普通の男


自分らしい生き方。
夢のために生きる。
性の多様性は受け入れられるべき。
差別は排除するべき。


そんな聞こえがよく、皆に好かれそうな言葉たちが溢れる世の中。
特に自分らしい生き方というものへの向上心もなく、これという夢もなく、性別のことも特に疑問を抱かず、差別のことを声高に叫ぶこともできない普通の男。それが俺である。


ガタン、ガタン。
規則正しく揺れる車両内。
既に日付が変わっているにも関わらず、満員とは言わなくとも椅子に座れるほどの余裕もなく、出入り口の角も塞がっているぐらいには混み合っていた。
今日は金曜日ということもあって、ほろ酔い気味の赤ら顔の人が多く見えた。俺のように月曜日から金曜日まで残業してきたのだろう、くたびれた様子で目を瞑る自分と同じぐらいの年代の男性もいた。きっと、他人から見た自分も彼と同じように疲れたサラリーマンなのだろう。
妻に『今から帰る』とラインを送ると、了解!と可愛らしいキャラクタースタンプで返ってきたのを確認するとスマホをYシャツの胸ポケットにしまう。
普段なら、周りと同じように暇潰しにスマートフォンを使い、ネットニュースなどを見ているのだが、何となくそんな気分になれず出入り口の上にある電光掲示板を見た後、ふと中吊り広告が目に入る。
『自分らしい生き方』
そう大きい文字とともに以前から映画やドラマで見るようになった俳優の顔を全面に推し出した広告。それは有名な転職サイトの広告だった。
今の会社に就職してすぐ、一日に何度も上司に叱られたことがあったことを思い出す。
今思えばありえないミスの連発だった、今の自分が当時の自分の担当だったら、そのときの上司と同じように叱りつけていただろうな。
叱られ、落ち込んで、今の仕事は向いていないのだろうかと転職サイトの検索をしていた。そんな記憶がふと蘇った。
なんだかんだで勤務し続けてあと数年で10年経つのだから、人間結構図太いものだ。転職という言葉すら、CMか会社内の誰かが辞める際に転職すると聞くぐらいだった。
よほど、自分には転職とは無縁なのだろう。
自分らしい生き方。転職した先で出会えるものなのだろうか。
乗り換えのための駅に着くまでまだ時間はある。
スマホを見る気分でもないので、手持ち無沙汰だ。それなら、と何となく自分らしい生き方とやらを考えてみた。
移動しながら見える窓越しの風景は、真っ暗で何も見えない代わりに、疲れた顔のスーツ姿の自分の姿が見えた。特別なものでもないただの自分の姿だが、目の置き場には丁度良かった。
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