捧げる愛、捧げられる愛

 板の形のチョコレートを割りボールの中に入れていく。血管が浮き出て乾燥してカサカサの肌を見る度に(俺も年を取ったなあ)と実感していると、ガラガラと玄関の扉を開ける音が聞こえてくる。

「ただいまー」
「おじゃましまーす」

 玄関から声が響く。成人しているけれどどこか砕けた雰囲気の女性の声と舌っ足らずの女の子の声。かわいいかわいい娘と孫がやってきたことを知る。とたとた、廊下を走る軽い足音に知らず知らずのうちに口角が上がる。そして右足に衝撃とともに温かいものに包まれる。

「いいにおーいだねー!」
「いらっしゃい。奈々ちゃん」
「じいじ、こんにちはー」

 俺の声に反応して、俺の脚に抱きついたまま見上げ満面の笑みを向けてくれる。乳歯が抜け生えかけの歯が見えるのもまた愛おしいかった。……俺の血の繋がった孫娘の奈々ちゃんである。少し遅れてよく見知った女性が小走りで近寄りしゃがんで、奈々ちゃんの肩を抱きしめる。妻によく似た顔立ちのその女性こそ、奈々ちゃんの母であり俺の娘である詩織である。奈々ちゃんも妻と詩織によく似た顔立ちで唇が薄めなところがお父さんに似ている。顔だけ見ると詩織も奈々ちゃんも俺の遺伝子を感じさせるところが少ないものの、爪が長いところが娘にも孫にも遺伝されていて、ほっこりとした気持ちになる。

「こら、奈々!ごめんね、お父さん」
「いいよいいよ。いい匂いがしたら気になるよなあ」
「もー奈々ってばむしさんみたいねえ」
「みなはねえ、むしさんなの!」
「あら、むしさんはおやつ食べられないわよーおやつ無しだわー」
「えー!じゃあみなはひとがいいー!」
「大丈夫、あなたは人だから。ほら、手を洗っておばあちゃんに手を合わせに行こう」
「あーい」

 ふくふくとした掌を上げて詩織に連れられて洗面所へと向かっていく。その後姿を見送る。自分たちの娘が孫と連れ立っている姿を見るとなんとも言えない温かな気持ちになる。

 俺に愛を教えてくれたあなたにも見せたかったな。

 ほろ苦い気持ちも芽生えつつ、チョコの用意を済ませていく。


「はい。あちちのところ当たらないようにね。まぜまぜして」
「あい!まぜまーぜー」
「うんうん、上手だなあ。お湯が入らないようにするんだよ」

 青色に星が描かれた台の上にピンクのフリルがいっぱい入ったエプロンをつけた奈々が立って、熱湯で湯だつ鍋の中に浮かんだボールに入ったチョコをへらでぐるぐるかき混ぜていく。隣で詩織が奈々ちゃんに危険がないように見守り、ズレていく袖をまくってあげたりして何かと支えている。昔は奈々が立っていたのは詩織で俺が詩織のところにいた。
 今ではこんなに立派に大きくなって自分の子どもに教える側へと成長している。目尻に小さく雫が生まれるが、目を開いて乾かしつつ用意を済ませていく。
 チョコレートを溶かし終えた詩織がボウルを持ってくる。ふたりが溶かしている間に用意した型抜きへと流していく。

「ハート、ぜったいかわいいねえ!」
「そうだね。ほら、奈々ちゃん、好きなキラキラを巻いてあげて」
「あーい!きらきら、どうぞー!」

 ハートの型に流したまだ液体のチョコの上にアザランやカラフルスプレーを奈々ちゃんが散らばせていく。それを微笑ましく見つめていると詩織が腰かけて笑って話しかけてきた。

「懐かしいね、私もやったよね」
「ああ。詩織もキラキラ好きだったな。今はそこまでじゃなさそうだけど」
「今はフルーツにビターチョコをかけたものが好きよ。オレンジとか」
「ああ、オランジェットか。大人なったもんだなあ」
「……私より横文字に強いの何なの」
「年寄りだからとなめちゃいかんぞ」

 そもそも詩織があまり名称に興味がなさすぎなんだろうけれど、それを言うと不貞腐れてしまうのでその辺りに触れたりはしない。

「じーじー、ままーおわったー!」
「そうか、じゃあ固めるために冷蔵庫に入れておこうか」
「まだたべられないのー?」
「まだだなー1時間ぐらいは固めておかないと」
「ぶーーはやくたべたい!」
「これはパパのじゃないの?」
「あっ」
「もう」
「詩織にもこういうときがあったなあ」
「ちょっと!」

 せっかく自分がトッピングしたのだからすぐにでも食べたいのだろうが、固めないと持って食べることもできない。寒いこの時期だからきっと1時間ぐらいで固まるだろうが、子どもの1時間はひどく長い。残念がる奈々ちゃんに詩織が突っ込む。パパのために作ろうとしているのに自分が食べようとしていたのが可愛くて笑い、詩織は呆れたようだったが、詩織も小さい頃似たようなことを言っていたことを思い出してそれを言えば、顔を赤くさせた。あまりいじるとへそを曲げてしまうのでそこそこにしてあるものを取り出した。

「ほら、俺が作ったブラウニーを食べよう?」
「じいじがつくったの?」
「そうだよ」

 そう言ってテーブルに置くと奈々ちゃんは瞳を輝かせて椅子の上に立ってしまいそうなぐらい、うきうきしている。

「わーじいじのてづくり!いただきまーす!」
「お父さんありがとう。でもいいの?」
「ああ、こっちで食べるものは避けているよ。作りすぎてしまったから食べてくれると有り難いな」
「ふぅん、それなら私も貰う」

 娘のようにはしゃいだりしませんよ、そんな風に取り繕っているけれどソワソワしている様子でブラウニーをひとつ摘んで齧ると綻ぶその顔は全く小さい頃とは変わっていない。詩織も俺の作るお菓子が好きで、今は昔ほど甘すぎるものは好まなくなっているけれど、俺の作ったものは残さず食べてくれる。反抗期のときもお菓子だけは食べてくれたな。奈々ちゃんも詩織のような思春期を迎えるのだろうか。今の天使のような素直さと可愛らしい笑顔のこの子には想像もできなかった。詩織の反抗期のときも昔を思い出していたなあ。

 チョコレートが固まるまでの間、詩織の夫である優介くんが奈々ちゃんが同じ組のあっくんんと結婚すると言われて号泣、詩織が彼の誕生日にコツコツ貯めて買ったネクタイをプレゼントしたら号泣したのだという、相変わらずの感情豊かであるという話や奈々ちゃんが好きな女の子のアニメの話を聞いていた。呆れた顔をしつつも幸せそうな詩織に安心すると同時に優介くんの身体の水分がなくなってしまわないかと心配になってくる。
(今度手作りのスポーツドリンクを詩織に教えてやろうか。……また泣きそうな気がする)
 下手すると奈々ちゃんより泣いているかもしれない優介くんについ俺も呆れそうになってしまうが、そのぐらい詩織と奈々ちゃんを大事にしてくれているということだ。そう思うと大事な娘を彼にお願いして良かったと言えるかな。俺に挨拶したときは緊張しつつもしっかりと「娘さんと支え合って生きたいんです」とはっきりと言ってくれた。僕にください、と言われるよりもじんときた言葉だったから、すぐに頷くことができた。頷いた直後号泣されたときは心底驚いたけれども。
 話を聞きつつもいろんなことを思い出していると、あっという間に時間は過ぎていて、冷蔵庫を見ればしっかりチョコが固まっていたようなので取り出して型から抜いていく。
 100円ショップでいくつか買った柄付きの透明の袋とラッピング用のリボンを取り出してテーブルの上に置いていき、奈々ちゃんに質問する。

「どの袋にいれる?」
「おはなの!」
「ふむふむ、じゃあそれに何色のおリボンでむすぶ?」
「んーぴんく!」
「パパにあげるのしては可愛すぎない?」
「やだ!ピンクのハートのおリボン!!」

 詩織が突っ込むが、奈々ちゃんはがっしりとリボンを掴んで離さない。園児の必死の訴えはこうなるとてこでも動くことはない。「奈々、取らないから。それにするからチョコを入れていこ?ね?」と奈々ちゃんの意志を尊重する形で詩織が折れれば、さっきまでの膨れた頬をさっと引っ込めてにっこにこで「いれる!」と上機嫌にリボンから手を離してチョコを入れ始めた。

「頑固なんだから……誰に似たのかしら」
「詩織だなあ」
「お父さんじゃないの」
「そうかもなあ」

 どちらにしたってかわいい孫娘に変わりはないので、この頑固さすら愛しいと思うのはさすがに孫バカだろうか?なんて思いつつ、袋いっぱいに詰め込みそうな奈々ちゃんを宥めた。

「できた!」
「かわいいねえ」

 アザランやカラフルスプレーで彩られたチョコが花がらの袋の中に詰められ、その口をピンクのハートのリボンで少し不器用に結ばれてラッピングされている。色彩のバランスも柄に柄というどこまでもファンシー一色の手作りチョコレート。手作り感のあるそれはどこまでも可愛らしくて仕方がない。

「えへへ、よろこんでくれるかなあ」
「嬉しすぎて泣いちゃうと思うわよ」
「優介くんは涙もろいからなあ」
「パパはなみだやさんだねえ」

 奈々ちゃんに笑われ涙屋さんなんて言われるぐらいのものらしい。つい笑うと詩織も笑っていた。
(ああ、幸せだなあ)
 こんなに、幸せな日常を俺にも手に入れることができたんだ。あの頃の俺からすると信じられないことだった。幸せ、そう思うたびにあの人にもこの場にいてほしかったといつも思ってしまうのだ。少し痛む胸をそのままに俺は笑った。

「そろそろ行くわね」
「ああ、わかった」
「えー!」
「パパが帰ってくるまでにお買い物行かないと。一回おうちに帰ってチョコも隠さないといけないしね?」
「ごはんのあとまでひみつ?」
「そう、驚かせて泣かせちゃおう」
「んふふ」
「気を付けて帰るんだよ」
「はーい!じいじまたね!」
「またね」
「お邪魔しました」

 しばらく雑談していたらいつの間にか15時ぐらいになっていて、時計を見た詩織が帰ることを告げると奈々ちゃんは不満そうだったが、詩織に宥められて最後は笑顔で手を振って帰っていった。ピシャリ、玄関まで見送ると途端に静かになる家の中。甘い匂いだけ残り、俺は仏間へと歩みを進めた。幸せな空間に入り込んだあとは俺はついついばあさんに手を合わせたくなるんだ。あなたがここにいてほしかったという気持ちと、あなたがいたから俺はこうして人を愛することができたのだという感謝である。写真の中のばあさんは笑っている。入れ歯をむき出しにして顔に皺ができるのも構わず全力の笑み。首と顎の境目も分からないところが、幸せを詰め込んでいる身体であることがすぐに記憶の中に思い浮かんだ。俺のことを立派に育ててくれた。
 どのぐらいの時間手を合わせていたのか。玄関が開く音が聞こえて目を開けて手を両膝に置いた。誰が家に入ってきたのか。一人しか知らないので警戒することもなく足音が近づいてくるのを待った。
 そして、襖が開く。襖越しのその顔に俺は笑った。

「おかえり、志乃」
「ただいま、佑さん」

 口角を上げ、目を細めてゆったりと笑う彼女。出会った頃に比べて皺が増えたものの全く変わらない品のある笑み。その笑顔を見る度に年甲斐もなく今も変わらず胸に高鳴りを覚えるのだから、自分のことながら若いなと苦笑いする。
 彼女は俺の妻である志乃。詩織の母であり奈々の祖母である。

「さっき詩織と奈々ちゃんとすれ違ったわ。チョコ作りお疲れ様」
「そうかい。いや、そんな手間でもないからなあ。もう食べるかい?」
「ええ、時間としても丁度いいわね。私は紅茶をいれるわ」

 きっと先程の集まりでもチョコを食べてきたのだろうけれど、今日ぐらいは何も言わずにいよう。普段は年のことも考えて節制しているのだから、今日ぐらいは良いだろう。
 正座を崩して立ち上がり、冷蔵庫に置いていたブラウニーを一部はばあさんのところにお供えして、自分たちの分をそれぞれ草花が描かれた小皿に乗せてテーブルの上に置く。紅茶のいい香りも漂う。アップルティーの入ったティーカップが運ばれて手を合わせて「いただきます」して頬張る。

「ふふ、やっぱり佑さんのお菓子は絶品ですね」
「そうかい、よかった」
「付き合い始めて初めてのバレンタインにも作ってくれましたねえ」
「ああ、そうだなあ」
「あの頃は男の子が女の子にお菓子を作って渡すなんて、という考えのほうが多かったのに嬉しかったですよ」
「外国ではそっちのほうが普通なのに不思議だよな」
「そうですね」

 あのときから俺はずっとバレンタインにはブラウニーを作っている。志乃に頼まれたわけではないけれど、これ以上ないほど驚いたあとの笑顔がとっても可愛らしかったから、ついついこの時期になると作ってしまうのである。なんだか照れてきて、慌てて話題を逸らす。

「女子会は楽しかったかい?」
「ええ。みんなお元気だったわ。女子、という年でもないのですけれどもね」
「いつもどんな話をしているんだ?」
「孫の話とか、息子が結婚しないとかあそこのお嫁さんは倹約家ですごいとか、柴犬は可愛いとかそんな話ですねえ」

 ブラウニーをフォークで突きながら話は進んでいく。

「詩織たちはどうでした?」
「普段通りみたいだ。詩織と奈々ちゃんのことが大事すぎで優介くんは泣きっぱなし」
「愛で溢れていますねえ。私達みたいに」
「……そうだな」
「おばあさまには感謝ですね。あなたに愛を与えて、その愛をあなたが誰かに与える。それができるのはおばあさまの教育とあなたの素直さの賜物ですよ」
「ああ。そしてそんな俺とばあさんを受け入れてくれた志乃さんがいなければこんなに幸せな家庭をつくることはできなかった。愛しい存在が、さらに増えたんだ」

 どうしようもない俺を見捨てなかったばあさんも、傍から見たら落ちこぼれでしかない俺とその育ての親のばあさんのごと信じて愛してくれた志乃さんも、どちらもいなかったのなら俺は本物のどうしようもない男だっただろう。刺激のない平和なこの日々がどれだけ幸せなのかも分からなかっただろう。

「ふふ、あなたのおばあさまみたいにもう30年は生きたいですわねえ」
「ああ、せめて奈々が立派な大人になるまではお互い頑張ろうなあ」
「……明日からまたこういうのは控えないとですね」
「……食い納めだなあ」

 苦く笑いつつも健康のためならば仕方がない。けれどあまりに我慢するのは逆に身体にも精神的にもよくないので、月一度ぐらいのチョコは許してほしいものである。
 少し苦みがありつつもそれでも甘い甘いブラウニーをまた口に運ぶ。ばあさんが俺に作ってくれたものと同じ味のそれが美味しくてたまらない。



 愛をあなたに。そして、あなたはまた誰かを愛し尊むのでしょう。
1/2ページ
スキ