うみをえがく。

「ただいま」

 玄関の扉を開けると靴が目に入る。私以外の家族が既にいることを表していた。
 憂鬱を通り過ぎて鬱になりそうになりながら鍵をかけた。自分を閉じ込める檻の鍵を自ら閉めているような感覚はいつまで経っても慣れない。父も遅めの夏休みということで今家にいる。
(嫌だなあ)
 最近そう思いながらも家に帰ったら一度リビングに行って帰りの挨拶をしなくてはいけないので重い足取りで廊下を進む。

「ただいま」
「おかえり、美絵。少し座りなさい」

 嫌な予感がした。背中に暑さ以外の理由で汗が出た。私以外の家族はみんなすでに座っていて、じっと私の方を見ている。ここで逃げるという選択肢は私にはなく、誘導されるがままに椅子に座った。私の定位置、このときばかりは真ん中の席に座るのは嫌だ。視線が集中するからだ。お兄ちゃんとお姉ちゃんはきっと内心嬉しくてたまらないだろう。嫌いな私が皆の前で父に処されるのだから。

「育恵や学校から聞いたのだが、お前最近男の子とよく話しているらしいな」
「なんで学校から?お姉ちゃんは、どこで見たの?」

 なんで態々学校から父に連絡したのか、学校も違って方向も真逆の姉が何故海中といることを知っているのかわからず、立場を忘れて問いかけてしまった。ここは大人しくしおらしくするべきだった、とすぐに後悔した。威圧は更に増したけれど問いかけには答えてくれた。

「ここのところ美絵の態度が変わったことが不思議でな、何か学校で変化があったのかと聞いてみたらここ数ヶ月ぐらい、隣のクラスの男の子と放課後仲良さそうだと教えてくれたんだ」
「あたしは今日部活の遠征があってさ。バスで移動してたんだけど……そのとき、見ちゃったんだ。メガネをかけた男の子と親しげにしてたのを、さ」
「……そっか」

 その言葉の意味を理解して……自分が浮かれていたことがよくわかった。教室の扉は一部窓のように透明になっている。話に夢中で見回りしていた先生や様子を見に来た美術担当が、放課後私と海中が話しているのを目撃していても何の不思議もなく、身内である父に問われたら答えるのは至極当然。
 そして、人との関わりが薄そうな私が男の子と歩いていたのを姉が見かけてそれを父に告げ口をするのも当然である。海中に言われた通り、どこで見られるかわからないというのはこのことだとしかと実感させられた。自分にも、浮かれるという感覚があるのだとよく分かってしまった。

「ああ、決して男の子と交際するなとは言っていないんだ。恋愛は自由だからな、節度を守って学生らしい付き合いさえしてくれればいいんだ。美絵は人間関係が希薄なように思っていたから親としては安心しているところもある。だけどな……」

 そこでひとつ区切って父は頭を押さえてため息を吐く。

「今まで出来たことができなくなるぐらい、盲目的になるのはいただけない」

 父は私の目を見た。海中の視線とは比べ物にならないぐらい、冷たくて凍えそうなぐらい呆れた目だった。このままじゃ、まずい。直感がそう訴えてくる。

「ごめん、なさい」

 震える声で謝罪して頭を下げる。何をどうしなくてはいけないのか頭の中で理解が追いつかない。ただただ父に見捨てられる未来が間近に見えてしまってそれに驚いて、怯えて、ただ謝るしかできなかった。手が血が通っていないのかというぐらい冷えてスカートが濡れるぐらい汗で湿っていた。

「これから、美絵はどうしたいんだい?」

 硬い声でそう問われる。私は父の望む答えを吐くことができる。どうしたい、じゃなくてどうする?と聞いてほしい。あくまで自分がそう望むからそう答えているみたいじゃない。
 それが私の望むものではなくとも。私は、声に出せる。声に出して言わないと、この尋問は延々と続くから。時間の無駄だ。それならこの一瞬嘘をつけばいい。そう分かっているのに、唇が重くて仕方がなくて、父の求める答えを言うまでいつもより時間がかかってしまった。

「……彼とは、距離、置く。それで、絵を描くことに、集中する」
「そうだな。美絵の絵を私は本当に楽しみにしているんだ。期待しているよ」

 柔らかくなった声は『いい子だ』と褒めてくれるようだった。期待している、なんて耳障りの良い言葉も言ってくれている。喜ぶべきだろう。子どもなら親にそう言われたら嬉しいものだから。でも、今の私は安堵が勝った。そして、海中の顔が思い浮かんで申し訳ない気持ちになる。思ってもいない、言いたくもないことを言ってしまったから。海中に聞かれたわけじゃないのに、苦しくなった。

「これからは一日一回は絵を見せておくれ。キャンバスに描くようになったらどのぐらいできたか写真に撮ってみせるんだよ。もう時間もないんだ、急がないとな」
「うん……」

 有無を言わさずそんなしたくもない約束させられて、心はどんどん沈んでいく。こうなるのが嫌だったから、今まで頑張ってきたのになあ。お兄ちゃんはどのぐらいノートを埋められたのかのチェック、お姉ちゃんは今日やったトレーニングの報告が強制させられていたのを見たから、私は急いで描いて完成させてゆとりが生まれたらその分サボれると気付いたから今までそうしてきたのに。
 下書きとして描いたスケッチブックはいつも持ち歩いているから誤魔化せないし、学校でキャンバスに描いたものも写真に撮らないといけなくなってしまったし、誤魔化したら学校に聞かれたらすぐにバレる。結局、私もお兄ちゃんとお姉ちゃんと同じ制限を持つようになってしまった。ため息を吐きたくなるのを押し止めることには成功したけれど、兄と姉の愉快に感じている視線にはどうしてもイライラした。



「ほうほう、こんな絵もいいな。哀愁が漂っていて素敵だとおもう」
「そうかな」
「ああ、夕日の絵はやはりいいな。明日から学校だな、完成が待ち遠しいよ」
「うん、私、頑張るよ」
「順調だな。さすが美絵だ」
「あはは。じゃあ私もう寝るね。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

 8月31日の夜。夏休み最終日、3日前に父に命じられて以降また私は役の皮を被ることができるようになった。描きたくもない絵を描くこともできた。そして今日これを完成させてほしいと言われてほっとする。明日からはこの絵の完成のために行動しないといけないけれど……とりあえず下書きから開放されたことは嬉しかった。スケッチブックを受け取って階段を昇って、自分の部屋の扉を閉めた。何とか今日まで耐えられたのは海中との約束があったから。ああ、でもどうだろう。
 嘘だとはいえ、距離を置くなんて言っちゃって、私は彼の前で平常心を保てるんだろうか。スケッチブックのどこかに挟んだ海中の名前がかかれたルーズリーフすら罪悪感から見れていないのに。

 海中は、私は上手く父に反抗できると言ってくれた。海中は、私に本当にやりたいと思ったことを考えようと言ってくれた。海中は、やりたくないことにしがみつく私に海をリクエストしてくれた。父が怖いから、そんな理由だけで海中の言う言葉全てを投げ捨てた。私も、お兄ちゃんとお姉ちゃんと同じようにやっぱりお父さんが怖いから。それどころか私は私の安寧のために、思ってもいない言葉を吐いてしまった。たとえ聞かれていなくても苦しいことにかわりなんてない。
 明日が楽しみだ。海中とまた会えるから。それと同時に、怖かった。日から、私はどう海中と接すればいいのか。父に言った通り距離を置く……そんなことはしたくないけれど。

 わかんない。なにも、何もかも、わかんないよ。父に見捨てられるのはいや、でも海中と一緒にいられないのもいや。このまま役割を演じきり海中を蔑ろにする?海中を優先して父に見捨てられる?どうしたらいいの。ねえ。

「たすけて」

 初めて誰かを求めるその言葉は、誰にも聞かれることなく籠の中に消える。わかっているのに、むなしさで心が引き裂かれそうだった。目を閉じると溜まった水滴が溢れた。真っ暗な視界のなかで浮かぶのは優しい父の顔、怖い顔の父の顔、そして、笑ってくれる海中の顔。私は誰に助けを求めているのか分からないまま、枕を濡らした。いつの間にか意識は飛んでいた。





 深夜、頬を腫らしたメガネをかけた少年が学校の中にいた。

「これで、よし」

 大きな大きな掲示板の前で、貼り付けたものをみて満足する。達成感に満ち溢れた顔で、次はスマホを取り出してなにか操作し始める。それも終えたのかスマホをポケットの中にねじり込もうとしたけれど、上手く入らなかったのか手だけを突っ込んでみると、藍色のイルカが刺繍されたハンカチが出てきて、驚いたように少しの間固まった。けれど、ふと少年の表情が緩んだ。

(未練を、残すつもりなんて無かったのにな)

 目を閉ざすと自分を笑って見下ろし、足蹴りしてくるあいつらのことや酔っ払って頬を叩いてきた一緒に住んでいる男や明らかに具合が悪いのに簡単に自分を置いていく母親の姿。そして……きみの顔。

(あのまま。きみのこと放っておけばよかったのかな。そうすれば綺麗な思い出だけで終われたのに。いいや、いっそ、あの日、話しかけなければきっと、こんなに苦しまずに済んだ)
 きみのことを思い浮かべるだけで胸が苦しくなる。もう会えないであろうきみのことを考えると申し訳ない気持ちになる。でも、きみと会えたから……僕は逃げるだけじゃない選択肢を貰えた。この世界が綺麗に見えた。愛おしい、そう想う気持ちを知った。

「うそをつくことになって、ごめんね。籠生さん……美絵、さん」

 そう呟いて貸してもらったハンカチを撫でる。愛おしい名前を、初めてひっそりと呼んだ。

(だいじょうぶ。きみは僕がいなくとも生きていける。……でも、僕がいないことを悲しんでほしい、なんてね)

『好き』だよ。初恋の子、美絵さん。またどこかで、きみに会いたいよ。枯れきったはずの頬に雫を伝う感覚におかしくなりながら、ついに僕は歩き出す。

 復讐のための準備は終えた。後は……行くだけ。美しい美しい、海の中へ。僕の夢を叶えるために。

「きみの海、見てみたかったな。きっと、とっても、綺麗だっただろうな」

 校門を出た直後、そう呟いて暗闇に消える。朝がくるまで、あと5時間。
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