1.みんなとの出会い。

 眼を開けると白い天井がめいっぱいに入った。ここは病院、自分は病院で眠り今起きたと認識した。どうして病院に、と思ったと同時に自分は誰なのだ、とすぐに思った。名前だけではなく自分はどう生きていたのか、家族は誰なのかなにもかもを忘れていた。近くにいた自分の親族らしき老父ともう一人若い男性がいて、自分は誰なのか、あなたたちは誰なのか、そう聞いた。それを聞いて2人は記憶喪失と判明した俺が第一に言われたのは、「お前のせいで」だった。

「お前のせいで薫は、灯吏は……死ぬことなんてなかった!」憤る老父の顔。
「しかもなんでお前あいつらのこと忘れてん……なんで、こんな酷くて冷たいやつが本当にあの2人の子どもか…?」

 関西弁訛りのある、若そうな男性は呆然と呟いた。2人は嘆きと怒りの混じった冷たい目で俺を見てた。

 昨日何を食べたのかも何もかも忘れてしまった、名前すらも分からない俺は、自身の名前を知る前に責められた。彼ら自身から俺は誰なのか、『薫(かおる)』『灯吏(とうり)』は何が理由で俺が原因で亡くなってしまったのかはこちらから聞くことは出来なかった。自分の母親と父親であると言うことだけは何とか理解した。

 二人は俺に罵声を浴びせ続けた。

 その代わり老父の秘書と名乗る九十九(つくも)と言う人が、入院中彼らが俺を責めた後にやって来て世話をしてくれて、そして細かいことを淡々と説明してくれた。同情も無ければ親しみも持たない、例えるなら機械のような眼をしていた九十九さんだったが、そのときの俺には彼が一番楽な存在だった。
 老父と男性は憎しみの混じった眼で看護師や医者には同情の眼で見られて気が滅入っていた。九十九さんは俺が知りたいことをすべて答えてくれた。

「あなたは『一ノ瀬透』と言うお名前です。先ほど病室にいた老父は俺の母方の祖父であり、彼が言っていた『薫』様はあなたのお母様で『灯吏』様はあなたのお父様の名前です。関西弁の男はお母様の幼馴染でありお父様の親友です。真実は分かりかねますが、あなたが信号を待たず車に轢かれそうになり、お2人はあなたを庇ったせいでお亡くなりになった、と考えておられます。それを見たあなたはショックで記憶喪失になってしまった、と推測されます。実際はどうなのかは分かりません。
……退院なさりましたら、あなたは健(たける)様……お爺様の元へ引き取りとのことになりました」

 俺がまとめて聞いたことを、九十九さんも同じようにまとめて返答してくれた。変に隠されるよりも清々しく言ってくれた方がいい、自分の名前とか今度の自分のことよりも何故彼らが俺に対してあの態度だったのかの理由がわかって呆然とした。ああ、そうだよな。こんな理由なら俺へのあの態度は間違っていないだろう。

 なんてことをしてしまったんだろう、と記憶のない自分を悔いた。

 その日九十九さんはなにも言わずに病室を出て、俺は少し泣いた、必要とされない俺よりも2人が生きてくれていた方が、良かったのに。どうして2人は俺を庇ったんだろう……。俺が、死んでいたらよかったのに。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 何度も顔も声も何もかもを思い出せもしない両親に謝罪した。どうしても思い出せない。
 何度か祖父と男性に思い出させようアルバムを持ってこられたが、見ようとすれば頭痛が酷くそれどころではなくなってしまう。頭を抑え、痛みにあえぎ吐き気まで催してきた俺にお構いなしに思い出させようと荒く言葉を攻め立ててくる2人にさすがに九十九さんが待ったをかけ、医師からも注意された。
 それ以降は責めることだけになったので頭痛はなくなったけれど、冷たい視線はそのまま。また彼らに会えば自業自得とは言えまた罵声を浴びせられる。彼らが責めるのは分かるしそれを止める資格は俺にはない、だから、聞こえないふりに徹した。俺のせいで両親は亡くなったと聞かされ、俺は2人を忘れてしまった現実さえどうしていいのかわからず、それを受け入れる時間もないままに責められる。
 責める言葉をまともに聞いてしまえば、きっと壊れてしまうと無意識に防衛していたんだろうか。壊れないように聞かないようにするのは身勝手かもしれない、それでも、そうしてないと生きていけないと思った。


 退院した後祖父の家に来て、記憶喪失ではあるが最低限の学力や日常生活に支障はないと分かるやいなや、すぐに小中高一貫の神丘学園と言うところへ編入した。そこは中高は全寮制で、……俺と顔を合わせたくない、と言うことだったんだろう。
 当時はまだ小学校4年生だったのでどうしても初等部は祖父の家から通った。家に帰れば祖父から無視かたまに記憶は思い出す気になったか、と聞かれるだけ。それに首を横に振れば舌打ちされた。
 たまに変なカウンセラーのような人や親戚の男が何故かいたりもして、カウンセラーのような人には催眠術とか逆行催眠とか胡散臭さ満点の人ばかりで結局効果は全くなかったし、変に体を触られたりされたこともあって不愉快だった。親戚の男はなにか優しい言葉をかけながらその言葉はどうも薄くて、何故か掌や腰を触られたりされて疑問に感じながら自身の身体を他人の手がはい回る感覚は気持ち悪いな、と思った。これを受け続ければ祖父の気が済むのだろうか、そう思って祖父にはなにも言わなかったが、九十九さんはそれを見つけた翌日にはカウンセラーも親戚の男もいなくなったので、なにかしてくれたのかもしれないが、聞いても『なにもしておりません』と、それだけだった。正直あまり興味はなかったけれど。家ではそれぐらいだったのでまだ良い方だった。

 問題は学校だった。同級生だけではなく上級生や下級生、先生にも何故かまじまじと見られて、……視線が怖くなった。なにも言わずに見られ続けるのが怖かった、祖父たちからの冷たく蔑んだ目も苦手だったが理由ははっきりしていた分辛くとも分かっている。でも学校は違う、俺のことを知らないのにじっと見られるのだ。
 多分灰色の眼が珍しいのだろうが、それだけなら他にも明らかにハーフな子もいればアルビノの子だっていたのにどうして俺だけなのだろうと。でも視線が怖いから学校に行きたくないなんて言えなくて、視線を気にしないフリをして日々を乗り過ごした。

 たまに話しかけてくれる子もいたけど、うまく話せなくてうまく表情を作れなくていつの間にか離れてしまい、俺は孤立した。

 中学生に上がればいやがらせなのか、先生や同級生に変なところを触ってこられたり体操着を盗まれることも増えて、どれだけ嫌われているのだろうと考えるともう嫌になって、無関心のフリをした。体育の授業で二人一組になるのも俺だけあぶれたり、班を決めるときも俺だけ残ってしまいじゃんけんで負けたところにいれられる。班まで決まったところまで行っても修学旅行や遠足に課外授業などすべて欠席して配られるプリントだけしていた、行事にも参加しなかった。
 行事にでなかったのは、学校であぶれたりするのもあるが、あの男性からちくりと言われるのだ。

「あの2人が庇ってくれたおかげでお前は学生謳歌できるんやね、よかったやん」

 行事の時期になるたびに彼はそう言ってくるのだ。もちろん、両親のことを俺は忘れてはいないし楽しむことは出来ないと思っていたが、そう言われると尚更楽しんではいけない、と思わった。

 それはいつしか、自分は幸せになってはいけない、にすり替わり罪悪感を持ったまま俺は高校生になった。出席を取るときぐらいしか俺は名前で呼ばれることもなかったから、自分は『一ノ瀬透』なんだと自覚も薄いまま、まるで『一ノ瀬透』の器に入った『誰か』のような、そんな感覚で生きてきた。そのまま、いつの間にか6年の年月が流れていた。


 俺は、幸せになってはいけない。
 そんな資格はない、だって俺のせいで二人は、両親は。なのに記憶喪失になってしまった、そんな薄情な俺にそんなことは許されない。

 自分の存在を、みとめてほしい、なんて、そんな甘えは許されない、許してはいけない、これが俺の罪、法に裁かれることのない俺の罪、裁かれないのなら自分で裁かないと、いけないんだ。だから、平気な顔して、その罪を受け入れていかないと、自分を知ってくれる存在ももとめては、いけないんだ。



「記憶とか関係なく、お前は『透』だからな!」

 いつの間にか目の前にそう言って笑う、伊藤がいた。

――――

 ピピピ、ピピピピ!!
「っ!?あさ、か」
 大音量の携帯に設定した目覚ましの音が響き渡り、目を開ける。音を止めてぼーっとする。
 ……夢を見た、ただの夢ではなくて、自分が体験してきた復習のような、そんな整理整頓にちかいものだ。今までも夢は見ていた。最後以外の夢は。
 伊藤、伊藤鈴芽。俺に笑顔を向けてくれた人。昨日知り合った、前の俺の『親友』と名乗った人。

 そして、今の俺のことも『一ノ瀬透』と言ってくれた、はじめてのひと。

 ……伊藤と言う存在は夢ではない、はず。求めていた言葉をくれたのが初めてのことで夢見心地に近く昨日のことが浮ついて地に足がついていないかのようなそんな感覚でいたので、いまいち現実味がない。
 昨日が夢でなければ、彼と待ち合わせの約束していた。過去の記憶は忘れてしまったけど、それ以外は忘れることがほぼない脳らしいので、ちゃんと伊藤は存在して約束していたはずなのだが、こんなに俺を認めてくれた人なんて今までいなくて自分の妄想だったのかと疑問は尽きない。
 もしもいなかったら、本当に夢や妄想の類あれば……どうするんだろうか、俺は。きっと、今度こそ……そんな恐怖を覚えた。いや、壊れてはいけない、幸せになってはいけないけれど、でも、壊れてしまえば死んでしまえば、それこそ本当に両親を不幸にしてしまうだろう。
 まさか命がけで助けたのに、一人息子に忘れられるなんて、両親は思っても見なかったんだろう。思い出す気すらもない、最低な俺だけどそれでもそれ以上無駄にしたくはないんだ。

「それが俺の『罪』だから。」

 言い聞かせるようにつぶやいた。

――――

 顔を洗って飯を食べて、着替えて歯を磨いて家を出た。いつもよりも早足で、心臓が嫌によく聞こえる、早く着きたいような着きたくないようなそんな相反する気持ちを抱えつつも歩みは止まらない。待ち合わせと言われた公園に着いた、そんなに距離もないのに長かった気がする。息は切れていないけど妙に緊張して変な呼吸になりそうで、深呼吸して入口に着いた。……まだ、来ていないか。
 人影が無いことを視覚に捉えて残念のような安堵したような変な気持ちだ。

「お?早いな、透」

 後ろから軽く肩を叩かれながら俺の名前を呼ばれた。驚いてすごい身体が跳ねて後ろを振り返る。

「はは!そんなに驚くなよ。おはよ、透」

 どうやら先に伊藤がついていて、公園の中で待っていたようだった。変に驚きすぎた俺のことを笑われ、そのまま挨拶された。……本当に、妄想でも夢でもなかったことに安心した。人工的な金髪、そのてっぺんから見える根元の黒っぽい茶色の髪に強面な印象の顔立ち。暗がりと人の手で作られた明かりよりもハッキリと伊藤の顔が見えた。青空がよく似合う、な。晴天の空の下に、明るくて穏やかに笑う伊藤、とても印象深かった。
 染めたせいなのか痛んでいる金髪も日の光にあたるとふわふわしているように見えた。目の前にいる伊藤はちゃんと存在している。ああ、良かった。

「……おはよう」

 昨日までとは違う『今日』が始まったんだ、と今やっと自覚した。

 時間は今7時40分。……まだ出るつもりでいた時間にもなっていない。確かに俺も早く来たけど、伊藤はもっと前からいたっぽい。首を傾げる。なぜ首を傾げているのか伊藤は察したようにあっと声を出した後俺からそっぽ向いて「……待ちきれなかったから」とぶっきらぼうに言った。
 俺は伊藤の反応になんとも言えない気持ちになる。どれほど伊藤は『一ノ瀬透』と言う存在を求めているのだろう。記憶もないのに、俺を透って呼んでくれて。なのに伊藤は俺に何も求めない、思い出せとも嘆くことも怒ることも憎むこともない。
 俺は、忘れているのに。
 両親のことだけじゃなくて、伊藤のことも俺は殺した。自分のなかから思い出を消す、なんて殺しているも同じだ。昨日はあれだけ浮かれていたのが、嘘のように沈む。こんな前の俺を知っている人物と出会うと言う可能性を考えもしなかったなんて、馬鹿だ。

 沈む俺を心配したように「体調悪いのか?」と声をかけてくれる伊藤。首を振って、「……行こう」とだけ言うと首を傾げながらも頷いて伊藤は隣を歩いた。

――――

 時間的に社会人の出勤、学生の登校時間帯で駅に近付く度に人が多くなっていく、それに比例して俺へ向ける視線が多くなった。学ランのボタンを一番上まで閉めているだけで顔を隠すものがないので、どうしてもそのまま自分の顔を晒して歩くだけしかない。隣を歩く伊藤に最初は目を合わせて伊藤の話を聞いていたのだが、徐々に増えていく視線の数に居心地が悪くて俺の顔も下を向いて行った。最終的にはもう自分の履いているローファーしか見えていなかった。
「やっぱり調子悪いんじゃないか?今からでも家帰らないか?」
 と伊藤は優しく言ってくれたのに、俺は首を振るだけしかできなかった。

 帰るなんて駅まで来たのに二度手間だったし、なにより彼に連絡を入れるのが気が重かった。点滅している携帯を無視して未だに昨日届いたであろうメールすらも見ていない。
 彼に出来る限り迷惑をかけたくない。両親のことで迷惑しかかけていなかったから。それに本当に体調自体は悪くないのだ。……ただ。

「……視線が」
「しせん?」
「……見られるの、苦手なんだ」

 それだけ。それだけだから、俺が我慢すればいいだけだから、気にしなくていい。
 たいしたことないから、という意思表示のつもり俺は伊藤に耳打ちしたのだ。俺の言ったことに首を傾げながら伊藤は周りをぐるっと見渡す。
 伊藤は周りのことに気にしていなかったようで、ほとんどの人がこちらじっと見ているのに少し驚いた様子で小声で「うお」と呟いた。かと思うと。

「てめえら、人のことジロジロ見てんじゃねえよ。見世物じゃねえんだよ、鬱陶しい」

 俺に向けていた笑みとか心配そうな顔から一変して不特定多数を睨みつけ、俺と話す時よりも低くどすの効いたイラついた声でそう言い放ったのだ。声は響き渡りこちらに視線をやっていた人たちは慌てて視線を外した。

「これで大丈夫か?」
「……ん」

 また打って変わって俺の様子を見る伊藤は眉を寄せて心配そうに声をかけてくる。伊藤の変わりように対応しきれていない俺は頷くしかなかった。
 それならよかった、とカラッと笑いかけてくる伊藤はさきほどと同一人物とは思えない。……そういえば、穏やかな笑顔のおかげで疑問に思わなかったが、実は伊藤は不良と呼ばれる人物なのでは。
 染めすぎて痛みを訴えている金髪に三白眼、俺と同じぐらいの目線なので177㎝は絶対あるし、制服も学ランの釦をすべて開けて下には赤いシャツを着て、両手をズボンのポケットに突っ込んで。……あ、これよく見る不良と呼ばれる人だ。今気づいた。別に気にすることではないけれど、前の学園ではこんなあからさまな典型的な不良の格好をしている人はいなかったので少し感動する。

「……ピアスは開けてないんだな」

 ピアスだけではなくアクセサリーの部類は身につけていない。ネックレスも指輪も、そして不良だけでなく最近はよくピアスを開けているを見かけるが、彼の耳は傷一つない。いきなりそんなことを言う俺に。

「……体に穴をあけるとか、怖くね?」

 と、強面な見た目に似つかわしくないことを言った。だが確かに、俺もわざわざ穴をあけるとかしたくないな。と頷いて納得した。
 あえて伊藤には言わないけれど、未だ周りの視線はあからさまなものではなくなったが、こちらをチラチラと見ている人は多数。凝視されるよりはいいか、とこのぐらいは我慢することにした。それに、となりに誰かがいる、と言うのも心強かった。
 俺が視線で調子悪くなったのを自分の評価を気にせずこっち見るな、と言ってのけた伊藤がとても頼もしかった。

――――

 高校に着いた。まだ予定より早かったが、遅いよりはいいかと思い直した。空いている下駄箱に靴をいれて持ってきた上履きに履き替えた。
 職員室は下駄箱のすぐ近くだった、少し早い気もするけどもう職員室に行ってしまおうと思いここで伊藤と別れた。

「俺はB組なんだ、同じクラス……になれるのは、さすがに甘いか……」
「……違っても、昼一緒に食べよう」
「!おう!!」

 未だどこのクラスかわからないと言う俺に、同じクラスだったらいいのに、と少ししょぼくれた顔をした伊藤に、昼食べる約束を提案すると凄い笑顔になった。
 ……うん、なんだろう、この昨日感じた喜びに似ているけどちょっと違うこの気持ちは。悪いものではなさそうだけど、うん……なんだろう。

「じゃあ、またな!」
 そういって手を振る伊藤に小さく俺も手を振り返した。名残惜しそうにしつつも俺から背を向けて歩き出す伊藤、周りの視線は何故か俺……ではなく伊藤に一心に降り注いでる。
 何故だかとんでもなく珍しい……珍獣とでもいうべきか……そんなものを見るような目で彼を見ている。
 生徒たちの反応もだが、その視線を少しも気にもせず歩いていく伊藤もすごいな、と他人事のように思った。俺もそんな伊藤の姿勢を見習おうと思いながら彼を見送ってノックを数回して職員室に入った。



 職員室に入って、一番近くの席の丸い眼鏡を付けた温和そうな先生が扉を開ける音に反応して振り返り俺に声をかけてきた。
「きみは……あ!転校生の一ノ瀬くん、かな?」
 人好きする笑みを浮かべながら、俺の名前を確認されたので頷いて返す。

「僕は岬 優(さき すぐる)です。一ノ瀬くんの担任で担当科目は国語です、なにかあったら気軽に言ってね」
「……はい」
 たぶん、言うことはないんだろうな。と思いながらも頷いた。

「岬には遠慮しなくていいぞ!岬は生徒のこと大好きだからな!!もちろんオレにもしなくていいがな!!」

 諦観している俺をお見通しと言わんばかりに、大きな声が職員室に響いた。声の主は……岬先生の向かい側に座っている健康的な、快活そうないかにも体育教師と言った風貌の先生だった。大きな声のおかげでなにか作業をしていたであろう他の先生もビクッと肩を揺らした。

「オレは五十嵐 竜実(いがらし たつみ)、話は聞かせてもらった!一ノ瀬だなっ俺のクラスはお前のクラスの隣のA組だ、連中とも仲良くしてやってくれ!少々難有りの奴もいるがそれはそれ!悪い奴じゃないからなぁ!!」
「……はい」

 多分俺はよろしくできるタイプではないとはおもうが、この、五十嵐先生の大きな声と勢いに圧されつい頷いてしまった。

「一ノ瀬くんが困ってますよ、五十嵐先生」
「おっと、悪かったな!!」

 俺の困っている様子が伝わったのか、岬先生が少し困ったような笑みで五十嵐先生にそう言った。そんな岬先生の指摘に素直に聞いてにかっと爽やかに笑って俺に謝るのを見ると悪い先生ではないんだろうと思う。ただ今までにない接し方をされたので戸惑う。
 ……ここに来るまで、あまり人と話さずにいたからどんな反応が正解かもわからないが、とりあえず気にしていないことを言おうとしたけれどある人の声でそれは遮られてしまう。

「相変わらずにぎやかなお人やねぇ五十嵐先生」

 そんな聞きなれた声が背後から聞こえた。声の主が誰か振り向かなくてもわかって、一気に胸が重くなって呼吸がしにくくなった。
 胃のところがツキリと痛んだ。彼がいることは知っていた。昨日「俺保険医やけどあんま来んといてね、なにするかわからへんから」と言っていたから知っていたしどうしても顔を合わすのも分かっていた。だけど、どうしてもこの重みと痛みは慣れない。いや、慣れることは無いんだろう。


 母の幼馴染で父の親友だった関西弁が特徴的な、彼。
 桐渓 雄哉(きりたに ゆうや)さん、俺を憎んでいて誰よりも俺に記憶を取り戻してほしい人だ。

「にぎやか過ぎるのも考えものやなぁ」
「ははは!どうしても癖みたいなものですからね!!」
「癖で済ましてしまうのはよくないと思うで?」
「そうですね、善処します!」
「先生のクラス、難有りすぎなやつ1人おるやん」
「まぁやったことは褒められないですけどね、きっと根は良い奴ですよ!」
「何の根拠やねん」
「勘です!!俺の勘すごいんですよ!その日に雨降るか降らないか常に百発百中なんですよ、俺!!」
「……なんやねん、その地味に羨ましい勘」

 桐渓さんの嫌味っぽい指摘を五十嵐先生は明るく受け流しているのが遠くに聞こえた。伊藤と話しているときとは違う、夢心地とは程遠い嫌な感覚。舌打ちの音はきっと近くにいる俺ぐらいしか聞こえなかっただろう、その音に俺は反射的に身がすくんでしまう。ずっと会うたびにそう舌打ちされてきたからだ。
 背後に桐渓さんがいる、そう意識すると動けなかった。またあの暗い目で見られていると思うと、こわかった。はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐いたかと思うと、俺の肩に衝撃。思いっきり俺の肩を叩いてそのままギリギリと力をこれでもか、と言うぐらい入れて握られて、いたい。

「岬ちゃんも大変やなぁ、ただでさえ伊藤みたいな乱暴で野蛮なのとか、隣のクラスには梶井みたいな爆弾もおるのにな。問題児がクラスに1人でもいるのもキッツいのになあ、こいつも大概変な奴やし。こいつも何考えとるのか分からんしあんま喋らん奴やから、適当に扱っても構わへんからな」

 多分表情には出ていないけど、掴まれている肩がすごく痛い。けれど、何故ここで伊藤の名前が出たんだろうか。確かに俺は仕方ないが、伊藤はどうして問題児のように桐渓さんの口から普通に出てきたのかわからない。
 記憶のない俺に優しく接してくれた伊藤をどうしてそういう風に言うのかわからない。乱暴?野蛮?それは誰のことだ。痛みに耐えながらも、微かに伊藤をまるで物のように言う桐渓さんに対して湧き上がる何かがある、それは桐渓さんに対しての罪悪感でも恐怖でもない、もっと激しい……なにかだ。
 その湧き上がるなにかが、何なのかなんと呼ぶのか、良い感情ではないことは分かるがそれ以上分からない。そしてあまり出してはいけないものだと言うことは、わかる。痛みと湧き上がる感情を抑えるために、下を向いた。いっそ痛みよりも感情のほうが抑えられない、なんだこれ。

「いいえ、伊藤くんも梶井くんも言うほど問題児じゃないと僕は思います。
 多分周りよりも少し不器用なだけです。
 一ノ瀬くんもまだ少ししかお話していないですが、変だと僕は思いません。
 桐渓先生、ご心配ありがとうございます。お気持ちだけ頂きますね。」

 でも、言われた岬先生は穏やかな声で、でも反論は許さないと強さを感じる口調でそう言い切った。岬先生を見ればさっきと同じぐらいの穏やかな笑みだが、その目には強い意志を感じさせた。
 言い切られた桐渓さんは「せやったらええけど、」と少し居心地が悪そうで俺の肩にかける力も弱くなった。
 ……今まで、顔を合わせないようにしていたけれど、桐渓さんのほうに視線を向ける。俺よりも少し下の位置にある顔、34にしては若さを感じさせる童顔はいつもは鋭さを感じる目で俺を見ている、今も俺のことは睨みつけている。その目には岬先生のような意志の強さはない。もっと濁っている瞳だ。……正直昔ほどの恐怖を感じない。内心首を傾げた。昔は俺の方が身長が低かったせいだろうか。むしろ真っ直ぐな意志の強さを感じる岬先生のほうが少し怖く思うぐらいだ。
(恐怖はなくなったことは新たな発見だった、それでも罪悪感はそのままだが……きっと消えることはないのだろう)

「まぁ、何かあったら俺に言うてや。頑張ってなー」

 そう優しく(そんな声出せたんだなと思った)岬先生に声をかけながら自分の席があるであろう方へ歩き出した。ちゃんと携帯電話を見ろ、とそんな視線も俺に送りながら。それに俺は気付かないフリをした。
 桐渓さんをそれなりに見送って岬先生に視線を戻す。
 岬先生は困ったように笑いながら「生徒のことになるとちょっと周り見えなくなっちゃうんだ、見苦しいところ見せてごめんね」と申し訳なさそうに俺に言う。……後ろの五十嵐先生は岬先生とは反対にすごい良い笑顔で、『岬先生って良い先生だろ!』と大きく書かれているコピー用紙を俺に見せながらもう片方の空いた手で親指を立てていた。
 他の先生にいきなり生徒を『問題児』と言われたら、自分では違うと思いながらも荒波を立てたくないからその場で頷くのが多分大多数の大人なんだろう。でも岬先生は強い意志を持って桐渓さんに真っ向から反抗した。
 その文字に対して強く頷いた俺に、五十嵐先生はさらに嬉しそうに笑った。
 いつまでも自分と目が合わずに突然頷いたりする俺に疑問に感じたようで、俺の視線の先を追いかけた岬先生が五十嵐先生のほうを見た。
「ちょっと、それなんですかっ」
「一ノ瀬に岬先生のことを共有したくて!!」
 大人二人のじゃれ合いが始まった、それを見ているとあまり大人も学生と変わらないんじゃないか、と思ってくる。……温和でありながらも意志の強さを感じる岬先生はきっと信頼できる良い先生なのだと思う。
 だけど、それに当てはまるのは岬先生だけじゃなくて、ふざけているようにも見える五十嵐先生も、だ。桐渓さんが『梶井』という生徒のことを言ったとき、真剣な目でこちらを刺すように見ていたのだから。
 ……そういえば、五十嵐先生は1-Aの担任で隣のクラスと言っていたな。そして桐渓さんが岬先生のクラスに伊藤がいると言っていたではないか。と言うことは。
 俺は伊藤と同じB組なのは、ほぼ確定ではないか。

 さきほどまでの桐渓さんへの胃の痛みを忘れて、つい伊藤とほぼ同じクラスであると気付いて嬉しくなった。

――――

 連休明けで夜更かしになれた身体に鞭打って登校する。登校途中最寄り駅で誠一郎と会いそのまま一緒に高校に登校した。眠いなーとか昨日のテレビ見た?とかそんな取り留めのない話をしていると、ついに高校についてしまった。この休み明け特有のこのだるさは何とかならないかな……。
 そんなことを思いながら校門をくぐると何やら騒がしい。男子校だからそれなりにはしゃいでいる奴も確かにいるけど、それにしても騒々しい。誠一郎と顔を合わせて首を傾げる。こんなに騒がしいの梶井くんと伊藤くんの件以来だ……またなにか起こったんだろうか。
 梶井くんがなにか起こした可能性に隣にいる湖越も身構えている。何もなければいいけど、そう思いながらなにやら話し込んでいる数グループの中から自分のクラスの奴らを見つけて、声をかけた。

「おはよー」
「何か騒がしいが、なんかあったのか?」
「あ、叶野に湖越!お前ら見た?」
「たぶん見てないかな、なにをみたの?」
「あの伊藤がさ、見たことのないこの学校の制服を着ていた美形と歩いててさ!そんときすごい笑顔で話しながら登校していたんだよ!!あの伊藤が、だぜ?俺らのクラスの!!」
「え、そうなの?」

 俺はこの学校では比較的伊藤くんと話す方ではあるだろうけど、そんなすごい笑顔を見たことはない。いつも不機嫌そう、と言うか面倒くさそうと言うかつまらなそうと言うか、なんというか。あまり人を寄せ付けないようにしているから。とにかく満面の笑み、と言うものは見たことが無い。けど、まぁ伊藤くんも人間なんだし別にここまで騒がなくても……。そんな珍獣を見るようにしなくてもいいと思うんだけど……。
 それより伊藤くんと歩いていた美形のほうが気になるかな、いつの間に伊藤くんとそんなに仲良くなれたのかのほうが気になる。

「伊藤が笑うってそんな騒ぐことか?……と言うかその美形は誰なんだ?」
「そうだけどよー…あの伊藤だぜ?」
「たぶん転校生じゃね?ゴールデンウイーク前少し噂あったし?」

 誠一郎も俺と同じようなことを思っていたらしくて、聞いてみたけどそっちはふわっとした返答しか返ってこない。どれだけ伊藤くんのインパクト強いんだろう。
 確かに見た目も目立つし、先月伊藤くんの存在に慣れる前に彼を中心とした事件は起こっていたけれど、どちらかと言えば彼は巻き込まれた方なのだからそこまで露骨に避けなくても……と内心思いながら、なにも言えない自分に苛立ちを覚える。
 俺に出来るのは自分は彼に偏見無く接することぐらいしかできないのはもどかしい。……出来ない、と言う風にしているのは自分の保身のため、と言うのも情けない。
 ……そんな伊藤くんはすでに連休前にはほとんど学校に来ていなかったことを思い出すきっととんでもなく彼にとって学校はつまらないものだっただろう。初日に話しかけたときだってつまらなそうな顔しかしなかったし自己紹介だって簡潔なものだ。正直俺も、連休明けたらもう中退するのでは、と思っていた。
 あの事件があっても無くても伊藤くんはどこか距離を置かれていた、それに加えてのあの事件でさらに周りは彼を遠ざけていた。彼自身何とかする気もない、と言うよりもこちらに関心がなくてクラスの輪に入る気はさらさらないように見えた。

 そんな彼が、すごい笑顔で学校に来たと言う。

「……伊藤よかったな」
「……そうだね」

 興奮しているクラスメイトにそれなりに返して俺と誠一郎は教室に向かう。周りはいつもどおり騒がしいので俺らが普通に話していても特にこちらを気にする人はいないだろう。俺が伊藤くんを気にしていることを知っている誠一郎は俺に声をかけてくれた。
 ……誠一郎は知っている、なんとかしたくても、もう前のように脇目も振らずに誰かを庇うことが出来ない臆病な俺のことを。知っていてなお、責めずにいてくれる誠一郎が有難くもあり、自分が情けない生き物だなと痛感もする。

「梶井くんは、どうなっているんだろうね」
「……さあな」

 伊藤くんと同じようにあまり学校に顔を出さない、そして事件の首謀者の彼の名を出すと誠一郎は俯いた。……誠一郎は俺のせいで梶井くんと話せずにいるのだ。申し訳ない、と思いつつ俺にはどうすることは出来ない。暗くなりつつある空気をかえようとまた伊藤くんと一緒に歩いていたという謎の美形のことに話を戻した。

「伊藤くんと一緒にいたって言う、そのひとってどのぐらいの美形なんだろうね?と言うかどんなタイプなんだろう」
「隣のクラスの吉田ぐらい明るい奴とか?それともあえて鷲尾ぐらいの堅物なやつだったりしてな」
「あー吉田くんみたいなタイプなら納得かも!良い子だしね」
「うるさいぐらいの奴だけどな」

 何とか話を逸らして謎の美形はどんなタイプなのか勝手に予想した。

 そうこうしているうちに自分のクラスに着いた。約10日ぶりの教室の匂いがなんとなく懐かしい気持ちにさせた。
 誠一郎は通路側の前の席で、俺は窓際の後ろの席なのでここでお別れとなる。クラスの人に挨拶をそこそこに俺も自分の席に向かう。
 俺の席は窓際の後ろから二番目。一番後ろ……俺の後ろの席が伊藤くんだった。最近欠席率が高かった席には、その持ち主である伊藤くんがそこにいた。
 周りから話しかけられはしないけど、まるでそこに眠っているライオンがいるように刺激しないようにでも、好奇心が隠せない視線を集められている。そんな視線を気にした様子がなく窓の外を眺めている。
 注目の的となっているのに、全くと言っていいほど気にしていない伊藤くんの姿勢ってすごいな、と内心苦笑しながら。
「おはよう、伊藤くん。久しぶり」
 と、普段通り話しかけた。正直周りからの視線で俺の方が胃が痛い。笑顔が引き攣っているかもしれないけど、そこは見て見ぬフリをしていただけると助かる。

「はよ」

 周りから乱暴者とか不良とか言われている彼だけど、意外と話しかけても無視されることは記憶のなかではない。ちゃんと話しかけられたらこっちを見てくれるしね。ただあまり話を繋げる気は彼にはないようだから、踏み込んだ話はすることはあまりない。
 強がっているようにも見えないので、きっとそう言う気質なんだろうと俺は勝手に解釈しているけど、……もしかしたら俺が内心ビビっているとわかっていたら、どうしよう。きっと気付いていないだろうと、弱気になりそうなのを気付かないようにして今日はもう少し踏み込んでみる。

「なんか今日誰かと一緒に来たんだってね?伊藤くんがすごい良い笑顔だった、てみんな言ってたよ」

 なんでもない日常会話、言い聞かせながらあえてそう聞いてみた。……やっぱり、気になるもんね……。周りからの視線がさらに増した気がする。みんな気になっていたもんね……それなら自分から話しかければいいのに。
 内心少しだけ呆れた。そんな俺の内心は知らない目の前の伊藤くんは驚いたような表情。
「……そんなに俺、顔出てたか?」
 そしてそんなことを聞いてきた。俺は伊藤くんの表情の変わりように少し驚きながらも答える。
「えーと……俺は周りに聞いただけだからわからないけど……でも噂になっているぐらいだから多分顔に出ていたと思うよ?」
「まじか」
 伊藤くんは自分の頬をむにっと触った。
 伊藤くんと話しかけて以来初めて彼から反応という反応が出た。
「自分が気付かないぐらい表情出ていたんだから、よっぽど楽しいんだね。その人といるの」
「……まぁ、な」
 うわーまじかーと言わんばかりに机に突っ伏してしまった伊藤くんが少し面白くてからかい半分で言ってみれば、伊藤くんは突っ伏しながらも小声で肯定した。ピアスとか開けていそうなのに、意外にも穴一つない耳が赤く染まっているのが見えて、俺は安心した。いくら強面で不良っぽい見た目をしていても、伊藤くんも俺と同じ普通の高校生なんだなって。
 照れている伊藤くんが面白くて、つい笑ってしまっている俺だったが、特になにも言われなかったし、予想以上に伊藤くんはそこらへんにいるような普通の男子高生だ。俺は伊藤くんにそこまで身構える必要はなかったんだと内心反省した。さらに言えば伊藤くんと一緒に歩いていたという彼が気になったけど、それはまた紹介してもらおうかな。

「多分その子、伊藤くんの隣の席だよね。連休前から転校生の噂はあったし」
「そうなのか!」
「え、うん」

 あっこの笑顔か、と納得した。満開の笑顔だ。いつもの眉間の皺も仏頂面はどこにいったかと言わんばかりの穏やかな笑顔だ。さっきまでの伊藤くんはどこに行ったのか、と思うレベルだ。
 確かに噂になるなぁ……。ああ、クラスメイトも驚いてこちらを見ている。伊藤くんは相変わらず気にした様子もなく、俺の肯定に「そうか、そうか」と嬉し気だ。
 いつもの不愛想さと無口さが嘘のような彼にこの顔をさせられた彼がとんでもなく気になってきた。やっぱり吉田くんみたいに裏表のない底抜けに明るい人なのかな?なんてまだ見もしない転校生の人物像を勝手に思い描いた。
 
――――

「……?」

 何故かいきなり背中にぞわっと鳥肌が立った。
 岬先生から校長室に連れられ話をし終えて教室に向かおうとしていたときだった。なにか嫌な予感がするような……いや、たぶん気のせいだな。
「えっと……さっき、桐渓さんが言っていた伊藤くんなんだけど」
「……伊藤のことは知ってます」
「え!あ、そうなんだ?伊藤くんと家が近いの?」
「……たぶん」
「随分と不確定だね……?」
 恐る恐る、と俺の様子を窺うように伊藤のことをフォローしようとしているのか、伊藤の話をしようとする岬先生を遮って彼のことを知っている、と言えば予想以外であろう俺の反応に驚いたようだった。俺らに共通点が見つからなかったので、きっと俺が引っ越してきた家が伊藤の家と近くて偶然会うことになって仲良くなった、と予想していたのだろう。
 岬先生に言われるまで、俺はそういえば伊藤の家がどこにあるのか知らなかった。いや、小学校も同じだっただろうから、そこまで伊藤の家と俺の家が距離があるとは思えないし近いはずだ。とは言え具体的に知らないので不確定になってしまうのは仕方がない。
 伊藤は俺と同じように引っ越してしまっていてたまたまあそこにいただけ、と言う可能性もある。そうなるとわざわざ電車を降りてあの公園で待っていた可能性がある。そう言えば昨日会ったときも帰るときも伊藤がどこへ帰っていったのかを見ていない。あとで聞いてみよう。

「仲良いんだね?それならいいかな。伊藤くん良い子だよね、恥ずかしながら僕この間他校の生徒に絡まれてね、そのとき伊藤くんが助けてくれたんだよ。みんな知らないけど誰もいないときには、萎れた花に水をあげたりすることもあったなぁ」
「……そうなんですね」

 予想以上の伊藤の優しさにも驚いたが、こうしてよく伊藤のことを見ている岬先生にも驚く。きっと伊藤だけではなく、ほかの生徒も平等にこの先生は見ているのだろう。
 見た目は大人しく優しい温和な雰囲気があって少しだけ気弱な印象があるが、その実意外と熱血なところがありそうだ。見るからに活動的で明るい熱血教師っぽい五十嵐先生と仲が良いのも納得できた。見た目は真逆でも根本はきっと似ているんだろう。

「伊藤くんとこれからも仲良くしてね」
「……仲良くしてもらっているのは、きっと、俺のほうです」

 記憶のない俺をあんなに優しくしてくれる伊藤。俺を『透』と呼んで、笑いかけてくれて、『おかえり』と迎えてくれた。
 責められても、憎まれても最悪殴られても仕方がないことをしている俺をお前は『透』と言ってくれた。仲良くしてもらっているのは俺、俺は、伊藤に救われている。それは過言ではない、事実だ。

「そっか」

 俺の言葉に一瞬目を見開いたかと思えば、朗らかに笑う。話ながらも歩みは止めてはいなかったので、いつのまにやら階段は上り切っていて1-B前に着いていた。
(この高校では1年生が一番上の3階らしい)
「このまま僕と一緒に入ろう、教卓の前に着いたら黒板に名前を書いてもらっていいかな?」
 俺はそれに頷いて返した。あまり前に出るのは得意ではない、それにどうしても時期外れの転校生と言うことで視線にさらされることは逃れられないだろう。ならばせめて岬先生と一緒に入るのが一番だろう。
「一ノ瀬くん、すごい美形だからつい見ちゃうんだろうけど、みんな悪い子じゃないから許してあげてね」
 世辞を混じりながら俺を励ましてくれている岬先生はやはり優しい。内心はどうであれ、どうもその内心と表情に一致せず俺は常に無表情らしい、ので『冷たい人』と言われるのは慣れていても、こうして気遣われるのは慣れていない。どう反応していいのかわからない、が。

「……ありがとうございます」

 気遣いがうれしい、と思うので感謝の言葉を述べてみた。岬先生はすこしキョトンとした顔をして、そのあと温和な笑顔を浮かべ「どういたしまして?」と疑問符を付けながら返された。
「じゃあ、行こうか」と声をかけられて、俺が頷いたのを確認して岬先生は教室のドアを開けて中に入っていった。俺も、岬先生を追いかけるように続いて教室の中に入った。

――――

 一ノ瀬くん、とんでもない美形だなぁ、と話ながらもつい見惚れたのは内緒だ。この学校では見たことがない、とすぐわかるぐらい顔の造形が怖いぐらい整っていて、触ればきっと引っかかりもせずにさらりと指が通るのだろうと分かるぐらいストレートな綺麗な黒い髪に、日本ではあまり見ない灰色の眼が印象的だった。
 よくよく見ていてもニキビ跡すらもない白い肌。彼がそこにいると見ずにはいられない、と同時にその灰色の眼はすべてを見透かしているかのようにも見えて、真っ直ぐ目を見られると少し怖くも感じる。畏怖、とも呼べるものだろう。桐渓先生から散々無口で無表情でなにを考えているのかわからない、と聞いていたので少し身構えていたところもあったけど、会ってみて安心した。
 聞かされて想像していた一ノ瀬くんよりも、断然人間らしい高校1年生の男の子だったから。

 僕が伊藤くんの話をしたとき、表情は変わらなかったけど、うれしそうに見えたからね。

 だから、一ノ瀬くんと伊藤くんが同じクラスで、偶然にも隣の席になれて本当によかったね。そう思いながら僕は一ノ瀬くんとともに教室に入る。


 ドアの外まで聞こえるぐらい随分と騒がしかった教室は僕が入ったぐらいでは落ち着かなかったけれど、一ノ瀬くんが教室に入ってきて彼のことを視界にいれたと同時に静かになった。いきなりの静けさに驚いた僕とは逆に一ノ瀬くんは気にしていないようで、先ほど僕に言われた通りに黒板に名前を書いている。彼の容姿に納得の少し達筆な綺麗な字で、『一ノ瀬 透』と彼が書いている間に僕も少し気持ちを落ち着かせることに成功した。
 落ち着かせて、ようやく教室の生徒たちの様子を冷静に見れた。一ノ瀬くんが入ってきたときのまま固まっているなか、最近来なかった伊藤くんがとても嬉しそうに一ノ瀬くんに微笑んでいるのを見て、驚いた。
 伊藤くんは入学したときから、ううんもしかしたら入学する前からかもしれない……彼はいつもつまらなさそうにしていたから。話しかければ普通に返してくれるし無視することもない、優しいところもたくさんあるんだって言うのも知っている。
 だけど、その目はどこか冷めていて表情も無表情とまではいかなかったけれど、あのときでさえ伊藤くんは怒りでもなくただただ『退屈』と言った表情をしていた。

 ああして笑う、なんて予想もしていなかった。
 しかも穏やかに嬉しそうにしているなんて。

 伊藤くんに思考を奪われているとチョークの音が止んで一ノ瀬くんが名前を書き終わったことにハッとなって慌てて意識を戻した。

「今日からこのクラスの生徒になった一ノ瀬透くん。みんな仲良くしてね。……一ノ瀬くんが居心地悪そうだから、あまり見ないであげてね?」

 あまりに凝視されているせいか居心地悪そうに身動ぎをしているのを見かねて、みんなに注意すれば「あっ」と気が抜けた声や慌てて目を外したりする。となりでホッとした様子の一ノ瀬くんにあまり目立つのは苦手なんだろうな、と理解した。
 一ノ瀬くんが表情にも声にも出ないなら、教師である僕は雰囲気や仕草で理解しようと思った、それは今回成功したようで安心した。意識してみてみれば案外分かるようになれる、のかな。
 それでも僕が察するのは限界があるだろうから、一番いいのは一ノ瀬くんが言ってくれることだけど……それは無理強い出来ることではない。それならせめて、僕が一ノ瀬くんと仲良くなれるように頑張りたい。そう内心でこっそりと決意した。

「一ノ瀬くんの席は、奥のあの空いている席だからね」
「……はい」

 僕が指をさして教えると頷いて一ノ瀬くんはそちらを見た。そこでようやくその席の隣に座る伊藤くんを見つけたようだった。視線があった2人に何故か次は伊藤くんをこっそりとだけどみんなは見た。
 また……もう。さっきみたいにみんなに注意しようとした。けど、その瞬間。伊藤くんは一ノ瀬くんに笑って手を振ったのだ。

 またクラスに変な無言の空気が流れてきたけど、僕は一ノ瀬くんの反応が気になってつい盗み見た。一ノ瀬くんも小さくだけど、伊藤くんに手を振り返していた。一ノ瀬くんは表情は変えていないけど、それでもうれしいんだろうな、と言うのが伝わって、……なんと言うか、少しほっこりした。
 少し意外そうな表情を浮かべて一ノ瀬くんを見ていたのは叶野くんと湖越くんだった。無表情のままに手を振るのが意外だったのか、どう思ったのかは僕にはわからないけど、仲良くできたらいいなぁ。
 クラスの変な空気と視線を気にせず一ノ瀬くんは案内された席に移動した、さっきみたいな居心地悪そうなのが嘘のようにどうどうと歩いている。席に座ると、伊藤くんがなにか話しかけている雰囲気が分かったけど、当たり前だけど僕には聞こえない。
 ……とりあえず!

「はい、出席取るよー相川くん」

 みんなは二人の会話に聞き耳までも立てようとするので、わざと大きな声を出して出席を取った。盗み見た伊藤くんの表情はまるで親しい人と心を開いて話しているかのような、安らぎと穏やかさがあった。一ノ瀬くんもさっきよりも穏やかに見えた。
 二人がどんな関係かどのぐらい深い仲なんだろうか、とか担任である僕が深く聞くのは違うだろうけど、でも、彼らがずっと仲良しであればいいな、とそう思った。
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