うみをえがく。



「海で死にたい」

 そう言って美術室で笑う海中の姿が目を閉じると何度もリフレインする。記憶の中の海中の顔は穏やかなようにも輝いているようにも、悲しそうにも見える。彼に起こった事実と、その内情を知ってしまったから錯覚しているのかもしない。手紙のところをタップして何度も何度もメッセージを送ってみるけれど、返事はない。

『次はー潮祷駅、潮祷駅に止まります』

 駅員の声が聞こえて目を開ける。スマホを見ると10時を迎えたころだった。電車を乗り継いで1時間半ぐらい経った。メッセージアプリから家族からいくつもの連絡が入ってくる。
(そんなの、どうでもいい)
 スマホをバックの中に捻じ込むようにしまい電車の窓から外を見ると、以前見せてもらったあの海の光景があった。真っ青な空とそれに負けないぐらいの深い青の海と白い砂浜。人はこの光景を綺麗だと思うのだろう。写真を撮るのかもしれない。泳ぎたいと、早く海に行きたいと、そんな感想が生まれるのかもしれない。確かに、はやくあそこに着きたい。みんなとは違う理由だけど。
(海中、そこにいるの?)
 この海が、あなたの望むものなのか。まだ海の中にいないだろうか、どうかまだこの世界にいてほしいと願うのは私のわがままだろうか。立ち上がり、扉が開くのを待った。

 吹きさらしの駅のホームは直に太陽が焼き付けてくる。手で目の近くに影を作って周りを見渡す。私が乗ってきた電車が遠ざかりついに見えなくなる。駅には乗客も駅員すらいない。看板みたいな白い駅名標はところどころ錆びついていた。金網越しに海が見えた。いなかったらどうしよう、そんな臆病風に吹かれながらも私は足を動かした。


 切符を通して改札の外へと出て海へと近づいていく。商店街のようなところの真ん中を歩きながら周囲を見る。以前、海中から教えてもらったようなにぎやかさは無かった。否、にぎやか『だった』形跡だけはある。
 住宅らしき家はなくて、何か食べ物屋や土産屋だったかもしれないところを見かけた。だけど、すべてシャッターが下りていて固く閉ざされていて開いている店が見当たらなかった。青い屋根の店には休業中と辛うじて読める張り紙があった。すっかり茶色くなって風化を物語っていた。

(海中が最後に行ったのは小さいころだと言っていたから、その間に廃れちゃったみたい)

 一気に足取りが重くなった。

「……海中は、どんな気持ちでここ、通ったのかな」

 暖かな思い出の場所が寂しいところになっていた、そんな記憶と現実の剥離に苦しまなかったかな。海中の気持ちを想像しながら、引きずるようにしながらも前に進んだ。



 暑さと喉の渇きに耐えながら、足を動かす。足が重たくて仕方がないのは、実際重たいからなのか気持ちがそうさせているのか判断がつかなかった。照りつけてくる太陽に汗だくになる。
(潮の匂いが強くなってきているから、もうすぐだと思うんだけど)
 鼻を鳴らして耳をすます。
 ……ザザーン、ザーン。波の揺らぐ音も聞こえてきた。眩しくて仕方がないけれど顔を上げると防波堤が見えてきた。
(やっと、ゴールだ)
 海中の言っていた海に着くという目的には辿り着くことは出来た。鉛みたいな足が少しだけ軽くなってペースを上げる。電車から見た海、海中が絶賛して終わりの場所にしたいと決めた海を、私は自分自身の目で見る。防波堤に手を置き、その海を覗き見た。うみを、みた。
 私の最初の感想は綺麗でも、美しいでも、青いでもなかった。それを見た私は無意識に口から言葉となって漏れた。

「きた、ない」

 血の気が足先へと下がったような感覚。気温はどんどん上がっていっているはずなのに、寒く感じた。喉の渇きも忘れてしまうほどの衝撃だった。
 今まで液晶越しや窓越しに見えていた光景とは、真逆の景色が目の前に広がっていた。予想していたのは美しい海とさらさらの砂。遠足で行った海よりも綺麗なものだと思い込んでいた。だけど、それは画面上と遠目から見てのことだった。階段を下り、海へとさらに近づく。
 近くで見ると木の枝の塊や腐った部分的な木の幹、それに交じってペットボトルや空き缶、どういうことか車のタイヤや自転車のペダルまである。よくわからないゴミまであって埋め尽くされていて到底、綺麗とは言えなかった。どこかから波に乗って流れ着いたのだろう。呆然とした気持ちでスクールバックを砂の上に落として、海に近づく。遠くから見ていたものとのあまりの違いに声も出ない。
 辺りを見回しても、海中の姿は見当たらない。それどころか人一人いない。それもそうだ、こんなゴミだらけの海なんて、泳ぐどころか散歩にも適さない。

「うみなか」

 彼の名前を呼んでも、波の音にかき消される。べたつく風が肌を撫でる。ローファーの中も海水でぐちょぐちょだけど何とも思わない。

(思い出のなかの海とのちがい、どう感じたの?綺麗だからここにしたいんじゃないの。ねえ)

 海の中で死にたいと言った夢はここで叶えたの?思い出の中だけの綺麗な海を選んだの?ああ、それとも、海の中なら関係ないと思ったのかな。それなら、私も。ううん、海中が最後に見たであろう景色を見たい。

「あなたの見た世界、見せて」

 私は、遠慮なく波に逆らって海の中へと入っていく。じゃりじゃりと砂まで巻き込んだ海は痛くて不愉快だけど足取りはやまない。
 このあと海水まみれで電車に乗るのかとか家に帰った後、父からどんなことを言われるのかされるのかもそれ以前に死んでしまうかもしれないとか、冷静に考えればそう思うのは普通なんだけれど、何も考えていなかった。
 ううん、考えられなかった。そんなことよりも海の中を見ようとしか思わなかった。くるぶし、すね、ひざ、ふともも、こし、かた。ついに足先から頭まで全てが深い青に飲み込まれた。
 酸素のない世界は息が苦しいけれど、それよりも海水で目が痛くて辛かった。肝心の海の中は……やっぱり汚い。クラゲのようなビニールゴミ、イカみたいなペットボトル、濁った目をした魚の死骸が漂っているばかりだ。
 ああ、遠くで見るだけが一番だったんだ。焦がれているぐらいが良かったのかもしれない。これが、海中が最後に見た光景なのかな。どう、思ったの?悲しい?辛い?苦しい?絶望した?素敵な思い出にも裏切られた気分になった?どこの世界にいるの。どこの世界を選んだの?せっかく望んでいたはずの海の中がこの惨状じゃあ、もう、生きるのもいやになっちゃうかもしれないね。
 海中の気持ちを考えながら私は潜り込んだまま、この身を海に任せていた。息が出来ないことすら、どうでもよくなった。たぶん、このまま身体の中が海水でいっぱいになってしまっても、この体が海の底へ沈んでしまっても、そのまま受け入れていたと思う。でもそれは叶わない。

 誰かが私の腕を掴んで、海の中から引き上げてくれたから。

「ゴホ、なにを、しているんだ!!」
「ケホ、うえ、ぉえっ、ゴホゴホッ」

 男性の私を叱る声はどこか遠くて、身体が入ってきた海水を吐き出そうと生理的に吐き出そうとしているのか激しく咳が出て止まらなくて苦しい。そのまま私は岸まで運ばれ、砂の上に座り込み暫くまた咳こんだ。

「はあ、まったく、最近の若いもんは何を考えているのか。わしがお前さんを見かけなかったら……ああ、おっかないおっかない!地元をこれ以上汚さんでくれ。落ち着いたら帰んなさいよ!」

 そう言って深く溜息をついて、何やら近くにあった袋を手に持ち、トングを持ちゴミを集め始めた。どうやらゴミ拾いをしているみたい。こんな荒んだ海辺を……一人でしてるみたい。聞く限りこの少しがたいのいいおじいさんはここの人みたい。海水で身体がビショビショなのに忙しなくゴミ拾いを行っているおじいさんに問いかけてみる。

「……この海、昔は綺麗だったんですか?」
「ん?ああ、そうだなあ……少なくともゴミは無くて9月になっても海で遊ぶ若者で賑わっておったよ。今では見る影もないがな……」
「……そう、ですか」
「もう大丈夫そうじゃな。ほらほら、帰った帰った。死ぬにしてもこんな汚い海を選ぶことなかろうよ」
「……」

 そう言われて気分がさらに沈んだ。海中が想いを馳せていた海にそんなこと言わないでほしい。そう思うと同時に目の前のお爺さんがたった一人だけでゴミ拾いをしているところを見ると、かつての綺麗な海を求めているのかもしれない。
(これから、どうしよう)
 美しかったのはかつての栄光で、探し人は見当たらず、何も得ることができなかった。このまま、家に帰らないといけないのかな。
(また、空虚な世界に戻って私は一人やりたくもない役を演じるために描きたくないものを描き続けないといけない)
 心の中の私がそう声をかけてくる。あの籠のような家なら、虚しくても安全だ。お母さんやお兄ちゃん、お姉ちゃんと同じように何も考えずに、生きていく。
 それが私の生きる意味……なのかな?本当に?どういうことか私の中には私という名のふたりの人間がいて、以前のように戻るべきという私と、このままでいいのかと疑う私で別れる。後者を前者が潰そうとした。そのとき、おじいさんが呟いた。波の音にも風の音にもかき消されることなく、届いた。

「おや、これは……ああ、随分と懐かしいものが出てきたなあ」
「……っそれ、は」

 おじいさんが手に持っている白いものに、驚き立ち上がり近寄る。突然動き出した私におじいさんもびっくりしていたようだけどそれどころじゃない。

「これはきみのものかい?」
「ううん。たぶん、私の、だいじな人の、ものだとおもう」

 手のひらにころりところがされたそれと目が合う。剥げてきている黒い目と全体的に黄ばんでいてかつては真っ白だっただろうそれは、ダイオウグソクムシのキーホルダーだった。海中の、鞄についていたものだった。

「大事な人が言ってました。幼いときにここにきた来た。この海を愛しているように見えました。それは駅前にお土産屋さんでおお父さんに買ってもらった、と」
「そう、か。まだこの海のことを、栄えていた町のことを思い出してくれる子が、いたのか……」
「おじいさんは、もしかして……青い屋根のお土産屋さんの店長さんですか?」
「そんなことまでその子は覚えていたのかい。うれしいなあ……それがあるということは、その子もここに来たのかな?きみから返してもらえるかな」
「……」
「?どうしたんだい?」
「ぅ、」
「!大丈夫かい?!救急車……」

 突然その場にうずくまる私に、さっきまで海の中にいた際に何か異常ができたのかと勘違いしているおじいさんが救急車を呼ぼうとするのを、首を振って拒絶する。立ち上がって大丈夫です、と言ってこの場を後にしないといけない。そうしないと迷惑になる。だけど、私の身体は動かない。

「海中、うみなか。どこに行ったの、ねえ、あいたい……あいたいよぉ」

 声に出たものは、そんな子どものような弱々しいものだった。泣きたくもないのに泣いてしまう。子どものときですらこんな風に泣いたことは私の記憶の中にはなかった。その場の砂が爪の中に入るのも構わず握りしめて突き破りそうな悲しみと寂しさに耐えようとした。波の音はそれでも私の耳に届いた。近くで見た海は汚いのに音はどこまでも優しくて、それがまた涙を誘う。私がこれだけ泣いても。

 海中は、こない。



 どこにも、いない。



8/13ページ
スキ