとは言えなくて。進んでいるのか退いているのかも未だ分からないままだ。今も伊藤に頼り切りで困らせたのは俺なのに伊藤に助けを求めてしまうと言うなんとも……甘ったれている。
 それを受け入れてくれている伊藤には頭は上がらない。今日の体育のときだっ、て…………体育のときのことは、あまり詳しくは思い出さないでおこう。伊藤の体温を思い出すだけで何故か変な気持ちになる。悪いことをした、その事実だけは絶対に忘れずにいよう。
 とにかく、伊藤に甘え切ってしまっていることは自覚はしている。気を付けないとと思うがどうしてか甘えてしまう、最近悩みになりつつあることなのだ。たぶん記憶を失って初めて俺を認めてくれて、俺のことを最優先してくれて甘やかしてくれる存在だから、寄りかかろうと無意識にしてしまう。伊藤も少しは否定してくれれば、と少し八つ当たりにも近い感情が芽生えるが、きっと伊藤は俺への情があって突き放せないんだろうと予想出来る。伊藤は優しいから、俺に同情しているんだろうな。

 せめて。次から伊藤が分からないところがあったら見逃さないように、ちゃんと集中して教えようと思った。
 どう分からないのか、伊藤はどんなところが苦手なのか、と聞こうと口を開く。

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