2.人間として。


 外に出れば湿度の高い熱気が俺を迎えた。空は灰色でいつ雨が降ってもおかしくはない天気だが予定通り体育館ではなく校庭で授業をすることになったので、一安心。だが、6月でこれなのだと思うと、この先が思いやられて嫌になる。鷲尾とともに校庭に行けばまだ先生は来ておらず、伊藤と叶野と湖越はこちらに気付いた様子はなく話している。
 ……先ほど鷲尾に頼み、伊藤と叶野に仕返しをしようと言うことになって適当に立てた計画だが、今なら成功しそうだと思ったのでたった今しようと鷲尾に言うと呆れた顔をされつつも、頷いてくれた。他のクラスメイトは俺らに気が付いているのもちらほらいるが、人差し指を口に当てて静かにするようにとジェスチャーをすると、少し意外そうな顔しつつもその通りに静かにしてくれたことを感謝する。
 鷲尾は『子どもみたいなことを……』と内心思っていたことを知らずに俺はこっそりと叶野の真後ろに立つ。湖越も俺らに気付きつつも周りの空気を察したようで黙ってくれた。俺は伊藤の、鷲尾は叶野の真後ろに立って
「せーの」鷲尾に合図をした。
「うおっ!?」
「ギャアッ!?」
「……あっ」
 俺は伊藤に膝裏に自分の膝で突いて、鷲尾は叶野のわき腹を力いっぱい掴んだ。伊藤は油断していたのか、驚いてそのまま地面に膝をついてしまい、叶野はとんでもなく驚いたようで飛び跳ねて慌てて後ろを見た。
 まさか膝が地面につくともそんなに飛び跳ねると思っていなかったのでこっちも逆に驚いてしまった。何故か周りからは『おー!』と感心した声が上がった。

「品のない叫びだな、叶野」
「え、なんで?一ノ瀬くんにされるのは分かっちゃうんだけど、なんで鷲尾くん?」
「お前ら、一ノ瀬になにしたんだよ……」
「ちょっとわき腹掴んだ!」
「いや、どんな流れで掴んでたんだよ」
「その一ノ瀬に仕返しの協力を頼まれたからな」

 誰かと思って後ろを見ればこんな悪戯をするのとは無縁そうな鷲尾がいたことに叶野は驚いていたようだった。3人の会話周りもクスクス笑いながらも、視線はこちらに向いている理由は分かっている。膝をついたまま動かない伊藤とまさか膝をつくとは思わなかったうえ動かない伊藤にどう声をかけるか迷っている俺のことが気になっているんだろう。近くの3人の平和な会話を聞きながらどうするべきなのか考えて考えて。

「……悪い」

 気まずくて目を合わせずとりあえず謝りながら手を伸ばした。
「いや、まぁ平気だから、そんな落ち込むなよ」
 少し笑いの混じった声音で伊藤はそう言った。顔は見れていないが多分苦笑しているんだろう。手に重みが乗って伊藤が俺の手を借りて立ち上がろうとしているのが分かったのですぐに引っ張ろうと思ったのだが、一瞬俺の反応が遅かったみたいで俺が伊藤を引っ張って立ち上がるのを手伝おうとした思惑とは、裏腹に俺が伊藤に引っ張られてしまう形になってしまいバランスを崩した。直結に言うと伊藤が俺の下敷きになった。

「いって!」
「うっ……」

 反射的に目を閉じてすぐにドスン、という音とともに額や胸とか腹に衝撃が走り呻く。俺は呻くぐらいで済んだが、たぶん伊藤はかなり痛かったのではないか、とすぐに考えが行きついて目を開けて手を地面について伊藤の顔を見た。予想した通り、伊藤が俺の下敷きになってさっきは膝が付いていただけだったのに仰向けに寝っ転がる形になってしまい後ろ半身は砂で汚れてしまっただろう。
 ……さっきのことにほんの少しだけ仕返しをするだけのつもりだったのだが、何故こんな大きなことになってしまっているんだろ、手を伸ばさないほうが良かった、色々後悔した。驚いたのか目を見開いた伊藤と至近距離で目が合う。……近すぎると今気が付いた。

 すぐに起き上がらないと、と思ったが腰が何かで抑えられいるようで動けない。なにがあるのかと腰あたりを見ると薄々察していたが伊藤の手が俺の腰を掴んでいた。多分俺を庇ってくれたんだと思う。さっきまで意識していなくて気が付かなかったが、今伊藤に触られていると思うと落ち着かない。さっき叶野に触られたときとはまた違うむずむずするような変な感じがする。
 離れようとして離れられなくて一言離してほしいそう言えばすぐにでも伊藤の手は離れるんだろうけれどこのとき俺も頭のなかが混乱しているようで言葉が出なくて至近距離でしばらく見つめ合う形になってしまった。
 心臓の音が良く聞こえた。それは俺自身のものなのか下にいる伊藤のものなのかは分からなかったが、先ほどよりも自分の体温が上がっている気がした。居心地が悪いはずなのに居心地が良いと言うなんとも矛盾した感情が生まれた。

「うっわ、2人とも大丈夫!?」

 そんな状態が続いたのは1分ぐらいだろうか?そんなに時間は経っていないみたいだった。異変に気付いてくれた叶野が俺らのほうに駆け寄った。ハッとなって叶野のほうを見た。伊藤も今の状況を飲み込んだのか抑えていた手を慌てて離されたのはよかったが、離された際腰を手が掠め、ぞわっとして身体を思わず震わせてしまった。変な声は出さなかったと思う、だけど少し呻いたのは伊藤には聞こえてしまっただろうか……。
 結局叶野が俺を、がたいの良い湖越が伊藤を起こしてくれた。まだ腰に触れられた感触が残っている気がして変な感じがする。違和感はぬぐえないが今は伊藤の後ろ半身についてしまった砂を払うことに専念した。

「……本当に、悪かった」
「あー……いや、俺がいたずらしなきゃよかったんだ」
「うむ、叶野が一番悪い」
「えっ!いやさっきのは伊藤くんも同罪だからねっ!?」
「お前ら本当にどういうことなんだよ……」

 事情を知らない湖越が呆れたように突っ込みを入れたところで先生がやって来て、妙な空気のまま授業が始まってしまった。……あとで本気で謝ろう。

――――

 体育の授業では背の順で並ぶ。俺のすぐ前にいるのは透、俺と透は身長がほぼ変わらず多分1㎝とかそんぐらいの差だがわずかに俺の方が身長が高くて透の後ろだ。……座高が俺よりも低いことについてはノーコメント。
 昔は俺より僅かだが透のほうが身長高かったから少しうれしいがな。さっき触れてしまったせいか、ついつい透の腰にばかり目をやってしまう。ダボっとしているジャージの上からでしか見ているだけでは分からないが、細かった。にぎにぎと自分の拳を開いたり握ってみたりして細さを痛感する。
 ……1か月前、つい透を抱きしめたときも思ったけれど透の身体は予想以上に細い。だがその理由は透の話を聞いてみれば納得だった、こっちに来る前まであまり腹の減りを感じたことがないのだとか。出されたものを食べて、眠るときさえ眠いとか思ったこともない、罪悪感から学校の行事にも参加せず休みや空いた時間は周りに言われたから勉強ばかりしてきた、とか。感情や思っていることすらも諦めていた透は『人間』として生きることを本当に放棄していたんだろう。そう考えると胸が痛んだ。
 そうせざるを得ない状況で本来なら守ってくれる大人がいるはずなのに、それもなく責められながら生きてきたらそうなるのも無理はないのかもしれない。だけど、今は違う。ちゃんと生きると決めた次の日から透は、ちゃんと生きている。
 今までは一応世話はしてくれた人がいたが今の透は一人でやっていかないといけないのだからしっかりするしかないんだろうけれど、それとはまた違う、ちゃんとした足取りだった。ちゃんと笑ってくれる、普通の人に比べたら確かに透はあまり表情を出す方ではなくて薄らとした変化しかないけれど、それはずっと前からそうだったし俺からすると気にすることはない。
 幸い叶野が透を気にかけてくれているおかげかクラスに割とすぐに馴染めている。透も過ごしやすいようで随分穏やかになって今日は俺がした悪戯の仕返しをされた、喜ばしいことだ。驚きすぎて膝カックンされて受け身がとれなくて地面に膝を着いちまったのは不覚ではあったが……。
 さすがにまだ1ヶ月そこらでは身体はついてきていないようで腰は未だ細いままだった。……テスト終わったらラーメンにでも食べに行こう。カロリーの高いものを取らせて太らせよう。そう決めた。

 さっき俺が透を引っ張ったことは決してわざとじゃない。俺が腋のほうをつついたのが原因で仕返しされたのにそれをやり返すのは違うし、本当に手を指し伸ばされたのに甘えて起き上がろうとした。のだが、俺の反応が早すぎたのだろう。逆に俺が透を引っ張ってしまったことになって、俺の方に倒れてくる透をつい庇ってしまった際に反射的に腰を掴んで俺の身体ををクッションにした。
 勢いよく倒れ込んできたので少し苦しかったが透が無事ならよかったんだが、問題はそのあと。
 俺のことを心配したのか透がすぐに俺と目を合わせてきたのだ。近すぎと言っても過言ではないほどの至近距離で。心配そうにゆらゆらと揺れた灰色の目を見てつい思考が停止して心臓の音が早くなった。

 ……あまり透にこう言いたくないが、とんでもなく整った顔をしているのだ。男性的とも女性的とも言えない、これぞ中性的な顔立ちって感じの。幼いころも結構近い距離で目が合ったことも多々あるが、お互い子どもであのときも確かに顔綺麗だなとか思ってはいたが、あのときはまだ本来の意味で認識はしておらず透も幼かった。だからあまりそう言ったことを意識はしていかなったが、どうも今は違っていて。
 目の前の顔が心配の色をしていたのが、少しずつ驚きに変わっていったのを見たら、俺のためにこんな風に表情を変えてくれていると言う事実が胸がなにかに押さえつけられたように苦しくなった。思考停止して、もぞっと居心地悪そうに動いた透にも気付かず手を離せなくてしばらく見つめ合った。正直叶野が声をかけてくれるまで周りのことすらも忘れてしまっていた。
 叶野の声で慌てて腰から手を離したのだが、その際俺には分からないぐらい微かに掠めてしまったようで、身体をピクリと少し震わされたのを見たとき、芽生えてはいけないであろう感情が生まれそうになった。

 ……いや、今まで待ち焦がれていた上に様々な理由のおかげで今までにない親友の姿が珍しいだけだ。記憶を戻ってほしい、とまでは今は思わないがせめて在り方だとかそう言ったのは少しずつ前のときのように戻ってもらおう。そうじゃないと、俺は。

「……伊藤」
「!」

 自分の名前を呼ぶ声でハッとした。考え事に集中してしまったようで周りには透以外は誰もいない。少し遠くで他のクラスメイトたちが並び始めているのが見えた。

「……やっぱり背中痛いか?」
「あ……、いやそれは全然平気、もう気にすんなよ?もともと俺がいたずらしたのが悪いんだからな」
「……それは、そうだな」

 俺がしたことを思い出したのか少し眉間に皺が寄った。記憶が無くたって機嫌が悪いとき眉間に皺を寄せるのは変わらない。分かり難いようで結構わかりやすい……俺もそう教えてもらったのは透の母親に、なのだが。
 昔のことを思い出して懐かしいな、感慨深いなと思ったのと同時に気が付いてしまった。そうか、下手すると俺以外ちゃんと透のことを見ている人はいないのかもしれないんだ。透の話を聞く限り頼れる人もいなくて透自身も心を閉ざしていて感情の出し方すらどうすればいい、と俺に聞くぐらい何も見ないふりをすることで自分を守っていたから。今の透はどうなのか分からないが、元々の透は両親以外の大人に対して好感を持っていなかったのだから。

「俺がドジっただけだ。今度はもう油断しねぇし、むしろ俺から仕掛ける」
「……それだと、また俺がやり返すぞ」
「じゃあ延々とすることになるなー」
「なんだそれ」
「いいじゃねえか。さ」

 透は耐えきれなくなったように少し笑った。笑うときも控えめなくせに、すごく嬉しそうに笑うのは変わっていない。今のところあの日以降の透は俺と別れる前に会った透とそう大差ないと思う、今のところは……。
 いつか耐え切れなくなる日が来るのは今の俺には予想も出来なくて、それでも来てしまうんだろうなと漠然と思っている。いくら透が大事でもこのままで良い、なんて思えるはずはないんだ。俺も本来そんなに気は長くないほうだしな。だけど、今はやっぱり透が人間らしくいてくれるのが嬉しいんだ。まぁ、難しいことはまた今度にするか。

「……テスト終わったらよ、ラーメン食いに行こうぜ。打ち上げに」
「?わかった」

 いきなりのラーメンの誘いに首を傾げながらも頷いてくれた。最近になってやっと実感出てきたんだぜ、6年も待ち続けて焦がれていた透が隣にいて笑い合って一緒に学校に登校して約束を普通に出来ているってことに。
 透がいてくれるだけで今俺はとんでもなく楽しくて仕方がない。嫌いな勉強も透となら楽しいだろうな、と思えちまえるぐらいにはな。どうしようもねえな。面倒な俺の思考は一先ず置いておいて、とりあえず透を健康的に太らせようと思う。

――――

 唐突に伊藤にラーメンを食べに行こうと言う約束を取り付けられた。先生の話を終えて他のクラスメイトたちが移動し始めるなか伊藤はボーっとしていて、数回呼びかけてようやく反応が返ってきた。
 いくら砂を払ったからと言えど、相変わらず後姿が汚れており申し訳なく思う。もしかして先ほどのせいで背中や腰を痛めてしまっただろうかとも思ったが俺の呼びかけに痛がりもせずすぐに立ち上がったので大丈夫そうである。伊藤が笑顔で許してくれたし茶化してくれたのでもう気にしないことにはしたが……走っている伊藤の後姿が砂まみれで茶色くなっているのを見てなんとも言えない気持ちになる。
 今100メートル走を行った後で二回目を走りたい人がいれば走ってもいいと言うことで、俺以外二回目に並んで行ってしまった。……意外にも鷲尾も。
 鷲尾のタイムを聞いた叶野が「やっぱり鷲尾ってひょろいんだね!」と言われて苛立ったのか対抗意識が芽生えたのか「次こそは勝つ」と並びに行ってしまった。

 前々から思っているんだが、叶野って鷲尾に対してはずいぶんと辛辣な気がするが……気のせいだろうか?

 俺はもうさっきので割と全力だったから次やっても記録は変わらないだろう、コンディションも悪くはなかったしこけたりとかそう言った後悔は特にない、むしろ今の方が少し疲れている分記録が下がるかもと思って二回目には参加せず、少し離れたところでクラスメイトたちが走っているのを見ていた。

「おっす、一ノ瀬」

 誰かに話しかけられた。視線を向けるとクラスメイトの沢木と沼倉だった。どうやら俺と同じでもう走らない組らしい。話しかけられたので相槌として軽く手を振った。クラスメイトに声をかけられたときどう反応していいのか分からないと伊藤に聞いたらこうしておけと言われ、実践したところ特に不快な雰囲気になることはなかったからこれであっているんだろう。この方が透のキャラ的に合っているとか言われたのはよくわからなかったけれど。

「一ノ瀬が引っ越してきてもう1か月だなー」
「なんかいろいろ凄いやつ来た!と思ったよなぁ、とんでもない美形で?勉強できて?運動もそれなりに出来てるし?どこの少女漫画だと思ったなー。ここ男子校だけど」
「……どうも」

 唐突に褒められてなんて反応していいのか分からなくなった。俺からすると自分の顔は普通に自分の顔だなとしか認識していない、ただ知らない人からの視線がすごい感じるので悪目立ちする顔なのかと思ったら皆曰く『とんでもない美形』らしい。伊藤にも言われた。自分では不細工とは思うことはないが美形だとも思えずにいるが、あまり否定ばかりすると嫌味にも聞こえるようなので軽く礼を言うぐらいにしている。
 あと。

「……彼女いたこともないけどな」

 この事実を自分から言うと受けがいいと言うかなんというか。食いつきがいい。

「そうそう!それが一番意外なんだよやっぱ美形過ぎるから近寄りがたいのかもな?」
「案外男は顔より中身なんだと証明出来てるってことじゃね!?うっし!俺らにもチャンスはあるってことだな!」

 周りが何故か自信を持ってくれるし明るい顔になってくれる。その理由は分かっていなかったが、今2人の言葉を聞いて納得した。

「……確かに。俺といるよりも2人のほうが一緒にいて楽しそう」

 何を考えているか分からない無表情だとか言われてしまって、こうやって話しかけられても話すこと自体未だに苦手だ。話しかけられたら答えるけれど、今も相変わらず会話のテンポについて行けていないしな。
 伊藤に対しても自分から話題をふったりするのが苦手で察してくれた伊藤に聞かれてようやく話せるぐらいなので、とんでもなく苦手だ。女性も俺といるよりも沢木や沼倉のように賑やかで楽しそうに話題をふってくれる人のほうが良いと思う。周りの空気を読むことに長けていて気を遣えながらもそれを察されないように出来る叶野は……きっとすごいモテるんだろうな。

「……なんか、肯定されるとむず痒いのはなんでだろうなー」
「きっと汚い心をさらけ出して、それを優しく肯定されてかつ笑みを浮かべる聖女を目の当たりにしたときと同じ感覚なのかもなぁ……」
「分かりやすいような分かり難いたとえすんな」

 なにか変なことを言ってしまっただろうか。なにか気に障ることを言ったつもりはなかったのだが。じっと2人を見つめるとおっと、と少し間延びした声のあと何事もなかったのに話は続いた。

「ちょっと悪しき心が恥ずかしくなっただけだ、気にすんな」
「そうそう!それよりさ、一ノ瀬に彼女がいたことがないのと同じぐらい意外なのは、あの伊藤と仲良いことだよな!」
「さっき伊藤をこけさせたのとか正直肝が冷えたわ……」

 多少予想はしていたがやはり伊藤とのことを言われた。転校初日に視線を受けた大きな理由は俺自身のことではなく、俺が伊藤とともにいることだったのだ。最近では慣れて来たのか伊藤とともにいてもあまり視線は受けなくなったが、やはり疑問は残るようだった。なぜ、俺が伊藤と一緒にいるのか。
 叶野がどこか俺らのことを不思議そうにしていたから一番に突っ込まれるのは彼だと思ったがまぁクラスメイトも気になるだろう。仲が良いことと一緒にいることとの違いがよく分からない。周りから見て仲が良いと思われるのはうれしいことではある。

 ……それにしても、何故みんな伊藤のことを遠巻きに見ているんだろう。今は俺がこの高校にやってきたころよりは伊藤への視線は穏やかなものになったし、普通に話をするようにもなっている。だが、やってきた初日は伊藤を珍獣でも見るかのような視線だった。笑ったり、いや誰かと一緒にいたりすることにも驚いているようだった。驚いて伊藤に視線を集中砲火しても、話しかけるのはおろか視線も合わせようとしなかった、どこか怯えているようにも見えた。

 確かに無表情のときの伊藤は威圧的に感じるかもしれない。髪も金に染めていて全開の学ランの下に赤いTシャツで見た目は確かに不良にも見えるが、何故そこまで怯えているのか分からなかった。

「……なんで、そこまで伊藤のこと恐がる?なんかあったのか?」

 純粋に疑問だった。初めて一緒に登校していたとき、それを聞いた岬先生の驚いた顔や桐渓さんから聞いた伊藤の評価など頭の中で思い浮かべる。目の前にいる沢木と沼倉も当初恐怖で近寄りはせずとも好奇心に視線を向けて、今もさっき俺が伊藤にしたことに対してどこか怯えているようにも見える。
 見た目だけで決めつけているようには見えず、前にもなにかあったのではないか、と行きついた。俺が知らない時期に……俺が転校してくる前に。前々から思っていた疑問ではあったが本人はおろか叶野たちにも何となく聞けないでいたから、今聞いてみた。俺の疑問にきょとりと驚いた顔の2人。

「あれ?伊藤から聞いてないんだ?」
「……ああ」

 そのことを気にしていないのか言いたくないことなのか分からないが、伊藤から俺が転校してくる前の話をあまりしない。俺から聞くのもなんだか違う気もして聞けずにいた。伊藤が俺を待ち続けていたのとは真逆に俺は伊藤のことを記憶から消して生きる日々を流すように生きていた時期だったから、後ろめたさがあって聞けなかった。沼倉に聞かれたことに肯定すると、『ふーん』とあまり興味なさそうに頷かれた。

「まぁ一ノ瀬がこっち来る前だったしな。いや、あれはすごかったな。入学式のときから伊藤って冷たいっていうか……こっちに興味なさそうだったしなぁ」
「入学式の地点ですでに金髪で制服も着崩してた上に無表情で口数も多くないしさ、正直言うと近寄りがたかったわ。進んで話しかけてたのって叶野ぐらいじゃね?湖越も普通に話はかけてたな。あーあと隣のクラスの恐いもの知らずの吉田ぐらいか」

 2人の話をどうも信じられないなと思いながら聞いた。いや、彼らのことが信用していないわけではないのだが、俺のなかの伊藤と他の人の言う伊藤と一致していなくて、接しにくい伊藤の想像が出来なかった。
 俺のことを気を遣ってくれて話しかけてくれるのも伊藤からで、表情もコロコロ変わる。どうしても引っ掛かりを覚えてしまうのだが、別に伊藤のことをそう言うことに責める気はないし転校初日のみんなの意外そうな顔からすると真実なのだろう。俺がどうこう言える立場でもないのだろうが、どうも陰りが心に残って消えなかった。内心引っ掛かりを覚えながらも2人の話を耳に入れた。俺の表情があまり変わらないことが幸いしてか俺の内心に2人は気付いていないようで話は進んでいく。

「入学式からそんなに日が経っていないときにあんなことあったからもんだから、伊藤のことよくわかんねえまま俺らも疎遠しちまったんだよな……」
「……あんなことって?」

 溜息を吐いて少し後悔しているような沢木が言う『あんなこと』とはなんなのか聞いてみる。少し言い淀んで、沼倉がその話題に言いにくそうに沢木と目を合わせながらもあーうーとうめきながら重たそうな口を開いた、とその瞬間。

「おーい、お前ら先生呼んでるぞ。はやく来ねえと片づけをお前らだけでさせるってさ」
「ゲッ!」
「それは無理っ悪い、一ノ瀬その話はまた今度な!」
「……わかった」

 気付けばとっくに100メートル走は終えていたようで、湖越が俺らを呼びに来た。いつの間にか近くに来ていたのか、話に夢中になっていたようだ。沢木と沼倉は湖越に呼ばれてすぐに行ってしまった。急いでいく理由は分かるが、どうしても俺に伊藤のことを話さなくてもいいと安堵しているようにも見えた。多分次聞いても逃げてしまうかもしれないので、俺も気にはなるのだが彼らを快くないことをさせるのは本意ではないのでもう聞かないことにしよう。俺が思っている以上に伊藤がしたことは大きなことなのかもしれない。結局伊藤が恐がられる理由はわからないが、それだけは分かった。呆けて動かない俺に湖越が近づいてきた。

「一ノ瀬。……伊藤自身は何もない、ただ巻き込まれただけの被害者だ」
「……」

 眉を寄せながら少し苦し気に湖越はそういった。立っている湖越を座ったまま俺は見上げた。必然的に見下ろされる形になって高圧的に感じて時として恐怖さえも覚えるはずなのに、湖越の顔は……なんだろうか。悲しげにも見えつつ怒っているようにも見える。それは俺に対してではなさそうだが、だれに向けているんだろうか。

「あまり俺の口からは言えないが、伊藤は何も悪くない。これだけは信じてやってくれ」
「……」

 俺のことを救ってくれた伊藤を疑ったことなんてない上に俺が転校する前に伊藤がなにをしたのかなにか起こしたのかわからなくて教える気もないのに、なぜ湖越がそう言うのか。そうは思ったが、湖越の顔が切羽詰まっている様子だったから何も言えず無言で頷いた。頷いた俺を見てどこかホッとした様子にも見える湖越。

「……教えてくれる気は、無いんだな」
「……俺らが勝手に教えていいものなのか判断がつかなくてな。その辺は伊藤本人に聞いたほうが良い」

 俺の問いに湖越も俺と同じように頷いたあと、そう答えられた。少し自嘲気味なのはどうしてなのか。よくわからなかった。伊藤のことを気遣って言わないのであれば俺もこれ以上食い下がるわけにもいかなくなった。
 湖越は勿論伊藤に気を遣っているのだろうがどうしても違う理由があるようにしか見えなかった。伊藤のことをあまり知らず距離を置いてしまったと後悔しているように見えた沢木と沼倉と違って湖越は伊藤に普通に話しかけていたのだから、そうやって自嘲気味に後ろめたそうに笑いながら答えている理由が見つからなかった。なにか隠しているのではないか、そう思ってしまったが……湖越の内側に土足で踏み込んでいくのは、違う。良い関係を築けている人にするようなことではない。親しき仲にも礼儀あり、だ。

「分かった」

 湖越のその表情を見ていないことにして、そう言って立ち上がった。


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