1.みんなとの出会い。

 視線の集中砲火を予想していた通りだったが、見かねた岬先生のおかげであまり気にならなくて済んだ。同じクラスなのは分かっていたけど、伊藤がいるのは心強い上に隣の席だとわかったときには、胸が嬉しさで満たされていく感じがした。
 目が合って手を振られたからつい俺は手を振り返してしまったが、おかしかっただろうか?クラスのほとんどが何故か伊藤に注目されていてあまり俺を見ていなかったが、伊藤の前の席の赤茶髪の存在感のある人と前のほうの席に座っていたジャージの人が俺のほうを驚いてみていた。でも伊藤は特に変だとも言わなかったから、まぁ大丈夫かな。

「同じクラスになれて、しかも隣の席でうれしい。後で校内案内するな!」

 こちらに向けてくる視線を気にせずに伊藤は小声で話しかけてくるのを見習って、俺も気にしていないフリをして伊藤の言葉にうなずいた。岬先生が生徒の名前を呼んで出席を取る。
 俺の名字は普通の名前順で並べば最初らへんになるんだろうけど今回は転校生と言う形なので、俺の名前は最後に呼ばれるんだろう。そういえば、名前順では伊藤と俺はかなり近いと言うか前後になることはほぼ確定だ。
 名前順で俺と伊藤は仲良くなったんだろうか。いつか聞いてみよう。

 出席をとって連絡事項もそこそこに朝のHRは直ぐに終わった。
「あまり一ノ瀬くんにしつこく質問したら駄目だからね?」と岬先生はクラスに釘を刺してくれた。これでHRを終わります、と穏やかな口調で締められHRが終わる。



「はじめまして!俺は叶野 希望(かのう のぞみ)です。よろしくね、一ノ瀬くん」
「……よろしく」

 伊藤の前の席の、さっき驚いた顔をしていた赤茶髪のほうの人、叶野が人懐っこい笑顔で友好的に話しかけてきた。自己紹介はもうしたのでそうか、としか返す言葉は見つからなかった。
 どうしても話すことがすぐに頭にまとまらず変な間が出来て、その上で言葉が見つからず簡潔な答えしか出来ないのは、申し訳ないと思う。口数が少なくて無表情であろう俺に気分を害した様子はなくうんうんと叶野は何故か頷いて「やっぱり美形!」とにこっと笑ってそう言われた。この流れでなぜ言ったんだろうか。

「伊藤くんと一ノ瀬くん仲良いんだね、伊藤くんが嬉しそうな顔をするのみんな初めて見たから、このクラスどころか学校中が騒いでたんだよ」
「そうだったか?」
「うーん、伊藤くん本当に周りの目気にしないね」

 ふーん、と本当に気にしていないと言うかどうでもよさそうな声で伊藤は叶野に返した。伊藤の反応に叶野は苦笑した。そういえば、と伊藤の後姿を見送ったのを思い出す、よく俺は視線にさらされることがあるが、この学校では俺の比じゃないぐらい伊藤への視線は物凄かった。何と言うか、物珍しいものどころか珍獣でも見るかのような。
 気にしていないかのように堂々と歩く後ろ姿。本当に気にしていなかったどころか、騒ぐ周りをまずまったく見ていなかったらしい。

「少し見習いたい気もするな……」
「……」
「あ、いきなり悪い。俺は湖越 誠一郎(ここえ せいいちろう)だ。よろしくな、一ノ瀬」

 ぬんっと現れたのはさきほどの……ジャージの人。クラスで一人だけ何故かジャージだ、髪は短髪の黒髪で意志の強そうな少し釣り目なのが印象的だ。
 多分俺ほどではないけど、あまりその顔には表情を載せていない。俺が座っているのもあるが、それ以上に大分身長が高いのだろう、少し威圧的にも感じる。じーっと俺の方を見ているだけなんだろうが、威圧感のせいか睨まれている気もする。

「……なんつうか、初めて見たわ。このレベルのイケメン……いや、とんでもない美形」
「……?」
「誠一郎は一ノ瀬くんに少し見惚れちゃっただけだからね、睨んではいないの。少し人よりでかいから、ただ見下ろしてしまうのを見下されていると勘違いされてしまうのです」
「うるせえ、ちび」
「今誠一郎は全国の172㎝以下を敵に回しました。聞いたー?!みんなぁ!!
と言うか、俺は日本男性の平均はあるから!」
「叶野必死過ぎるだろ!」
「うるさいよそこ!くそ、誠一郎はでかいし伊藤くんも多分一ノ瀬くんも俺より身長高い…!だれか、俺に援護をっ」
「俺175だから」
「この裏切者がっ」

 ……いきなりじゃれ合いが始まった。いや、普通の男子高校生はこんなもの、か?煽ったであろう湖越は我関せずで、叶野はこちらに視線だけ送っていたクラスメイトと騒ぎ始めた。伊藤も伊藤でマイペースで「次の授業数学……みたいだな。はあ」と次の授業の科目を嫌そうに呟いている。
 何の授業が今日あるのか分からなかったので、国語と数学と英語をとりあえず持ってきた、持ってきていない科目は今日のところは伊藤に見せてもらおう。教科書ノートすべて机の中にいれっぱなしの状態らしい伊藤がごそごそと数学の教科書を探しているのを見て、俺も教科書とノートすべて置いて行こう、と思った。重たいし、予習復習がしたいものだけ持って帰ろう。

「ねぇ、鷲尾くんもそう思うよね?!」
「五月蠅い。それに僕の身長は178㎝だ。お前より身長高いから正直賛同しかねる」
「裏切者っ!薄情者、この冷血漢!!がり勉、この野郎っメガネ割れろ!」
「何故僕だけ悪口の量が豊富なんだ!」
「ノリだよ!馬鹿!頭の良い馬鹿っ」
「矛盾しすぎだろう!」

 叶野はと言うとクラスメイトに絡んで冷たく断られている。何故か他のクラスメイトとは違って悪口をすごい言われているのはさすがにツッコミを入れている。
 その二人をみて周りは、連休明けそうそうまたやってるなーと言って笑ってみているので、これはいつも通りの日常らしい。気が付けばこちらに視線を向けているのは数人になっている。
 ……なんだか、伊藤もらしいけど、叶野もキャラが濃くて俺のことは薄れていてくれているようだ。このぐらいの視線なら落ち着きはしないが、そこまで過敏になるものでもない。前の学校のようにはならなさそうだと安堵を覚えた。

「そういや、一ノ瀬ってどこから来たんだ?」
「……神丘学園って、言う」
 T県の山奥にある男子校だった、と湖越からの質問にそう続けようとした。

「神丘、だと?!」

 大きな通る声が教室に響き渡る。声のしたほうを見れば、さきほどまで叶野が絡んでいた……鷲尾と呼ばれた黒い髪をしたメガネをかけた見るからに優等生といった風貌の彼と目が合う。
 突然の大きな声にクラスメイトが驚いて鷲尾のほうを見た。予想はしていたが、鷲尾はこちらにつかつかと向かってきた。また俺のほうに視線が集中する。もう視線が気になると思うことをあきらめたほうがいい気がしてきた。今日から伊藤の姿勢を見習ってもう視線を気にしないように心がけようと決めた。

――――

「お前、神丘ってあの神丘学園か?男子校でT県の山奥にある全寮制の名門学園か?」
「……そう、だと思う」

 この間までいた神丘学園が、名門だと言うことは今初めて知ったが、特徴は合っている。とは言えこんなに大きな声で名門とか言われると少し対応に困る。
 自分が変に目立つと言うのは知っているから。少し声を控えめにしてほしい。

「へぇ一ノ瀬って顔も良くて頭も良いんだな」
「ハイスペックだね!と言うか鷲尾くん食いつきすぎて一ノ瀬くん引いてない?」

 感心したように言う湖越といつのまにかその隣にいた叶野が鷲尾の反応に突っ込みを入れている。引いてはいないが、正直この勢いをどう対処していいか困ってはいる。そして隣に座る伊藤は。
「やっぱり透ってすごいんだなぁ……」
 と何故か輝いた眼で俺を見ている、いや、なんで。自分が少し他者と優れているときに暗く濁った眼で見られたことがあっても、こうして純粋に感心されるなんてされたことはない。
 ……周りはどうも俺よりも、突然の行動をした鷲尾にばかり意識が向いていてこちらのことを見ることはないんだろうな。
 もしかしたら見られているとか俺のただの気にし過ぎで、実際周りはそこまで俺に興味はないのかもしれない。自意識過剰、だっただろうか?自分が思うより、視線なんて気にしなくとも、いいんじゃないか。

「……そうか、お前あの学園にいたのか」

 鷲尾は俺をじろじろと値踏みするように見ている。いつも向けられている眼と少し似ている気もしたが、鷲尾の眼はそれよりももっとぎらついているようにも見えた。
 メガネで分かり難いが、よく見ると少し垂れ目なのに気が強そうな印象を受けるのは、その真っ直ぐすぎる眼と強い口調で話すからだろうか?
 同じようにメガネをかけていて垂れ目よりなのに岬先生とは真逆の印象を受けるのはそのせいだろうか。
「神丘学園とかいうのってそんなに頭良いところなのか?」「鷲尾がここまで反応するぐらいだからそうなんじゃね?」とか周りのクラスメイトが小声で話しているのが聞こえる。

「鷲尾、てめえ透困ってるだろ。つか自己紹介ぐらいしろよ」
「問題を起こして停学処分を食らっていた上に碌に学校にも来ていなかったお前に言われるのは癪だが、確かにそうだな。一理ある」

 ぶつぶつとなにか言っているばかりで、俺に話しかけたりはしていないがその場からどく気もなさそうな鷲尾に伊藤が見兼ねて注意すれば、鷲尾は不快そうに眉を寄せつつも案外素直に伊藤の意見を聞き入れた。
 問題、そう鷲尾が言った瞬間周りの空気が冷えたような伊藤を窺うような雰囲気に変わったが、言われた伊藤は鷲尾の態度に舌打ちはするが言われたこと自体に特に反応はない。鷲尾は……嫌味のつもりで言った、というよりは自分が思った通りのことを言っている、そんな様子に見えた。

「僕は鷲尾 和季(わしお かずき)だ。お前は?」
「……一ノ瀬透」

 さっき黒板の前で岬先生に俺の名前を紹介していたが、確かに鷲尾は興味が無さそうになにか本を見ながら、ノートになにか書いていた気がする。『神丘学園』と言う単語に反応して、ようやく俺の存在に興味を持ったようだった。俺が言うのもあれなのかもしれないが、鷲尾は少しその……変わっていると思った。

「一ノ瀬か。神丘にはいつからいた?テストの順位はどのぐらいだ?もうこの学校で習ったことは習い終わっているな?」
「鷲尾くん、そろそろ授業始まるよっ!だからとりあえず質問は後にしよう!」
「……牛島の担当か」

 表面上の自己紹介を終えて、早口でずらずらと質問攻めされそうになってどうしようかと思っていると時間を見た叶野が、もう授業が始めることを教えてくれたおかげで止まった。
 一気にテンションが下がった様子の鷲尾は俺になにも言うことなく自分の教室に戻っていった。なんというか、自分に正直な奴だなと思う。

「鷲尾の奴、明らかにテンション低くなったな。まぁ次牛島の授業だしな。仕方ない」
「うーん…鷲尾くんって分かり難いけど、わかりやすいよね」

 それだけ牛島、と言う先生の授業であることがテンションが下がることなのだろうか。鷲尾の反応に納得している様子の湖越に、それに否定もフォローも入れようとしない叶野。

「……牛島、てそこまでの人なのか?」
「ん?あーまぁ、端的に言うと人間の屑だな」

 伊藤に問いかけると帰ってきたのはそんな簡潔かつこれ以上ないぐらいの分かりやすい回答だった。伊藤の回答がおもしろかったのか、湖越は「ぶふ……!」と吹き出し、口を抑えた。逆にその牛島と言う先生が気になってきた。

「明らかに分かっていないであろう生徒を指して、その様子を笑ってみているようなクズだぞ。出来れば視界にも入れたくもねえな」
「……それは……クズだな」
「一ノ瀬くんもそんな言葉使うんだね」
 なんか意外だなーと笑う叶野。いや、普段別に使わないんだが、そうとしか表現できないと言うか。クズという言い方はよくないだろうけれど、そうとしか思えないことしか教えてもらってないし……。

「……人として問題のある底辺なひと……?」
「ぶっ……いや!言い方とかじゃなくて!少し丁寧なのが、なんか、また拍車をかけている気がするよっ」
「……そうか……?」

 そんな言葉、と言うのだから『クズ』という言い方を少し丁寧に詳しくしてみたけど、それも駄目らしい。俺の発言に湖越だけではなくいつの間にかクラスメイトも笑っている。

「はは、言い方が変わっただけで伝えたいことは変わっていないしな」
「……だめだったか?」
「良いんじゃね?透らしいし」

 俺らしいとかよくわからないけど……まあ、伊藤が良いというならいいか。なんで一ノ瀬ちょっときょとんとしてるんだよ、と遠くから野次を飛ばされた。
 まだクラスでクスクスと笑う声も聞こえるなか漸く落ち着いたような湖越が誤魔化すかのように咳払いをしたそのときチャイムが鳴り扉が勢いよく開く。

「さっさと席に着け!うるさいぞ、転入生が来たぐらいで騒ぎおって……」
「ぶふっ!」

 顔を真っ赤にした小太りの中年男性……多分、先ほどまで話していた牛島先生と言う人だろう……が入って怒鳴ってきたが、さきほどのことを思い出してしまったのかまた湖越が噴き出す。それにつられてクラスメイトはまた笑いだす。
 何故か自分のことを見て笑うクラスメイトたちに、牛島先生はなんだ?なにがおかしい!と叫ぶ。

「五月蠅い。あんたの声ただでさえ不快なんだ、叫ばないでくれ」
「貴様ぁ、鷲尾!!お前は毎度毎度教師になんつう口の利き方……!」
「うぜえな、相変わらず……」

 俺は後ろの席なので鷲尾の顔は分からないが、きっとすごい不機嫌な顔をしていることがすぐ予想ができるぐらいの呆れが混じった機嫌が悪そうな声の鷲尾。鷲尾の態度を気に入らなかったようで牛島先生はなにか言おうとしたが、違う誰かに心底うざそうに言う声に牛島先生は固まる。

「っ伊藤、いたのか……」
「いるけど?なんか悪いのかよ」

 その声の主と言うのも隣に座る伊藤だった。伊藤のほうを窺えば足を組んで、背もたれに寄りかかって牛島先生の方を見ている。
 特に睨んでいるようには見えなかったけど、三白眼で眼力があるから睨まれているように感じたようで牛島先生はいや、その、とまぁしどろもどろだ。何故か伊藤を怖がっているように見える。そんなに顔、怖いか?そう思って伊藤のほうを覗き込んだ。

「っうお、なんだよ、透」
「……男らしい顔だな」

 三白眼で一重で釣り目。そして真っ黒な眼。一瞬睨んでいるように見られてしまうのはきっと本人としては良いところではないんだろうけど。表情筋が死んでいて眼も大凡15歳としては輝きのない自分よりも伊藤のほうが、キラキラしている。やっぱり怖くはないな。うん。

「……やっぱり透だなぁ」
「……?なにか言ったか?」
「いいや、なんでもねえよ。ありがとよ」

 哀愁さえも感じるような笑顔を俺に向けてなにかを言っていたが聞こえなくて聞き返しても、答えてはくれなかった。特に嫌そうな訳でもないから、悪感情ではないんだろうけれど、何となく、嬉しいけど少しだけ寂しそうな笑顔が頭から離れなかった。

「なにを呆けている。牛島」
「…!うるさいっ!!」

 感情すらも無くなってしまった声で鷲尾は牛島先生に声をかけると、ようやく動き出した。何故かクラスメイトたちも俺たちのほうを見ているが、なにかあっただろうか。一瞬気になったが。
「数学の教科書は持ってきているか?」
 と伊藤に聞かれて、持っていると肯定するために頷いたときにはもう周りの視線は気にすることはなかった。

――――

 正直牛島の教える数学の時間は無駄だと感じる。口を開けばこちらを馬鹿にしたようにしか話さないし教え方も回りくどくて分かり難い。何よりもあの不快な声。
 まるでカエルが潰れたときのようなガラガラとした耳障りなのに妙に記憶に残るのが腹立たしい。よく僕の口調のことで怒鳴ってくるが、尊敬の欠片もできない牛島に使う敬語など僕にはないのだ、いい加減そっちが諦めてほしい。
 そもそもこんなのがよく教師をやっていられるとも思うし、この学校はこんなのをよく採用したなとも思う。教え方が回りくどくて分かり難くて下手なくせして、授業での問題を生徒に指してはその生徒が答えられなければ鬼の首をとったかのように楽しそうに貶し、当たったら当たったでいい顔をしないと傲慢な奴。
 伊藤のクズという言い方自体は乱暴で品はない。だが、もっともである。確かにこんな問題がわからないのも理解できないが、それを何もせずに、と言うか教師が笑い者にしていい道理はない。

 いつもは不快な時間を過ぎるのを待つだけだったが、今日は少し違う。あの神丘学園からやってきたと言う一ノ瀬がいるのだ。何故か呆けている顔をした牛島が、いつも通りの嫌な笑みで一ノ瀬のほうを見たのだ。
 どうやら牛島としては新入生いびりならぬ転校生いびりとしようとしているのが見て取れた。絶対に一ノ瀬を指すんだろう、一ノ瀬がどれほどのものなのか全部が分からなくとも少しでも分かるだろう。そして一ノ瀬が自分よりも出来る頭であれば……嫉妬で狂いそうになるかもしれないが、それはそれ。むしろその悔しさをばねにして一ノ瀬に教えを乞おう。
 自身の嫉妬と一ノ瀬の頭の出来のよさは別物であり、嫉妬はするが憎むほどのものでもない。伸びしろがあるということでもある。

「さぁて……この問題をそこの、あーなんだったか……転校生!お前、黒板でやれ」

 とか考えていると、さっそく牛島に動きがあった。前を向けば食欲を失せるような肥えて油てかてかの不自然な黒い顔がある。昼休みの前後にみるとこの顔は吐き気を催す。
 朝から見るのもまぁ嫌なのだが、他の時間で見るよりはまだましと思う。今日だけは転校生だから、新しいターゲットが出来たことを嬉し気にしているのをいつもなら気持ち悪いだけで済ますが、今回は気持ち悪いと思うと同時に感謝も少しはしておこう。

「うわ指さすなよ、きめえ」

 これは久しぶりにやってきたと思いきや転校生の一ノ瀬に何故かべったりの伊藤の発言である。伊藤自身は確かに僕が理解できないことをやるし野蛮と感じるときもあるが、少なくとも何も物言わないクラスメイトらよりは好ましいと思う。
 どうも牛島は伊藤にはなにも言えないようで、なにか言いたそうにしつつもぐっと何か耐えているようだ。伊藤は何か問題起こしてしばらく学校に来なかったんだったか。
 興味がないからあまり詳しく聞いていなかったが。生徒に対して何を怯えているのか。なんのために教師になったんだ、この男は。

「……」

 少し間が合った後、返事もなく一ノ瀬が席から立って移動した。指示された通り黒板へと移動したようだ。僕の席の隣をすれ違いその際一ノ瀬の様子を窺う。
 何を考えているのか想像が出来ないほどの無表情さだ。先ほど話していた際にも思ったが、僕も人のこと言えないとは思うが、驚くほど表情がない。
 まぁ感情は特に出さなくてもいいのだが、声ぐらいしっかり出した方が良いと思うが。僕自身必要がなければ話さないし特に感情もそこまで表に出さないタイプではあるのだが、必要があれば話すし話しかけられれば普通に話すさ。ただ何故か僕が話せば相手の反応が悪い。
 今までも話しかけられて思った通りのことを口に出せば、返答が気に入られなかったのか、困ったように反応されたりたまに牛島のように怒られたりする。それ以降は話しかけられないか、話しかけられても義務的なものだったり腫物を触るかのような感じだったりする。
 僕に態度を変えずに接してくるのは担任の岬に隣のクラスの担任の五十嵐、同じクラスの叶野と湖越ぐらいなものだ。ある意味では伊藤もだが。
 相手の顔色を窺わないといけない人間といるぐらいなら一人のほうが断然ましだ。煩わしさも何もない。教師だからと言って敬いもしないそして恐れもしない、特に牛島に対して何の感情も抱いていないからだ、強いて言うならば鬱陶しいとは思っているが。
 そんな僕に牛島は鬱陶しく毎日怒ってくるのだ。最近は無視していたのだが、叫ぶわいつまでも授業も始めないわでいい加減目に余る。

「おい!返事ぐらいしたらどうだ!!」

 返事をせず教壇に上がる一ノ瀬に、怒りつつどこか愉悦を感じているような顔をして一ノ瀬を指をさしてそう言う。これだから最近の若い者は、とか何やらくどくどと説教を始める。

 一ノ瀬はその説教を聞いているのか聞いていないのか何の反応もせず黒板に、書き始めた。牛島の説教と一ノ瀬がチョークで黒板に書く音が静かな教室に木霊する。
 ちなみに牛島は身振り手振りして説教をしている自分に酔っている様子で、一ノ瀬が何の反応をせずに答えを書いているのに気が付いていないようだ。牛島の説教は平均20分ほど続くのである。全くをもって時間の無駄である。
 一ノ瀬が牛島を無視して問題をやり始めたのは正解だと思う。一ノ瀬は少しも悩む素振りはみせず、躊躇いなく書いていきそのまま書き終わる。牛島の書いた数学の式。
 僕は塾でとっくの前にやっているが、この学校ではまだやったことのない問題だ。いつも習っていないところを出してはその問題が分からない生徒を笑いものにしようとするのだ。だが一ノ瀬はさっさと、問題を解き終え未だ話続けている牛島をそのまま置いて、遠回りになるが来たときとは違う方向から自分の席へと戻っていった。
 1人で延々と話し続けている滑稽な姿の牛島に、教室から笑いをこらえる声が聞こえる。一ノ瀬の方を見れば、隣の席の伊藤は一ノ瀬と話をしている。

「はははっ」

 と思えば、伊藤の笑い声が響いてきた。あの伊藤が笑った、ともきっと誰もが思っただろうが、それよりもその伊藤の笑い声によって耐えていた他のクラスメイトたちも笑いだした。
 僕もつられて少し笑う、突然響くクラス全員の爆笑の声に牛島はビクッと身体を震わせ、挙動不審で周りを見たそこで一ノ瀬が席に戻っていることに気付いたようで、先ほどまで一ノ瀬がいたところをバッと振り向いた。いつもはふんぞり返っている牛島は今は慌てふためいて一ノ瀬の元へと向かう。

「何故、席に戻っている!?」
「……あ、俺に話しかけていたんですか」

 一ノ瀬は無表情なその顔を少しだけ不思議そうにして牛島を見返して、どこか他人事……独り言のようにそう答えた。どうやら自分に言っているのだと認識すらもしていなかったようだ。嫌味とかわざととかではない様子だ。確かに牛島の説教は説教と言うよりも、ほとんど独り言に近い。
 最近の若者だとかその生徒本人に関係のない話ばかりで自分の愚痴を言っているようなものだ。一ノ瀬本人に対しての説教、ではないと感じるのは、まぁ理解は出来る。

「っ貴様!」
 一ノ瀬が何を言われたのか分からず、ぽかんと一拍置いて、漸くその鈍い頭は彼の言ったことを理解したようだった。理解したと同時に牛島は顔をさらに赤くしながら(いい加減血管切れるんじゃないか?)一ノ瀬につかみかかろうとしたのか、手を伸ばす。次の瞬間パン、と渇いた音が教室に木霊した。牛島が一ノ瀬を叩いた音、ではなくて。

「おい、透に触るんじゃねえよ」

 いつの間にか隣の席の伊藤は立ち上がっていて、一ノ瀬を守るように二人の間に立ちふさがっている。どうやら渇いた音の正体は伊藤が牛島の手を叩いたからだようだ。鋭く牛島を睨み、威嚇するその様は……まるで一ノ瀬の番犬だ。
 前々から野性的で誰にも懐かない警戒心の強い動物みたいだと思ってはいたが、いつの間にか飼い犬になったのか。
 笑い声が響いていた教室は今静まり返っている。本来ならば教師に対して何たる無礼かとかくどくどと言う牛島も伊藤の雰囲気に圧されて後ろ姿が震えているのが分かった。
 牛島が哀れに思ったわけではないが(掴みかかろうとしたのは事実であり同情は出来ん)残り40分ほどの授業をこのまま終わらせるのは無駄な時間だ。
 また授業を催促しようと声をかけるか。そう思い始めたころ。

「……伊藤。気付かなかった俺が悪い」
 今まで沈黙していた一ノ瀬が席から立ち上がって、伊藤をなだめるよう、ではなく事実であると言う風に淡々と告げる。
 伊藤は一ノ瀬を見つめる、一ノ瀬も静かに伊藤を見返す、何となくその見つめ合う二人に見入ってしまう。いくら僕でも威嚇している伊藤を目の前にすれば多少の恐怖は覚える、この状態で伊藤に話しかけることは出来ない。
 だが、一ノ瀬は今にも牛島に殴りそうな雰囲気の伊藤を止めて目を合わせた。目を逸らす気配はない。そのまましばらくの沈黙のままいるのを僕含めて皆で見守る。

「……お前がそう言うなら」
「……ありがとう」

 伊藤が呆れているように諦めたように溜息を吐いて、威嚇状態を解いて大人しくなって席に着いた。牛島のことを睨みながらももう手を出すつもりはないようだ。牛島もすっかり大人しくなっている。

「牛島先生、すいませんでした。今後は気を付けます」
「あ、ああ、いや、分かればいい……」
「ありがとうございます」

 牛島が掴みかかろうとして伊藤が庇い今にも殴りかかろうとしていた流れを一ノ瀬は無かったことにして謝罪の言葉を口にした。大きく出ていた牛島は随分と小さくなってしまった。
 これ以上一ノ瀬に対して口に出すのは、隣に座る伊藤が睨み続けているので次は殴られるとでも思っているのか、物言いも先ほどより弱弱しい。牛島は黒板の前へ戻ろうとした。

「……あ、あと問2の問題の解……間違えてます」

 一ノ瀬がポツリとそう言った。最後の問題しか僕は気にしていなかったので問2の問題まで見ていなかった。
 ノートを見れば僕が予習してきた答えは6と書いてあるが、黒板には5と書かれている。何のことはない、ただの簡単な計算ミスだ。

 指摘されてカッとなったのかまた勢いよく一ノ瀬のほうを振り返るが、何も感情もなくただ透き通った眼で見る一ノ瀬とその隣に座る伊藤の睨みによって身体を震わせて「あ、ああ、指摘感謝する……」と直ぐに小さくなった。
 今度こそ黒板のほうへ戻っていた。そのあとの授業はまぁ大人しいものだった、教室も静かで今までのなかで塾で学んだことをもう一回やっているにしても一番快適な授業だった。
 伊藤の隠さないその態度も嫌いではないが、謙虚にも見えるけど、きっと本当に自分が思っていることを言う一ノ瀬のあの行動も悪くない。あのまま伊藤に任せておけば結果として悪い印象を覚えるのは伊藤だけになるのに。一ノ瀬自身は安全なところから見ているだけと言うことも出来ただろうに。

 庇った伊藤の気持ちも考慮しつつも自分の思ったことを言えるのは、自分としては好意的として受け取れる。

 勉学のほうも無駄はなく、冷静に周りを見れるのも良い。初めて他人に、自分自身から近寄りたいと思えた。
 彼から学べることはきっと沢山ある。弱者と呼ぶのは相応しくない、だが強者と呼ぶには脆い気もする一ノ瀬に。

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