1.みんなとの出会い。


 外の空気で頭が冷えて歩いていくごとに少し冷静になっていく頭で考え出す。……今になって、どうして桐渓さんにあんなことを言えたんだろう、と思い始めてきた。いや、俺は間違ったことは言っていない、とは思う。何の関係もない伊藤を悪く言うのは違うと思っている。
 ただ言い方もあるだろう。確かに感情に流されていたとは言え、あんなに高圧的に言うことでもないし、結局あれ以上なにか言われるのも嫌で窓から逃げていたし……。言い訳はしたが、結局俺は逃げている。それは紛れもない事実である。
「……はぁ」
 桐渓さんの怒り倍増していそうだ。カンカンと鉄で作られた俺の部屋よりも頑丈そうな階段で3階まで登る。
 外付けされている階段で、校庭からは見えないし見えるとしたら体育館らしき建物の裏側から見られるぐらい。誰かと会って授業は、とか聞かれるのは困るし近かったからこの階段を使って教室に戻る最中だ。これから教室に戻って、理科室を探しに行かないと。
 ……大丈夫。今までだってうまくやっていた。今日は初めて反抗してしまったけれど、伊藤のことを言われなければ、いつも通り耐えられる。
 次、呼ばれたときは逃げないから、罵られても蹴られても、なにをされても。
 俺がしたことに比べたら、桐渓さんからされることは何でもない。なんでもない、はずなんだが。

「……伊藤」

 伊藤の存在を知ったのは昨日のことなのに。すでに俺の中でなにかがすっかり変わってしまったかのようだ。
 まだ、戻れる。これ以上優しさに触れたくない。今まで受けてきたことを当然なんだと、そう思い続けてきたのが無駄になりそうで、こわい。嬉しいのに怖い。
 初めて味わう感情同士が拮抗していてどうすればいいのかわからない。さっきだって、桐渓さんが伊藤のことを言う前、俺はどこかで伊藤に助けを求めていた。
 伊藤のことを言われたあとは、怒りで我を忘れていた。前者は優しくされたことがなかったから、つい助けを求めてしまった。後者は自分の中に違う誰かがいるかのような、そんな感覚だった。よく、分からない。俺にとって伊藤はどんな存在なのか。前の俺にとって伊藤はどんな存在だったのか。
 とりあえず分かることは、これ以上俺は伊藤のとなりにいると、ダメになると言うことだけ。

 駄目になる、そう分かっているのに、嫌じゃなくて。心地よさすらあって……。

 その続きを知るのが怖くて、あえてなにも考えないようにして、足早に歩みを進めた。足が痛い、そんなことはない。何も俺は感じないように、しなくちゃいけない。それが、両親への罪滅ぼし、だ。
 自分に何回も繰り返し言い聞かせた。
 自分だけが生きてしまった、自分のせいで両親が死んだ、それが俺の、罪。

 知らず知らずのうちに俯いて、自分の足しか見えない視界のまま、俺は非常口の扉を開け、教室へ向かう。
 許されない、俺はクラスのなかで誰かと楽しむことも、担任の優しさに触れることも……伊藤から親愛の眼を向けられることだって。
 誰からも俺は優しくされてはいけない。そう思って生きていこう、そう思って生きていかないといけないんだって。

 言い聞かせながら、無言で扉を明けた。
 どうせもうみんな理科室に移動して誰もいないだろう、とそう思っていた。だから顔をあげることもなく扉を開けた。

「透。どうした?遅かったな?」
「……どう……して」

 誰もいないはず、なのに誰かに声をかけられた。
声の主は考えるまでもない、俺の名前を呼んでくれる唯一の存在、伊藤、がそこにいた。
 思いもしなかった、でも会いたいと心の底で思っていた彼は自分の席に着いて俺を見ていた。
授業が始まってもうすぐ10分経つ、それなのに未だ教室にいる彼に混乱からそう聞いてしまう俺に、首を傾げて答える。

「透を待ってたからな」
 次移動教室だし、昼休み終わっても戻ってこないから待っていたんだよ、どうした?迷ったのか?とかいろいろ言っていたようだったけれど、待っていた、と言うフレーズだけ聞いて、俺は固まってしまい伊藤の言葉をほとんど聞いていなかった。

「どうして」

 俺を待っていてくれる?俺は、伊藤を置いて行ったのに。忘れたのに。細かいこと、何一つ言えてもいないのに。どうして、どうして。
 きょとりと目を丸くして俺を見つめている伊藤に一歩、近寄る。いや、正確には近寄ろうとした、が、不意に来た右膝の痛みのせいで身体のバランスが取れなくなった。そう言えば、さっき強打してしまったんだ、と漸く思い出した。
 思い出したところで、もう受け身をとるほどの時間の猶予もなくて、さっき桐渓さんに床に投げられたのと同じぐらいあるであろう衝撃に、身構えた。

「透っ」

 焦ったような伊藤の声が聞こえた、と思ったらぬくもりに身体が包まれた。ドスン、と重たいものが落ちた音と微かな衝撃はやってきたものの、予想した痛みはいつまでも来なくて、冷たくて堅い床に身体を打つ衝動はいつまでもやっては来なかった。

「いってー……大丈夫か?透」

 その代わりに堅いけれど、床にしては妙に暖かくて柔らかさのあるものに身体を打った。視界にあるのは、赤色。血、ではない、そんな液体ではなくて、布っぽい……。すぐ近くから聞こえる伊藤の声に、顔をあげてみれば、伊藤の顔そこにある。至近距離で目が合う。

「あ……ちか、いや、悪い!つい、こう身体が動いて」

 俺は、こけそうになって、伊藤に庇われたらしい。
視界にあったのは伊藤の学ランのなかに身に着けていた赤いTシャツだったようだ。
 至近距離で見つめ合う形になった伊藤の顔が何故か真っ赤になっていて、何故か謝りながら何もしてません、と言わんばかりに手をぶんぶんと振っていた。そんなことも目の前の伊藤が理解できないぐらい、俺は頭のなかがぐっちゃぐっちゃだった。

 知らない、知ってはいけないし、理解したいと思わなかったし、理解しようとする気もなかった。ただ、ただただ、俺には生きる意味なんてないんだって、それでも、両親に助けられた命だから、生きないといけない。
 後悔ながら生きないと、両親が亡くなったのは俺のせいだって、俺のせいで二度と彼らは泣くことも笑うことも出来ないんだから、なにもできなくなってしまったから。
 何も感じないように(自分が壊れないように)
 何も思わないように(自分が傷つかないように)
 そうして生きていかないといけない、それが彼らに出来る、唯一の罪滅ぼしなんだって(生きることから逃げた)
 誰からも認められないのが当然なんだって(自分自身のことを知ってもらうのを、諦めた)
 そう思いながら生きてきた。これから先、死ぬまで、そうしないといけないんだって、思わないといけないのに。

「っ……」
「……とおる?」

 呼吸を止めてすべてをあきらめてきた。この先もそうして生きていくんだって、諦めていたのに、希望さえ持たずにいたのに。

 なのに。それなのに。
 まだ会って、少ししか経っていないのに。
 出会った日にちを昨日、今日とすぐに数え終えてしまうぐらいの仲なのに。伊藤からすればもっと長い数だろうけれど、今の俺からすれば、本当に微かの数なのに。

 ちゃんと、生きたい。ちゃんと、呼吸をしてこの世界で生きていたい。

 そう、思ってしまうんだ。本当はそれに罪悪感が芽生えないといけないのに。

 今、自分目から勝手に滲みだす涙は、うれしさから来るもの、で。

 与えてくれる伊藤に、「忘れたのか」と聞かれて謝罪しかしなかったことを、脳裏に過る。忘れたとも忘れていないともなにも言えなかった俺は、きっと素直に話してまた責められるのを恐れてた。かと言って嘘を言えるほど愚かにもなれなかった。
 その恐怖は今も心のなかにいるけれど、でも、逃げようとした俺を逃げないで認めてくれて受け入れてくれた伊藤には、ちゃんと話したいんだって、思った。

――――

 昼休みを終えても透はなかなか戻ってこない。
 叶野たちも心配して待ってる、と言ったが、まぁ問題児扱いの俺と違って叶野たちは優等生に入るんだし、透に理科室の場所の案内をしていないから待つことにした。正直心配でもあったが行き違いになるのもと思って教室で待っていることにしたのだが、本鈴のチャイムが鳴って10分ほど経っても戻ってこないのでそろそろ探しにでも行こうかと迷っていたとき、扉の開く音が聞こえてそちらを向けば、俺が待っていた俯いて顔をあげない透がいた。
 俯いた透はなんだか、昨日の頼りなく地べたに蹲る姿を思い出させた。違和感。そんな違和感を持ちながらも、なんでもないフリをして透に声をかければ俺が待っているのが予想外だったようで、俯いた顔をバッとあげて驚いた顔をしている。

「……どう……して」

 薄いピンク色の小さな唇から紡がれるのはそんな疑問。それに、俺は間を開けずに、頭の中で何も考えず反射的にも近い反応で口から答えが出た。

「透を待ってたからな」
 待つのは得意なほうだ。それがいつなのかわからない不確定なものより、確実にこの学校の中にいて戻ってくるだろうと分かっていることなら特にモチベーションは保てる。どちらにしても、透と約束したことなら待てるけどな。6年間ずっと待ってきたんだからこのぐらい朝飯前だ。

「次移動教室だし、昼休み終わっても戻ってこないから待っていたんだよ、どうした?迷ったのか?」

 透の疑問に答えたところで、蛇足ついでに俺も質問してみる。でも、俺の答えは透にとってまだ理解できないようで……やっぱり頭の良い奴は考え方少し違うのかもな?難しいこと、考えてそうだもんな……未だその灰色の眼は疑問の色が大きかった。
「どうして」
 呆然としたように独り言のようにそう呟いて、透は俺のもとへと、一歩、踏み出した。と、思ったと同時に透の身体はがくん、と崩れた。
 叫ぶ暇もなく、透も驚きに目を見開いていた。このままだと顔面から透は強打してしまう、そう理解した瞬間俺の身体は頭では何も考えてなくて、体が勝手に動いた。
 崩れる透の身体を、自分の体一つで支えようとした、が、自分よりは細いけれど身長もほとんど変わらない透の身体を俺の身体だけ支えられる訳じゃなくて、自分の身体が透の下敷きになった。
 思いっきりケツを強打して、正直すごく痛いし透の額が勢いよく胸あたりに激突したので「ぐあっ」と思わず情けない声を出してしまった。なにが起こったのかいまいち理解できていないようすの透に「大丈夫か?」と声をかけると、透は俺のほうに顔をあげた。
 至近距離の透と目が合う。毛穴一つ見当たらない、色白の頬が今は少し紅潮している。
 透き通るような印象的な灰色の瞳は驚きに目を見開いて、ゆらゆらと揺れていて、こぼれ落ちそうな儚さを感じた。
 あの日から背も伸びて顔つきも彼の父親と瓜二つと呼べるほどそっくりに成長して、あの日と変わらず彼の母親と同じような艶やかな黒い髪と灰色の瞳をした透。
 意図せず近くにあるその顔に、なぜか、変な気持ちに、なった。支えようと思った両手は透の腰あたりにあって、見た目以上に細い腰に触れていて、何故か触ってはいけないものに触ってしまった感覚になった。
 少なくとも、親友……しかも同性に対して芽生えるものではないと言うのは理解している。顔が真っ赤になっていることを自覚しつつ、やましい気持ちは無かったんだ!と両手を挙げた。
 後から思えば何をしているんだ、とあきれてしまうがそのときまったく余裕が無かった。何故か後ろめたいことをしてしまったように。
 下手な言い訳を紡いでもいくら経っても何の反応のない透。変な行動を辞めて、少し落ち着いて透の様子を窺ってみることにした。
 俺のTシャツをぎゅっと力いっぱい握りしめた白い手は少し震えているのが分かった。何となく後ろめたくて目も合わせられなかったが、顔が真っ赤になっているのを承知の上で透と目を合わせた。

 そこには、涙を浮かべている透がいた。
 涙をこぼす寸前の透が、いた。

「っ……」
「……とおる?」

 声をかけたのとその揺らめく瞳から、涙がこぼれた。
 頬を伝っていく一筋の涙、徐々に涙の量が増えて涙が顎裏に溜まって、雫となって透の制服のズボンに落ちていく。
 きっと、普段だったら透が泣いていれば驚いて少しテンパりながらも泣くのを辞めさせたいとかどうしようとかどこか痛かったかと戸惑い、焦っていたと思ったんだろう。だが、今の透の泣き方が、その表情が、不謹慎かもしれないが、悲しくなるほどに綺麗だったから。戸惑うことも焦ることも忘れて、魅入ってしまった。
 じっと俺から目は外さずにそして喚くこともなにせず、ただシトシトと涙があふれていく。静かに泣いている、と言うよりも涙をこぼしているだけだった。
 悲しげにと言うにはあまりに穏やかで、怒りからと言うにはあまりに静かな、不思議な泣き方を俺は見ているだけしかできなくて、透と俺しかいない静かな教室で見つめ合った。
 校庭から聞こえるにぎやかな声もあまりに遠かった。
 しばらくの沈黙。
 見つめ合っていた俺らだったが、透はゆっくりと、笑う。

「……ありがとう、伊藤」
「っ!」

 そう笑顔で礼を俺に言う瞬間、俺は透を抱きしめた。
 涙しながら笑顔で何故か俺に礼を言う透が、どうしてか悲しくて仕方が無かった。どうしてか、俺も泣きたくなった。
 さっきまで何も言わず何も感情を出さずに涙をあふれ出しているのを見たときはただ綺麗だ、としか思わなかったのに。今は何故か、無性に悲しかった。
 何故か昨日誰にも助けを求めようともしない透の姿と被って見えた。
 抑えきれない感情を、目の前の透にぶつけた。ただ、力いっぱい抱きしめたかった。いきなり彼からすれば昨日会ったばかりの、同性に、抱きしめられて戸惑いしかないであろう、しかも力いっぱい抱きしめているのだから、痛くも感じるだろう。

 でも、そっと透も俺を抱きしめ返してくれる。
 そっと、背中に手を添えるぐらいの力だったけれど、それでも俺の胸がぎゅうっと苦しくなった。目に涙を浮かべるぐらい、苦しくて痛くなった。
 悲しいのと同じぐらいどうしてか嬉しさもあって、俺のことなのによくわからなかった。
 分かるのは、これからも透は俺のとなりにいてくれる、それだけは、どうしてか分かった。それなら、俺は怖いものなんて何もない。透がいてくれることが、それだけで呼吸が出来るから。今は、そう思えるんだ。

――――

 礼を言った瞬間、伊藤にすごい勢いで抱きしめられた。勢いと同じぐらい力も強くて、普段だったら恐怖も覚えるんだろう、が。
 今は、その力強さとぬくもりが心地よかった。伊藤の心臓の音が俺のと混じって、生きているのを伝えてくれた。ぼぅっと微熱のときのようなふわっとした感覚に手持無沙汰と言うのもあって、そっと添えるように背中に手を置いた。今このときは現実であると、少しでもいいから噛みしめたかったのかもしれない。

 ……だれかに、抱きしめられるのってこんな感じ、なんだな。

 そう暖かい感情が胸をいっぱいに満たした。
 ちゃんと話さないと、と思うんだが、どうしてか心地よくて離れがたくて、声も出し方も忘れてしまうほどに微睡んだ気持ちになった。いつまでそうしていたんだろうか、ずっとこうしていたい、なんてことを思い始めたころ、

「伊藤ー!一ノ瀬は戻ってきたかー!!?」

 そんな大きな声が教室の外、廊下から響き渡った。
 微睡んだ気持ちから一気に現実から戻ってきた感覚だった。それは伊藤も同じだったようで、どちらからともなくバッと距離を作って、立ち上がった。一瞬見えた伊藤の顔は真っ赤になっていたが、きっとそれは俺も同じだろう。

「おっ戻ってきているなぁ!一ノ瀬どうした?校内を迷ったか??」

 そんな俺たちのことをお構いなしに、ひょっこりと顔をのぞかせたのは朝にも会った五十嵐先生だった。
 いつまでも来ないから、様子見に来たぞー!とにかっと笑いながらそう言う姿を見る限りいつまでも来ない俺らを叱りに来たのではないのだと分かった。
 校内を迷った、のではないけれど。確か五十嵐先生は俺が桐渓さんと話していると言うのは知っている。けれど素直に言うのは出来ないし、かと言ってそれを肯定してしまうと桐渓さんに連れられたところを岬先生は見ているから、食い違いが生まれてしまうかもしれない。
 いつまでも俺は無言で、伊藤も何か言おうとしている気配はあるが、その問いを伊藤にもされたとき俺はそれになにも返さないでただ疑問を言っていただけだった。
 どう答えようか、と悩んだ、が良い案は出なくてただ沈黙があった。

「……そうかっ転校してきた初日、慣れないことで調子悪くなったんだなぁ!保健室で休むか!」
「っいやだ!」
「透?」

 突然俺が大声出したことで、目を見て叫ばれた五十嵐先生は勿論、近くにいた伊藤も驚いたように俺の名前を呼んだ。……五十嵐先生はたぶん俺に気を使ってくれたんだろう。それなのに、それを無碍にするように拒否の声を叫んでしまった。反射的、とは言え五十嵐先生の気遣いを無駄にするようなことを言ってしまった。
 心配して気を使ってくれている二人に後ろめたさを感じて俺は俯いた。右手で左腕を握った。ここで、俺が我慢しないと。……今度こそ、桐渓さんに延々と罵られることは分かっていても、それが俺の、罪なんだから。

「……いえ、なんでもないです」

 顔を上げないまま、少し早口でそう言った。保健室、行きます。と続けようとした。

「まぁ家の方が休めるよなっ!初日だし多めに見といてやろうなっ!伊藤は一緒に登校してくるぐらいだから、一ノ瀬の家と近いのか?」
「え、あ、ああ」
「よし!じゃあ一ノ瀬今日帰って良し!で、伊藤は一ノ瀬を送っていけ!いいなっ!?今日のところは伊藤もそのまま帰宅でいいぞっ」

 伊藤は五十嵐先生に押されるがままに頷いた。それに五十嵐先生は満足そうにうなずき返した。……俺は、話がいつの間にか進んでいることについて行けなかった。

「つか、岬先生とかには言わなくていいのかよ。透はともかく俺別に何も悪いところねえし。普通先生が車で送っていくだろ?いや、別に送っていくのはいやじゃねえけどよ。教師がそう指示していいのかよ」

 固まっている俺に、五十嵐先生に押されて帰る準備をしている最中に少し冷静になったようで、そう五十嵐先生に聞く。
 そうなのだ。いくら仲がいい、からってまだ学校も終わっていないし、今日最後の授業とかでもないのだから、そう言うのは可笑しい、と伊藤は言いたいんだろう。伊藤のことだけじゃなくて俺だって。
 俺は何も言っていないのに理由が言いにくそうにしているのを見兼ねて五十嵐先生が助け船を出しただけで、保健室に行くのも拒否したからそう提案してくれたのだ。
 本当なら保健室に行って、帰るか否かを決めると思う。これじゃあほとんど五十嵐先生の独断だ。これは五十嵐先生の立場が悪くなるだけではないのか。伊藤が疑問を投げかけると、五十嵐先生は朗らかに笑ったままだ。

「大丈夫だ!岬先生には俺から言っておくからな!!お前ら仲良いし、一ノ瀬もその方が精神安定上良いと思うしな!俺のことは心配はしなくていいぞっ!教師が生徒優先に何が悪いんだ!てなっ!一ノ瀬も!子どもが大人の心配をするもんじゃないぞー!」
「わっ」

 誤魔化すように俺の頭を撫でくり回す。俺が視線を向けていた理由を五十嵐先生は察していたようだった。

「っおい先生!一ノ瀬具合悪いだから辞めろ!!」
「おっそう言うことにしたんだったな!!悪い悪い!さぁかえれー」

 したんだった、て言ってしまっている。でも、五十嵐先生の優しさだとか強さは伝わった。朝も思ったけれど、確信した。五十嵐先生も、岬先生と同じようにちゃんとした『先生』だ。

「ったく……教科書とか置いて行っていいよな?」
「……悪い」
「ん?具合悪いんだから気すんな、カバンも俺が運ぶからな。」
「いや、それは」
「行くぞ」

 棒立になっている間に伊藤の用意が終わった。
 俺の分のカバンも用意してくれていて申し訳なくて謝ったが、気にすんなと言って俺の意見を聞かずに持って教室から出ていってしまった。
 先に行く伊藤に焦って俺も追いかけようと、教室を出ようとして立ち止まった。

「……ありがとう、ございます」

 俺らをニコニコと見守っていた五十嵐先生の目を見てお礼を言った。そのつもりはなくても結果として授業をさぼることになってしまった上にうまい言い訳すらも言えずにいた俺を、糾弾するのではなくて話を詳しく聞くわけでもなくて、助け船を出してくれて、俺のことを気を使ってくれた五十嵐先生。
 たぶん、他の先生に俺らのことを話して彼は怒られることになるのだろう。最悪評判も落ちるのだろう。
それでも、俺のことを考えてくれて、心配をかけないよう言ってくれたのも、すべてが申し訳なく感じた。
 俺は五十嵐先生になにも出来ない。せめて、目を見てお礼を言った。それが俺に出来る誠意だと思ったから。自己満足、かもしれないけれど、そう言われても良いからそうしたかった。
 五十嵐先生は少し驚いたように目を見開いたけれど、それは一瞬ですぐにあの笑顔に戻って、おう!と深く聞かずにそう答えた。

「代わりに明日は元気に来いよー!待ってるからな!もちろん伊藤もな!!明日も伊藤と来いよー!!」
「……はい」

 ビリビリと響く声には未だ慣れない、多分隣のクラスにも聞こえているんだろう。……やっぱり、理科の先生っていうイメージはまだ沸かない、な。でも、今度理科の授業を受けるのは、少しだけ楽しみだ。
 最後に五十嵐先生に会釈をして今度こそ伊藤を追いかけようと教室を出た。

 ……どこで、話そうか。どう話そうか。

 伊藤は……俺の全部を話しても『俺』といっしょにいてくれるだろうか。

――――

 一ノ瀬と伊藤を見送り、さてどうしようかと悩む。
 悩んでいるのは一ノ瀬や伊藤が心配していたことに関してではなくて、岬先生のことだ。
 授業の準備のため理科準備室にいれば、一ノ瀬と話すから少し授業に遅れると桐渓さんに言われたんだ。理由を聞いても眉を顰めるばかりで詳しいことは教えてくれなかった。確かに何の血縁関係もない一ノ瀬を何故か桐渓さんが見たりしているのだから、それなりの事情があるのだろうと言うのは分かっている。
 桐渓さんがお気に入りで一ノ瀬の担任である岬先生ならその事情を知っているのかもしれないが、問い詰めるつもりは俺にはない。

 どうもこうも俺は桐渓さんに嫌われているようで、俺自身はあまり気にしてはいないが彼自身疲れないんだろうかと思う。授業が始まる少し前には岬先生から桐渓さんに呼ばれた一ノ瀬くんの反応が……いや、二人の反応がおかしくて、僕はどうしたらと相談された。
 一ノ瀬は桐渓さんが呼ぶ前に岬先生と話していた最中だったようだ。あとで様子を見に行くから、と宥めたものの納得は言っていない様子だった。
 一ノ瀬と同じクラスになった叶野たちが理科室にやってきたと思ったら、「伊藤くんは一ノ瀬くんが戻ってこないから、理科室の場所わかんないだろうから一緒に来るって言って聞かなかった」と叶野から報告を受けた。
 何の前触れもなく、桐渓さんに呼ばれたことも知らなかったようだった。
 あえて俺は桐渓さんに呼ばれたのだとは言わずに、あとで様子を見に行こうと言っておいた。嫌な予感はしていたが、何の根拠もなく動けば居心地が悪くなるのは一ノ瀬だと思ったからだ。
 思春期の子は男女問わず自分にもだが他人にも過敏な時期でもあるのだ。穏やかに見えた子でも内心なにか思うこともあるだろう、そこで特別扱いと判断されてしまえばクラス内で居心地が悪くなってしまうだろう。
 でも、授業が始まって10分ほどしても一ノ瀬も伊藤も来るようすはなさそうだった。遅れても5分ぐらいだろうと思ったのだが、さすがに少し異常だ。
「ここまでノート書いたらあとは好きにしてろ!俺は伊藤と一ノ瀬を引き摺りだしてくる!」
 いつも通りを意識してそう言って保健室より先に一ノ瀬は戻ってきていないか伊藤のいる1-Bに行くことにした。

 教室をのぞいてみれば、なんだか男子高校生が出すことのない恋愛感情になり切らない男女の絶妙な雰囲気を醸し出す2人がいた。雰囲気のことはこの際気が付いていないことにして、突っ込んでいくことにした。

 俺の質問に言い淀んだ一ノ瀬に「保健室に行くか?」と言う問いは正直なところ、俺は一ノ瀬に鎌をかけたのだ。悪いなとは思いつつ桐渓さんと一ノ瀬がどんな関係性なのか少し図りたかっただけなのだ。
 嫌だなとかそう思っているのとかが分かればそれだけでよかったのだ。一ノ瀬はどんな感情を持っているのだろう、と少し気になった。それだけだった。

 あそこまで拒否反応が帰ってくるとは予想外だった、いや、一ノ瀬には可哀想なことをしてしまった。朝の桐渓さんの冷たい眼にまさかとは思ったが、これは想像以上に溝は深いのかもしれない。

 嫌だ、と叫んだのに震えながら身を庇う様にしながら取り繕うとしている姿は痛々しくて、何でもないという声が強がりにしか聞こえなくて、なにか言おうとする一ノ瀬を遮って帰すことにした。
 言い淀んだときだとか朝登校している二人を見た生徒からとても嬉しそうだったと報告してくれていたので、伊藤に送ってあげろと推したのは一ノ瀬にさっきカマかけて傷付けてしまった少しの謝罪のつもりだ。友人となら何の気遣いも無しに帰れるだろうしな。

 教師にそう言われたのだから、気にすることなく帰ればいいのに、二人して俺の身を心配するのだから思わずどうしたものか、と思った。子どもが大人の顔色窺うなんて悲しいことさせたくないのにな。
 殴っているのを俺が制止したときも、停学を言い渡されたときにも表情を少しも変えなかった伊藤が心配そうな顔をしたりするのにも驚いたが。

 気にせず帰れ帰れと追い払うようにして何とか帰したが、どう岬先生に言うかが問題になる。
 他の先生にはまぁ俺が怒られればそれでいい話だからいいとして、岬先生は桐渓さんに連れられているのを目撃しているし俺に相談もしている、そのうえで俺が帰らせたとなればなにかと感づいてしまうだろう。
 見た目は優しく穏やかな文系な大人しい人なんだが、どうも生徒も盲目的になってしまうところがある。それを悪いとは言わないし、俺としては好ましいとも思う。
 良くも悪くも真っ直ぐな人だと思う。けれどそういう真っ直ぐな人だからこそ折れたときには修復不可能になってしまうものだから。きっと桐渓さんに一ノ瀬は何かされている、と聞けば周りに誰かがいようとなんだろうと桐渓さんを糾弾するだろう。
 それが教師として正しい姿で良い大人の見本だと思える。だけど、それを良く思わない人間もいる。その人間たちが潰しにかかったとき、きっと彼は折れてしまうだろうから。

「まぁ生徒のことは俺も一番だが、俺も腐っても先輩だからな。可愛い後輩も守っていきてえなあ」

 両方守る、なんて断言できないが。それでもそう思うだけは自由で努力するのは間違っていないはずだ。

 さて、と!岬先生のことだとか桐渓さんのことだとかそういったのは授業を終えてから考えるとして、今は授業が始まってずっと時計を気にしていた叶野を安心させてやるとするかね!ニッと笑ってそう心のなかで勇んで教室から出た。

 俺は聖人君子にはなれない、そんな孤高でも綺麗な心も持ち合わせていないし自己犠牲なんて無理だな、と思う。ただ俺は普通よりは図太い神経をしているだけだ。
 別に一人で孤立しようと影でぐちぐち言われても『どうでもいい』としか思わずに俺は終わってしまう。不快だとも嫌な奴らだなとも思わない。
 目の前で悪口を言われても気にもしないだろうし、俺は普通に話しかけていくんだろうし普通に絡みにもいくんだろう。実際桐渓さんには普通に絡んでいるしな。
 実際岬先生が来る前までは桐渓さんに嫌われていたのもあって俺はほぼ孤立状態だったしな!だからだろうか?それとも見た目と中身のギャップに気に入ったのか?その両方なのかもしれないが、俺に懐いてくれる岬先生は弟のようで可愛いと思う。危なっかしいところもあるから目も離せないしなぁ。
 とりあえず、並行していきてえな!どっちも捨てたくないし諦めたくもない。
 まぁ何事も前向きにいかないと行きたいところにも行けやしないからな!もっと頑張ってみるか!

 いつか、生徒も教師も分け隔てなく笑える学校になれたらいいんだがな!!
5/7ページ
スキ