1.みんなとの出会い。


「なぁ、俺余計なことしたか?」
「……?」
「さっきの…ほら、勝手なことしただろ?」

 数学の授業が終わり、次は何だろうと伊藤に聞こうとしたら叶野に「次は英語だけど、一ノ瀬くん持ってきてる?」と言ってくれた。持ってきてると簡潔に答える。
「そっか、無い教科あったら言ってね隣のクラスの奴に借りてくるからさっ」と人懐こい笑顔を浮かべて俺に言ってくれた。
 叶野はそのまま湖越の元へと行き、また先ほどと同じ通りに何やらじゃれている。良い奴だな、と叶野を見送り数学の教科書と先ほどの問題を書いたルーズリーフをファイルに挟んで机の中に入れる。
 英語の教科書を用意し、今日の帰りはノートを買いに行かないとな、と考えていると、ずっと無言だった伊藤が口を開いたかと思えば、ばつの悪そうな顔でそう聞かれた。余計なこと、勝手なこと、と言われてもしっくりこなくて首を傾げたが、さっき、と言われて俺を庇ってくれたときのことか、とやっと伊藤が言いたいことが分かった。

「なんつうか……俺昔から突っ走ってしまうタイプみてえで、頭に血が上るともう考えるより先に身体が動いていっちまうつうか。……一ノ瀬の立場を悪くさせちまったんじゃねえかって思ってよ」
「……」

 目を合わせずに少し早口でそう言う伊藤。どこまで俺に気を使っているんだろうか、とほんの少しだけ呆れてしまう。
 けれど、気を使われてうれしくないわけではない。ただ、どうしていいのかどう声をかけていいのかわからないのだ。好意を受け取ると言うのはどうしても、慣れない、嬉しいけどどう反応していいのか分からなくなる。

「……謝らなくて、良いから。嫌だったら、ちゃんと言う」
「本当か?今の透って自分の意見言うのはとてつもなく苦手そうに見えるんだが」
「……」

 伊藤の少し目を見開いて告げた言葉は前の俺は自分の意見をしっかり言っていたように聞こえる。前の俺は随分と今の俺と違うらしい。……前の俺、か。あまり聞きたくない言葉だ、な。

「……善処する。…とにかく、さっきのは少しも嫌じゃないから、気にしなくていい」
「……そっか、なら俺もこれ以上は言わねえ」

 俺の目を真っ直ぐ見てくる伊藤の目を次は俺が下を向いて逸らして言えば、声音は先ほどよりずいぶんと上がっていて機嫌よさそうに伊藤もそういってくれた。

――――

 本当に、透は確かに表面上は変わったけど、本質は全くと言っていいほど変わっていない。意見を言うのが苦手になっているくせして、結局意志を曲げるのは出来ねえ奴なんだよなぁ。
 あのまま俺を放っておけば、そのまま俺の行動に驚いて固まってくれれば、一ノ瀬は何の害はなかったはずなのに。俺はもう岬と五十嵐ぐらいしか俺のことを生徒として扱ってくれないんだから気にしなくていいのにな。
 ああでも、あのまま牛島を殴っていれば次こそ退学は免れなかったかもなぁ。それは、困る。透に止めてもらってよかったのかもしれない。退学すること自体はどうでもいいが、また透に遠ざかってしまうところだった。
 久々に会えたんだから、出来る限り傍にいたかったから良かった。だがまた俺は透に守られてしまった。
 帰って来たら守るってそういったのに。また守られてしまった。今度こそ守りたいんだ。

 たとえ、俺のことを忘れてしまっていても、世界の誰もが透の敵になっていても何だっていい。となりにいてくれれば、それでいいんだ。透が俺を嫌だと言うのなら、俺もいろいろ考えていたのに。
 記憶のない透は俺がとなりにいることを良しとしている。今はそれだけでいいや。
 俺は馬鹿だから、難しいことはわかんねえ。とりあえずはそれで良い。

 馬鹿な俺でもわかる、透の記憶が無いことできっとそのうち悩み苦しむ日も来るんだってことは。

 だが、それは今ではない。いつかは来るだろうが、そんな俺の葛藤なんか今じゃなくていい。
 今はまた隣にいる透に喜びを感じていたい。それだけでいい。


 そのうち来る日はまだ当分は来ないでほしいな、と思った。

――――

「じゃあここはやったか?」
「……やった」
「ふむ、ならば一ノ瀬はとっくにこの学校でやっている範囲はとっくに終えていると言うことになるな。今僕が指しているのは塾でやっている内容だ。」
「一ノ瀬くん、まじか……道理で授業で指された問題を全部当てちゃうわけだねっ」
「顔も良くて頭も良いとかすげえな。少女漫画に出てくる奴みてえ」
「残念なことにむさいことこの上ない男子校だから、そう言う青春は期待できなさそうだけどね!」
「透って彼女いるのか?」
「……いたことない」

 伊藤の質問に答えれば何故かクラス中から視線は集まるし、叶野と湖越も雑談を辞めて凝視される。
 質問をした本人と言えば伊藤は「そうだろうな」と何故か納得したように頷く。鷲尾は特に気にしたようすもなくこの問題はどう解く?とすごくマイペースである。
 今の今まで視線に晒されると驚いたし恐怖すらも覚えていたが、あまりに伊藤は気にはしておらず、鷲尾に至ってはもはや自分の世界に入っている。
 2人に感化されたのかそうではないのかわからないけれど……まぁ、いちいち驚いていたり恐怖することも疲れてしまって、少しどうでもよくなってきた。
 鷲尾の出された問題に思ったことを伝えれば、なるほど、と納得したように頷いてさらさらとノートになにかを書いていく。

「なんで伊藤くん納得している雰囲気なの……」
「だって透だしな」
「理由になっているのか?それ」

 時刻は昼休み。
 伊藤とは確かに昼を一緒に食べようと約束したからともに昼食をとるのは分かる。
 何故か叶野湖越鷲尾と昼食をともにしているのかは正直よくわからない。
 叶野と鷲尾は話しかけてきたかと思えばいつのまにかパンやら弁当を頬張り始め、鷲尾は少し遅れて俺に質問をしている。
 決して嫌ではないのだが、どうしてこうなったのかはよくわからなかった。
 俺と進んで一緒にいようとするのは伊藤ぐらいだと思っていたのだが、案外物好きは多いのかもしれない。

 鷲尾は……叶野と違ってよくわからないが。湖越は何となく叶野が行くから、て言う雰囲気で来ている感じはするが。
 こうして人の輪に入れてくれるのは、記憶喪失以降初めてのことだ。叶野が気を使うタイプなのかもしれない、お調子者な人気者を演じているが、さりげなく俺に話しかけたり、クラスメイトがあまり伊藤に話しかけないなか叶野は普通に話しかけているし。
 伊藤も特にこの3人に対して警戒をしていないところを見ると、害はきっとない、むしろ優しい人間なんだろうと勝手に思っている。

 昨日スーパーで適当に買ったちくわパンを頬張る。
「それってうまいのか?」
「……結構」
 そう言えばちくわパン、を籠に入れたとき伊藤は確か不思議そうな顔をしていた。気になっていたらしい。
 ちくわの中にツナマヨが入っていて結構おいしいと思っている。俺も初めて食べたが、ちくわパンと言うフレーズが気になったからつい買ってしまった。
「一口くれよ」
「……ん」
 持っていたちくわパンを伊藤に渡してそのまま普通に食べられた。普通に口を付けてしまったほうを食べてしまったが、これは普通なんだろうか?友人と呼べる人間がいなかったのでよくわからない。
「んー……返す」
「それどうだ?俺も気になってたんだよな」
「俺はあまり好きじゃねえな……」
 微妙な顔をした伊藤がちくわパンを返された、どうやら伊藤の口には合わなかったようだ。返された少し減ったパンをそのまま食べてしまっていいものだろうか。
 でも伊藤は普通に食べていたし特に周りが突っ込みをいれていないのを見ると俺が神経質なだけかもしれない、特に嫌悪感もないし……いっか。少しだけ悩んで、結局残ったパンを咀嚼した。
 何となく後ろめたい気持ちになったのは、なぜだろうか。伊藤たちの雑談に耳を傾けつつ、鷲尾に聞かれたことに答えたりした。
 食べ終えて、買ったペットボトルのお茶を飲んで、ふとトイレに行きたくなった。トイレはもう場所が分かっている。
 時間を確認してみた、まだ昼休みは半分もあるし、余裕で戻ってこれる。

「……トイレ」
「おー行ってらっしゃい」
「そう言えば、次理科室なんだよね」
「次は五十嵐か……悪くはない先生だが五月蠅いんだよな……」
「まぁ確かに、にぎやかな先生だよね」

 理科室……移動か。そこまで広くはない校舎なのでくまなく探せばすぐ見つけられるだろうが、やっぱり誰かと言った方が効率がいい。このままトイレからすぐ戻れば流れでみんなと行けばいい。
 それより、五十嵐先生って……朝話した人……と同じ人だよな?明らかに体育教師って言う風貌だったが、以外にも理科担当だったようだ。体育会系ではなく理数系だったらしい、少し意外かもしれない。
 活気のある教室から出てトイレへと俺は向かった。
 昼にもなれば、いつもとは違うらしい伊藤のことも見慣れたみたいで随分と視線は減った。それに伴って俺への視線も無くなった。
 教室に馴染んでいる自分が、何か、不思議な感じがした。今まで人と関わることがほぼ無く生きてきたから、こうしているのは初めてだった。
 前の学校ほど埃一つ落ちていないようなところではなくて、金持ちもいなくてきっと一般的な高校であって各段特別な学校ではないんだろうけれど、神丘学園よりも水咲高校のほうが、うん、きっと俺にとっていい学校だ。前の学校よりもみんな伸び伸びとしている。良いところだ。

――――

「あ、一ノ瀬くん」

 用を終えて手を洗っていると誰かに話しかけられた。
 声のしたほうを向けば、岬先生が穏やかな笑顔で手を振っていた。どうして話しかけてきたのかわからなくて、とりあえず会釈してみた。
「クラスはどうかな?馴染めたかな?」
「……たぶん……伊藤や叶野が、気を使ってくれます」
「そっかそっか、叶野くん良い子だよね。あ、じゃあ湖越くんとも話したのかな?」
 岬先生の中でも叶野と湖越はよく一緒にいる二人と思っているんだろう、自然に湖越の名前が出てきた。
 俺個人と話したいわけでは湖越もなさそうではあるが、ぞんざいに扱われるわけでもなく、多分クラスメイトとして一番適度な距離に位置している、と思う。岬先生の言葉にうなずいて返した。
「……あと、鷲尾とも」
「えっ」
「?」
 話したと言うよりは質問されてそれに俺が答えるのみではあるが、言葉を交わすことが話すと言うことならば鷲尾とも話した、と言う認識で間違っていないだろう。
 自分としては自然に鷲尾の名前を挙げたが、岬先生が驚いた顔をしたから何か可笑しなことを言っただろうか?と首を傾げる。
「あ、ごめんね!鷲尾くんの名前が出るのが少し意外でね。なんていうかこう……マイペースな子だから……」
「……そうですか」
 何となく岬先生が言いたいこともわかるが、深く突っ込む気はないので流すことにした。
「うまくやれそうかな?」
「……分かりません」
 岬先生の質問にそう答えるしかできない。うまくやる、と言う経験がないからよくわからない。今はみんな良くしてくれていると思う、特に叶野は周りをよく見ていると思う。
 湖越も叶野と一緒にだが普通に話しかけられたら答えてくれるだろうし、鷲尾はきっとこちらに興味が失せたら視線を向けることすらしないだろう。
 俺自身面白味もなくあまり話さないし表情も動かない。不快にさせてしまわないか、と思う。そのうち幻滅されても仕方がないとも思う。

「伊藤くんとはどう?」
「……」

 伊藤。
 今の俺のことも親友だと言ってくれている優しい人。
 あれだけ純粋に慕ってくれているであろう笑顔を向けてくれたのは初めてだった。
 それでも、いつか俺が記憶を忘れてしまっていることを責める日が来てしまうのかもしれない。
 今の俺は伊藤が俺を責めるところを想像も出来ないけれど、でも、もしそんな日が来たとき、憎んでくれるだけなら、いい。
 悲しまなければ、傷つかなければ、俺を憎いだけでいるのなら、耐えられると思う。無言の続く俺に岬先生はどう思ったのか。
「先のことは分からないものだからね、今は考えなくてもいいと思うよ。急かすようなことを聞いちゃったかな?ごめんね」
「……いえ」
 気を使わせてしまったようで、眉を下げながら謝られてしまった。考えすぎてしまう自分が悪いのだ、先生が謝ることではないんだと言いたいけれど、どうしても良い言い方が思いつかなくて、結局口に出せるのは簡潔な言葉だ。
 自己嫌悪で黙ってしまった俺に、軽く頭に衝撃。ほんの少し俺よりも低い岬先生が俺の頭を軽く叩くように撫でられたのだ。突然のことに驚いて岬先生を見ると、変わらずの穏やかな笑顔を浮かべていた。

「さっきも言ったけれど、先のことなんてわからないんだよ。どう考えていても何をしていても、ね。だからさ、難しく考えないで良いんだよ。大事なのは、今自分が何をしたいか、だと思うんだよ」
「……」
「……少し語っちゃった。とにかく、あまり深く考えなくて良いんだよ。明日晴れだって聞いたけど、結局外れて雨降ったのと同じぐらい明日のことも不確定なんだからさ。その不確定さに不安になったら、僕たち教師に相談してほしいんだよ。そのために僕たち教師はいるからね。何が出来るかわからないけれどそれでも話は聞いてあげられるから。だから、遠慮なんてしなくていいんだからね。子どもはもっと僕たち大人に甘えなさいな」

 岬先生はまるで諭すような穏やかな口調でそう言う。考えなくてもいい、甘えなさい、そんなこと誰も言わない。きっと違う誰かに言われても少し自分に酔っているのかと勘ぐってしまうだろうけれど、岬先生は違う気がした。
 どこまでも親愛を込めた真っ直ぐな瞳だった。少なくとも桐渓さんよりも年下であると言うのは分かっているし、肌や容姿を見てもどう見ても20代半ばぐらいに見えるのだが、威圧的とも違う存在感が岬先生にはあった。
 もっと優しくて、穏やかなもの。

「……はい」

 気が付けば岬先生の言うことに素直に頷いてしまった。よろしい、と少しふざけた口調で岬先生は笑う、五十嵐先生の言った意味がよく分かった。良い先生だ、と素直にそう思える先生と出会えたことは、きっと良いこと、だ。

「仲良さそうやん」

 ただ。良いことばかりとはいかないらしい。
 その声が鼓膜を揺らした瞬間、一気に体感温度が冷めた気がした。

「あ、桐渓先生」
「まぁそんなところがきっと岬先生の良いところなんやけどね。さて透、ちょっといろいろ話したいことあるから、ちょいと来てもらってもええ?」
「え、と、あの、あと10分ほどで授業が始まってしまいますよ?」
「ちょっと今すぐ話さないといけないことやねん。五十嵐先生には言っといたし平気や。ほら、いくで」

 ぐっと腕を引っ張られて俺は連れていかれた。突然の桐渓さんの登場に岬先生は驚きを隠せないようだった。俺のことを心配気に見ながらも、きっと俺の事情を知っているであろう岬先生は桐渓さんに強く言えないようだった。
 ただでさえ桐渓さんは上司に位置するのだから言いにくいことも多いだろう。掴む力も引っ張る力も遠慮なんかないようで、痛みを感じる。
 さっきの戸惑っている岬先生が脳裏に浮かんで、そのあとすぐに伊藤のことを思い出した。次は理科室だって言っていた。伊藤は待っていてくれるだろうか。今ここに来ないだろうか。なんて都合の良い展開は無い。
 引っ張られながら馬鹿みたいな妄想だな、と心の中で自分を嗤った。

――――

 力は緩むことはなくて、むしろ強まったと思う。もしかしたら痕になっているかもしれないな。力は強まり、桐渓さんの歩む速度も徐々に早まっていった。転ばないよう必死に速さについていく。
 途中で予鈴が鳴ったから校庭にいた生徒たちが戻ってき始める、誰にも会わないように焦っているのかもしれない。皆が使う階段とは違う、外にある非常用の階段を使ってもいつ誰に見られるかわからないから、その判断は間違っていはいないんだろう。
 見つかればどんな関係なのか騒がれてしまうだろうから。伊藤と俺が一緒に登校したように。

 予想通り、自身が保険医だけあって保健室は彼自身のモノのようなものだ。白衣から鍵を出して保健室の扉を解錠し、明けたと同時に俺を引っ張って、床に乱暴に投げつけた。

「っ……」
「呻き声一つもあげんし、表情も相変わらず変わっとらんな。ほんと、気持ち悪い子やわ」

 勿論そこにクッションとかあるわけはなく、その堅い床に身一つで着地した俺をそう詰る桐渓さん。突然のことで声も出せなかった。けれど、痛みで表情を歪ませる方法なんてもう忘れた、痛いと叫び方も忘れた。
 それに限らずなんだってどんな感情だって、表情の出し方なんてわからない。なんて言っていいのかわからない。ずっと俺はわからない。
 桐渓さんたちが、そんな俺を求めてなんかなかったんだろ。そういう風にしたんだろ。
 蔑んだ冷たい目で見下ろす桐渓さんに、そんなことを思いながら見上げた。忌々し気に、俺に聞こえるように舌打ちした。

「なんなん。その眼」

 どんな目で俺は彼を見ているか、俺は俺自身の目を見ることは出来ないからわからない。でも、きっと少し前の俺とは違うんだろうな、と思う。
 殴られたりはしなくても、こうして痣にならない程度に暴力的なことはされてきた。それに対して俺は何も感じない、ようにしていたし、何も思わない、ようにしていた。
 今日は自分でも驚いたことに意志なんてものがあった。……今日は、俺を人のように、いや俺を一人の人間として俺を扱ってくれたから、遠目で見られるだけではない、本当にクラスの中のどこにでもいるような男子高校生のような1日。
 そんな日だったからか、俺を『一ノ瀬透』と言ってくれて認めてくれた伊藤と出会ったからなのかわからない。
 普段よりは人間のようだった。自分のことながら驚く。でも。

「昨日から今日まで俺のメール返信もせえへんし。かと思うたら、何やらあの伊藤と登校してるわ、クラスでは結構な人間関係が出来て?そのうえ岬先生に頭撫でられて仲良させ気にして?結構なご身分やな」

 やっぱり、俺は、変わってない。変わってはいけない。桐渓さんの言葉の続きを聞きたくない、けれど耳をふさぐ気にもなれない。だって。

「薫と灯吏を殺しておいて」

 桐渓さんの言うことは、俺の罪そのもので、まぎれもない事実だから。

「確かにあいつらからすれば、お前はこれ以上ない大事な存在なんやろう。けど、俺からすればお前じゃなくて薫と灯吏が一番大事な存在やった。なんで、お前が
生きているんやろな!!」
「ぐっ……」

 床に座り込んだままの俺を蹴り上げた。力はそこまでは入っていない、けれど痛みと息苦しさは感じるぐらいの蹴りを腹に入った。腹を抑えながらも桐渓さんを見上げ続ける。
 そこにいるのは苦しみや憎しみで歪んだ顔、そしてどこまでも深い悲しいに染まった眼だ。その目で見られ続けて、6年経った。
 彼は未だ苦しみと悲しみから抜け出せていない。そして祖父も、亡くなるまで俺のことを許しはしなかった。
 祖父は感情を露にはせず、どちらかと言えば無関心に近かった。桐渓さんと同じように傷ついて悲しんで俺を憎んでいてもベクトルが違う。
 二人同時に責められたのは俺が目を覚ましたときとその直後まででそれ以降桐渓さんは時折現れては誰も見ていないところでこうして、俺へ憎しみを向ける。
 桐渓さんが俺へ憎しむことは当然の行為で、暴言を吐いて暴力を受けることも仕方がないことなんだ。
 そう、言い聞かせてきた。
 ……もし、伊藤がここにいたら、なんて言うだろうか。
 俺へ向けるのはあのどこまでも曇りのない笑顔だったけれど、このことを知ったら桐渓さんと同じようになってしまうんだろうか。
 伊藤に忘れた、とだけしか言えなかった。事実を言って責められるのが、本当はもう嫌だった。忘れたって言えばもう来ないだろうと、憎まれ続けるだけならまだいいや、て思った。痛いことを我慢するのは、慣れているから大丈夫だと思った。
 なのに、それでも俺は「一ノ瀬透だ」と言ってくれた。やっと呼吸がうまくできたと思えた。

 なんて思うんだろう。
 なんて言われてしまうんだろう。

「おい」
「いっ……」

 思考が違うところに行ってしまったことを察したようで、思いっきり前髪を引っ張り上げられた。反射的に声を上げる。桐渓さんは中腰になって俺と目を合わせた。桐渓さんの目が苦手で顔を逸らすことは出来ないので、視線だけは右上に逸らした。

「何考えてるん?」
「……」
「あーそういやぁ、お前伊藤と何でか知らんけど、仲ええんやって?保健室に無意味に遊びに来る生徒らに聞いたわ。まさかお前と問題児の伊藤となぁ?自分の立場考えたらあんま仲良くしないほうがいいんやない?伊藤は低能で愚直で乱暴な奴やし、伊藤といるとただでさえよくない評判がさらに落ちることになると思うで。あんな問題児初めて見たわ。あきらかに相手を殴っているのに、何でか周りに庇われて結局退学にはならんくて停学になったんやけど。岬先生もなんであんなの庇ったのか……。すぐに暴力に訴えるやつなのになぁ。優しいから仕方ないことかもなぁ。まぁお前みたいなやつ、伊藤ぐらいがちょうどええか?どうせ何らかで目を付けられて、伊藤がお前のことをパシリにでも使ってるんやろ」

 教師にあるまじきことを笑いながら言っている桐渓さん。教師が言うことではないし、教師に限らず人としてそんな評価をしてはいけないであろうことをつらつらと淀みなく言う桐渓さん。

 このとき一瞬何を言われているのかわからなくなって固まって。

「……今、なんて言った」

 漸く頭が桐渓さんの言うことを理解した。
 理解したと同時に、頭が真っ赤になって口から勝手に言葉を紡いでいた。言葉にしたのを口から出てきたことによって自分が初めてこんな声を出せたのか、と驚きもした。だが、それ以上に湧き上がる感情を抑えられない。
「はぁ?」
 どこか馬鹿にしたように言った桐渓さんだったが、いつの間にか桐渓さんを見ていた俺に、直ぐに驚愕に目を丸くする。朝に桐渓さんが伊藤を野蛮だとか言っていたときと同じ、いやそれ以上の激情だった。
 髪を引っ張られているのも、蹴られるのも殴られるのもきっと首を絞められるのだって、暴言だって、自分自身に対して言うなら構わない、そうして桐渓さんが気が済むのなら、いくらでもやっても構わない。
 けれど、他人には……伊藤には、そう言うのは間違っている。少なくともそれ以上に伊藤を見る機会が桐渓さんはあったはずなのに、的外れのことばかり。何も知らないくせに。
 ああ、むかつく。……そうだ、この激情。自分でもどうしようもないぐらいの炎のようなこの爆発的な熱い感情。

 人間の感情。
 そうだ、これは怒りだ。
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