1.みんなとの出会い。


「伊藤と一ノ瀬を帰した、やと?」
「はい!具合が悪かったみたいなんで!」

 透からあんなことがあって責められるのが当然なのに反抗されるわいつの間にかいないわ、梶井に絡まれて肝が冷えるわで不快な気分になったんで、授業を終えたチャイムが聞こえたと同時に五十嵐に梶井のことを言っておこうと思い職員室に戻った。五十嵐が戻ってくるのを待って、しばらくしてようやく戻ってきたと思ったら、あの不愉快な笑顔と大声で「あっ桐渓さん!伊藤と一ノ瀬は帰しました!」そう言われて一瞬固まって聞き返したところや。

 こいつ、本当に自分勝手やなぁ……ここまで来ると怒り通り越して呆れるわぁ……。

「はぁ……五十嵐先生、保険医は俺なんやけど?と言うか、言うたよな?透は教室に戻る前に俺と普通に話してたんやで?なにか?俺は透のことを見ていなかったって言いたいんか?」
「ははは!まさか!保険医としての桐渓さんの腕は信頼してますよ?ただあまりに一ノ瀬顔面蒼白だったもんで、転校してきた初日ですし多めに見てあげようと思いまして!きっと桐渓の前では一ノ瀬が我慢してたのかもしれませんね!」

 阿呆みたいに大口開けてそう話す五十嵐に苛立ちを覚える。ちょっと嫌味を言ったところでこいつは少しも反省する気配も何もない。つか、本当に具合悪そうなら俺に言うやろ。なにしとるん、こいつ。一ノ瀬と話すとこいつに言ったとき訝しんでいたし、事後報告にしたのは絶対わざとやろ。

「……本当に透が具合悪かったとして、伊藤まで帰す理由はあらへんよな?その辺はどう言い訳するんや?五十嵐先生が送ってもよかったやろ?」
「ああ!一ノ瀬も知らない先生よりも仲のいい伊藤といっしょのほうがいいかな、と思ったんですよ!それだけです!」
「それだけ、で帰したんか……せっかく学校を欠席がちだった伊藤が、ようやく来たのに帰した、と?」
「そうなりますね!」
「……ハァ……」

 呆れてもはや溜息しか出なかった。
 こいつは何を考えとるんや?決まっていることを何も守っておらへんやん。こんなのが理科の担当とか終わっとるなぁ、頭まで筋肉で出来ていそうなやつが理数系やもんねぇ……世も末やわ……。
 俺らの会話を聞いていた周りも五十嵐のことを非難するように見ている。んー……まぁ伊藤がいても何もならへんし、透と問題児が2人一緒になるのはまぁ悪いことではないんかもね。そこまで考えてふと先ほどの透を思い出すと苛立ちも同時に沸き起こる。

 何やねん、本当のことを言っただけやろ。

 今まで従順に俺の言うことを聞いていたのになんで伊藤ごときのことを事実を言っただけであんな怒ったのか……訳分からんな。透も梶井も目の前のこいつも俺の意にそぐわぬことばかりやなぁ。さっきのことを思い出して来たらむかついてきた。そう透が言うなら、伊藤がいなくなったらどうなるんやろ?周りの先生方も俺らの方を見ている。今俺が少し大きな声で話せば響くなぁ……眉を寄せて悲し気な顔を張り付けてこう言ったらどうなるやろうねぇ?

「暴行事件の当事者の伊藤を、透と2人きりさせるってどんな神経でそんなことできるねん……」

 しおらしく俯いてそう言えば、とざわつく周囲。俺は笑みを隠すのに必死だった。『あの伊藤と2人きりさせるなんて』とか『五十嵐先生なんてことを』とか聞こえてくる。さっきまで俺らのほうを気にしていたくせしてそんなことも忘れている馬鹿な先生たちに呆れもあるが、まぁ良いだろう。
 これで次の日透に少しでも異変があれば伊藤のせいになるし、五十嵐も非難される。ああ、気持ちええなぁ。
俺の言うこと聞かへんからこうなるんや、そうや、俺は間違ったことは言うてない。透の保護者としてこの反応は普通であるし、これで伊藤も五十嵐も痛い目にあえば透に見せしめも出来て、梶井の件のことも俺の中で気が晴れる。五十嵐が、勝手なことをするから、こうなった。自業自得や。今後もうまくやれば、五十嵐をこのまま辞めさせられるなぁ。これが歪んだ感情であると気が付きながらも、止められない。なんて、気持ちがいいことなのだろう。……いつかの自分が嫌っていた大人と同じことをしている、ことには気が付かないままやった。
 さすがに周りからの視線に分が悪くなったのか、居心地悪そうに頭を掻いた素振りをするのが視界の端に移った。ざまあみろ、そう思った。

「あの!暴行事件は伊藤くんだけの責任じゃない、て結論になりましたよね!?」
「……岬、先生」

 五十嵐が非難され続けるなかで、空気を裂く勢いで叫んだのは、岬先生だった。またざわついた周囲を岬先生は睨みつけた。驚いて俯いた顔を上げれば、いつもの温和な雰囲気はどこへやらこちらを責めるように睨みつける岬先生と目が合った。その目が、先ほどの透と被って仕方がない。……正直、忌々しく映る。

「確かに、何も言わずに帰したのはいけないとは思います、ですが伊藤くんを悪者のように言うのも、気遣った五十嵐先生を非難するのは間違っています!!」

 周りの眼なんて知らない、と言わんばかりに真っ直ぐにそういう岬先生に、俺は確かに苛立った。朝まで温和だけど少し意志が強い先生だとは思っていた、けれど、さすがに周りの空気もあれば反論なんてしないだろう、俺の言うことを聞くやろうとそう思っていたのに。
 庇われた五十嵐は、やばい、と言わんばかりの顔をしていたことに気付く余裕なんてない。なにか言おうと思ったが、真向から反論した岬先生の言い分は教師としては正しいものだ。だけど、正しさだけじゃあかんこともあるんやで、岬先生。

「保護者としては心配なだけなんやけど、なぁ……」
「ちゃんと一ノ瀬くんの意見は聞いたんですか?」
「いや、でも」
「……確かに、言われる前に気付くことは大事だとは思います、ですけど……こちらの意見だけで決めつけるのは生徒の自己性を潰してしまうことになります。だから、もう少し生徒たちのことを信じてあげてください。おねがいします」

 岬先生の言うことは、青臭い若者らしい理想論だ。生徒を無条件で信用するなんてことをする先生なんてどのくらいおるんやろうなぁ。……少なくとも、目の前の二人はそうなんやろうけどなぁ、そんなのあるわけないやん、どうせ伊藤はまた事件を起こすやろ。梶井もだが反省の色もなく無反応に近かったくせして。
 そうは思っても頭を下げて懇願している岬先生の意見を否定すれば俺の立場は悪くなる。内心舌打ちした。

 結局このあとすぐ次の授業が始まる時間になって、その場にいた先生方は逃げるように各々の持ち場へと移動していった。
「……岬先生の言うことも一理あるし、ここは信じることにするわ」
 俺もそう言って保健室へと戻った。



 全部、全部全部全部全部全部全部!透のせいや!!憎々しい。あいつが灯吏と薫を殺さなければ、あいつが忘れていなければこんな風にならなかったのに!!2人を失わせた上に俺の立場も悪くさせて、あいつさえ、あいつさえいなければ!!!

 荒々しく保健室のドアを閉めて、机に拳を叩きこんだ。

 すべては自分のした行動のせいだ、なんてこと思わないようにした。大嫌いだった大人に自分がなってしまったことも、そもそも薫と違って灯吏に好意さえも伝えられずに終わってしまったことも、何もかもを見ないですべてを透のせいにした。そうでもしないと、昔は自分を保てなかった。特に親友と幼馴染を失った直後に命を懸けて助けた一人息子が記憶喪失であると脳が理解したときには少なくともそう思っていた。だけど、今は、いまは。ただ、自分の言う通りになる人形を欲していたのかもしれない。歪んだ感情を持て余した、その矛先に向かうのは、幼馴染であった薫と親友でありながら一目惚れした同性の灯吏の子どもであり薫と灯吏を殺したうえ忘れてしまった『透』ただ一人だった。
 醜い自分の姿は、保健室の窓に映っていた。その顔は、見れたものではない、醜く憎しみと妬みと……悲しみすべて混ざったまるで鬼のような顔をしていた。

――――

「あー心配だから連絡したいけど、伊藤くんも一ノ瀬くんも携帯番号どころかアドレスも知らないよー!」

 時刻は放課後。もうクラスの奴らは帰ったり部活に行ったりしているので俺ら以外には誰も教室にはいない。
 俺も希望も普段ならすぐに帰ったりバイトに行ったり遊びに行ったりするので、こうして残るのは今日レアなケースだ。
 いつもなら人の眼も気にせずにさっさと帰ってしまう鷲尾も、やはり一ノ瀬たちが気になっているようでこっちを見ていたけれど、結局時計を見て何か予定があるようで諦めたように、いつもよりも少しだけ足取り重く教室を出ていった。誰もいない教室に情けなく「昼休みに聞いておけばよかったー!伊藤くんにも聞くチャンスだったのに!」希望の嘆きが響く。
 机に突っ伏しながら後悔している希望をなだめるように頭を軽く叩いた。昼休み、一ノ瀬がトイレに行ったきり戻ってこない、理科室の場所もわからないだろうから待っていると言う伊藤に何も言えなくなって、理科室に行って五十嵐先生に事情を説明していくら経っても戻ってこなかったら伊藤のところ行くからな、といつも通り元気な笑顔で言ってくれてホッとしたのは束の間。一ノ瀬が具合悪くなったみたいでなかなか教室に戻ってこれなかったみたいだ、伊藤が送っていくことにしたから2人とも今日は早退になったぞ、と言われたのだ。具合悪かった、と言うにはあまり五十嵐先生は焦っている様子はなくて、それに生徒が生徒を送っていくのも変な話なのだ。
 だが、いつもの笑顔のはずなのに有無を言わせない雰囲気の五十嵐先生になにも聞くことは出来ず、こうやって不完全燃焼な希望は悶々としている訳である。

「……伊藤くん、一ノ瀬くんと一朝一夕の付き合いではなさそうだよね」
「そうだな、あんだけ伊藤が笑うなんて初めて見たな」

 突っ伏したまま俺のほうを見て伊藤と一ノ瀬のことを言う希望に頷いて肯定した。希望がどれだけ話しかけても、牛島に絡まれても……果てに事件の当事者になって停学をくらって明けたあと登校したときに伊藤に視線が集中したときも、いつもつまらなさそうにしていた伊藤が、あんなふうに親し気に笑いかけるなんてよっぽど一ノ瀬と深い仲であることが分かった。

「でもさ、伊藤くんは一ノ瀬くんのことを名前で呼んで親し気にしてたけど、一ノ瀬くんは伊藤くんのことを名字で呼んでるし、確かに俺らよりも伊藤くんに対しては遠慮はそこまでしてないけど距離があると言うか、伊藤くんの一ノ瀬くんへの接し方と一ノ瀬くんの伊藤くんへの接し方は温度差があるように見えるんだよね……。
まぁ、それが二人なりの親友の在り方、て言われちゃうと何にも言えないけどさ」

 なんか少し違和感あるんだよね、と続けた希望に『なるほど』と思った。確かにそう言われてみれば違和感がある、入学して同じクラスであった時間が長い伊藤のことにばかり集中していて伊藤もあんなに仲が良いやついるんだな、としか思わなかった。
 2人がいくつぐらいからの仲なのかは分からないが、小学校4年生のときに会った俺らでさえ下の名前で呼び合っているのだ。1人だけ親し気に名前で呼ぶのも少しおかしいな気もする。が、これも希望の言った通りそれが2人の在り方と言う場合もあるのだ。少し腑に落ちないが、あまり突っ込むところではないと言うのは分かる。正直伊藤と一ノ瀬のことも気になる、気になるが。

「お人好しなのはお前の良いところで俺も救われてるけどな、自分のことだって大事にしないといけないぞ」
「……はは、分かっちゃったかーさすがせいいちろう」

 顔を上げて口角だけ上げて力なく笑う希望。その顔色は少し悪くて、少しだけ震えている。同級生の見たくない部分に囲まれて来て、人間不信になって今も傷を抱えたままなくせに他人のことばかり気にする希望のお人好しさには、少し悲しくなった。裏切られて悲しくて、いじめ紛いなことをされて苦しんで、それでも性根が優しくて真っ直ぐだから人を気にせずにはいられない。だから、クラスで浮き気味で一人で良くいる伊藤や鷲尾に話しかけずにいられない希望は、すごいやつだ、と思う。

 ……俺にも、希望の優しさと勇気が少しでもあれば、あの子に昔みたいに話しかけられたのだろうか。

 あのままにしてはいけないのは、分かっているんだ。分かっていても、あの子はあのころと何もかもが違っていて、自分を憎んでいるであろうあの子に話しかける勇気はなくて……希望を逃げ道にしている自分に気が付きたくないんだ。

「……俺はお前の味方、だからな」
「……誠一郎にそう言ってもらえるのは嬉しいし、確かに安定するけど、さ」

 あの子のことは良いの?と希望は言わなかったけれど、でもその目はそう語っていた。その目が苦手で何も言わず、目も合わせずにいた。後ろめたさは確かにある。自分の未熟さが浮き彫りになったようで、それが恥であることも分かっていたから。

「……まぁ、未だに過去に捕らわれちゃってる俺が言えることではないけどね」
「……」

 苦笑いを浮かべながらそう言う希望。違う、それでも俺と違って希望はちゃんと前へ進もうとしているじゃないか。そう言いたかった。でもそう言えば「俺も誠一郎を逃げ道にしてるよ、お互い様だよ」と言われてしまうんだろう。そして、俺がそれを言う資格はない。

 未だにあの子との約束を破ったことすらも謝れていないどころか、今のあの子の受け入れられていない俺が希望のことをとやかく言えないのだ。

「さてと、帰ろうか!五十嵐先生明日は一ノ瀬くんたちは絶対に元気に来る、とか言っていたけど本当かな……」
「……どうだろうな」
「本当なら明日こそアドレス交換しようっと!」

 宥めていたはずなのに、いつの間にか逆転して気を遣われてしまった。前を行く希望に相槌を打ちながらついていく。小学生のとき同じぐらいだった身長は、希望が地元に帰ってきたときにはいつの間にか俺が追い越していた。大きく見えていた背中は俺よりも幾分も狭い。でも器の大きさだとか人として出来ているのはやっぱり希望のほうだ。裏切られても辛く当たられても、凹んでも、俺に寄りかかりながらも全部俺任せにはしないで出来る限り自身の意志で生きている希望。そんな希望を俺は超えられない。

 俺もこのぐらい強かったら、恐怖も隠してお前のところに飛んで行って話しかけることも謝ることも出来たんだろうか。

 なぁ、信人。俺は俺を憎んでいる信人とどうしても会うことが出来ない俺を、許してほしい。

 そんな身勝手なことを考えていたのを信人は知っていたんだろうか、知ってしまったんだろうか。俺は今のお前のことを分からないけれど、お前は俺のことを良く知っているんだな……。自分に罰が与えられるより、周りにいる人間が傷つくことになる方が、俺にとって効果的なんだってことを。

――――

「……悪かった、服」

 透がそうしおらしく謝った。思いっきり涙やら何やらがTシャツに染み込んでしまい、色が濃くなってしまった。体育も無かったもんで着替えはなかったから、いつもは全開にしている学ランを第3ボタンまで閉めて誤魔化した。胸らへんがひんやりしているけどまぁ耐えられないほどではない。
 あの後、やっと泣き止んだようすの透に水を買ってやって目を冷やさせて、落ち着いたのを見て駅まで歩いて今電車を待つために駅のホームのベンチに座っていたところでようやく透が口を開いたところだ。

「気にすんな。それより、すっきりしたか?」

 冷やしたと言ってもまだその目は少し赤い透が俺の言葉にうなずいた。無表情さは常のことだが、どこかすっきりしたように見えた。

「……正直、泣きすぎて頭痛い」
「まぁそうだよなぁ……」

 あんだけ泣いたんだから頭痛が起こるのも無理はない。よっぽどため込んでいたんだろうな、ああして泣いているの見たのは俺も2回しか見たことがない、今日で3回目だ。

「……あー……」

 呻きながらベンチに寄りかかって腕で目を抑えてその顔は見えなくなってしまった。まぁ俺が気にしていなくても透からするといろいろ思うことがあるんだろう、そっとすることにした。見た目こそどこか儚ささえも感じさせる浮世離れしている容姿のせいか、普通の男子高生ならよくすることを透がすると違和感があるんだろうか、周りが透に見惚れているような視線から驚いたように見ている視線が多数。
 俺がチラッとそちらを見ると慌てて視線を逸らした、あー鬱陶しい。透のことも俺のことも、見た目で判断してくる奴らばかりで、本当に嫌になる。だから透も俺も周りの人間に嫌気が指していた。
 特に大人……桐渓みたいなのは特に嫌いだ。こっちの話聞こうともしねえし……あ、いや俺も話すの放棄していたんだけどな。
 どうせ俺の話なんて聞かないだろう、てな。でも、そんな大人たちがいたおかげで俺と透が仲良くなれた訳で……世界って単純なような複雑なような、変なものだよなぁ……。透の方を見てみても顔を隠されているのでその表情は読めないが、吹っ切れた余韻なのかたまに意味のない低い呻き声が聞こえてくる。

 記憶喪失、か。その理由は自分の父さんと母さんを自分を庇ったせいで亡くなってしまったことを直に見たことのショック、と言っていたな。透自身記憶喪失で周りにそう言われただけみたいだから、物的証拠はないんだろう。あるのは状況証拠のみ。となると、引っ越す前の透のことを思い出してみても、やっぱり信号無視をして轢かれそうになったところを両親が、と言うのは違和感しかない。
 当時、透は口より行動に出てその涼やかだがあどけなさのある綺麗な顔と華奢な身体とは裏腹に言いたいことはずけずけ言って我慢をすることもせず、俺のことを庇う際には殴り込みに行くなどとなかなかに乱暴なところもあった。
 かと言って人を理不尽に傷付けることやルールを違反することが良しとするという訳ではなく、理不尽と感じない規則ややらねばならないことへの責任は重んじる傾向がある。門限は守っていたし大人がいけないと言ったことには基本従っていた。
 信号だって門限があっても早く帰りたい早く遊びたいと急いでいるときだってどれだけ楽しみにしていることがあってもちゃんと青になるまでこっちが焦れてしまうほどしっかりと守って待っていた。車がいないなら渡っていいのに、と言っても首を縦に振られたことはない。だから、あの透が信号無視なんて、と思ったのだ。
 ちゃんと透のことを知っているのならそれは有り得ないと言い切れなくても、その誰かの憶測を本当なのか?と疑問を思えるはずなのに。

 周りに人間の誰もが、透自身のことを見てなかったんだな。記憶のある透のことも、今の記憶のない透のことも。『子ども』だからこうしたのだろうとそう押し付けられたんだ。本当の意味で透を見ていたのって、透の両親だけだったんだろうな。

 ……俺の目を見ながら涙が出ていることにも気が付いていないかのように、普通の声音で自分の罪を話していたときには、本当はすぐにでも『泣くなよ』と言って涙を拭いたかった。それを見ていたら胸が苦しくて仕方が無かった。それでも俺に聞いてほしいんだと涙があふれながらも真剣な顔で話していたから。何も言わず話を聞こうとそう思った。

 俺は透にどんな理由があっても、どんな罪があって、そのせいで世界中が透の敵になっても俺は透の味方で隣にいる、そんな覚悟はすでに俺には出来ていたけれど、でも何も聞かないで味方だと言うのはただ単に透を甘やかしているだけなのだと、透の目を見ていたらそう思ったから話を聞かなければならないと思った。

 透が前に向くために必要なことだと受け入れた。……そう言えばさっき、随分えらそうなことを言ったな、俺。
 思い出さなくても良いとか泣いてもいいとか……何様なんだよ、と今なら恥ずかしいし頭を抱えたくもなる。だけど、まぁ……それで透にとって少しでも救いになって吹っ切れたのなら、まぁいっか、とも思ってる。

 いつか、俺は『思い出さなくても良い』と衝動的に言ってしまったことを後悔するんだろうな。衝動的……となると何も考えずに発言したになってしまうが、少し違う。ちゃんと心の底からそう思った心からの言葉だ。少なくともあのときあの瞬間、そして今もそう思っている。けれど心は移ろいゆくものでもあるのだと、身を以って知ってる。昔のときは後ろ向きから前向きへと変わったが、今回はきっと、やっぱり俺のことを思い出してほしい、と苦しむことになるのかもしれない。

 そのとき俺はどうなるのか、正直皆目見当がつかない。透のことを傷つけてしまうことになる結果にならないことを今の俺は願うだけだ。心がある限り移ろいゆくのは普通のことだ、それは前向きであれ後ろ向きであれ、特に今高校生と言う大人でも子どもでもない中途半端なこの年頃ならば尚更に。そう言われたことがあったのを思い出した。そのとおりだと思う。

 勿論俺だけが変わるわけではない。それは、透だってそうだ。特に今ちゃんと生きようと決めた透も、これから心に抗ったり受け入れたり迷走したり投げ出したり、これからきっといろいろ起こるんだろう。そのとき、俺が『思い出してほしい』の言葉にどう思うんだろうか。最悪俺と透が傷つき合っても、それでもとなりにいれたらいい。

 そんなことを思いながら透の方を見ると、目が合った。

「……なに」
「いや、お前こそ」

 目が合ったことに少し驚いたように目を見開かれて、すぐに元の表情で何故か少しふてぶてしくそう言うものだからつい笑ってしまった。透はやっと腕を下ろして、こちらを見ている。その眼は赤さが引いていていつも通りの灰色の眼。しばらくじとっと俺を見ていたけど、透のじと目になって少し不細工になっている顔がおもしろくて笑い続ける。

「……はは」

 俺につられたのか、透も笑った。教室で見たような泣き出しそうな笑顔じゃない、普通の男子高生が良く見せるような歯を見せて少し雑な笑顔だった。やっと普通に笑った透がうれしかった。なにかに潰されそうで儚く消えてしまいそうな……死んでしまいたいと思っていた透じゃなくなったことが、普通に笑えることがうれしくて仕方が無かった。今度こそ、記憶はなくても、自分は自分としてちゃんと生きたいと思える透がいる。透はきっとこれから大変なんだろうが、今は嬉しい、それだけで充分だ。
 細かい事なんて、そんときになって考えりゃ良い。辛いことや悲しいことばかり考えていたら何も出来やしないんだ。一歩進んでいるのか、それとも一歩後退しているかなんて俺らにはわからない。もしかすると動いてすらいないのかもしれない。だけど、今はそれでいいことにしよう。どうせ分からないなら、好きなところに行けばいい。間違えたら戻ればいい、戻れなくても一緒にいればいい。そんだけ。

 今が良ければ、良い。今はそれでいい。透は難しく考えるだろう、なら俺は単純に行く。きっとそのぐらいがちょうどいい。


 透が幸せであれば俺はうれしいんだから。

――――

 いろんなことが起こりすぎた1日、いや2日間だった。今日を振り返ってそう改めて思った。良い担任に会って優しい大人に会って、普通にクラスのなかに入って普通の男子高生みたいな日。まるで夢のような日だ。これからそんな日が続いていくんだ。自分を責めてもいいから後悔したっていいから、それでも『人間』として生きてほしいと言ってくれた、初めてのひと。
 今は、根本的なことは何一つ解決していなくても罪は相も変わらず続いていて、何も感じずにいるふりをするよりもちゃんと人として生きることのほうが辛いのかもしれない。進んでいるのか後退しているのか分からない、動けてすらいないのかもしれない、立ち止まったままなのかもしれない。それでも、ちゃんと生きる、と決めた。
 ちゃんと怒りたいときは怒るし楽しみたいときは笑うよ、それが、両親が願っていたことなら、記憶を失った俺がしていいのかわからないけど、それでも伊藤がそう言う風に生きることを望んでくれるなら、罪の意識に潰されそうになって桐渓さんになにか言われてもそうしよう、俺もそうしたいんだ。

「いつか、いつになるか分からないけれど、それでも、絶対に思い出せるようになるから。だから、今はどうか俺を許してください。……父さん、母さん」

 目を閉じて脳内にある写真の中の彼らにそう言う。初めて彼らのことをちゃんと父さん母さんと呼んだ。少し、居心地の悪い気持ちになった。皮肉にも無駄に記憶力のいい頭で写真を思い浮かべる。記憶のない俺には写真のなかでの彼らしかわからない。
 写真だからその表情は変わらない、だけど、怒ったり責めたり悲しんだりする予想は出来なかった。写真がとても幸せそうだっただからだろうか。それとも……都合の良い予想が過りそうになって頭を振って拡散させた。
 さすがにそこまで思ってしまうのは記憶のない俺が予想するにはあまりに都合が良すぎてしまう、だから写真があまりに幸せそうだったから怒ったりなんて想像もできない、と脳が予想するのをあきらめたんだ、と言うことにした。

 布団に寝っ転がりながら、携帯電話を見た。……相変わらず、桐渓さんからのメールの嵐は収まらない。よっぽど保健室から逃げたことに苛立ちを覚えたんだろう。朝から見ていないので未読のメールがとんでもない数になっている。
 確かに身近に自分の親しい人たちを失わせた原因となった俺がそばにいるのは桐渓さんからは耐えきれないところなのだろう。それは分かる、それは俺が受けなければならない罪であると。だが……今日まで俺にしたところをほかの人に見られて困るのは桐渓さんのほうで。しかも、わざわざ授業が始まる少し前に呼び出して、学校で問い詰められるのは……俺が言うのもあれなのかもしれないが、少し……異常だと思う。

 俺は俺のことについて言い訳するつもりはないけれど、学校にまで……彼の立場からすると職場なのだが、職員としての立場を利用するのは決してよろしくはないことだ。出来ることなら桐渓さんからの呼び出しを避けたいが……先生として呼ばれてしまえば俺は行かざる得ない。上手く呼び出さないようするしかないか……。
 桐渓さんからのメールを開いていけばいくほどに、どんどん汚い言葉になっていく。『お前がいなければ』と言う内容のメールがいくつもあって、気が滅入る。新たにメールが届いたことを知らせるバイブレーションに少し驚きながら反射的に新しいメールを開いた。伊藤からだった。

『さっきぶり。今日は疲れただろ、明日五十嵐先生には学校行くって言っちまったけど無理するなよ』

 シンプルに、でも俺の身を案じてくれているメールだった。さっきまで伊藤はこの部屋にいたのにな。心配されるのが聊か不謹慎かもしれないが、やっぱり嬉しいと思ってしまう。

『大丈夫だ、ありがとう。明日、また』

 メールが届くことはあっても返信はほとんど求められてなくて、しても『はい』ぐらいなものだから慣れない手つきで文字を打ち込んで送信した。何度でも伊藤に礼を言いたい気持ちだったが、あまり言えば迷惑になってしまうだろうから、言っても問題ない流れで思ったら言うことにした。何度言っても足りないぐらいのうれしさだ。
 誰かと一緒にいる安心感、誰かに信頼される安堵、誰かと一緒にご飯を食べる喜びも、俺がいてもいいんだと認めてくれたことも、すべてに、感謝している。いつか苦しみあう日が来るとしても、今は、幸せだと思えた。
またメールが届く。

『また明日な』

 その言葉すらもうれしい。明日が来ることをこれほど待ち望んだ日はなかっただろう。
 消えてしまいたい、と思うことすらも徐々に思わなくなって、ただ呼吸を吸って吐いて、出されたものを口に入れて、誰かと話すこともほとんどなく、勉強するかボーっとしているかそれだけだった。楽しさどころか苦しみすらも感じないようにしていたのかもしれない。自分が傷つかないように。でも、今は違う、傷ついても苦しんでも、ちゃんと生きて見せる。

「……また、明日」

 明日から、今までとも今日とも違う明日が始まるんだと思うと胸が暖かくなった。そして眠くなった。瞼を開けることすらも困難になるほどの睡魔。こんな睡魔も今までやってきたことはない。眠くなくとも決めた時間に布団に入って目を閉じればいつのまにか意識が無くなっているの常だったから。でも、あれだけ泣けば疲れもするか、と納得もする。ただでさえ転校初日だったり色んなことがあった上に泣いて叫んだのだから。メールも区切りがついたので、そのまま返信はせず、歯を磨いて眠ることにした。

 寝ようと部屋の電気を消して布団に潜って目を閉じた。意識が遠のく前に思い出したのは伊藤に抱きしめられた感触とか俺に泣いてくれよ、と言ってくれたどこまでも優しい笑顔だった。それを思い出して、心地よさに胸が満たされて胸あたりをぎゅうっと握りしめた。暖かさが優しさが嬉しくて仕方がない。その心地よさとともに、意識は眠気に穏やかに攫われた。

――――

 明日から、自問自答しながらそれでも自分として生きるために足掻く日々が始まる。正直恐いし傷つくのは嫌だとも思う。だけどきみが、伊藤がとなりにいてくれるなら、頑張れる。


 いつかは、何の隔たりもなく笑い合いたいから。
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