うみをえがく。

 あるSNSのアカウントの中の『潤』と一文字の名前のアカウントには、フォローもフォロワーもたったひとりしかいなかった。そこに書かれているのは一つだけ。その一つにレスをして長い長い、ある人に向けた手紙のようになっていた。



 籠の中で生きる美しい絵を描くあなたへ。
 ここに辿り着いたということは、もう僕はひとつの大きな爆弾を置いた後だと思います。
 それが弾けたのか不発に終わったのか、僕にはもうどうでもいいんだ。
 きみにだけは、伝えたいことがあります。
 どうか、最後まで僕の手紙を読んでいただけると幸いです。

 僕がきみに話しかけた日を、覚えているでしょうか。僕は覚えています。
 あの日こそ僕は海の中に行こうと決めた日でした。
 もうすぐこんな醜いばかりの世界からさようならできるのだと思うとなんでもできる気がしました。
 僕を攻撃してきた人たちに一矢報いる……なんてことは、するつもりもありませんでした。

 自分よりも弱い人間を攻撃する人間を蔑んでいたはずだったのに、僕は彼らと同じことをしようと思いました。
 自分より強い人間が怖いから、自分より下の人間をいじめて楽しむ。
 それがきっと人間の本質なのでしょう。少なくとも僕もそんな醜い人間でした。

 いつも黙々と美しい絵を描いているきみのことは僕だけではなく皆知っていました。
 きみは興味ないんだろうけれど、有名人だったんだ。
 誰とも話さず皆の輪に入らずに美術室で己の絵しか見ていなかったきみ。女の子だから、自分と同じように友だちもいないだろうから、大人しそうだったから、反抗し無さそうだから。

 いろんな理由をつけてきみの絵を否定した。つまらない絵だと。きみが傷つくと想定して、傷つけるつもりでそんな言葉を突きつけました。正直僕には絵の良し悪しはわからなくて、それなら写真を撮ればいいじゃないかと簡単に思いました。

 でも、きみは。何故かとっても、嬉しそうだったね。心の底から驚いたよ。皆が絶賛する絵を描いているきみが、自分のものではないと嬉々として自ら否定したことに。

 最初からきみは予想外なことばかりだった。見た目は華奢なおさげの似合うかわいい女の子だけれど、その中身は結構辛辣なことを言う家の異常性をちゃんと理解してうまく立ち回る強い女の子だった。きみと話しているときだけは、僕は辛いことも夢のことも忘れることが出来たんだ。

 でも、もうここにはいられない。きみに会えない夏休みにそう強く感じました。これ以上きみといたら夢のことを忘れてしまいそうで、きみといる多幸感と日常の中の暴力とのギャップに辛くなってしまいました。僕は、海の中に行くことにしました。ハンカチ、返さないでごめんね。だから、僕の本も返さなくていいよ。

 あと、きみのおかげで爆弾をしかけるという発想を得ることができました。やられっぱなしは、確かに嫌だなと思ってしまいました。きみのおかげで少し溜飲が下がったような気がします。僕が受けてきた仕打ちはこれだけではないですが、これから先彼らに何か不幸が降りかかることだけはこっそり願います。

 僕はやっぱり弱くて、この世界で生きたいとやっぱり思えなくて夢を叶えると綺麗事を言ってさようならします。きみは、籠の中だけで生きていないでください。籠で生きるなんて、きみらしくないよ。どうか、外に出て、父親という籠だけで収まらないでいてほしい。

 大人しそうに見えて勝ち気なところや、強いけれどやっぱり僕と同じ弱さを持っていて、やりたいことも夢もわからないという柔らかいところがある、きみのことが好きです。前に海を描いてほしいとリクエストしたことを覚えているでしょうか。

 あのときは苦しむきみを見てつい言ってしまったけれど、本当は描きたいものを描いているきみの姿と描きたいと思えたものを描いた絵を見てみたいから、何でも良かったんだ。嘘ついてばかりだね。こんな僕でごめん。

 でも、叶うことなら、僕はきみにまた会いたいです。この世界じゃないどこかになるかもしれませんが、巡り巡って、またいつか。きみとともにいれますように。海の中を巡る雑魚な僕より


 フォローされているのはたったひとり、この先動くことがないはずのアカウント。そこに、ひとつ、コメントがついた。フォローの許可を与えているのはたったひとりだけ。


 海を巡っているであろうあなたへあなたの夢が叶えられそうな海は見つかりましたか?見つけたとしても、どうか、海の中を巡るのはもう少しだけ、待ってもらえませんか?私があなたの海になります。私の描く海があなたが気に入ってくれたのなら、どうか。この苦しいばかりの世界で一緒に生きてください。うみをえがく私より


 誰にも見られないように作られた無数にあるアカウントのひとつの、鍵のついたアカウント。それを見ていた誰かの手が震え、スマートフォンの画面に水滴がぽつぽつとついた。

「残酷なこと、いうなあ……美絵さん」

 震える声で泣き顔でそういう。だけど、少年は確かに嬉しそうだった。
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