普通の男

 次は座ることが出来た。他に待っている人もあまりいなかったからだろう。
 我が家の最寄り駅の路線では出勤、帰宅ラッシュではない限りゆとりがある。スマホを取り出し、時間を確認するついでにネットニュースの見出しを眺めた。見るのは主に経済のこと。円安、値上がり、株価のことや不景気のことなどなど気が滅入ることばかりだ。軽く目を通してはスラッシュして見出しに戻る繰り返し。大体朝見たものと同じで新しい情報は得られなかった。他はゴシップニュースばかりで普段なら野次馬根性で面白半分で開くこともあるけれど気分ではないのでスクロールして流し見するだけだった。何かないだろうかと一番上に戻って更新してみたら、一番最初の見出しに出てきたものが気になった。
『LGBTQの世間の理解について』
 LGBTQ。これもここ数年でよく聞き、見かける言葉になった。レインボーフラッグ、というものが話題にもなった気がする。少し前まではLGBTだけだったが、最近ではQが付くのが一般的になったな。
同性のことが好きな人、どちらの性別も愛せる人、身体と心の性別が逆の人、そもそも性別の概念がよくわからない人……細かく言うともっと色んな人間がいるらしいが、普通の俺に理解できるのはこれだけだ。所謂性の多様性というものだ。幼いころよりテレビではよく身体は男性だが心が女性のタレントや、ゲイの芸人を見かけることがよくあった。テレビで見る彼らはとても明るくて、悩みなんてないように見えていたけれど、徐々に『普通の人間』によって苦しめられてきた日々を周知していくことになっていった。LGBTQの存在が現在受け入れられる空気感なのは、そんな彼らの頑張りの結果なのかもしれない。
大変だっただろう。俺たちが子どものときでさえまだ、ランドセルの色は男子は黒、女子は赤という無言の偏見があった時代だ。今ではそもそも黒赤だけではないカラフルなもので、黒を選ぶ女子や赤を選ぶ男子も普通になっている。そんな微かなものでさえ排除の対象になっていた俺らの時代、それ以前の時代はもっと激しく普通ではないものへの排除は強かっただろう。
だが、やっぱり生き辛い思いをしてきた彼らのことを俺には完全に理解は出来ないとも思う。
だって、俺はランドセルは男が黒を選ぶことに疑問も持たない、男はこうであるべきと言われたことの大体はその通りだと頷いて、家庭科よりも体育が好きな、同じ骨格の男より華奢な女性のほうが好きな、どこまでも普通の男だからだ。
 そもそも、大きな声で言えないことだが……性の多様性は受け入れられるべき、という風潮はあまり好きではない。確かに理解はするべきだと思うけれど、多数派にとって彼ら少数派が何とも受け入れ難いものとも感じてしまうのだ。これはきっと無意識の中で生まれている偏見の目というものなのだろう。俺は決して彼らを気持ち悪いと思っていないし、表立って否定する気はない。だが、どうあっても多数派と少数派の壁は厚い。
 俺は街中で彼らのような人たちを見かけたりしたら、きっと一瞬驚いてしまい、ひっそりと二度見してそこでようやく『彼らのようなタイプもいる』と自分に納得することができる、とおもう。言い切ることはできない。そのぐらい俺は『普通』に生きてきたし、周囲も本音はどうあれ『普通』の人間しか接してこなかったのだ。そして、これからもきっとそうして生きていくと思う。もうすっかり偏見の目を持つことに慣れきってしまった俺には性の多様性を全てを理解することも、心から受け入れることもできないと思う。染み込んでしまったものを取り除くことはできない。だが、次世代はちがう。
偏見の目が出来上がるより先に男女問わずにニックネームを禁止をして苗字さん付けする学校が出るように、多様性を受け入れていくような環境が出来上がっていくのだから。
これからの時代の最先端になっていく子どもたちに、偏見の目を育たせないようにしていくのが俺たち親がするべきこと。
子どもたちの目を汚さないようにするのは俺たちだ。
……なんて、大それたことを考えてみたりしたけれど、俺ができることはきっと僅かなもので、俺自身が偏見に塗れているので説得力の欠片もないが。
 それでも、子どもがむやみに人を傷つけない大人にはなってほしくないので。凡人で普通の親なりに努力したい。性の多様性は大人でも考え込んでしまうほどの特に難しい問題だけれど、そのときは子どもと一緒に向き合って考えていこう。

『次は、○○ー、次は○○……』

 考えがまとまったところでアナウンスが耳に入ってきて鞄を持ちスマートフォンを胸ポケットに入れて立ち上がった。
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