普通の男

 そーっと物音を立てないよう、玄関の扉を開閉してリビングへ。妻も子も既に眠っていて家の中は真っ暗だ。テーブルの上を見ると『お疲れ様。冷蔵庫の中にお刺し身があるからね。いつもありがとう』と丸みのある字で書き置きがあり、隣には可愛らしくもまだまだ拙い字で『パパ、ありがとう。明日たのしみにしてるね!』とキャラクターがデザインされた手紙と画用紙いっぱいに眼鏡をつけた男性のようなクレヨンで描かれた絵があり、『今日幼稚園でお父さんの絵を描きましょうという課題で描いたものです。なかなかの力作でしょう?』と妻の丸い字を見て胸が暖かくなる。
その手紙たちと絵を一つにまとめて眺めながら食事をとる。テレビも付けずに刺身と保温状態になっていた炊飯器の中から掬った玄米の入ったご飯と、温め直した味噌汁を口に頬張った。
家族からの贈り物の手紙はファイルの中に、描いてくれた絵は玄関に飾った。また、玄関での楽しみが増えたことに満足しつつ、風呂の追い焚きをした。

 風呂の残った水は明日の洗濯機で使用にするので、スイッチだけはオフにして衣類と使ったタオルは洗濯槽の中にちゃんと入れドライヤーをかけて水分を補給した後、使った食器とコップを洗い終えて漸く自分も眠るための準備を終える。残すは歯を磨くだけ。重くなる瞼を何とか開けながら洗面所へ。

 夫婦の部屋をそうっと開けると、そこには幼稚園の息子の胸に手を置いている妻の姿。寄り添うように眠っている。寝かし付けていたら眠ってしまったのだろうと想像がついて口角をあげる。
娘は小学校に上がったタイミングで一人部屋を作ったのだが、たまに恋しいのかここで眠っていることもある。
残念ながら今日は自室で眠っているようだ。
一人の部屋に慣れたのかそちらの方が楽なのか、最近ここに来る頻度はだいぶ下がっている。
自立してきているということだろうか。親としては寂しくも成長の証でありとても喜ばしいことだ。
……お父さんの下着と一緒に洗濯しないでと言われるのもそう遠くない未来なのかもしれないなあ……。
甘えてくれる今の娘の姿をしかと記憶に保存しておこう。心に決めながら自分も布団に潜り込んだ。出来る限り音は出していないつもりだったが、気配がしたのか妻が身じろいだ。

「ううん……あ、あなた。帰ってたのね、おかえりなさい……ごめんなさい、わたし」
「ただいま。ああ、これは夢の中だから気にすることはない」
「?あら……そう、そうなの、わたしの、ゆめ、なのね……すぅ……」

 夢見心地の妻に声をかければ安心したように再度眠りについた。このまま起きてしまえば妻が眠れなくなるのを知っているので、ちゃんと睡眠を取ってくれて安心する。外で働いて稼いでくる俺のことを気遣ってくれるのは嬉しいけれど、妻だって家のことを守ってくれているのだ。子どもたちのことも家事も、どうしても平日の昼間はまかせっきりになってしまっている。幼稚園の息子が小学校に上がったらパートにも出るつもりだと言ってくれる優しい妻だ。俺のことはもっと適当で構わないのに、外で頑張っているからと色々やってくれる。甘えてばかりで申し訳なく思っている。少しでも妻に俺は返すことができているのだろうかとこうして寝顔を見る度に考えてしまう。
 息子を抱きかかえる妻の頬を起こさないように触れる。柔らかくて暖かかった。
今日は帰りに、色々と考え事をしてみた。自分らしい生き方とか、夢とか、性の多様性とか、差別とか。
どこかの評論家気取りでSNSにもあげるつもりもないぐらいの自己満足のものだ。これら全てはこれからも考えていかないといけない、状況によっては柔軟に対応していかないとならない難しい問題だ。
けれど、俺はやっぱりどこまでも普通の男だった。

 最終的に行き着くのは生涯の伴侶にしたいぐらい愛しい女性とそんな女性と俺の遺伝子を持った可愛い可愛い子どもたちのことになってしまうのだから。

 どうすれば、彼女は幸せになれるのか。どうすれば子どもたちはこの世界の中で呼吸がしやすくなるのか。そんなことばかりだ。
 少しの谷と山の経験はあれどコルカ渓谷やエレベストほどではない、平坦に近い普通の人生。特別目立つわけでもなく、天才でもなく、運動神経が凄くいいわけでもない。
この先もこうして過ごしていく俺にとって、大事なのは世界でも国でも自分のこれからでもなく、家族のことなのだから。
普通の男は、普通に日々を過ごし、普通に結婚して、普通に子どもに恵まれて、普通に家族を愛して普通に家族のために働いて、普通に家族と過ごす。
 きっと、特別な人間から見た俺の人生は『つまらない』と評価されるのだろう。映画やドラマになっても誰も見やしないぐらいつまらないだろう。
 他人から見た『つまらない人生』は、俺にとってかけがえのない、何にも代えることができない、壊したくない壊されたくない、どこまでも尊くて、どこまでも愛おしいものだから。
 何も生み出すことも、何かを訴えることも、何かを変えることも俺は出来ない。

 でも、俺の大事にしたいものだけは、俺の手で守りたいんだ。
 どうか、最期のそのときまで。いっしょにいてくれ。
 俺の最愛で最後の妻であり母であり嫁である、女性。
 俺は普通の人並みぐらいしか与えることは出来ないと思うけれど、笑っていてほしいんだ。
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