2.人間として。
笑顔を張り付けて周りに気を遣って、お調子者を演じている。人の輪に入って行って自ら関りに行く。
本当はの心は家族と誠一郎以外の人間のことなんて信じてもいなくて、人と関わっていくのも怖い癖に俺は1人でいることが嫌いだから、笑顔を張り付けて人の輪にい続けようとする。
そんな自分が吐きそうなぐらい大っ嫌いなのに俺は俺だから何も変われない。叶うことなら昔のように無遠慮に他人を信じて心の底から笑い合えていたときに戻りたい。嫌い嫌い嫌いだ、とんでもなく嫌なやつなんだよ、俺は。
誠一郎がなにも言わず俺の隣にいてくれるのは唯一の救いだけど、このままで良いとは到底思えない。それでも逃げ出すことも乗り越えることも出来なくて、息がしにくくて仕方がない。
割り切ってしまえばいっそ楽なのかもしれない、誠一郎がとなりにいてくれるのであれば、鷲尾くんや伊藤くんのように他人の目を気にせずにいられるのかもしれないけれど、自分を通せるほど自分に自信もなく好きでもない。何にしても、俺は中途半端な人間なんだ。
一緒にいてくれる人がいるだけでもいいのに、それなのに1人でいることを苦に思わない様子の鷲尾くんや伊藤くんに話しかけてしまうし、人にまぎれようとする。ほどほどの距離を置いていると言えばいいんだろうか、y良く言えば確かにそうかもしれない。
でもそうじゃない、ただ単に1人でいる人を置いて行けやしないのに自分は安全なところにいようとする、両方とも取ろうとするただの卑怯者だ。
いつからこうなったか。この答えは明確だった。
中学のときから、そうずっと……。何度も『もうあのころと違うんだから、大丈夫だ』と言い聞かせてもそう言ってくれても、未だに恐怖から抜け出せていない。
臆病者、弱虫、自分を何度もそう罵ってみても状況は変わらない。
行き場のない感情だとか気持ちだとか、どうしたって理想は理想のままで現実はなにも変わってくれない、そんな焦燥感がずっと胸に滞っている。
どうすれば、この迷路のようなジレンマから抜け出せるだろう。
未だ答えは分からない。
――――
水咲高校に転校してきて一か月が経った。
今も桐渓さんからのメールは届くけれど、呼び出されることはなかった。何故かたまに岬先生がなにか言いたそうに見てくるときもあるが、目を合わせると笑って手を軽く振られるだけでなにも言ってこないので、聞かないでいる。学校生活は順調かそうでないか、と問われれば順調と答えられた。
俺のことを受け入れてくれて俺のことで泣いてくれた伊藤とは大体一緒にいるし、湖越とも鷲尾とも仲が良いかどうかは分からないが話しかけてくれるし昼も一緒に食べてくれる。岬先生も五十嵐先生も優しい先生だ。五十嵐先生は少し声は大きいけれど、決して考え無しではないことは知っている。クラスメイトも俺や俺が引っ越してきたときとは違うらしい伊藤にも慣れたようで『仲いいなー』と軽く話しかけられることも増えてきた。きっとクラスメイトたちも順応力が高いんだと思う。
「おはよー」
「おっす、叶野!昨日の見た?」
「見た見た!まさか牛乳じゃ身長が伸びないとは……今まで腹壊しながら飲み続けてた俺って一体……。あっ、おはよ!一ノ瀬くん、きみは何食べてたらこんな大きくなったの?」
「……肉と野菜、あと米とかパンとか」
「俺も大体同じもの食べてるはずなのにどうしてこんなに違うんだろうね……」
「俺より小さいけど希望は標準だろ。俺より小さいけど」
「誠一郎うるさいよ!」
クラスメイトに話しかけられ、軽く答えて近くにいた俺に気にしていることを聞いてみて有益な情報を得られずしょんぼりしていたら、湖越に弄られてむきになっている叶野。きっと彼のおかげで俺はクラスのなかに早めに受け入れられたんだろう。いや、俺だけじゃなくてきっと伊藤も鷲尾もそうなんだろう。
特に鷲尾にはちょっと弄りながら話しかけている、それは不快にはならない程度の弄りできっと彼は距離の取り方がうまいのだろう。すごいことだ。
「くだらないことで騒いでいるな」
「鷲尾くんには俺のことなんてわからない……こうして弄られる俺のことなんて、その成長期で苦しんだ割にはひょろい鷲尾くんにはね!」
「……お前は僕より低くてひょろいな」
「あーーー!うっさい!別にひょろくはない、無いはず!」
ちょっとむっとした様子の鷲尾に痛いところを突かれた叶野は自棄になって鷲尾の肩に軽く拳を打つ。鬱陶しい、と鷲尾が言えば次は頭突きを繰り出している。……コミュニケーションの仕方が少しバイオレンスなのは今更なにも言うまい。日常的に行われているからいちいち気にしてられない。2人のコミュニケーションを横目に、窓の外を見ると梅雨時のせいか空は灰色で今にも雨が振り出しそうだった。
「今日の体育は体育館になりそうだな」
「……そうだな」
俺につられたのか伊藤も空を見ていてそう言われて同意した。転校してきた日は初夏に入ったぐらいで学ランを着ていても少し暑いぐらいで耐えられたが、6月ともなると湿気が増えて蒸し暑くて学ランをとてもではないが着れたものではない。
まだ半袖のYシャツは買っていないので、学ランを着ないで長袖のYシャツで袖をまくっているだけだ。今はこれで平気だがそろそろ半袖を買うべきだろう。伊藤も長袖のYシャツを身に着けており俺と同じように袖をまくり、前は全開で中のTシャツが見えるようになっている。他のクラスメイトも似たり寄ったり……湖越はジャージで袖をまくっているだけだが。
ポリシーだとかなんとかで未だに学ランを身に着けたりカーディガンやパーカーを羽織っている人もちらほらいる、俺からすると暑そうとしか思えないのだが、きっと譲れないものもあるのだろう。
「……室内も、暑そうだな」
「むしろ室内のほうが暑いかもな、蒸しそう」
夏の晴れた日に行う校庭での体育も辛いものだけど、熱気の詰め込まれた風もない体育館で行うのもかなり辛い。
「……夏、嫌い」
「そうか?俺は好きだな夏」
「一ノ瀬くんは冬派で伊藤くんは夏派なの?」
鷲尾との戦闘を終えたのか俺らの会話にそろっと入ってきた叶野。いつの間に、と思いながらも叶野の質問を考えてみる。夏は確かに嫌いだ。暑いし思考回路もうまくいかないし汗も不快で、冷房の風のせいで喉にも来る。かと言って冬が好きなのか、と問われると……。
「……冬も嫌いだ」
嫌いである。寒くて外に出る気力も沸かない、室内は暖かくすれば出たくなるぐらい心地いいものだが次は風呂に行くのさえ億劫になる。ギリギリ冬よりも夏のほうがマシなレベルである。一番は秋だ、過ごしやすい。春はあの生温さが何か苦手だ。秋以外の全ての季節が苦手だ。今知った。
「どっちも好きだな」
少し考えて伊藤はそう答えた。意見が真っ二つに割れる。……まぁ伊藤は俺と違う価値観なんだろうな……そう納得する。理解は出来ないが。
「出来ることとかそれぞれ違うだろ、夏と冬とで美味く食えるものが全く違うし、まぁ楽しもうぜ?」
「伊藤からそんな言葉が聞けるとはな。一ノ瀬が来る前は常につまらなさそうな顔していたが」
「うっせえよ」
皮肉、ではなく、本当に不思議そうに言うのだが、いかんせんオブラートに包むことをしない鷲尾を伊藤は軽く流した。素っ気なく流された鷲尾はまったく意に介した様子はない。……結構相性悪くないよな、この2人。
「まぁどうしようもないことを嘆いても仕方ないなら、いっそのことその場を楽しんだほうが良いのかな?」
「伊藤の言うことも一理あるな、鷲尾の言うこともな」
「んー……でも確かに一ノ瀬くんが来る前より楽しそうだよね」
伊藤が流そうとしたのを、伊藤の考えを理解しつつも鷲尾に同意した湖越によって阻止されてしまった。叶野も苦笑いしながらもやんわりと同意した。
「そうなのか?」
今の伊藤から想像できなくてつい聞いてしまう。目を見る俺から目を逸らしてなにか言おうと数回口を開閉を繰り返した後。
「……夏休みも冬休みもどっか遊びに行こうな、透」
誤魔化すことにしたらしい。結局詳しく言うつもりはないという意志が現れている、いや別に言いたくないのならそれでよかったんだが。正直納得は出来ていないし多分もう一回聞けば伊藤も答えてくれると思う。が、あまり俺に言いたくない様子の伊藤に無理強いはするつもりは毛頭ない。
「そうだな」
伊藤のその提案は普通にうれしくもあったので、伊藤の希望通り流すことにした。多分この会話は無意味なもので、得に俺の人生に影響を受けるものではないのだろうが、俺は楽しい。約束した通りきっと俺は伊藤と遊ぶんだろう。この1か月のなかで町のほうへ行って初めてゲーセンに行ってゲームをしたのとは違う、漫画やドラマのような少し遠出する遊びを。それをするのはきっと楽しい。
「細かく聞こうとするミッションは失敗しましたなぁ……あっ別に弄るつもりはなかったんだよ?ちょっとした好奇心」
「俺は純粋に気になっていただけなんだ、不快にさせたなら悪かったな」
「僕は事実は言っただけだが」
それぞれ思っていたことを言って叶野と湖越は少し申し訳なさそうにして、鷲尾は何か悪かったか?ときょとんとした顔をしている。悪意はなかったんだと言った雰囲気の3人に伊藤は毒気が抜かれた様子。
「……まぁ別に良いけどな」
少し呆れた雰囲気でそう言った。伊藤もただ言いたくないだけで別に怒っている訳ではなさそうだったので、俺は特になにも言うことはなく何も見てない知らぬフリをして席に着いた。
……正直なところ、俺がこっちに越してくるまえの伊藤がどんな感じだったのか、すごく気になるけれど。伊藤が言いたく無さそうなら、仕方ない。そう自分に言い聞かせた。
「HR始めるよー」
俺が座ったと同時にチャイムが鳴りやってきた岬先生に、立って話していたクラスメイトは皆席に着いて行った。出席をとる岬先生の声を聞きつつも、この1か月で起こったことを振り返った。
早退して翌日約束した通り伊藤と登校すると叶野はずいぶんと俺のことを心配してくれた。湖越には『体調もう大丈夫そうなんだな』と軽く労われ鷲尾からは何も言われなかったがじろじろとこちらを気にしているのか随分と見られた。『素直に話しかけられない系男子なんだよ、鷲尾くんもすごい心配してたんだよ』と叶野がこっそりと教えてくれたので、挨拶ついでに鷲尾にもう大丈夫だと言う旨を伝えた。
『だれから僕が心配したと聞いた?』と本で顔を隠しながら聞かれたので素直に『叶野』と答えたらすごい勢いで立ち上がり、叶野に掴みかかっていた。『誰も一ノ瀬が心配だなんて』とか、『いや顔はそう言っていた』とか言い争い始めてなにか余計なことを言ってしまったかと思ったが『一ノ瀬は悪くないから安心しろ』と湖越に言われたので気にしないことにした。……俺がいなくても特になんもないのに、こうして俺のことを気にかけてくれる人がいるのはうれしいことだ。
転校初日でそこまで深い仲でもなく少し一緒にいたぐらいな上にすぐに帰ってしまった俺のことを気を遣ってくれる叶野はやっぱり良い奴だと思う。ただ、俺が伊藤と話しているのを見ると少し探るような目つきになるのは少し疑問だが、まぁ悪意はない様子で詳しく聞いていない。最近は見られる頻度は減った気がする。
なんだかんだと俺のことを気にかけてくれる叶野と湖越、なにかと問題文について聞いてきたりする鷲尾と一緒によくいる。特に叶野に至ってはさっきみたいに俺をクラスの会話にいれてくれたり、進んでコミュニティの中に行こうとしない俺に気を遣ってくれている。そのおかげでこのクラスに受け入れられるのが早かったんだと思う。勿論俺だけじゃなくて伊藤や鷲尾にも叶野は積極的に話しかけている。鷲尾にはさっきのように遠慮なく突っ込んでいって鷲尾も鷲尾で叶野に容赦なく立ち向かうので2人の戯れは日常と思っている。
あとは……俺は伊藤とよく行動してる。伊藤の好きな音楽を聴かせてもらったり昼食を共にして登下校は一緒。たまに遊びに行くのもしている、初めてこの間漫画喫茶に行った。漫画と言うものを知識としては知っていたが、読むこと自体は初めてだったから伊藤に読み方を教わったのは記憶に新しい。
こんなこと実際にありえないであろうことが起こる、と言うシチュエーションは小説で読むことはあっても漫画で読むのはまた違って新鮮であり良く絵で表現できるなぁと感心した。小説で読んだことがあるものが漫画になっているのを読んで、字で読むのとはまた違う感じ方を味わえるのは楽しかった。
伊藤はよく俺の家に来てはだらだらと互いに好きなことをしていたり好きなものについていろいろ話してくれたり、どちらにしても伊藤といるのは楽しいと思った。たまに泊まることもある。逆に伊藤の家には行ったことはない。
……そして、楽しいだけではやっていけないところもあることに最近気が付いた。遊ぶのは意外とお金がかかるのだと言うことに。鷲尾は勉学に勤しむことに忙しいのでバイトをしていないが、伊藤に叶野や湖越はバイトをしているらしい。食事代や勉強代に使うのはまだともかく、遊ぶのに祖父のお金を使うのは抵抗がある。……向いていないのを百の承知で俺もバイトをするべきか……。
そう言えばスーパーで品出しのバイト募集しているのを見たような、レジをやるよりはいいのかもしれない。頭のなかで算段をつける。
「一ノ瀬くん」
「……はい」
「…うん、今日も欠席者ゼロだね。みんな元気で嬉しいよ。もうすぐ中間テストが始まるから体調崩さないようにね、明日から部活も出来なくなるから、もし放課後残りたい子がいたら僕に言ってね」
優しく言う岬先生に呻くクラスメイトたち。隣にいる伊藤も嫌そうな顔をしている。……バイトの件はテストが終わってから考えることにしよう、今決めた。もうすぐテストと言うのなら遊ぶ余裕もないだろう。遊んだりしていたせいで、俺もあまり予習や復習をしていなかったから少し不安でもある。今までこんなに勉強しなかったのは初めてのことだった。
楽しいことがあればそちらばかりつい優先してしまう、他にすることがなかったから勉強をしていただけだったので楽しい訳ではなくてやれと言われたからやっていて、つまらないと思ったことはないけれどかと言って楽しいとも思ってもなかった。
ただの義務。それだけだった。前の学校では進学校と言うのもあって予習復習は普通、出来るのが当たり前で勉強も苦ではない生徒のほうが多かった。多分鷲尾のように勉学に励んで上位を狙っている生徒ばかりだった。
先生からテストのことを知らされなくともすでにみんな知っていて、すでにスケジュールを組んでいた。知らされても特に何の反応もなかった。だから、先生からテストだと聞かされて「うわー……」「俺勉強してねー」とか嫌そうな顔をして呻いているのが新鮮だ。それを苦笑いで見守る先生も不思議な感じがする。激をいれたり説教される訳でもない。
唯一俺の見知った反応をしているのはテストと言われても動じない鷲尾ぐらいなもので他はそれぞれに色んな反応をしている。正直少し面白い。今まで見てきたクラスメイトの反応と全く違っていて、今までなかった自由というか伸び伸びとした感じと言うのだろうか?ちょっとだけおもしろい。
「透、悪い。勉強教えてくれないか?」
クラスの雰囲気を見ていると伊藤に肩を軽く叩かれそちらを見ると困ったような顔でそうお願いされた。特に断る理由もなくて、むしろこれで少しでも伊藤の礼になるのなら嬉しいものだな、と静かにうなずいた。
――――
「一ノ瀬くんって肌白いよね、日焼け大変そうだねー」
次が体育の時間なので教室で着替えていると叶野にそう言われた。雨はまだ降っていないので結局外で体育の授業になった。
叶野に言われて改めて自分の皮膚を見る。……確かに自身の腕の肌の色と目の前の叶野の健康的な肌の色に比べると確かに生白い気がする。……別に何とも思ってはない、病弱に見えるだろうかなんて思ってなんかない。
そう言えば叶野にこう言われるまで気が付かなかったが、今まで炎天下のなか長時間外にいたと言うことはなかったが、いくら学力重視の進学校と言えど夏の晴れた日にも体育の授業はあった。でも、自身の肌が日焼けで黒くなることもなければ火傷のように赤く腫れたりするところも見たことはなかったことに今気づいた。
「……焼けたこと、ないな」
「え、赤くなったりしないの?」
「……黒くなることもない」
自分の腕を見て触ってみた。特に何も変わらないいつも通りのただの自分の皮膚だ。いつも通り男にしては生白い。
「確かに昔から白いよな、外いても変わんねえし」
そう言ってにゅっと俺の腕を掴んだのは伊藤だった。
生白い腕を伊藤の少し濃い目の肌色の手で掴まれているのが何となく酷くいたたまれない気持ちになった。まじまじと俺の腕を見ている伊藤は俺の様子には気がついてくれず、俺はされるがままになる。
「あー本当に白いね。伊藤くんと一ノ瀬くんってそんな昔からの仲なの?」
「まあな」
叶野とそのまま話す始末である。伊藤が触っているに釣られてか叶野も何故か伊藤が掴んでいるのとは逆の手を触っている、なんなんだよ、お前ら。というか両手が塞がって着替えられない。教室を見ればほとんど着替え終えたようで俺ら以外ほとんどいない、何人か俺と目が合ったが『頑張れよ』と言わんばかりの生暖かく見守られ親指を突き立てるだけで何もしてくれなかった。何故。いや、面白がっているのは分かっているが。
周りに助けは求められないことを察したので自分の口で言うことにした。Yシャツの前を開けっ放しでいい加減腹も冷えそうだ。
「……着替えられないから離してもらっていいか」
というか、なぜ俺は2人にそれぞれ腕を掴まれる流れになったのか分からない。何故かその状態で話を進めている二人に何となく疲れた気持ちになってため息交じりにそう言った。2人はもう着替え終えているから良いだろうけど、俺はまだ体育用に持ってきたTシャツすらも着れていないのだ。
「あ、悪いな」
「ごめんね、一ノ瀬くん」
俺がそう言って漸くこの状況に気が付いたのか2人は謝りながらすぐに手を離してくれた。解放されてホッとして着替えの続きをしようと背を向けたのとそれはほぼ同時だった。
「細くない!?」
「うぐっ」
叶野にわき腹を鷲掴みにされて、くすぐったさを感じる以前に思い切り掴まれたことによって痛みで変な呻き声をあげる羽目になった。……俺は叶野とクラスメイトにしては良い関係だと思っていたのだが、叶野になにかしてしまっただろうか。
「わ、ごめんね!ついビックリしちゃって!だって細くてびっくりしたんだもの!」
「わか、たから……はなせ……」
さっきまで鷲掴みの衝撃で驚きしかなかったが、弁解しようとする叶野はまだわき腹を掴んだままで、身体がむずむずすると言うか何か変な感じなので放していただきたい。
「あれ一ノ瀬くんって意外とくすぐったがり?」
「そういや腋弱いよな」
「へぇー」
「っ、伊藤余計なこと言うな、叶野は触るな」
まさかの裏切りで自分でも知らなかった弱点を叶野にバラしたうえに伊藤は少し楽しそうにそのまま腋のほうに手を滑らせてくる。伊藤も叶野もあとで覚えてろ。普段触れられないところを掴まれている、と言う状態にうまく力が入らない。これは、たぶん良くない流れだ。なにがとはわからないが、きっとよくはない。
伊藤も叶野も完璧に悪乗りしているしさっきまで残っていたクラスメイトももう行ってしまったし、突っ込みを入れてくれる湖越もいない。この状況を俺一人で潜り抜けるのは至難の業である。
助けてくれとまでは言わないが、この2人の悪乗りを凍らせて冷静にさせる誰かが来ないだろうか……その懇願に近い願いは届いてくれたようで誰かが教室のドアを開けた。
「……」
そこにいたのは未だ制服姿の鷲尾だった。もう誰もいないと思っていたのか俺らがまだいたことに驚いていたように目を見開く、が、すぐにその眼鏡越しの垂れ目は冷たい眼になった。
「ふむ。半裸に近い一ノ瀬を抑え込んでいる伊藤と叶野の姿は変態にしか見えないな」
とその視線と同じぐらいの温度でそう言った。空気は凍ったが俺としては漸くこの妙な空気が終わったことに心底安心した。
――――
『着替え終えているのならさっさと行け』
そう言う鷲尾に従って伊藤と叶野は先に校庭へと行った。『ごめんね!』『……悪かった』そう俺に声をかけながら教室を出て行ったのを見送った。報復は後で……体育の時間にやるから覚悟しておけと思いながら。
「……ありがとうな」
「僕は思っていることを言っているだけだ、礼を言われる筋合いはない。それよりさっさと着替えないと遅れるぞ」
鷲尾と空気を変えてくれたことに感謝の言葉を言っても、偉そうにしないが何の温度もなくこちらの目を見ることなく話すので突き放すように聞こえる。本当に思っていることをきっと言っているだけなんだろう。きっと言葉を変えれば鷲尾はもっと人に好かれると思う。
でもそんなふうに媚びらず堂々と言っているほうが鷲尾らしい気もする。大体同じタイミングで着替え終わったので鷲尾と一緒に教室を出た。鷲尾とは話すもののそれは叶野とは違って勉強のことばかり聞かれるからそれに返しているだけで、あまり込み入った話などはしたことがなかった。
鷲尾は勉強が好きで、俺と話すのも神丘学園のことを知りたいときとかそう言うのばかりだったから、そこまで深く踏み込まれたくないのかとそう思っている。だが隣を歩く鷲尾は俺の認識とは少し違ったらしい。無言で廊下を歩き階段を下っていく。
二階を降りたあたりで鷲尾の歩みが止まった、俺は何段か下って鷲尾のほうを振り返る。突然立ち止まったので調子でも悪くなったのかと思ったのだが、顔色は特に悪いようには見えない。眉間に皺を寄せて本来ならば温和な印象を受けるはずの垂れ目はすごい目付きになっており、普通にしているときでも鷲尾のほうが身長が高い上階段3段ほどの高さがあるので見下され睨まれているようにも見えてしまう。本人にその気はないのは分かっているが。
「……どうした?」
いつもずばずば言う鷲尾にしては珍しく口を開けたり閉めたりを繰り返している、戸惑っているのか言いたいことがまとまっていないのか、それとも両方かまた違う感情なのかは俺には読めない。鷲尾が話し出すまで待つことにした。
落ち着かない様子で髪をぐしゃっと掴んだり話したり目を逸らしたり合わせたりを繰り返しながら、やっと纏まったのか重たそうな口を開いた。
「……友だち、とはなんだ」
「……急に難しいことを聞くな」
「お前は伊藤と仲が良い、と良く周りがそう言っている。お前達は友だちではないのか?」
「……」
そう聞かれてしまうと少し困ってしまう。確かに傍から見れば伊藤とは一番近くてよく行動をともにしているのだから、傍から見れば仲が良い友だち、なんだろう。でも、俺がそう言い切るのは少し違う気がした。友だちと言われて嬉しいと思うし伊藤にそう思われていたのなら良いとも思う。だけど、どうしても自分の境遇を考えると言い切ってしまえるほど浮かれることはできない。
ただ最近会ってたまたま仲が良くなったのならそう言い切れるのかもしれない、だがやはり俺は伊藤のことを忘れたままなのだ、という罪悪感はぬぐえなかった。
それでも良いと伊藤は言ってくれて『俺』としてちゃんと生きてほしいと言ってくれた。だがそれにあぐらをかいて伊藤に甘えてしまえるほど、自分が見えていないわけではないのだ。
鷲尾の質問に肯定も否定も出来ず無言の俺に首を傾げられたが、俺のことにはそこまで関心が無いのかそこまでの余裕がないのか、鷲尾は無言の俺を置いて話始めた。
「僕は、ずっと友だちなんて不要と思っていた。いや、今も思ってはいる。遊びに行けば勉強をする時間は減るし、仲が良いときは良いもしれないが、喧嘩したりすれば面倒だろう?相手のことを考えたり気を遣ったりするなんて時間の無駄だ。慣れ合いなんていらない。自分のことで精一杯なのだから他人に構っている暇なんてない。それなら一人で充分だと思っている。お前のような勉学を高め合えるような存在とだけ話したいと思っている」
「……そう言う考えもあるんだろう」
聞く人によったら賛否両論があるんだと思う。そんなことないと否定する人もいるんだろうけれど、俺にそこまで出来るほど偉い人間でもないので否定はできなかった。友だちがいるかいらないか、そう聞かれると俺にもよくわからない。友だちとはなんなのか、それもよくわからない。むしろ自分が聞きたいとも思う。
「お前は僕と似た考えだと思ってた。勝手にそう思い込んでいたんだが、違ったみたいだ。受け身だが誰かそばに来ても戸惑いはしても邪険にはせず、伊藤と行動を共にして叶野や湖越とも話していて、最近ではクラスの連中とも打ち解け始めている。そんなに群れること……友だちって大事なものなのか?」
鷲尾は首を傾げて、俺の目をまっすぐ見て問いかけてきた。その目は純粋に疑問を投げつけてくる曇りも陰りもない子どものようだった。鷲尾の言い方が皮肉に聞こえるのは、そのハッキリとした口調で普通なら聞きにくいことを聞いてくるからなのかもしれない。万人が疑問に思いつつも暗黙の了解のように聞きにくいことや言いたいけれど言えないことを鷲尾は言えてしまうのだ。普通だと思えないぐらい普通に疑問に思っていることを普通に聞いているだけ。そんなところをきっと、彼の短所と感じてしまうのかもしれない。だが長所でもあると思う。
多分鷲尾は今の今まで『友だち』という存在に何の疑問も抱かずに『自分にはいらないもの』と切り捨てていたんだろうが、今その価値観は揺らいでいるんだろう。だからこうやって、鷲尾曰く『勉学を高め合えるような存在』……対等である俺にそう聞いてきたんだろう。
そこまでなんとなく理解できた、けれど。
「……悪い、俺にもわからない」
未だ俺にも答えは出ていない。伊藤は俺のことを大事にしてくれるのは分かるし、叶野も湖越も俺と話したいと思ってくれているのもわかる。だけど俺が友人として彼らを大事なのかはわからない。最近まで俺も鷲尾と同じように友だちがいなくて、俺のことを理解して俺をここにいていいよと言ってくれる人を望んでいたけれど、『友だち』が欲しいのとはまた違っていた。友だちとは何なのかという問いにも答えられないのだから大事なのかと聞かれても俺にはわからない。
……でも。
「……友だち、と呼べるかわからないが、伊藤も叶野も湖越も、鷲尾も俺は良い関係だと思ってる」
「良い関係?」
「……仲が良いとか友だちの定理とか分からない、けど俺はみんなと話すのが楽しいと思ってる。特に伊藤は……一緒にいるのも楽しい」
「楽しい……?」
「鷲尾は……叶野といるとき、楽しくないのか?」
「……わからない」
眉間に皺を寄せながら俺のことを睨むように見ながらそう答えた。俺から見ると叶野といるときの鷲尾は楽しそうに見える、笑い合うとかしている訳ではないので普通の友人関係とはまた少し違うかもしれないが互いに遠慮が無いところは仲が良いと思う。でもそれはきっと俺から言っても本人が納得しないんだろうから、鷲尾本人が答えに行きつかないと満足しないだろうから、何も言うことない。
「……具体的な答えは、俺にもよくわからない」
唸る鷲尾に俺がそう言うと、不機嫌そうな顔が嘘のように笑って……なんだか楽しそうに見えた。
「ふむ……それならばどちらがその答えに行きつくか競争だな」
そう言って、俺のとなりを通り過ぎて行ってしまった。何を言われたのかなかなか理解できなくて一瞬固まってしまったが、どうやら俺は鷲尾と競争することになったらしい、『友だちとはなんなのか』という答えに。これは競争とか単純な話ではない気もするが、まぁ鷲尾がそれで元気になるのならいいかな。俺も鷲尾の質問の答えが気になった。……あとで、伊藤に聞いてみようか。そう思いながら俺も鷲尾のあとを追いかけるように階段を降りた。