うみをえがく。
「やあ久しぶり、籠生さん。ひと月ぶり……て、酷い隈だね、大丈夫?」
「……海中。久しぶりね」
久しぶりに会えた海中なのに、ちゃんとした反応ができないのが申し訳ない。
待ちに待った登校日。退屈な出席と課外授業という名の学校外掃除も終えて、部活がある人は部活動へ向かう。例にもれず私も美術室の机に噛り付いていた。
しばらくして現れた海中にもなかなか気付くことも出来なかったし、扉の音も聞こえないぐらいだった。一つ欠伸を零して生理的にあふれた涙をぬぐいながら心配そうな海中にたいしたことではないと首を振って寝不足の理由を告げる。
「お仕置きのせいで寝不足なの」
「お仕置き……あの、夜の間屋根裏部屋に閉じ込められる、ていう……?」
「そうよ」
「うまく回避していたんじゃないの?」
「最近うまくいかないの。……いつもは、ちゃんと役を演じてきたのに。自分の言葉なんて隠せたのに。
全然隠せてない」
夏休みに入ってからの私は、おかしい。前までできていたことが出来ないのだ。夏休みが始まったその日の夜にうっかり台詞と本音を反対にしてしまったことがきっかけに台詞が出ているのに、出てくるのは本音ばかり。例えばチャンネルをお父さんが変えたら、いつもなら気になったところがあっても何も言わずにいたのに「やめてよ」と勝手に口から出るようになった。
こんな絵を見てみたいから描いたらどうかと言われたら「お父さんがそういうなら描いてみるよ」と今までなら言えたのに「自分で描けば?」と出している。そんな本音ばかり出てきて、台詞が言えなくなってしまっている。何度も父から屋根裏部屋へ行けと言われて、気付けば夏休みはほぼ毎晩と言っていいほど夜を暗くて暑い部屋で過ごしていた。
真夏の屋根裏部屋で眠るのは、どう頑張っても快適とは言い難くて、固いフローリングに横になるせいで体中は痛いし、不愉快度指数が高すぎて眠りは浅くて、熟睡とはほど遠い。そのせいか昼間は欠伸が止まらない。問題は睡眠不足だけじゃない。夏休みに与えられた宿題は終えられたものの、絵が、全くと言っていいほど描けない。
「絵も、全然描けてない。お父さんの求める絵だけを描けていれば、よかったのに。コンクールも近づいてきてるのに」
掌をじっと見る。このぐらいの時期には既に作品に取り掛かっているはずだった。今までなら無難に父の求めるものを描けていればよかった。それだけでいいのに。
自分自身のアイディアが枯渇している、わけではないことも最近分かった。父に言われた通り夕日を背景に影で真っ暗な電柱とそれを繋ぐ線や、昭和の街並みや烏が飛んでいる物寂しさの漂う絵が浮かんだから描き起こそうとした。そう、しようとはした。だけど、ダメだった。鉛筆を持って描こうとすることまではできる。それ以上のことが、できない。
今も机の上にはスケッチブックを広げていて、鉛筆も持っている。でも、真雪のような白さしかない。
(お兄ちゃんやお姉ちゃんよりも、私は賢く生きれていたはずだったのに)
「はあ……」
スケッチブックをパタンと閉じて鉛筆を回しながら空を仰ぐ。仰いだところで視界に映るのは美術室の天井しかないのだけれど。外に出たところで雲一つない青空と太陽が私を攻撃してくるだけだから、室内だったからよかったけれど。もう一度深く深く息を吐いてみるけれど気分は晴れない。
「籠生さん、大丈夫?……あれ、何か落ちたよ」
「ん?……あ」
「あれ、これ……」
心配してくれた海中が私を労わってくれた。それに返事するより先に床に落ちた何かを拾ったようでそれが何か視線を移した。海中の手に持っているものが折れ目のついたルーズリーフで、二つ折りにしていたけれど落ちた拍子に広がってしまったらしい。海中はそれが予想外のものだったらしくて驚いて固まっていた。いつまでも返してくれないので手を伸ばして催促する。
「かえしてー」
「あ、うん。はい」
「ありがとー」
素直に渡してくれて、私はまたスケッチブックの適当なページに挟んだ。いそいそと仕舞いなおしてもなお海中は意外そうな顔で私をじっと見ていた。
「……まだそれ持っていたんだね」
「まあね。これさ、今の私のお守りみたいなものなのよね」
「こんなものが?」
「こんなものとは失礼ね。ほら、海中の名前、書いてくれたでしょ」
正確に言うなら書かせたというのが正しいのかな。前に私の家族の名前を書いて見せて、海中の名前の漢字を知りたいと強請って書いてもらったものだし。
海中はこんなものと言ってくれちゃったけれど、こんなものが今の私を支えてくれる唯一のおまもりなのよ。
「見る度に海中と一緒にいたことを思い出せるからさ、少し元気になるの。演技で笑う以外で、素直に笑うことができる時間だから」
空、鮮やかな絵、液晶越しの人間、私の家の外側しか見ていない人たち、当たり障りないコミュニーケーションしかとらない担任、遠巻きにしてくるクラスメイト。
世界には色んな色で溢れているけれど私の目は全部どこか物足りない色でしかなかった。でも、海中とそれに関係するもの。前に見た海の絵すら綺麗だと思えた。このときだけは、本当の私でいられる。このルーズリーフはそのことを思い出させてくれるお守り。
「最近ね、学校に来るのは楽しいと思えるの。前までは唯一家から逃れられるところとしか思わなかったけれど、この時間だけは、楽しいよ」
海中の目を見て私は言う。顔どころか身体が熱くて仕方ない。それは、屋根裏部屋に閉じ込められているものと似ていて、でも違うことだけはわかる。そっと机の上に置かれた海中の手に手を伸ばす。ぎゅっと小指を握ると、びくりと震える身体。
驚かせちゃったかな。ごめんね。でも、どうか拒絶しないで。
口に出さなかった私の願いは通じたようで、私の手は振り払われることはなかった。
きっと私と同じぐらい顔を赤らめた海中は、口を半開きにして私を見ている。見られたいような見られたくないような不思議な感覚を味わいながらも、首を傾げて問いかけた。
「海中はどう?私といるこの時間は、楽しい?つまらない?好き?嫌い?」
あわよくば、同じ気持ちであってほしい。そんな醜い気持ちは垂れ流しだっただろうけれど、ほうけていた表情だった海中は、ゆるり、和らげて目を細めた。優しい顔だった。綺麗。
「……僕も。うん、きみと話しているこの時間は好きかな」
「そう言ってくれて嬉しいな。あ、まだ貸してくれた漫画全然読めてないの。ごめんね」
「ううん、そんなの、いつでもいいよ」
気付けば私も笑っていて、おかしいことは何もないのに海中とくすくすと笑い合っていた。
(ずっと……一生、この時間が続けばいいのに)
ドラマとかでしか聞かないような甘ったるすぎて吐き気がすることすら思ってしまった。私を夢心地にさせるのは海中で、現実に引き戻してくるのも海中だった。するりと傷つけない、けれど確かに私の手から海中は離れる。不愉快なはずの人の熱も海中のものだと思うと名残惜しく感じてしまう。
「そろそろ行くよ」
「……まだ、いいんじゃないの?外、暑いわよ」
「うん。でもそろそろ時間だからさ。ごめんね」
海中も酷く申し訳無さそうで、私はこれ以上引き止めることが出来なかった。またね、という海中はどこまでもいつも通りで、もどかしく感じながら見送る。
(酷いなあ)
ここで私も帰ると言えば家のことを引き合いに出されてしまうのだろう。そう思うと簡単に足が動かなくなってしまい、無機質なものになったようだった。
……臆病な私が、ここで飛び越えることが出来たのなら、良かったのかな。駆け寄ってあなたが何を言おうとも一緒にいれたら。そうすれば、あなたがされてきたことに寄り添うことが出来たのかな。
あなたを、見失わなくて済んだのかな。
遠くない未来のことを知る由もない私は、スケッチブックを開いてお守りを片手に進まない鉛筆をとにかく動かそうと躍起になった。
結局また無駄に時間は流れていくだけでスケッチブックは真っ白のままで下校時間を迎えそうになる。
動かない手に苛立ってガンッと机にぶつけてみるけどじんじんと痛むだけで何もならない。
少しだけ早いけれど帰る用意を始めた。電気を消しても日が暮れるのが遅いこの時期ではあまり明るさは変わらない。まだまだ暑いこの時期。焦燥感に煽られるのは何もしなくとも汗ばんでいくのも関係あるのかな。
イメージが出ても、それが目に見えない焦りというのはこういうことか。歩きながら自分の手を見る。何かを描くために与えられて生まれてきた私が、何も描けなくなってしまった。何も描くことができない私に何の価値もないのに。どうしてだろう。じわじわと蝕んでいく感覚にこの夏休みの間何度も陥っている。
海中と話している間だけは忘れることが出来たけれど、ひとりでいるとやっぱりダメ。開いていた掌をぎゅっと握って、拳を作る。
「籠生さん」
突然名前を呼ばれて、驚いて顔をあげる。
無意識に下駄箱へと向かっていたらしく、靴を履き替えるとすぐに見える大きな掲示板が見えるところにいて、そこにはもう帰っていたと思い込んでいた海中がいた。
「いっしょに帰らない?」
そして、そう聞いてきた。今まで何かとはぐらかしてきたくせにとか、なんでまだ学校にいるのかとか聞きたいことはあったけれど、それよりも気になる状態の彼に何より驚いてしまって、慌てて駆け寄る。
「それは、もちろん。帰るけど、どうしたの?」
私が聞きたいのは彼の今の状態。最初に会ったときのようにずぶ濡れで、メガネも割れていたから。それなのに何でもない顔をして普通に問いかけてくるものだから、驚いてしまった。
「濡れている僕がとなりを歩いていたら、迷惑かな」
「ううん、それは大丈夫だけど、海中、寒くない?大丈夫?ハンカチ使ってよ」
「え、いや、平気だよ。歩いていれば乾くし」
「いいから使いなさいよ」
「わっぷ」
スクールバックから取り出したハンカチを差し出しても変に遠慮するから無理矢理押し付けた。私が引かないと分かった海中はおっかなびっくりといった感じで受け取って、申し訳無さそうに顔を拭う。
「ごめんね、洗って返すよ」
「別に、今返してもらってもいいのに」
「そうはいかないよ。その、ちゃんと綺麗にして返したいから」
「海中がそこまでいうなら、わかった。よろしくね、それ気に入ってるやつだからちゃんと返してよ」
「へえ、そうなんだ」
少し意外そうな顔でハンカチをまじまじと眺められる。藍色の生地にイルカの刺繍がされているそれは、この夏休みの間に買った、私が身につけている中で唯一気に入っているものだった。
確かに普段持っているものは機能性重視のものばかりで筆箱も適当なもので、カバンだって同級生のスクールバックは学校で支給されていない色んな色のスクールバックやリュックサックを使っていたり、なにかのキャラクター思しきストラップや、夢を与えることで有名なアニメやどこかで見たことのあるゆるキャラとかついている中で私は学校指定のスクールバックで、何もつけていない。そんな私が柄のついたハンカチだけは、少し異質かもしれない。
海中は何か言いたげな雰囲気だったけれど、結局何も言わないままだった。不思議そうにしているけれどバカにしているとか、そんな風には見えなかったから、まあ、いいかと思えた。
そこまで距離のない学校の最寄り駅に着いて、ICカードを押して改札を通り抜ける。
「海中はどっちなの?」
「僕はこっちだよ」
「……わたしも」
「籠生さん、演技本当に得意なの?嘘ついてるのバレバレだよ」
「海中の前でだけのつもりなんだけれど」
いや、どうだろう。自分の言葉だけど首を傾げそうになる。前までは胸張ってそう言えたのに最近の自分のポンコツ具合を考えるとそうでもないかもしれない。
「じゃあ、籠生さんの方で待ってようか。僕の方、もう電車行っちゃってるからさ」
「私と話して暇つぶししてくれるの?」
「うーん……僕が、籠生さんと話したいから、かな」
「そっか!」
このまま別れるということもできたのに、海中も私といたいと言ってくれる。嬉しくて変に弾んだ声が響いてしまい、焦って海中の腕を引いて階段を下った。
改札近くは、駅員室があるから少し涼しかったけれど、駅のホームはほとんど外で屋根や自販機があるぐらいで快適さとは間逆のところにあった。暑さに疲弊しながら、自販機でスポーツドリンクを買って少し間を開けてベンチに座った。見渡す限り誰も見当たらなかったのでこっちも電車がいったばかりのようだった。まるで、世界で海中と二人きりになったような、静けさだった。
(ほんとうに、ふたりだけならいいのにな)
汗をかいたペットボトルを握って涼みながら、ぼうっと手を見つめた。
「絵を描けないのは、辛い?」
「え?」
突然そんなことを聞かれて海中の方を見る。割れたメガネがこちらを見ていた。絵を描けないことが辛いかどうか。その答えは、否。描かなくていいなら、描きたくないのだから、別にどうだってよかった。
そんなことはない、そう答えるのは海中も予想通りだったのか小さく頷いて「じゃあ」と続けて問いかけてきた。
「お父さんから与えられた役割をこなせないのが、悲しい?」
「…………」
今度は、何も言えなかった。それを認めるのは癪に障るけれど、否定する材料もなくて、無言を貫くことしかできないけれど、それを肯定と捉えたらしい海中が「そっか」と受け入れてくれただけで、素直になれた。俯き、びちゃびちゃになったペットボトルを握る手を忙しなく組み替えながら、吐き出した。
「馬鹿みたいでしょ。どれだけ、強がって見せても賢く生きたつもりになっていても、結局……私は父の言う通りに生きているだけなんだから」
「それでも、お父さんが喜んでくれるから与えられた役割どおりに籠生さんも演じてあげているんでしょ?だから演じられないことに苦しんでいる。優しいね」
「……私は、別に。ただ単に面倒くさがりなだけよ」
海中のいうような、綺麗な理由じゃない。別に、父が望むままに生きられないことに悲しんでいるわけじゃなくて、父に見捨てられる自分を悲観しているだけだから。どこまでも自分中心でしか、私は生きることができない。
「きみは。たぶんお父さんに対しても上手く反抗できるよ。賢いから。僕から見るきみはとても器用で、一度決めたら動くこともできると思うんだ」
かけられた言葉に目を見開く。反抗?お父さんに?どうして?どうやって?海中は私を買いかぶり過ぎだ。
「お兄ちゃんには、私は頭が悪いって言われる。お姉ちゃんにはあんたは全然動かないって言われる」
頭が悪い、お兄ちゃんから見たらきっと私は馬鹿だと思う。動かない、体育会系のお姉ちゃんから見たらただ絵を描いているだけの私が動いていないというのも分かる。何もかも初めて言われた言葉を、過去に私を称した彼らの言葉を伝えた。なんの他意もなく、私も事実だと思っていた。
「そんなの僻みだろ。籠生さんが言っていたじゃないか。お兄さんは頭が良いけれど馬鹿だって。お姉さんだって昔はどうか知らないけれど今はもうきみと同じかそれ以上に行動しなくなっているじゃないか」
だけど、海中はいつもより鋭い口調でそんなことをいう。顔を見ると険しい顔をしていて、ああ、怒っているんだと分かった。男の人が怒っているのを見るのは家族と担任やテレビの中ぐらいで、クラスメイトとの接点を薄めていた私は初めて見る身近で年近い男の子の怒った顔だった。そのせいかな、あまり怖いと思わなかった。なぜか嬉しいとも思ってしまった。
「……そう、かな。たしかに、そうかもしれないね」
海中の言う通りだ。私は確かに言った。お兄ちゃんは頭のいい馬鹿だと。お姉ちゃんのことも、以前までは抵抗していたけれど今は何もしなくなったと。目に見える評価と数字だけなら二人のいうことは至極当然だけれど、精神面では確かに違うかもしれない。何なら、たぶん私のほうが優っているとも感じる。
私の返事にやっと海中は穏やかな表情に戻った。
「ねえ。ここでさ、ひとつ考えてみてもいいんじゃないかな」
「?なにを?」
「籠生美絵さんという人間が、本当は何をしたいのか。夢を持つならなにか。今なら考えることができないかな?僕も手伝うからさ」
海中のいう言葉は、私には全部が全部新鮮で、驚くことばかりだった。以前聞かれた夢は持っていないのかと聞かれたときと同じぐらいの衝撃が胸を走った。なにを、したいのか。わたしが、ほんとうに。父が望んだ美しい絵を描くために生きるようにと与えられたもの以外で、できるなにかがあるのか。
父のために生きてきた私が、できること、できることできることできることできること、できる、こと。できること?できること、できることなんて、できることなんてっ。
「そんなの、あるわけないじゃない!!」
幼い頃の私の叫ぶ声が、頭の中で響き渡る。その瞬間、コンクリートにちゃんと足がついているのにふわふわしていてまるで雲の上にいるような、骨抜きになった操り人形のように力がなくなり血の気がさーっと引いていく感覚に陥る。それに耐えられず持っているペットボトルを落とした。拾わないと、と思うよりも先に頭を抑えていた。
どうしたらいいのか、わからない。なにもかも、わたしには、何もないから、わかんないの。
「わかんない、だって、わたしにはこれしかない。これ以外に、何ができるか、わからない。それしか生きるすべを、わたしはしらない、知らないの」
やっぱり、私は馬鹿で、一歩も動き出すことができない、子どもだ。せっかく海中が手伝うって言ってくれているのに、独りじゃないのに、私から絵を取り上げられたらと考えるだけで恐ろしくて仕方がない。ごめんなさい。つまらないやりたくないと言ってばかりなのに私にはこれしかないと実感させられる。
せっかく新しい道を作れるようにと考えようとしてくれるのに、その好意を無下にしてしまって。弱くて、ごめん。
声にしたいのになにも言えなくて、目を瞑って何かを見ることを拒絶までする私にいよいよ海中に呆れられても仕方ないと思った。
否定される言葉も聞きたくもないけれど、これ以上のわがままが許されない気がして、耳だけは聞こえるようにした。
「ねえ、それならさ……僕からリクエストしていいかな」
「リクエスト……?」
「そう、僕が籠生さんの描いた絵で、見たいものがあるんだよ」
目の前から、少し下から聞こえてきた声は予想していたものよりも酷く優しくて恐る恐る塞いでいた目を開いて頭から手を離して、ゆっくりと顔をあげると海中は目の前でしゃがんでいて座る私よりも目線が下だった。見下ろす海中の表情は悲しくなるほどに優しい笑顔だった。
(リクエスト……?)
言葉をちゃんと飲み込むより先に「はい」と手渡されたペットボトルを反射的に受け取る。私が落としたのとは違う、たぶん海中が買ったやつ、サイダーと青いラベルが貼られている。
落として凹んでしまっている方は海中が持っていた。渡すほうを間違えている、そう指摘しようとしたけれど海中が先に言葉を発してしまう。
「海の絵、描いてほしいな」
「!」
驚き、固まってしまう。ついこの間、海より空の方が良いと父から言われたばかりだった。ただでさえ無意識に父に反抗的だった私だ。
ここで海中のリクエスト通りの海の絵を描いてしまえば……今度こそ、私はきっと、父のいうことを聞く気がないのだと判断されてしまうだろう。
それがどういう意味か、そのとき私はどうなっているのか、籠生家のなかで生きていけるのか、何もかも分からない。
「……」
返事もできずに震える。私の恐怖が伝わってきたのか、海中は苦く笑って立ち上がり、私を見下ろす。それでも威圧的には感じずに、痛みに寄り添いどこまでも私を労わるようだった。
「僕が、海の絵を見てみたいんだ。いつでもいいからさ」
「海中が、見たいって、言うなら、いつか、は。描けたら描く」
「うん。楽しみにしてるね」
いつになってしまうか、それは分からないけれど。いつか、絶対に、海の絵を描いてみせる。
だって、海中が望むから。すぐに描くと言えないのがもどかしいけれど、今はコンクールまでに時間がないから、それは終わらせないといけないけれど……。
煮えきらない返事にも関わらず海中は笑ってくれる。まるで罪が許された人間のようにほっとする。周りを見るといつの間にか人がいて、ざわざわと賑やかで、もうすぐ電車が着く時間なのだろうと時計を見なくともわかった。
別れの時間が迫ってきているのが惜しい。いつもより近くて長く一緒にいられたのに短くてしかたない。このままバイバイ、か。
(あ)
スマホを片手に立って電車を待つ人を見て思い出した。
「ねえ。海中の連絡先、教えてほしい」
私がそう言うと海中は首を傾げていた。
「あれ教えてなかったっけ?」
「うん」
少しでも話したいと思う気持ちが先にいってしまい連絡先を聞くのをいつも忘れていたけれど、海中も同じだったらしい。てっきり交換していたと思い込むくらいの仲、そう海中も感じてくれていたという事実がうれしい。
「そういえば……そうだったね。……うん、今日スマホ忘れちゃったからさ。次に会ったとき、教えるよ。ほら、もう電車がきたよ」
海中がそういった直後電車がやってきた。緩やかになっていくスピード、すぐに止まり、扉が開いた。すぐに乗らないと、また待たないといけなくなる。海中といるのなら、別に構わなかったけれど彼も家に帰らないといけないから……しかたない。ベンチから立ち上がり、ビッと人差し指をさして念を押す。
「わかった、約束よ。また夏休み明けにね」
「うん、約束するよ。……また、ね」
なぜだか、悲しそうな表情を浮かべているような気がした。いつも通りの再会の約束の挨拶なのにどこか違う。違和感はあらものの指摘できるほど気付くことは出来なくて、発車のベルの音を聞いて慌てて駆け込んだ。
振り返ると私を見て微笑みながら手を振る海中と目が合った。私も小さく手を振ると車両が少し揺れた後、ゆっくりと動き出した。海中が見えなくなるまで私は窓にこびりついた。近くにいた人が迷惑そうな顔をしていたけれど知ったこっちゃない。
風のせいで揺れ動くダイオウグソクムシのキーホルダーが、妙に、脳裏に焼き付いた。
(……やっぱり、もう一本電車を見送ればよかったかな)
肩を落としながら吊り革を掴むために揺れる箱の中をこけないように気を付けながら移動した。
「……海中。久しぶりね」
久しぶりに会えた海中なのに、ちゃんとした反応ができないのが申し訳ない。
待ちに待った登校日。退屈な出席と課外授業という名の学校外掃除も終えて、部活がある人は部活動へ向かう。例にもれず私も美術室の机に噛り付いていた。
しばらくして現れた海中にもなかなか気付くことも出来なかったし、扉の音も聞こえないぐらいだった。一つ欠伸を零して生理的にあふれた涙をぬぐいながら心配そうな海中にたいしたことではないと首を振って寝不足の理由を告げる。
「お仕置きのせいで寝不足なの」
「お仕置き……あの、夜の間屋根裏部屋に閉じ込められる、ていう……?」
「そうよ」
「うまく回避していたんじゃないの?」
「最近うまくいかないの。……いつもは、ちゃんと役を演じてきたのに。自分の言葉なんて隠せたのに。
全然隠せてない」
夏休みに入ってからの私は、おかしい。前までできていたことが出来ないのだ。夏休みが始まったその日の夜にうっかり台詞と本音を反対にしてしまったことがきっかけに台詞が出ているのに、出てくるのは本音ばかり。例えばチャンネルをお父さんが変えたら、いつもなら気になったところがあっても何も言わずにいたのに「やめてよ」と勝手に口から出るようになった。
こんな絵を見てみたいから描いたらどうかと言われたら「お父さんがそういうなら描いてみるよ」と今までなら言えたのに「自分で描けば?」と出している。そんな本音ばかり出てきて、台詞が言えなくなってしまっている。何度も父から屋根裏部屋へ行けと言われて、気付けば夏休みはほぼ毎晩と言っていいほど夜を暗くて暑い部屋で過ごしていた。
真夏の屋根裏部屋で眠るのは、どう頑張っても快適とは言い難くて、固いフローリングに横になるせいで体中は痛いし、不愉快度指数が高すぎて眠りは浅くて、熟睡とはほど遠い。そのせいか昼間は欠伸が止まらない。問題は睡眠不足だけじゃない。夏休みに与えられた宿題は終えられたものの、絵が、全くと言っていいほど描けない。
「絵も、全然描けてない。お父さんの求める絵だけを描けていれば、よかったのに。コンクールも近づいてきてるのに」
掌をじっと見る。このぐらいの時期には既に作品に取り掛かっているはずだった。今までなら無難に父の求めるものを描けていればよかった。それだけでいいのに。
自分自身のアイディアが枯渇している、わけではないことも最近分かった。父に言われた通り夕日を背景に影で真っ暗な電柱とそれを繋ぐ線や、昭和の街並みや烏が飛んでいる物寂しさの漂う絵が浮かんだから描き起こそうとした。そう、しようとはした。だけど、ダメだった。鉛筆を持って描こうとすることまではできる。それ以上のことが、できない。
今も机の上にはスケッチブックを広げていて、鉛筆も持っている。でも、真雪のような白さしかない。
(お兄ちゃんやお姉ちゃんよりも、私は賢く生きれていたはずだったのに)
「はあ……」
スケッチブックをパタンと閉じて鉛筆を回しながら空を仰ぐ。仰いだところで視界に映るのは美術室の天井しかないのだけれど。外に出たところで雲一つない青空と太陽が私を攻撃してくるだけだから、室内だったからよかったけれど。もう一度深く深く息を吐いてみるけれど気分は晴れない。
「籠生さん、大丈夫?……あれ、何か落ちたよ」
「ん?……あ」
「あれ、これ……」
心配してくれた海中が私を労わってくれた。それに返事するより先に床に落ちた何かを拾ったようでそれが何か視線を移した。海中の手に持っているものが折れ目のついたルーズリーフで、二つ折りにしていたけれど落ちた拍子に広がってしまったらしい。海中はそれが予想外のものだったらしくて驚いて固まっていた。いつまでも返してくれないので手を伸ばして催促する。
「かえしてー」
「あ、うん。はい」
「ありがとー」
素直に渡してくれて、私はまたスケッチブックの適当なページに挟んだ。いそいそと仕舞いなおしてもなお海中は意外そうな顔で私をじっと見ていた。
「……まだそれ持っていたんだね」
「まあね。これさ、今の私のお守りみたいなものなのよね」
「こんなものが?」
「こんなものとは失礼ね。ほら、海中の名前、書いてくれたでしょ」
正確に言うなら書かせたというのが正しいのかな。前に私の家族の名前を書いて見せて、海中の名前の漢字を知りたいと強請って書いてもらったものだし。
海中はこんなものと言ってくれちゃったけれど、こんなものが今の私を支えてくれる唯一のおまもりなのよ。
「見る度に海中と一緒にいたことを思い出せるからさ、少し元気になるの。演技で笑う以外で、素直に笑うことができる時間だから」
空、鮮やかな絵、液晶越しの人間、私の家の外側しか見ていない人たち、当たり障りないコミュニーケーションしかとらない担任、遠巻きにしてくるクラスメイト。
世界には色んな色で溢れているけれど私の目は全部どこか物足りない色でしかなかった。でも、海中とそれに関係するもの。前に見た海の絵すら綺麗だと思えた。このときだけは、本当の私でいられる。このルーズリーフはそのことを思い出させてくれるお守り。
「最近ね、学校に来るのは楽しいと思えるの。前までは唯一家から逃れられるところとしか思わなかったけれど、この時間だけは、楽しいよ」
海中の目を見て私は言う。顔どころか身体が熱くて仕方ない。それは、屋根裏部屋に閉じ込められているものと似ていて、でも違うことだけはわかる。そっと机の上に置かれた海中の手に手を伸ばす。ぎゅっと小指を握ると、びくりと震える身体。
驚かせちゃったかな。ごめんね。でも、どうか拒絶しないで。
口に出さなかった私の願いは通じたようで、私の手は振り払われることはなかった。
きっと私と同じぐらい顔を赤らめた海中は、口を半開きにして私を見ている。見られたいような見られたくないような不思議な感覚を味わいながらも、首を傾げて問いかけた。
「海中はどう?私といるこの時間は、楽しい?つまらない?好き?嫌い?」
あわよくば、同じ気持ちであってほしい。そんな醜い気持ちは垂れ流しだっただろうけれど、ほうけていた表情だった海中は、ゆるり、和らげて目を細めた。優しい顔だった。綺麗。
「……僕も。うん、きみと話しているこの時間は好きかな」
「そう言ってくれて嬉しいな。あ、まだ貸してくれた漫画全然読めてないの。ごめんね」
「ううん、そんなの、いつでもいいよ」
気付けば私も笑っていて、おかしいことは何もないのに海中とくすくすと笑い合っていた。
(ずっと……一生、この時間が続けばいいのに)
ドラマとかでしか聞かないような甘ったるすぎて吐き気がすることすら思ってしまった。私を夢心地にさせるのは海中で、現実に引き戻してくるのも海中だった。するりと傷つけない、けれど確かに私の手から海中は離れる。不愉快なはずの人の熱も海中のものだと思うと名残惜しく感じてしまう。
「そろそろ行くよ」
「……まだ、いいんじゃないの?外、暑いわよ」
「うん。でもそろそろ時間だからさ。ごめんね」
海中も酷く申し訳無さそうで、私はこれ以上引き止めることが出来なかった。またね、という海中はどこまでもいつも通りで、もどかしく感じながら見送る。
(酷いなあ)
ここで私も帰ると言えば家のことを引き合いに出されてしまうのだろう。そう思うと簡単に足が動かなくなってしまい、無機質なものになったようだった。
……臆病な私が、ここで飛び越えることが出来たのなら、良かったのかな。駆け寄ってあなたが何を言おうとも一緒にいれたら。そうすれば、あなたがされてきたことに寄り添うことが出来たのかな。
あなたを、見失わなくて済んだのかな。
遠くない未来のことを知る由もない私は、スケッチブックを開いてお守りを片手に進まない鉛筆をとにかく動かそうと躍起になった。
結局また無駄に時間は流れていくだけでスケッチブックは真っ白のままで下校時間を迎えそうになる。
動かない手に苛立ってガンッと机にぶつけてみるけどじんじんと痛むだけで何もならない。
少しだけ早いけれど帰る用意を始めた。電気を消しても日が暮れるのが遅いこの時期ではあまり明るさは変わらない。まだまだ暑いこの時期。焦燥感に煽られるのは何もしなくとも汗ばんでいくのも関係あるのかな。
イメージが出ても、それが目に見えない焦りというのはこういうことか。歩きながら自分の手を見る。何かを描くために与えられて生まれてきた私が、何も描けなくなってしまった。何も描くことができない私に何の価値もないのに。どうしてだろう。じわじわと蝕んでいく感覚にこの夏休みの間何度も陥っている。
海中と話している間だけは忘れることが出来たけれど、ひとりでいるとやっぱりダメ。開いていた掌をぎゅっと握って、拳を作る。
「籠生さん」
突然名前を呼ばれて、驚いて顔をあげる。
無意識に下駄箱へと向かっていたらしく、靴を履き替えるとすぐに見える大きな掲示板が見えるところにいて、そこにはもう帰っていたと思い込んでいた海中がいた。
「いっしょに帰らない?」
そして、そう聞いてきた。今まで何かとはぐらかしてきたくせにとか、なんでまだ学校にいるのかとか聞きたいことはあったけれど、それよりも気になる状態の彼に何より驚いてしまって、慌てて駆け寄る。
「それは、もちろん。帰るけど、どうしたの?」
私が聞きたいのは彼の今の状態。最初に会ったときのようにずぶ濡れで、メガネも割れていたから。それなのに何でもない顔をして普通に問いかけてくるものだから、驚いてしまった。
「濡れている僕がとなりを歩いていたら、迷惑かな」
「ううん、それは大丈夫だけど、海中、寒くない?大丈夫?ハンカチ使ってよ」
「え、いや、平気だよ。歩いていれば乾くし」
「いいから使いなさいよ」
「わっぷ」
スクールバックから取り出したハンカチを差し出しても変に遠慮するから無理矢理押し付けた。私が引かないと分かった海中はおっかなびっくりといった感じで受け取って、申し訳無さそうに顔を拭う。
「ごめんね、洗って返すよ」
「別に、今返してもらってもいいのに」
「そうはいかないよ。その、ちゃんと綺麗にして返したいから」
「海中がそこまでいうなら、わかった。よろしくね、それ気に入ってるやつだからちゃんと返してよ」
「へえ、そうなんだ」
少し意外そうな顔でハンカチをまじまじと眺められる。藍色の生地にイルカの刺繍がされているそれは、この夏休みの間に買った、私が身につけている中で唯一気に入っているものだった。
確かに普段持っているものは機能性重視のものばかりで筆箱も適当なもので、カバンだって同級生のスクールバックは学校で支給されていない色んな色のスクールバックやリュックサックを使っていたり、なにかのキャラクター思しきストラップや、夢を与えることで有名なアニメやどこかで見たことのあるゆるキャラとかついている中で私は学校指定のスクールバックで、何もつけていない。そんな私が柄のついたハンカチだけは、少し異質かもしれない。
海中は何か言いたげな雰囲気だったけれど、結局何も言わないままだった。不思議そうにしているけれどバカにしているとか、そんな風には見えなかったから、まあ、いいかと思えた。
そこまで距離のない学校の最寄り駅に着いて、ICカードを押して改札を通り抜ける。
「海中はどっちなの?」
「僕はこっちだよ」
「……わたしも」
「籠生さん、演技本当に得意なの?嘘ついてるのバレバレだよ」
「海中の前でだけのつもりなんだけれど」
いや、どうだろう。自分の言葉だけど首を傾げそうになる。前までは胸張ってそう言えたのに最近の自分のポンコツ具合を考えるとそうでもないかもしれない。
「じゃあ、籠生さんの方で待ってようか。僕の方、もう電車行っちゃってるからさ」
「私と話して暇つぶししてくれるの?」
「うーん……僕が、籠生さんと話したいから、かな」
「そっか!」
このまま別れるということもできたのに、海中も私といたいと言ってくれる。嬉しくて変に弾んだ声が響いてしまい、焦って海中の腕を引いて階段を下った。
改札近くは、駅員室があるから少し涼しかったけれど、駅のホームはほとんど外で屋根や自販機があるぐらいで快適さとは間逆のところにあった。暑さに疲弊しながら、自販機でスポーツドリンクを買って少し間を開けてベンチに座った。見渡す限り誰も見当たらなかったのでこっちも電車がいったばかりのようだった。まるで、世界で海中と二人きりになったような、静けさだった。
(ほんとうに、ふたりだけならいいのにな)
汗をかいたペットボトルを握って涼みながら、ぼうっと手を見つめた。
「絵を描けないのは、辛い?」
「え?」
突然そんなことを聞かれて海中の方を見る。割れたメガネがこちらを見ていた。絵を描けないことが辛いかどうか。その答えは、否。描かなくていいなら、描きたくないのだから、別にどうだってよかった。
そんなことはない、そう答えるのは海中も予想通りだったのか小さく頷いて「じゃあ」と続けて問いかけてきた。
「お父さんから与えられた役割をこなせないのが、悲しい?」
「…………」
今度は、何も言えなかった。それを認めるのは癪に障るけれど、否定する材料もなくて、無言を貫くことしかできないけれど、それを肯定と捉えたらしい海中が「そっか」と受け入れてくれただけで、素直になれた。俯き、びちゃびちゃになったペットボトルを握る手を忙しなく組み替えながら、吐き出した。
「馬鹿みたいでしょ。どれだけ、強がって見せても賢く生きたつもりになっていても、結局……私は父の言う通りに生きているだけなんだから」
「それでも、お父さんが喜んでくれるから与えられた役割どおりに籠生さんも演じてあげているんでしょ?だから演じられないことに苦しんでいる。優しいね」
「……私は、別に。ただ単に面倒くさがりなだけよ」
海中のいうような、綺麗な理由じゃない。別に、父が望むままに生きられないことに悲しんでいるわけじゃなくて、父に見捨てられる自分を悲観しているだけだから。どこまでも自分中心でしか、私は生きることができない。
「きみは。たぶんお父さんに対しても上手く反抗できるよ。賢いから。僕から見るきみはとても器用で、一度決めたら動くこともできると思うんだ」
かけられた言葉に目を見開く。反抗?お父さんに?どうして?どうやって?海中は私を買いかぶり過ぎだ。
「お兄ちゃんには、私は頭が悪いって言われる。お姉ちゃんにはあんたは全然動かないって言われる」
頭が悪い、お兄ちゃんから見たらきっと私は馬鹿だと思う。動かない、体育会系のお姉ちゃんから見たらただ絵を描いているだけの私が動いていないというのも分かる。何もかも初めて言われた言葉を、過去に私を称した彼らの言葉を伝えた。なんの他意もなく、私も事実だと思っていた。
「そんなの僻みだろ。籠生さんが言っていたじゃないか。お兄さんは頭が良いけれど馬鹿だって。お姉さんだって昔はどうか知らないけれど今はもうきみと同じかそれ以上に行動しなくなっているじゃないか」
だけど、海中はいつもより鋭い口調でそんなことをいう。顔を見ると険しい顔をしていて、ああ、怒っているんだと分かった。男の人が怒っているのを見るのは家族と担任やテレビの中ぐらいで、クラスメイトとの接点を薄めていた私は初めて見る身近で年近い男の子の怒った顔だった。そのせいかな、あまり怖いと思わなかった。なぜか嬉しいとも思ってしまった。
「……そう、かな。たしかに、そうかもしれないね」
海中の言う通りだ。私は確かに言った。お兄ちゃんは頭のいい馬鹿だと。お姉ちゃんのことも、以前までは抵抗していたけれど今は何もしなくなったと。目に見える評価と数字だけなら二人のいうことは至極当然だけれど、精神面では確かに違うかもしれない。何なら、たぶん私のほうが優っているとも感じる。
私の返事にやっと海中は穏やかな表情に戻った。
「ねえ。ここでさ、ひとつ考えてみてもいいんじゃないかな」
「?なにを?」
「籠生美絵さんという人間が、本当は何をしたいのか。夢を持つならなにか。今なら考えることができないかな?僕も手伝うからさ」
海中のいう言葉は、私には全部が全部新鮮で、驚くことばかりだった。以前聞かれた夢は持っていないのかと聞かれたときと同じぐらいの衝撃が胸を走った。なにを、したいのか。わたしが、ほんとうに。父が望んだ美しい絵を描くために生きるようにと与えられたもの以外で、できるなにかがあるのか。
父のために生きてきた私が、できること、できることできることできることできること、できる、こと。できること?できること、できることなんて、できることなんてっ。
「そんなの、あるわけないじゃない!!」
幼い頃の私の叫ぶ声が、頭の中で響き渡る。その瞬間、コンクリートにちゃんと足がついているのにふわふわしていてまるで雲の上にいるような、骨抜きになった操り人形のように力がなくなり血の気がさーっと引いていく感覚に陥る。それに耐えられず持っているペットボトルを落とした。拾わないと、と思うよりも先に頭を抑えていた。
どうしたらいいのか、わからない。なにもかも、わたしには、何もないから、わかんないの。
「わかんない、だって、わたしにはこれしかない。これ以外に、何ができるか、わからない。それしか生きるすべを、わたしはしらない、知らないの」
やっぱり、私は馬鹿で、一歩も動き出すことができない、子どもだ。せっかく海中が手伝うって言ってくれているのに、独りじゃないのに、私から絵を取り上げられたらと考えるだけで恐ろしくて仕方がない。ごめんなさい。つまらないやりたくないと言ってばかりなのに私にはこれしかないと実感させられる。
せっかく新しい道を作れるようにと考えようとしてくれるのに、その好意を無下にしてしまって。弱くて、ごめん。
声にしたいのになにも言えなくて、目を瞑って何かを見ることを拒絶までする私にいよいよ海中に呆れられても仕方ないと思った。
否定される言葉も聞きたくもないけれど、これ以上のわがままが許されない気がして、耳だけは聞こえるようにした。
「ねえ、それならさ……僕からリクエストしていいかな」
「リクエスト……?」
「そう、僕が籠生さんの描いた絵で、見たいものがあるんだよ」
目の前から、少し下から聞こえてきた声は予想していたものよりも酷く優しくて恐る恐る塞いでいた目を開いて頭から手を離して、ゆっくりと顔をあげると海中は目の前でしゃがんでいて座る私よりも目線が下だった。見下ろす海中の表情は悲しくなるほどに優しい笑顔だった。
(リクエスト……?)
言葉をちゃんと飲み込むより先に「はい」と手渡されたペットボトルを反射的に受け取る。私が落としたのとは違う、たぶん海中が買ったやつ、サイダーと青いラベルが貼られている。
落として凹んでしまっている方は海中が持っていた。渡すほうを間違えている、そう指摘しようとしたけれど海中が先に言葉を発してしまう。
「海の絵、描いてほしいな」
「!」
驚き、固まってしまう。ついこの間、海より空の方が良いと父から言われたばかりだった。ただでさえ無意識に父に反抗的だった私だ。
ここで海中のリクエスト通りの海の絵を描いてしまえば……今度こそ、私はきっと、父のいうことを聞く気がないのだと判断されてしまうだろう。
それがどういう意味か、そのとき私はどうなっているのか、籠生家のなかで生きていけるのか、何もかも分からない。
「……」
返事もできずに震える。私の恐怖が伝わってきたのか、海中は苦く笑って立ち上がり、私を見下ろす。それでも威圧的には感じずに、痛みに寄り添いどこまでも私を労わるようだった。
「僕が、海の絵を見てみたいんだ。いつでもいいからさ」
「海中が、見たいって、言うなら、いつか、は。描けたら描く」
「うん。楽しみにしてるね」
いつになってしまうか、それは分からないけれど。いつか、絶対に、海の絵を描いてみせる。
だって、海中が望むから。すぐに描くと言えないのがもどかしいけれど、今はコンクールまでに時間がないから、それは終わらせないといけないけれど……。
煮えきらない返事にも関わらず海中は笑ってくれる。まるで罪が許された人間のようにほっとする。周りを見るといつの間にか人がいて、ざわざわと賑やかで、もうすぐ電車が着く時間なのだろうと時計を見なくともわかった。
別れの時間が迫ってきているのが惜しい。いつもより近くて長く一緒にいられたのに短くてしかたない。このままバイバイ、か。
(あ)
スマホを片手に立って電車を待つ人を見て思い出した。
「ねえ。海中の連絡先、教えてほしい」
私がそう言うと海中は首を傾げていた。
「あれ教えてなかったっけ?」
「うん」
少しでも話したいと思う気持ちが先にいってしまい連絡先を聞くのをいつも忘れていたけれど、海中も同じだったらしい。てっきり交換していたと思い込むくらいの仲、そう海中も感じてくれていたという事実がうれしい。
「そういえば……そうだったね。……うん、今日スマホ忘れちゃったからさ。次に会ったとき、教えるよ。ほら、もう電車がきたよ」
海中がそういった直後電車がやってきた。緩やかになっていくスピード、すぐに止まり、扉が開いた。すぐに乗らないと、また待たないといけなくなる。海中といるのなら、別に構わなかったけれど彼も家に帰らないといけないから……しかたない。ベンチから立ち上がり、ビッと人差し指をさして念を押す。
「わかった、約束よ。また夏休み明けにね」
「うん、約束するよ。……また、ね」
なぜだか、悲しそうな表情を浮かべているような気がした。いつも通りの再会の約束の挨拶なのにどこか違う。違和感はあらものの指摘できるほど気付くことは出来なくて、発車のベルの音を聞いて慌てて駆け込んだ。
振り返ると私を見て微笑みながら手を振る海中と目が合った。私も小さく手を振ると車両が少し揺れた後、ゆっくりと動き出した。海中が見えなくなるまで私は窓にこびりついた。近くにいた人が迷惑そうな顔をしていたけれど知ったこっちゃない。
風のせいで揺れ動くダイオウグソクムシのキーホルダーが、妙に、脳裏に焼き付いた。
(……やっぱり、もう一本電車を見送ればよかったかな)
肩を落としながら吊り革を掴むために揺れる箱の中をこけないように気を付けながら移動した。