1.みんなとの出会い。
「足だいじょうぶか?」
「……ああ」
登校してきたときとは違う、体育館裏にあった小さい門から学校を出て歩いていた。本当はこのまま帰ろうと伊藤は言ってくれたんだが、どうしても今すぐ話したいことがあるんだ、と言ったらこっちのほうなら座れるところがあるから、と案内してくれた。内心不安でいっぱいで逃げ出したいとも思う。
それでも、初めて怖いと思いつつも伊藤には誠実でありたいと思えたから、ここは勇気を持つべきなんだ、と思う。
伊藤も俺の雰囲気を察してくれているのか言葉少なに、でも俺の足のことを気にしてゆっくり歩いていてくれた。その気遣いだけで俺はうれしいんだ。嬉しいを伊藤に返せないから、せめてちゃんと俺が伊藤を忘れてしまった理由を話したい。
伊藤の行くがままに歩みを進めていると、遊具もなんもない数個ベンチがあるだけのただ土と端に木が生えているぐらいのそこまで大きくはない広場があってそこに入っていったので伊藤について行った。平日の真昼だからか人の気配はなかった。
「ここなら今の時間人もいねえし、話せるよな?」
「……ああ、ありがとう」
数個あるなかの木の下にあって影になっているベンチに伊藤は座ったので、少し間を開けて隣に座った。……どう話を切りだして分からなくて、沈黙が続いた。伊藤も俺が話し出すのを待っているのか何も話しかけては来なかった。
座って何度も静かに深呼吸をしてみても、不安は抜けなくてむしろ悪化してただ座っているだけだけど、落ち着かない。ちゃんと自分からなにがあったのか、と説明するなんてこと初めてのことでどうしていいのかわからない。
言いたい、だけど恐くて訳が分からない。桐渓さんの目を思い出してしまう、あの冷めているのに怒って悲しんでいる目を。そんな目を伊藤に向けられる、と思うと竦んでしまう。決意するのは簡単でもそれを実行に移すのとは違うんだと今知った。
「なぁ、透。……お前がこれから話そうとしているのってさ、俺の予想なんだがお前の記憶のこと、なのか?」
「……」
いつまでも沈黙が続いて、結局俺が言いだす前に伊藤にそう聞かれてしまった。やっぱり察していたようだった、そうだよな、少し予想すれば分かることだ。ずっと言い淀んでいたことで気軽に話せない、となればそうなるのも当然だ。
そうなるのが当然となれば、伊藤は優しいから『辛いのなら話さなくてもいい』と言ってくれるんだろう。昨日からずっと聞かずにいる伊藤、それはとても優しくて暖かくてありがたくもあり、罪悪感も同時に覚えたんだ。
だって、ずるいだろう?
なにも知らないでいる伊藤からただ優しさだけを甘受出来るほど、愚鈍ではないんだ。優しさに甘えるのはきっと、楽な道であり自分は傷つかないでいられる。伊藤からも自分からも逃げて見て見ぬフリをして伊藤に依存する、なんて優しい道なんだろう。
伊藤には茨だらけの痛い道を歩ませておいて、俺だけはぬくぬくと傷一つなく歩くのは絶対に嫌だ。優しさに全てを委ねるんじゃなくてそれに少しだけ寄りかからせてほしい、優しさはきっとそれぐらいでいいんだ。
「……ああ。いまからそのことについて伊藤に話したいんだ。……それで、伊藤が離れても憎まれても良いから、ちゃんと理由を知っていてほしいんだ」
俺の言葉に、否定しようとして口を開こうとしたが『聞いてから考えてほしい』と言う意志を持って伊藤の目を見つめればぐぅっと口を噤んで少し下を向いた。少し何かを考えたようなそぶりを見せた後、すぐに意志の強い眼で俺の目を見た。傍から見ればまるで睨み合いのように見えてしまうんだろうか。脳の中のどこか冷静な部分が呟いた。互いの意志の確認を目で訴えた後。
「……分かった」
すぐにでも否定したいのをぐっと抑えてそう返事をしてくれた伊藤に「ありがとう」と感謝する。ここで否定してくれたら俺はそれを喜んで、今の自分の決意もなく話してしまうだろうから。だからこそ、何も言わないでほしかった。一ノ瀬透の親友でいてくれる彼には申し訳ないけれど、これは一ノ瀬透ではない俺の、彼を親友として見ていない俺の……俺なりのけじめ、だから。
あれだけ俺の名前を呼んでくれても存在しているんだと言ってくれても、やっぱり俺は伊藤鈴芽の親友、一ノ瀬透にはなり切れないし伊藤のことを思い出すことも出来ない。俺は一ノ瀬透と言う名前であっても、彼の親友の一ノ瀬透では在れないのだ。
あれだけ自分のことを認めてほしい、なんて言っていたのにいざそうなれば自分は一ノ瀬透ではないんだとそう思ってしまう自分が嫌にもなる。せめて、伊藤に俺のことを肯定する権利も否定する権利もないといけない。
そうじゃないと、フェアじゃない。ただ俺のことを受け入れてくれて俺の都合の悪いものを弾いてしまえばそれこそ、親友でもなんでもないただの共依存になってしまうだろうから、伊藤の逃げ道を潰してしまうから。
それは避けたかった。一回深呼吸をして、今度こそ俺は話し出した。
不思議とさっきよりも落ち着いていて、気持ちのほうも静かだった。まるで嵐の前の静けさのように。
――――
「……伊藤も察していると思うが、俺は記憶喪失なんだ。忘れてしまっているのは伊藤のことだけじゃなくて、その前日……いやその日の朝食べたものも、あの家で過ごしていた日々も……両親のことも俺は顔すらも忘れてしまった。なにもかもを、俺は忘れている」
「……そうか」
やはり察していたようで、静かに頷く伊藤。その表情は暗く、悲し気に見える。
「……記憶喪失の原因とされているのは、両親を目の前で……亡くしたのを直視したんじゃないか、と推測されている」
「!お前の父さんと母さんが……そう、か」
「……」
呆然と呟いた伊藤は、俺の両親とも親交があったようだ。仲、良かったんだろうか。祖父や桐渓さんが見せてくれた写真のことを思い出した。その写真に写っていたのは、日本人にしては色素の薄い栗色の髪と目をした顔立ちが俺とどことなく似ている男性と俺の髪と目の色が同じ女性だった。
男性は控えめだけど静かに照らす月の光のような笑みを浮かべていて女性は花が咲くように明るく笑っていて、幸せそうな写真だった。その写真のなかでその女性のお腹が大きかったのでこのなかに俺がいるんだろう。本当に幸せそうな写真で……それを見て俺は酷い頭痛に襲われた。
この人たちの幸せを壊してしまったのは、女性のお腹のなかにいる俺のせいなのだと実感してしまって、どうしていいのかわからなかった。俺を辛かったな、と言わんばかりに俺を見つめてくる伊藤の目を見て俺は言った。胸が痛んだのは見ないフリをした。大丈夫。見ないフリは得意だから、だいじょうぶ。自分に言い聞かせる。
「2人が亡くなったのは、俺のせいなんだ」
目を見開いた伊藤がスローモーションに見えた。俺が病院で目を覚ましてすぐ『ぼくは、だれ……ですか?』と祖父と桐渓さんに聞いた瞬間と同じだった。
心配そうに俺を見ていた2人は俺がその言葉を発した瞬間目を見開いたのだ。それが今と同じようにスローモーションに感じた。
『お前のせいで、あいつらは死んだのになんで、お前は忘れているんだ!!お前のせいで薫は、灯吏は……死ぬことなんてなかった!』
そう心から叫んだ祖父の、憎しみと悲しみの混じった顔を俺は生涯忘れることはないだろう。頭の中でそのシーンが思い出された。そのシーンを目を閉じて少しだけ浸って……すぐに心の底に沈めた。
今、俺の前にいるのは……話しているのは伊藤だから。
勿論祖父の悲痛な叫びを俺は金輪際忘れるつもりはない、それを胸に刻んで過去も今もこれからも生きていくつもりだ。でも、その記憶は今と混ぜ込んではいけないんだ。責められるにしても何にしても伊藤は伊藤で祖父とは違う。今だけは伊藤のことが最優先したいから。
伊藤の眼から逸らさずに俺は続けた。声が震えそうになったけど、気付いていなければいい。手が勝手に震えるのが酷く情けない。
「俺が信号無視して……やってきた車から2人は俺を庇って、それを直に見た俺はショックで記憶喪失になったらしい。そして……両親のことだけじゃなくて事故に遭う直後から以前の記憶を全部忘れてしまったんだ。記憶を思い出させようとしてくれた祖父たちに頭痛がひどいからって拒否して、そのことに責められても見て見ないフリして何も感じないフリした、自分が傷つきたくなかったから。責められても仕方が無いことなのに、な」
「……」
伊藤は何も言わず俺の話を聞いている。どんな表情をしているんだろう、伊藤の目を見ているのだから確認出来るはずなのに、視界が何故かぼやけてよく見えないんだ。よくわからないけれど、でも話は止めたくなかった。喉がカラカラに枯れて唾を一回飲み込んでまた、俺は続きを話す。
「……あれから6年経った今も、俺は思い出すことはなかった。思い出すつもりも、ないんだ。傷つきたくない、そうやって逃げて俺には思い出すことなんて無理だと思い出すことを放棄した。諦めてる。なのに、俺は生きている。一ノ瀬透でも何もない俺には価値なんてないと思っても、消えてしまいたいって思っても、……俺が死んでしまえば、それこそ両親が何のために俺を庇ったんだろうと理由がなくなってしまう、と思ったから。笑うことも悲しむこともしないようにしてきても、せめて、両親が俺を庇ったその理由だけは無かったことにしたくなかったんだ。人間として楽しまない代わりになんとしてでもこの世界で生きようって。呼吸の仕方すらもよくわからなくなっても、そうしよう、そう決めた」
『思い出すこともできないのに』と、『消えてしまいたい』と、何度思ったのかわからない。
それでも、俺を庇った挙句に庇われた本人はそのことを忘れられていても、俺が死んでしまえば庇った理由すらもなく2人は本当にただ死んだのだと言う事実しかなくなってしまうのだ。
学校にも家にも居場所が無くても、無くした記憶を思い出すことを放棄しても、何も感じないふりをして何も話さないで息を潜めて自分は人ではないと否定しながらもそれだけは決意していた。
一ノ瀬透ではないからこそ『ここにいる今の俺』が決めた。だれにも言うつもりのなかった、一ノ瀬透ではない『だれか』である『俺』だけが持っていて、唯一の存在理由。
「……こうして俺のことを待っていた伊藤のことも俺は思い出せなくて……これだけ俺のことを良くしてくれているのに、俺は正直思い出す気は未だにないんだ」
祖父たちにアルバムを見せられ、思い出そうと少し頭を使っただけで立つどころか目を開けるのも辛い酷い頭痛に苛まれて目を閉じて頭を抑えて痛みに悶えると祖父たちは髪を思い切り掴んで思い出せと詰られた。
それ以降俺は思い出す、と言うことに一層恐怖を感じた。うまくいかなければ、みんな怖くなるとそう知ってしまったから。髪を引っ張られて顔を反射的に上にあげたときのあの2人の顔は、夢にも出てくるぐらい鮮明だ。憎々しげに、憎悪を隠すつもりもない、そんな表情を。
「待ってくれたのに、優しくしてくれるのに、何も聞かないでいてくれるのに、俺は何も返せない。……むしろ、俺は伊藤を不幸にしている」
最低でも6年、伊藤は待っていてくれたのに、俺のことを優しくしてくれて気遣ってくれて、それなのに俺はなにもできない。何も、返せない。思い出を語ることも、再会を喜ぶことも、伊藤がそうしたいと望むことを、俺には出来ない。それが悲しくて伊藤に申し訳ないと思いながらも、俺は現状を変えたいと思えずにいる。今も恐怖しかない。
前を向くには、恐怖があまりに大き過ぎて、足に力が入らずへたり込んでしまうぐらい、こわい。
「こんな俺が生きてしまって庇われて、記憶もなくて、俺は何のために存在しているんだろう、どうして俺は忘れてしまったんだろう。……ずっと両親じゃなくて……こんな俺が死んでしまえばいいのにって、そう思ってた。…いや、そう思ってる。せめて、何も感じないように生きていくのが罪滅ぼしなんだって、思ってる。でも、悩んでいる。生きていくこと自体罪滅ぼしにもならなくて、いっそ、俺なんていなくなってしまえばいいのに。記憶のない俺なんて、誰もいらないんだから。そう、思い始めてきているんだ」
それなら、みんな今よりは幸せだったのではないかと常々思っている。そうだろう?俺のせいで不幸にした。俺のせいで両親は亡くなって、俺のせいで祖父は自分の娘を亡くした、俺のせいで桐渓さんは幼馴染と親友を亡くした。ぜんぶぜんぶ俺が、悪いんだ。
俺が生まれたこと自体、間違いだった。記憶を失くすべきじゃなかった。そうすれば、伊藤をここまで待たせることはなかったのに。頬になにか水滴なようなものが伝う感覚があったが、それでも伊藤を見続けた。
「……なぁ透」
「……ああ」
伊藤から発せられたのはすごい、どすが効いたかような低い声だった。感情を押し殺したかのような、平坦な声を意識し過ぎてそれを抑えきれなくてかなり低い声になってしまったかのようだった。顔はぼやけて見えなかったけれど肌色の……たぶん手が俺の顔に近付いているのは見えた。
殴られるのかな、怒られるかな、怒鳴られるかな……冷たい目で見られるのかな。なんでもよかった。伊藤は俺の話を全部聞いてくれたから、伊藤からすればふざけるなと怒鳴られてもおかしくないことを俺はすぐに言わなかった上に、話してもうじうじと言っていたのだから。
受け入れられたら嬉しいけれど、受け入れられなくても仕方がないとも思った。むしろどうして受け入れてくれると少しでも思っているんだろうか、馬鹿みたいだ。俺が両親を殺したくせに。内心自分をあざ笑う。
蔑まれることが当然だ、救いを求めること自体が間違っているんだ、そう思い知った。今度こそ、なにも期待しないようにしないとそう決めた。
なのに。
その手は俺の頬を殴るのではなく、なにかを拭うように頬を擦った。暖かい手だった。拭うよう、ではなく実際俺の頬にあった感触は徐々に上へと昇っていき、それは瞼の少し下までやってきて反射的に目を閉じた。
少しすると暖かさが離れていって、それにつられるように目を開けると視界はさっきよりもクリアになっていて、目の前の伊藤の顔が良く見えた、そして彼は。
「なんでもない顔のフリして普通のことのように話ながら、泣かないでくれよ」
低い声でそう言って、その目に涙をためて悲し気に、でも笑いながら俺を暖かく見ていた。さっきの低い声は泣くのを抑えていたんだと知った。伊藤の顔がはっきり見えて、嬉しいのに胸が苦しくて少し悲しくて、せっかく話ながらいつの間に流していた涙を伊藤が拭ってくれたのに、また涙があふれた。
「透、辛かったな」
「……っ…う、」
「俺に話すのも本当は怖かったんだろ?話してくれてありがとうな」
涙を止められなくて嗚咽が込み上げる俺をなだめるように背中を叩いてくれる。優しい言葉とその手につい甘えてしまいそうになるが、それでは意味がない、ちゃんと聞かないといけないんだ。
嗚咽は止められなくても、子どものように泣き叫ばないように我慢しながら質問したその声は低くて変な声だった。ぐっと前にいる伊藤を手を伸ばして押して少し距離をとって、伊藤と目を合わす。
「責めない、のか」
「なにを?」
伊藤が何を言っているのかと本当にわからないのか、あえて聞いているのか今の俺には判断はつかない、自分自身が冷静ではないのは一応分かっている。
少し、戸惑って意を決して自分の口から自分を責める理由を言った。
「……俺が、両親を殺した、原因なのに」
「……そうだな、確かに俺もお前の父さんと母さんには随分良くしてもらっていたからショックがないと言えば嘘になるな。お前もいろいろ思うところはあるだろうし、そう責めちまうのも仕方ないとも思う。だから、お前が原因なんてそんなことあるわけがない……って、俺が言ってもお前は認められないよな……。頷けない、よなぁ」
それはそうだ。いくら伊藤に俺のせいではないと言ってくれても俺が犯した罪だ。俺のせいじゃないと言って逃げることは許されてはいけない、俺自身が許してはいけないんだ。
「だから、俺はそれを否定しない代わりに責めないことにした。お前の両親のことは残念だと思うし、ショックも受けてる。でも、俺は何よりも透が帰ってきてくれることが、やっぱりうれしいんだ」
「記憶も、ないのに?」
「あってもなくても、な」
なんでそう昨日と同じ笑顔で言い切れるんだろうか。どうしてさっきの話を聞いてもなお伊藤は優しい?両親を殺した上に記憶のない俺なんて一ノ瀬透じゃないのに、なにも返せないのに、不幸にさせてしまうのに。
「今何かごちゃごちゃ頭の中で考えてんだろうな、透。理解してやりてえしお前の質問には一つ一つちゃんと答えてやりてえんだけど、俺透みてえに頭良くねえんだよ。とりあえず、俺はお前に何かしてほしくてお前に優しくしている訳じゃない、何も聞かないわけでもない、ただ傷つけたくないだけ。それだけだ」
「どうして」
「さぁな、まぁ親友だからな」
うじうじと疑問ばかりの俺に伊藤は簡潔にそう言う。簡潔に言われると、こっちが戸惑った。なにも言えずにいると伊藤は言った。
「お前は否定するだろうけど、言いたいこと言わせてもらう。お前がしてきたこと、何も感じないフリしたり、とか……何もわからなくて不安になっているところでそんな扱いされたらそりゃ逃げたくもなる。今聞いた感じだと誰もお前を守ろうとしなかったんなら、お前は自分を守ろうとしただけだろ、なにも悪くない。お前が信号無視したなんて正直考えられねえけど……もしそれで本当に両親亡くしたんなら、記憶喪失になったのも分かる気がする。透は両親のことが大好きだったの知っているし。よほど、ショックだったんだよな。ただでさえ亡くなったところを間近で見て、しかもその原因が自分だとするなら、耐えられないよな。記憶喪失になって、思い出すことを身体が拒否するぐらいだ、きっと自分を防衛してるんだろう。お前は何も悪くない。ここまで追い詰めてた周りが断然悪い。俺からするとそいつらのほうが胸糞悪い」
「……いや、そうじゃない。俺のせい、だ」
「お前は自分を責めても良い、でもこれは俺の意見だからな」
否定は透でも許さねえぞ、と真剣な顔で釘を刺されてしまう。無条件に悪くないなんて言われるのも初めてのことなので、随分と落ち着かず居心地が悪い。それでも自分はそう思っている、と言われてしまえば俺はこれ以上否定は出来なかった。
「あと、本当に両親のためを思うのなら、それじゃだめだ。そんな生き方じゃ、駄目だ。お前はもっと人間らしく生きなきゃだめだ」
「……え」
「楽しいときは笑って、悲しいときは泣いて苛立ちを覚えたら怒って苦しいときは苦しいって叫んで……まぁ普通の生活を送るってことだな」
「それ、は……!」
『あの2人が庇ってくれたおかげでお前は学生謳歌できるんやね、よかったやん』
嘲笑交じりで桐渓さんに言われたこの言葉が脳裏に過り胸に刺すような痛みを覚えた。俺は、そんなことしちゃだめだ。2人が俺を庇ってくれたおかげで今があって、それを忘れてはいけないと思った。楽しむことも悲しむことも怒りもしてはいけないと抑えつけた、それが罪滅ぼし、だと思ったから。
「だって、お前の父さんも母さんも、透には絶対に幸せになってほしいって言っていたんだぞ?守りたい大事な息子、透には健やかに生きてほしいってよ。……本当に2人がお前が庇ったって言うのなら、その分幸せにならないといけねえんだよ……。その願いを叶えてやらなきゃ、それこそ庇った意味なくなるだろ……?自分の身より透が大事なんだって笑って言ってたのに……。本当は痛いんだって辛いんだって叫びたいぐらい悲しくて苦しいのに、なんでもないように何も感じないように生きているのはどう見ても幸せになれねえだろ!!」
「っ」
伊藤の突然の大声に身体が勝手に跳ねる。その伊藤の言葉が何よりも胸にナイフを突き立てられたかのような痛みが襲った。桐渓さんの言葉がよぎったときよりも数倍痛い。叫んだ伊藤が何故か悲しい顔しているのを直視して胸が苦しくて仕方がない。はっ、と呼吸がしにくくて不規則に呼吸をする。
無意識に胸を抑えた手は伊藤の両手でぎゅうっと握られて、俺はそれを握り返した。痛みが感じるほど握られた手に何故か、安堵を覚えた。
「なぁ、頼むから……俺のことを不幸にするなんて言わないでくれよ。お前の口から、そんなこと言わないでくれよ。そう言われたら、俺は本当に不幸しかない人生になっちまうから。俺はお前と会えて、再会できて本当にうれしくて幸せなんだ、だから、両親のことを悔やむのも事故のことを後悔しても良い、それは当たり前のことだ、思い出すのがつらいなら、いっそもう、思い出せなくてもいい!だけどなぁっ死ねばよかった、なんて……悲しいこと言わないでくれよ!俺がずっとどんな思いでお前を待っていた、と!!」
「……ぁ」
「ちゃんと、生きてくれよ!だれかがお前を責めるなら俺はその分お前を認めるから、お前が自分を否定しても俺がお前は透なんだって叫ぶから、どんなお前でも受け止めるから、俺はお前の味方になるから……だから、だから!一緒に生きてくれよ!楽しいときは一緒に笑おう、悲しかったら一緒にいる!怒りたいことがあれば一緒に殴り込んでやる、辛いなら、一緒に泣くから、俺が一緒にいるから!!だから!生きることを、諦めないでくれ!!俺から、逃げないで、くれよ……っ」
伊藤は下を向いて、叫んでいるのにまるで祈るように俺に言う。下を向いていて今彼がどんな顔をしているのか分からないけれど、時折上ずったような声が聞こえて肩を震わせていたから泣いている、んだろう。
伊藤は俺のために泣いてくれている。俺のせいで泣かしてしまった、罪悪感を覚える、それなのに、それと同時にうれしい。その事実が衝撃で俺のせいで悲しくさせているのが胸が痛くて、でも俺のために泣いてくれて怒ってくれたのが嬉しくて胸が満たされた。
俺は、俺のことを思ってくれる人が確かに目の前にいると言う現実に思考回路はぶっ壊れそうになった。バチン、とまるでなにかバラバラのコードがピッタリと繋がったような感覚が身体のなかで起こった。ピッタリとくっついたと同時に溢れ出そうになる激情。
「……いい、の?」
「……ああ」
「……悲しい、て、辛いって、苦しいって、そう思って泣いても、いいの?」
衝動を抑えながら伊藤に問う。伊藤は涙を流しながら俺を見ている、俺もたぶん似たような顔。子どものように恐る恐る聞く俺に緩く微笑んだ。
「いいんだ、いいんだよ。だから、泣いていい。……ないてくれよ、とおる」
そう言ってくれた(許してくれた)と脳が理解した途端に勝手にこぼれおちる涙。あの日、責められた直後少しだけ泣いてそれ以降泣かないようにしてきた。いつしか泣く、と言う感情を出すのも忘れていた。
でも、許されるなら。俺は、泣きたかったんだ。
さっき、抱きしめられたあの暖かさを思い出して衝動のままに伊藤の胸に抱き着いた。胸に顔をうずめた俺の肩と腰をすぐに抱きしめ返されて、その緩やかであたたかな感覚に涙腺がさらに刺激された。
「っう、うあ……ふ、うああああああ!」
ずっと、ずっと本当は泣きたかった。怒鳴られるのも罵られるのも冷たい目で見られるのも髪を引っ張られたり蹴られたりするのは辛くて悲しかった、あの家にいたときカウンセラーのような人に身体触られたときだって嫌で嫌でしょうがなかった。
病院で起きたと思ったら、自分の名前すらもわからなくて、突然近くにいた大人の男に怒鳴られて怖くて仕方が無かった。
思い出せと酷い剣幕で言われたときも恐かった。思い出せないと言ったときの冷めきった目を忘れられない、髪を引っ張られて詰られるのは恐怖しかなかった。だから、言い聞かせた。全部俺が悪いんだと、俺が感じないようにすればそれで良いんだと逃げたんだ。心にガタが来ても辛いと叫んでいても自分を誤魔化して、今までを生きた。仕方が無いんだと諦めたんだ、そうするのが最善なんだってそうするのがみんな満足するからって。
苦しくて、悲しくて、壊れてしまいそうになる心を見て見ないふりをして、今日まで生き続けてきたんだ。
「ひっ、うう、ああああああ!!」
「抑えなくていい、いいから……今までの分、泣いてくれよ……だから、次はちゃんと生きたいって言ってくれよ」
「う、ん……!う”ん!!」
もう両親の代わりに死ねばよかったなんて思わない。両親が幸せになってほしいと言ったのなら、それに従いたい。たとえ俺じゃない俺に向けての言葉でも、それでも伊藤は俺を俺だと言ってくれる、それに今だけは甘えたい。両親にも、いつか、いつかは絶対に必ず思い出すから……だから、一ノ瀬透じゃない『今の俺』が幸せに生きることを、少しの間でも良いから許してほしい。
罪を背負いながら普通の意志のもった人間として生きることのほうが難しいのかもしれない。人形のように感じないようにする方が楽なんだと思う。俺が今までやり過ごしてきたように。だけど、こうして俺に生きてほしいと言ってくれる人がいてくれる。なら罪を背負って、時として苛まれたとしても、それでも俺は……生きよう。ちゃんとこの世界で、呼吸をして生きる。
自分の意志と自分の感情がようやくつながった気がした。もう、逃げないから。ちゃんと生きたいと叫ぶから。泣き止んだら、つぎは心のままに、自分の意志とともにちゃんと生きるから。
「あ、りがとう……ありがとう、いとう!」
「……どういたしまして」
泣きながら言った聞き取りにくいであろうお礼に、静かにそう言ってくれた伊藤がうれしくて涙が溢れて止まらない。
ようやく、呼吸の仕方を思い出せた。
「……ああ」
登校してきたときとは違う、体育館裏にあった小さい門から学校を出て歩いていた。本当はこのまま帰ろうと伊藤は言ってくれたんだが、どうしても今すぐ話したいことがあるんだ、と言ったらこっちのほうなら座れるところがあるから、と案内してくれた。内心不安でいっぱいで逃げ出したいとも思う。
それでも、初めて怖いと思いつつも伊藤には誠実でありたいと思えたから、ここは勇気を持つべきなんだ、と思う。
伊藤も俺の雰囲気を察してくれているのか言葉少なに、でも俺の足のことを気にしてゆっくり歩いていてくれた。その気遣いだけで俺はうれしいんだ。嬉しいを伊藤に返せないから、せめてちゃんと俺が伊藤を忘れてしまった理由を話したい。
伊藤の行くがままに歩みを進めていると、遊具もなんもない数個ベンチがあるだけのただ土と端に木が生えているぐらいのそこまで大きくはない広場があってそこに入っていったので伊藤について行った。平日の真昼だからか人の気配はなかった。
「ここなら今の時間人もいねえし、話せるよな?」
「……ああ、ありがとう」
数個あるなかの木の下にあって影になっているベンチに伊藤は座ったので、少し間を開けて隣に座った。……どう話を切りだして分からなくて、沈黙が続いた。伊藤も俺が話し出すのを待っているのか何も話しかけては来なかった。
座って何度も静かに深呼吸をしてみても、不安は抜けなくてむしろ悪化してただ座っているだけだけど、落ち着かない。ちゃんと自分からなにがあったのか、と説明するなんてこと初めてのことでどうしていいのかわからない。
言いたい、だけど恐くて訳が分からない。桐渓さんの目を思い出してしまう、あの冷めているのに怒って悲しんでいる目を。そんな目を伊藤に向けられる、と思うと竦んでしまう。決意するのは簡単でもそれを実行に移すのとは違うんだと今知った。
「なぁ、透。……お前がこれから話そうとしているのってさ、俺の予想なんだがお前の記憶のこと、なのか?」
「……」
いつまでも沈黙が続いて、結局俺が言いだす前に伊藤にそう聞かれてしまった。やっぱり察していたようだった、そうだよな、少し予想すれば分かることだ。ずっと言い淀んでいたことで気軽に話せない、となればそうなるのも当然だ。
そうなるのが当然となれば、伊藤は優しいから『辛いのなら話さなくてもいい』と言ってくれるんだろう。昨日からずっと聞かずにいる伊藤、それはとても優しくて暖かくてありがたくもあり、罪悪感も同時に覚えたんだ。
だって、ずるいだろう?
なにも知らないでいる伊藤からただ優しさだけを甘受出来るほど、愚鈍ではないんだ。優しさに甘えるのはきっと、楽な道であり自分は傷つかないでいられる。伊藤からも自分からも逃げて見て見ぬフリをして伊藤に依存する、なんて優しい道なんだろう。
伊藤には茨だらけの痛い道を歩ませておいて、俺だけはぬくぬくと傷一つなく歩くのは絶対に嫌だ。優しさに全てを委ねるんじゃなくてそれに少しだけ寄りかからせてほしい、優しさはきっとそれぐらいでいいんだ。
「……ああ。いまからそのことについて伊藤に話したいんだ。……それで、伊藤が離れても憎まれても良いから、ちゃんと理由を知っていてほしいんだ」
俺の言葉に、否定しようとして口を開こうとしたが『聞いてから考えてほしい』と言う意志を持って伊藤の目を見つめればぐぅっと口を噤んで少し下を向いた。少し何かを考えたようなそぶりを見せた後、すぐに意志の強い眼で俺の目を見た。傍から見ればまるで睨み合いのように見えてしまうんだろうか。脳の中のどこか冷静な部分が呟いた。互いの意志の確認を目で訴えた後。
「……分かった」
すぐにでも否定したいのをぐっと抑えてそう返事をしてくれた伊藤に「ありがとう」と感謝する。ここで否定してくれたら俺はそれを喜んで、今の自分の決意もなく話してしまうだろうから。だからこそ、何も言わないでほしかった。一ノ瀬透の親友でいてくれる彼には申し訳ないけれど、これは一ノ瀬透ではない俺の、彼を親友として見ていない俺の……俺なりのけじめ、だから。
あれだけ俺の名前を呼んでくれても存在しているんだと言ってくれても、やっぱり俺は伊藤鈴芽の親友、一ノ瀬透にはなり切れないし伊藤のことを思い出すことも出来ない。俺は一ノ瀬透と言う名前であっても、彼の親友の一ノ瀬透では在れないのだ。
あれだけ自分のことを認めてほしい、なんて言っていたのにいざそうなれば自分は一ノ瀬透ではないんだとそう思ってしまう自分が嫌にもなる。せめて、伊藤に俺のことを肯定する権利も否定する権利もないといけない。
そうじゃないと、フェアじゃない。ただ俺のことを受け入れてくれて俺の都合の悪いものを弾いてしまえばそれこそ、親友でもなんでもないただの共依存になってしまうだろうから、伊藤の逃げ道を潰してしまうから。
それは避けたかった。一回深呼吸をして、今度こそ俺は話し出した。
不思議とさっきよりも落ち着いていて、気持ちのほうも静かだった。まるで嵐の前の静けさのように。
――――
「……伊藤も察していると思うが、俺は記憶喪失なんだ。忘れてしまっているのは伊藤のことだけじゃなくて、その前日……いやその日の朝食べたものも、あの家で過ごしていた日々も……両親のことも俺は顔すらも忘れてしまった。なにもかもを、俺は忘れている」
「……そうか」
やはり察していたようで、静かに頷く伊藤。その表情は暗く、悲し気に見える。
「……記憶喪失の原因とされているのは、両親を目の前で……亡くしたのを直視したんじゃないか、と推測されている」
「!お前の父さんと母さんが……そう、か」
「……」
呆然と呟いた伊藤は、俺の両親とも親交があったようだ。仲、良かったんだろうか。祖父や桐渓さんが見せてくれた写真のことを思い出した。その写真に写っていたのは、日本人にしては色素の薄い栗色の髪と目をした顔立ちが俺とどことなく似ている男性と俺の髪と目の色が同じ女性だった。
男性は控えめだけど静かに照らす月の光のような笑みを浮かべていて女性は花が咲くように明るく笑っていて、幸せそうな写真だった。その写真のなかでその女性のお腹が大きかったのでこのなかに俺がいるんだろう。本当に幸せそうな写真で……それを見て俺は酷い頭痛に襲われた。
この人たちの幸せを壊してしまったのは、女性のお腹のなかにいる俺のせいなのだと実感してしまって、どうしていいのかわからなかった。俺を辛かったな、と言わんばかりに俺を見つめてくる伊藤の目を見て俺は言った。胸が痛んだのは見ないフリをした。大丈夫。見ないフリは得意だから、だいじょうぶ。自分に言い聞かせる。
「2人が亡くなったのは、俺のせいなんだ」
目を見開いた伊藤がスローモーションに見えた。俺が病院で目を覚ましてすぐ『ぼくは、だれ……ですか?』と祖父と桐渓さんに聞いた瞬間と同じだった。
心配そうに俺を見ていた2人は俺がその言葉を発した瞬間目を見開いたのだ。それが今と同じようにスローモーションに感じた。
『お前のせいで、あいつらは死んだのになんで、お前は忘れているんだ!!お前のせいで薫は、灯吏は……死ぬことなんてなかった!』
そう心から叫んだ祖父の、憎しみと悲しみの混じった顔を俺は生涯忘れることはないだろう。頭の中でそのシーンが思い出された。そのシーンを目を閉じて少しだけ浸って……すぐに心の底に沈めた。
今、俺の前にいるのは……話しているのは伊藤だから。
勿論祖父の悲痛な叫びを俺は金輪際忘れるつもりはない、それを胸に刻んで過去も今もこれからも生きていくつもりだ。でも、その記憶は今と混ぜ込んではいけないんだ。責められるにしても何にしても伊藤は伊藤で祖父とは違う。今だけは伊藤のことが最優先したいから。
伊藤の眼から逸らさずに俺は続けた。声が震えそうになったけど、気付いていなければいい。手が勝手に震えるのが酷く情けない。
「俺が信号無視して……やってきた車から2人は俺を庇って、それを直に見た俺はショックで記憶喪失になったらしい。そして……両親のことだけじゃなくて事故に遭う直後から以前の記憶を全部忘れてしまったんだ。記憶を思い出させようとしてくれた祖父たちに頭痛がひどいからって拒否して、そのことに責められても見て見ないフリして何も感じないフリした、自分が傷つきたくなかったから。責められても仕方が無いことなのに、な」
「……」
伊藤は何も言わず俺の話を聞いている。どんな表情をしているんだろう、伊藤の目を見ているのだから確認出来るはずなのに、視界が何故かぼやけてよく見えないんだ。よくわからないけれど、でも話は止めたくなかった。喉がカラカラに枯れて唾を一回飲み込んでまた、俺は続きを話す。
「……あれから6年経った今も、俺は思い出すことはなかった。思い出すつもりも、ないんだ。傷つきたくない、そうやって逃げて俺には思い出すことなんて無理だと思い出すことを放棄した。諦めてる。なのに、俺は生きている。一ノ瀬透でも何もない俺には価値なんてないと思っても、消えてしまいたいって思っても、……俺が死んでしまえば、それこそ両親が何のために俺を庇ったんだろうと理由がなくなってしまう、と思ったから。笑うことも悲しむこともしないようにしてきても、せめて、両親が俺を庇ったその理由だけは無かったことにしたくなかったんだ。人間として楽しまない代わりになんとしてでもこの世界で生きようって。呼吸の仕方すらもよくわからなくなっても、そうしよう、そう決めた」
『思い出すこともできないのに』と、『消えてしまいたい』と、何度思ったのかわからない。
それでも、俺を庇った挙句に庇われた本人はそのことを忘れられていても、俺が死んでしまえば庇った理由すらもなく2人は本当にただ死んだのだと言う事実しかなくなってしまうのだ。
学校にも家にも居場所が無くても、無くした記憶を思い出すことを放棄しても、何も感じないふりをして何も話さないで息を潜めて自分は人ではないと否定しながらもそれだけは決意していた。
一ノ瀬透ではないからこそ『ここにいる今の俺』が決めた。だれにも言うつもりのなかった、一ノ瀬透ではない『だれか』である『俺』だけが持っていて、唯一の存在理由。
「……こうして俺のことを待っていた伊藤のことも俺は思い出せなくて……これだけ俺のことを良くしてくれているのに、俺は正直思い出す気は未だにないんだ」
祖父たちにアルバムを見せられ、思い出そうと少し頭を使っただけで立つどころか目を開けるのも辛い酷い頭痛に苛まれて目を閉じて頭を抑えて痛みに悶えると祖父たちは髪を思い切り掴んで思い出せと詰られた。
それ以降俺は思い出す、と言うことに一層恐怖を感じた。うまくいかなければ、みんな怖くなるとそう知ってしまったから。髪を引っ張られて顔を反射的に上にあげたときのあの2人の顔は、夢にも出てくるぐらい鮮明だ。憎々しげに、憎悪を隠すつもりもない、そんな表情を。
「待ってくれたのに、優しくしてくれるのに、何も聞かないでいてくれるのに、俺は何も返せない。……むしろ、俺は伊藤を不幸にしている」
最低でも6年、伊藤は待っていてくれたのに、俺のことを優しくしてくれて気遣ってくれて、それなのに俺はなにもできない。何も、返せない。思い出を語ることも、再会を喜ぶことも、伊藤がそうしたいと望むことを、俺には出来ない。それが悲しくて伊藤に申し訳ないと思いながらも、俺は現状を変えたいと思えずにいる。今も恐怖しかない。
前を向くには、恐怖があまりに大き過ぎて、足に力が入らずへたり込んでしまうぐらい、こわい。
「こんな俺が生きてしまって庇われて、記憶もなくて、俺は何のために存在しているんだろう、どうして俺は忘れてしまったんだろう。……ずっと両親じゃなくて……こんな俺が死んでしまえばいいのにって、そう思ってた。…いや、そう思ってる。せめて、何も感じないように生きていくのが罪滅ぼしなんだって、思ってる。でも、悩んでいる。生きていくこと自体罪滅ぼしにもならなくて、いっそ、俺なんていなくなってしまえばいいのに。記憶のない俺なんて、誰もいらないんだから。そう、思い始めてきているんだ」
それなら、みんな今よりは幸せだったのではないかと常々思っている。そうだろう?俺のせいで不幸にした。俺のせいで両親は亡くなって、俺のせいで祖父は自分の娘を亡くした、俺のせいで桐渓さんは幼馴染と親友を亡くした。ぜんぶぜんぶ俺が、悪いんだ。
俺が生まれたこと自体、間違いだった。記憶を失くすべきじゃなかった。そうすれば、伊藤をここまで待たせることはなかったのに。頬になにか水滴なようなものが伝う感覚があったが、それでも伊藤を見続けた。
「……なぁ透」
「……ああ」
伊藤から発せられたのはすごい、どすが効いたかような低い声だった。感情を押し殺したかのような、平坦な声を意識し過ぎてそれを抑えきれなくてかなり低い声になってしまったかのようだった。顔はぼやけて見えなかったけれど肌色の……たぶん手が俺の顔に近付いているのは見えた。
殴られるのかな、怒られるかな、怒鳴られるかな……冷たい目で見られるのかな。なんでもよかった。伊藤は俺の話を全部聞いてくれたから、伊藤からすればふざけるなと怒鳴られてもおかしくないことを俺はすぐに言わなかった上に、話してもうじうじと言っていたのだから。
受け入れられたら嬉しいけれど、受け入れられなくても仕方がないとも思った。むしろどうして受け入れてくれると少しでも思っているんだろうか、馬鹿みたいだ。俺が両親を殺したくせに。内心自分をあざ笑う。
蔑まれることが当然だ、救いを求めること自体が間違っているんだ、そう思い知った。今度こそ、なにも期待しないようにしないとそう決めた。
なのに。
その手は俺の頬を殴るのではなく、なにかを拭うように頬を擦った。暖かい手だった。拭うよう、ではなく実際俺の頬にあった感触は徐々に上へと昇っていき、それは瞼の少し下までやってきて反射的に目を閉じた。
少しすると暖かさが離れていって、それにつられるように目を開けると視界はさっきよりもクリアになっていて、目の前の伊藤の顔が良く見えた、そして彼は。
「なんでもない顔のフリして普通のことのように話ながら、泣かないでくれよ」
低い声でそう言って、その目に涙をためて悲し気に、でも笑いながら俺を暖かく見ていた。さっきの低い声は泣くのを抑えていたんだと知った。伊藤の顔がはっきり見えて、嬉しいのに胸が苦しくて少し悲しくて、せっかく話ながらいつの間に流していた涙を伊藤が拭ってくれたのに、また涙があふれた。
「透、辛かったな」
「……っ…う、」
「俺に話すのも本当は怖かったんだろ?話してくれてありがとうな」
涙を止められなくて嗚咽が込み上げる俺をなだめるように背中を叩いてくれる。優しい言葉とその手につい甘えてしまいそうになるが、それでは意味がない、ちゃんと聞かないといけないんだ。
嗚咽は止められなくても、子どものように泣き叫ばないように我慢しながら質問したその声は低くて変な声だった。ぐっと前にいる伊藤を手を伸ばして押して少し距離をとって、伊藤と目を合わす。
「責めない、のか」
「なにを?」
伊藤が何を言っているのかと本当にわからないのか、あえて聞いているのか今の俺には判断はつかない、自分自身が冷静ではないのは一応分かっている。
少し、戸惑って意を決して自分の口から自分を責める理由を言った。
「……俺が、両親を殺した、原因なのに」
「……そうだな、確かに俺もお前の父さんと母さんには随分良くしてもらっていたからショックがないと言えば嘘になるな。お前もいろいろ思うところはあるだろうし、そう責めちまうのも仕方ないとも思う。だから、お前が原因なんてそんなことあるわけがない……って、俺が言ってもお前は認められないよな……。頷けない、よなぁ」
それはそうだ。いくら伊藤に俺のせいではないと言ってくれても俺が犯した罪だ。俺のせいじゃないと言って逃げることは許されてはいけない、俺自身が許してはいけないんだ。
「だから、俺はそれを否定しない代わりに責めないことにした。お前の両親のことは残念だと思うし、ショックも受けてる。でも、俺は何よりも透が帰ってきてくれることが、やっぱりうれしいんだ」
「記憶も、ないのに?」
「あってもなくても、な」
なんでそう昨日と同じ笑顔で言い切れるんだろうか。どうしてさっきの話を聞いてもなお伊藤は優しい?両親を殺した上に記憶のない俺なんて一ノ瀬透じゃないのに、なにも返せないのに、不幸にさせてしまうのに。
「今何かごちゃごちゃ頭の中で考えてんだろうな、透。理解してやりてえしお前の質問には一つ一つちゃんと答えてやりてえんだけど、俺透みてえに頭良くねえんだよ。とりあえず、俺はお前に何かしてほしくてお前に優しくしている訳じゃない、何も聞かないわけでもない、ただ傷つけたくないだけ。それだけだ」
「どうして」
「さぁな、まぁ親友だからな」
うじうじと疑問ばかりの俺に伊藤は簡潔にそう言う。簡潔に言われると、こっちが戸惑った。なにも言えずにいると伊藤は言った。
「お前は否定するだろうけど、言いたいこと言わせてもらう。お前がしてきたこと、何も感じないフリしたり、とか……何もわからなくて不安になっているところでそんな扱いされたらそりゃ逃げたくもなる。今聞いた感じだと誰もお前を守ろうとしなかったんなら、お前は自分を守ろうとしただけだろ、なにも悪くない。お前が信号無視したなんて正直考えられねえけど……もしそれで本当に両親亡くしたんなら、記憶喪失になったのも分かる気がする。透は両親のことが大好きだったの知っているし。よほど、ショックだったんだよな。ただでさえ亡くなったところを間近で見て、しかもその原因が自分だとするなら、耐えられないよな。記憶喪失になって、思い出すことを身体が拒否するぐらいだ、きっと自分を防衛してるんだろう。お前は何も悪くない。ここまで追い詰めてた周りが断然悪い。俺からするとそいつらのほうが胸糞悪い」
「……いや、そうじゃない。俺のせい、だ」
「お前は自分を責めても良い、でもこれは俺の意見だからな」
否定は透でも許さねえぞ、と真剣な顔で釘を刺されてしまう。無条件に悪くないなんて言われるのも初めてのことなので、随分と落ち着かず居心地が悪い。それでも自分はそう思っている、と言われてしまえば俺はこれ以上否定は出来なかった。
「あと、本当に両親のためを思うのなら、それじゃだめだ。そんな生き方じゃ、駄目だ。お前はもっと人間らしく生きなきゃだめだ」
「……え」
「楽しいときは笑って、悲しいときは泣いて苛立ちを覚えたら怒って苦しいときは苦しいって叫んで……まぁ普通の生活を送るってことだな」
「それ、は……!」
『あの2人が庇ってくれたおかげでお前は学生謳歌できるんやね、よかったやん』
嘲笑交じりで桐渓さんに言われたこの言葉が脳裏に過り胸に刺すような痛みを覚えた。俺は、そんなことしちゃだめだ。2人が俺を庇ってくれたおかげで今があって、それを忘れてはいけないと思った。楽しむことも悲しむことも怒りもしてはいけないと抑えつけた、それが罪滅ぼし、だと思ったから。
「だって、お前の父さんも母さんも、透には絶対に幸せになってほしいって言っていたんだぞ?守りたい大事な息子、透には健やかに生きてほしいってよ。……本当に2人がお前が庇ったって言うのなら、その分幸せにならないといけねえんだよ……。その願いを叶えてやらなきゃ、それこそ庇った意味なくなるだろ……?自分の身より透が大事なんだって笑って言ってたのに……。本当は痛いんだって辛いんだって叫びたいぐらい悲しくて苦しいのに、なんでもないように何も感じないように生きているのはどう見ても幸せになれねえだろ!!」
「っ」
伊藤の突然の大声に身体が勝手に跳ねる。その伊藤の言葉が何よりも胸にナイフを突き立てられたかのような痛みが襲った。桐渓さんの言葉がよぎったときよりも数倍痛い。叫んだ伊藤が何故か悲しい顔しているのを直視して胸が苦しくて仕方がない。はっ、と呼吸がしにくくて不規則に呼吸をする。
無意識に胸を抑えた手は伊藤の両手でぎゅうっと握られて、俺はそれを握り返した。痛みが感じるほど握られた手に何故か、安堵を覚えた。
「なぁ、頼むから……俺のことを不幸にするなんて言わないでくれよ。お前の口から、そんなこと言わないでくれよ。そう言われたら、俺は本当に不幸しかない人生になっちまうから。俺はお前と会えて、再会できて本当にうれしくて幸せなんだ、だから、両親のことを悔やむのも事故のことを後悔しても良い、それは当たり前のことだ、思い出すのがつらいなら、いっそもう、思い出せなくてもいい!だけどなぁっ死ねばよかった、なんて……悲しいこと言わないでくれよ!俺がずっとどんな思いでお前を待っていた、と!!」
「……ぁ」
「ちゃんと、生きてくれよ!だれかがお前を責めるなら俺はその分お前を認めるから、お前が自分を否定しても俺がお前は透なんだって叫ぶから、どんなお前でも受け止めるから、俺はお前の味方になるから……だから、だから!一緒に生きてくれよ!楽しいときは一緒に笑おう、悲しかったら一緒にいる!怒りたいことがあれば一緒に殴り込んでやる、辛いなら、一緒に泣くから、俺が一緒にいるから!!だから!生きることを、諦めないでくれ!!俺から、逃げないで、くれよ……っ」
伊藤は下を向いて、叫んでいるのにまるで祈るように俺に言う。下を向いていて今彼がどんな顔をしているのか分からないけれど、時折上ずったような声が聞こえて肩を震わせていたから泣いている、んだろう。
伊藤は俺のために泣いてくれている。俺のせいで泣かしてしまった、罪悪感を覚える、それなのに、それと同時にうれしい。その事実が衝撃で俺のせいで悲しくさせているのが胸が痛くて、でも俺のために泣いてくれて怒ってくれたのが嬉しくて胸が満たされた。
俺は、俺のことを思ってくれる人が確かに目の前にいると言う現実に思考回路はぶっ壊れそうになった。バチン、とまるでなにかバラバラのコードがピッタリと繋がったような感覚が身体のなかで起こった。ピッタリとくっついたと同時に溢れ出そうになる激情。
「……いい、の?」
「……ああ」
「……悲しい、て、辛いって、苦しいって、そう思って泣いても、いいの?」
衝動を抑えながら伊藤に問う。伊藤は涙を流しながら俺を見ている、俺もたぶん似たような顔。子どものように恐る恐る聞く俺に緩く微笑んだ。
「いいんだ、いいんだよ。だから、泣いていい。……ないてくれよ、とおる」
そう言ってくれた(許してくれた)と脳が理解した途端に勝手にこぼれおちる涙。あの日、責められた直後少しだけ泣いてそれ以降泣かないようにしてきた。いつしか泣く、と言う感情を出すのも忘れていた。
でも、許されるなら。俺は、泣きたかったんだ。
さっき、抱きしめられたあの暖かさを思い出して衝動のままに伊藤の胸に抱き着いた。胸に顔をうずめた俺の肩と腰をすぐに抱きしめ返されて、その緩やかであたたかな感覚に涙腺がさらに刺激された。
「っう、うあ……ふ、うああああああ!」
ずっと、ずっと本当は泣きたかった。怒鳴られるのも罵られるのも冷たい目で見られるのも髪を引っ張られたり蹴られたりするのは辛くて悲しかった、あの家にいたときカウンセラーのような人に身体触られたときだって嫌で嫌でしょうがなかった。
病院で起きたと思ったら、自分の名前すらもわからなくて、突然近くにいた大人の男に怒鳴られて怖くて仕方が無かった。
思い出せと酷い剣幕で言われたときも恐かった。思い出せないと言ったときの冷めきった目を忘れられない、髪を引っ張られて詰られるのは恐怖しかなかった。だから、言い聞かせた。全部俺が悪いんだと、俺が感じないようにすればそれで良いんだと逃げたんだ。心にガタが来ても辛いと叫んでいても自分を誤魔化して、今までを生きた。仕方が無いんだと諦めたんだ、そうするのが最善なんだってそうするのがみんな満足するからって。
苦しくて、悲しくて、壊れてしまいそうになる心を見て見ないふりをして、今日まで生き続けてきたんだ。
「ひっ、うう、ああああああ!!」
「抑えなくていい、いいから……今までの分、泣いてくれよ……だから、次はちゃんと生きたいって言ってくれよ」
「う、ん……!う”ん!!」
もう両親の代わりに死ねばよかったなんて思わない。両親が幸せになってほしいと言ったのなら、それに従いたい。たとえ俺じゃない俺に向けての言葉でも、それでも伊藤は俺を俺だと言ってくれる、それに今だけは甘えたい。両親にも、いつか、いつかは絶対に必ず思い出すから……だから、一ノ瀬透じゃない『今の俺』が幸せに生きることを、少しの間でも良いから許してほしい。
罪を背負いながら普通の意志のもった人間として生きることのほうが難しいのかもしれない。人形のように感じないようにする方が楽なんだと思う。俺が今までやり過ごしてきたように。だけど、こうして俺に生きてほしいと言ってくれる人がいてくれる。なら罪を背負って、時として苛まれたとしても、それでも俺は……生きよう。ちゃんとこの世界で、呼吸をして生きる。
自分の意志と自分の感情がようやくつながった気がした。もう、逃げないから。ちゃんと生きたいと叫ぶから。泣き止んだら、つぎは心のままに、自分の意志とともにちゃんと生きるから。
「あ、りがとう……ありがとう、いとう!」
「……どういたしまして」
泣きながら言った聞き取りにくいであろうお礼に、静かにそう言ってくれた伊藤がうれしくて涙が溢れて止まらない。
ようやく、呼吸の仕方を思い出せた。