うみをえがく。
海中巡という漢字はとても綺麗。海の中を巡る、いい名前よね。そして、海中自身のことも綺麗だと思う。もっと笑っていてほしい。もっと一緒にいてほしい。自分がこんな欲深い人間だなんて、初めて知った。
知らない自分に出会えた私は、相変わらず、また描きたくない絵に向かう。父の思うままに。
「あー髪切りたいなー」
「え、長いのに勿体ないなあ。テストはどうだった?」
「鬱陶しいしこれぐらい伸びてると寝ているとき首が締まるのよね。テストは赤点は免れているぐらい。海中はそのもっさりを切らないの?テストはどうだったの?」
「へえ、髪長い人はそんな苦労があるんだね。僕はまだいいかな。僕もテストはまあ平均点ぐらいかな?」
「私も別に好きでこれだけ髪を伸ばしてるわけでも、おさげにしている訳でもないわよ」
「そうなの?似合ってるけどなあ。でもショートヘアも似合いそうだね」
「ショートヘア!良いわね、素敵よね」
おさげの一束をつまんだ。いつもいつも髪を切りたいと夏の度に思いながらも、結局切っても毛先だけに留めてしまうけれど、同じクラスのバスケ部の女の子のしているようなベリーショートとか、テレビで見る前髪が少し長めのショートヘアの女優とかにとても憧れている。体育に強い姉でさえ、女性は髪が長いほうが可愛いという父のために伸ばしっぱなしで今はポニーテールとかおだんごにしたりしている。
単純にお姉ちゃん自身の好みかもしれないけれど、それは姉の気持ちは知らないし聞こうとも思わなかった。
「テストの返却が終わって早々また何か描くんだね」
「そろそろ何を描くか悩んでいないとお父さんに催促されるからね。秋にはコンクールもあるしね。ま、適当にモチーフを選んでお父さんに相談という名目で選択させるだけだけど」
父にはいつも通りテスト期間が始まる前に絵が完成したことを伝えた。そしてテスト期間もその返却も終わった今そろそろ何を描き始めるかを考えないとならない。せっかく久しぶりに海中と会って話せているのに私はつまらないものにまた時間を費やさねばいけなくなってしまった。ああ、嫌だなあ。しかも、今回はいつもとはちょっと事情が違う。
「次は何の絵を描くの?」
「うーん……」
「あれ?悩んでる?」
(うるさいわよ)
心の中で悪態を吐いて、表面上は海中の質問に唸る。父の好みは何となく分かっているけれど、そろそろバリエーションが尽きそう。空とそれに関する何かを父は大層お気に召しているので、その辺を描きたいところだけれど。大空はまあよく描いてる。
大空を飛ぶ鳥の絵とか、快晴の下木々に囲まれている架空の女の絵とか、月明りの下で踊る動物とか、雨の中の紫陽花とカタツムリとか生き生きとした青空の下で葉っぱの上で踊る赤と黄色のてんとう虫とか。
果物だけの絵よりはどこかに空の要素を入れておけば大体何とかなる。普通は皆が綺麗だと思うものばかり描いている。この間海中にも同じような絵でつまんないと言われたような、そんな綺麗な写真のような絵を。……その言葉を初めて聞いたときは愉快でしかなかったのに、無自覚に引っかかりを覚えていたのかな。
いつもならこんな感じなら父も気に入るだろうと適当に妥協して、この天気でこんなものを描いたらどうかと言われたら、お父さんの選んでくれたものに喜んで賛同してそれを描き始めるのがいつものルーティンのはずなのに、どうしたって気に入らない。
私の絵が、父のための美しい絵が、前よりもずっともっとどこか色味がないように感じてしまった。父が気に入るものが上手く描けない。いつもなら有り得ないことだ。これ以上スケッチブックに向き合ったところで得るものは何もない。今までそんなこと無かったけれど、絵を描き続けているからこそ今はどれだけ考えても描くことはできないと何となく理解してしまった。
今の今まで順調に美しい絵を描いてきたけれど、今までと違う自分の感覚。それが何なのか分からないけれど、とにかく今はせっかく開いたスケッチブックを閉じた。
「はあ……」
「あれ、もういいの?」
「んー今日はもういいかな。これがスランプというものなのかしらね?」
「きみにもそんなときがあるんだね」
「私も初めてよ」
気分転換に美術の教科書のなかの絵を流し見しようとして、海中がずっと手に何か持っていたことに気が付いた。本屋の名前が書かれたブックカバーがついた冊子のようだった。最初は小説かと思ったけれどそうじゃないみたい。
「ところで海中はなにを呼んでいるの?漫画?」
「ん?ああ、エッセイ漫画だよ。青野ハジメっていう作者が漫画家を志して両親の反対を押し切って家出当然で家を出て……て始まるんだ。高校卒業して即家を出て、バイトで食いつなぎながら漫画を描き続けて結果が出なくて凹んだときに不思議なを見て、バイト先の年上の後輩と切磋琢磨して、なんだかんだ両親と和解して、ずっとまた描き続けて……そしてデビューまでこじつけたって話だね」
「へえ……とんでもない行動力の持ち主ね。そんなに心が揺れ動いて、身体まで動かせるぐらいなりたいことなのね」
青野ハジメという夢のために今までの生活を捨てた人がいると聞いて、思い浮かんだのはこの間テレビで見たもう名前も顔もうろ覚えのアーティストを夢見た青年のこと。けれどその生き生きと輝いている瞳だけはちゃんと覚えてる。みんなあんな目をして生きているのかな。
(いいなあ、楽しそう)
私は、きっと彼らに比べて死んだように生きているんだと思う。羨ましいと思うと同時に、自分にはそんな生き方は無理だ。
(だって、自分のやりたいことなんて。美絵(私)にはわからない)
そんなことを改めて実感していると、ずいっと目の前に本が差し出された。
「そんなに気になるなら読んでみる?貸してあげるよ。僕何回も読んでるから内容はもうわかってるし」
漫画本にばかり視線を向けていたせいで海中に勘違いされてしまったようだ。
「ううん、大丈夫」
うざったいおさげを揺らして両手をあげて貸し出してそうとしてくれるのを拒絶したけれど、海中は本を差し出すのをやめてくれなかった。
紙で出来た脆いブックカバーは皺がよって少し破れていたことから、海中のこのエッセイ漫画への想いが伝わってきた。だからこそ、余計に受け取りにくいことを察してほしい。不満が顔に出ていたのか、海中は私の顔を見てレンズ越しの目を細めた。
「籠生さんに読んでほしいと思うんだよ」
「でも、もう夏休みだし……それに……」
言い淀んだ言葉の先を察した海中はああ、と納得したようにぼやく。
「家族に何か言われるかもと思うなら、学校の机の中とかに入れておけばいいよ。返すのはいつでもいいからさ」
「……」
「ね?」
首を傾げながらカーブをえがく口角はどこまでも優しげだったけれど、受け取るまで退くつもりなどないという意思が伝わってきた。一つため息を吐く。海中って見た目によらず結構頑固だったのね、と新たな彼の一面を見て少しだけ気分はよかった。
「わかった」
私は渋々、卒業証書を受け取るようにして両の手に受け取った。ブックカバーを破かないように外すと淡い水色からスカイブルーそして藍色へ。藍色からまたさらに少しずつ暗くなって群青、そして最後には濃紺の色へと変わっていく、まるで空から海の底へと沈んでいくようなグラデーションが一色の表紙。そしてタイトルが書かれている。
『ゆめみる少年』
スカイブルーと藍色の間に白色でゴシック体で大きく、少しゆめの文字が歪ませ穏やかな丸みのある文字体であるにも関わらず不安感を少し煽ってきた。すぐ下には作者の名前が書かれている。ぱらり、とページを捲ると真ん中に大きく堂々と。
『夢があるんだ。他人にとっては鼻で笑われてしまうようなーーー』
そんな一文で丸々1ページを使って書かれていた。その次のページには目次。そして、メガネをつけたデフォルメの黒髪の温和そうな男の人が挨拶をする漫画が始まった。この男性、実物はどうか知らないけれどこの絵は海中に似ているなと思いつつ、本編がもう始まるところでパタンと本を閉じた。今は海中と話す時間の方が大事だと感じた。
夢。夢、かあ。私には持ったことのないそれは、海中にはあるのかな。この漫画の作者みたいな、この間見たテレビで見たアーティストみたいな、楽しそうなものが。
「海中には、夢はあるの?」
「あるよ」
「そうなの?どんな夢?」
即答されてやっぱりうらやましいな、選択肢があっていいな、と感じながらその夢の内容を問いかけた。少しわくわくしていた。彼にはどんな夢があるんだろう。私が知っているものなのだろうか。期待の眼差しを一身に受けながら、その口が動いた。海中の薄い唇が蠢いていたのが、妙に生々しくゆっくりに見えた。
「海で死にたい」
そんな声が鼓膜を動かしても、一瞬言ったことが理解できなくて目を見開いて、海中を見つめた。厚いレンズの眼鏡の中の瞳はあまり動きがなく、読めない表情だった。普段の海中と違った、どこか、冷めたような。客観しているような、諦観しているような、どこかでよく見たことのある顔だ。どこで、見たんだっけ。
それを思い出すよりも海中はスマホを差し出してくる。どこかの、海岸だった。電車の中から撮った真っ白な雲と濃い目の水色の下の海の群青色と陶器のような利休白茶の砂が絵よりも美しい写真だった。
「それが僕の夢。この『潮祷(うしおとう)』っていう駅から降りたところなんだけど、ここが良いと思うんだよ」
「……そう、なんだ」
「うん。小さいとき行って以来だけれど、やっぱり綺麗だよね。あのときは楽しかったなあ。駅前も栄えてて、お土産屋さんもあってさ。青い屋根だったのをよく覚えてるなあ。これ、お父さんに買ってもらったんだ」
自分の近くに置いていたスクールカバンをくるりと回して私の方に白いキーホルダーを見せてくれた。
少し黄ばんで薄汚れた白いダンゴムシみたいな生き物が、ぶら下がっていた。数年前、よく朝のニュースでやっていた生き物とよく似ていた。
「ダイオウグソクムシ、だっけ」
「そうそう、当時は珍しかったんだよ。ほら、裏側もリアル。普通のイルカとかもあったけれど、他にもチョウチンアンコウとかシーラカンスとか深海魚もあってさ。籠生さんも機会があったら行ってみてよ。海の幸が食べられるところとかもあったからさ。観光にも良いと思うんだ」
いつもよりも、何倍も海中は饒舌で楽しそうにその○○というところを語り出す。本当にその海が好きなのだとよく分かる話し方だった。こんなに自分の話を生き生きとしてくれるのを遮るのは心苦しいし、いつも私の話を聞いてくれている彼。相槌を打つだけにするべきかもしれない。彼の話にも興味がある。だけど、どうしても私には聞き流せなかった。
『海で死にたい』なんて、生きることとは正反対のことを将来の夢だという彼のことを。私が思い描いていた夢とは違うものに混乱していたということもあったかもしれない。
「海中っていう名前だから、海が好きなの?海が好きだから、最後のときは海の中で死にたいの?」
「……」
オブラートに包む、なんてことを今まで学ぼうともしなかった弊害がここで生まれてしまったかもしれない。私の不遜な物言いにも穏やかに笑って話を続けてくれた彼が、ぴたりと静かになってしまった。笑顔は、張り付いたまま。そのまま口を開いた。だけど、それは私が質問した答えではなくて。
「きみは?何か夢を持ったこと、ないの?」
鋭い、そう、私からするとまさしく言葉の刃だった。まるで心臓を刃物で刺されたような感覚。目に見えない、内部を切り刻まれていたような、そんな気持ちだった。
「……私に、それを、聞くの?」
胸あたりをぎゅっと抑えて、絞り出すようにまた聞き返した。私の家のことを知っている彼に、そう聞かれたのが苦しかった。他人は知らないだろうけれど、彼は知っている。彼にしか言ったことないし、訴えようとも思いもしなかった。
美しい絵を描くように、と名前という名の役割を与えられた私が、それを演じることをしてきた私に、夢なんて見るなんて、できるわけがない。そんな綺麗なもの、私には持っていない、いや、もてない。
美絵(私)が持ったとして、汚いものに変貌してしまうことは、目に見えているから。いつの間にか下を向いていて歪む視界の中に自分の膝が見えた。すると、頭をぽんと撫でられた。
「ごめん、意地悪なことを聞いた。ほんとうに、ごめん」
「……うん」
頭には海中の手が置かれていて、そのぬくもりがじわじわと伝わった。目のふちに溜まった水滴が零れて少しクリアになった世界で、目の前の海中が心底申し訳なさそうな表情をしていた。
いつも通りの顔に見えて安心してしまった。わざと意地悪してきたのだというのに責めることも出来ず、頷くことしかできなかった。しばらく私の頭を撫でた後、がたりと立ち上がる。そしてダイオウグソクムシのキーホルダーがついたスクールバックを持って歩き出した。
「きょうは、もう帰るよ」
「……」
「……それ、気が向いたら読んでみてね。絵のインスピレーションの手伝いになれたら、うれしいな。
また、来るよ。次は夏休みの登校日になるのかな。バイバイ」
すん、と鼻を啜って立ち去ろうとした海中を私は座ったまま呼び止めた。
「うみなか」
「……なあに?」
振り返る海中の声が少し甘いように聞こえたのは気のせいかはたまた彼なりの罪悪感の証なのか。詰まりそうになる喉から声を吐くように出した。
「……ぜったい、来てよ。バイバイ」
「うん。もちろんだよ。またね」
私の言葉に簡単に頷いて微笑みかけて、彼は去って行ってしまった。ひとりぼっちになった美術室の中でしばらくじっと扉の方を見つめた。ぽろりぽろり、落ちる涙が鬱陶しい。拭っても拭っても落ちてくるのだ。海中から受け取った本をぎゅっと抱え込んで涙が止まるのを待った。
「……うん、大丈夫そうかな」
トイレの鏡の中の自分を見る。まだ少し白目部分が赤いけれど家に着くころにはもう大丈夫なはず。きいと女子トイレから出て自分の教室に向かうために廊下を歩く。
(けっきょく、どういう意味だったんだろ。海で死にたい、なんて)
海中の真意は理解できないままだったことがまた気になってしまった。突っ込まれたくなかったから、言われなくなかったことをわざと海中が言ったとは察していた。そうじゃなければ、あんなこと海中は言わないだろう。
自分の教室に辿り着く。海中に借りた本を教室の机の中に入れて、さくっと後にして、また熱気のこもった廊下を歩く。もうすぐ18時になるけれど、まだまだ日が高く上ったまま。眩い太陽光に目を細めながら上履きを踏みしめた。
「……あ、連絡先、聞けてないや」
私は部活のために学校に来ることもあるけれど、海中は帰宅部っぽいから来月の8月28日まで顔をあわせることはないだろう。今日こそ、連絡先を交換しようと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。
「はあ」
思わずため息を吐いた。何もかも、上手くいかない。連絡先は聞けていない、海中を知りたくて聞いたこともその領域に踏み込みすぎてしまったらしいし、暑いし、まぶしいし。美しい絵を描くという役割をこなすことも、上手くできない。靴を履き替えて、外に出て空を見上げた。もやもやした私を見下してくる太陽と青空に手で影を作ってじろりと睨み上げた。
地獄のような熱さを乗り越えてやっと辿り着いた冷房のかかった体感温度だけは快適な家の中で、ご飯の時間も終わってお父さんが帰ってきて、いつも通りにまたぼーっとテレビの中を眺めていた。
途中まで面白動物動画やら海外の少しおまぬけな映像やらが流れる番組だったけれど、ゲストのアーティストがCM後新曲披露するのでチャンネルはどうかこのままで!司会者のお願いと綺麗な女性がはにかみながらお辞儀をしたところで無情にもチャンネルが他の番組に切り替わる、リモコンを操作したのは言わずもがな父である。
海の絵を描くことで有名な女性の画家のインタビューをしていた。遅めの食事を終えたお父さんが私がもたれかかっている後ろのソファーに座った。
『海は素晴らしいですよ。外から見た穏やかな海、と思えば荒い波に揺らぐ怒りのような姿も、そのそこに眠る深海たち。沈没船に住まう魚たちにフジツボ。綺麗なだけじゃない、少しグロテスクな浪漫で溢れていて、私の描きたいものばかりで、筆がどんどん動いていくんです。描いても描いても足りないですね』
私と同じように絵を描いているひと。初老ぐらいだろうか。でも細身でスタイルがいい。その年齢より若々しく見えるのは、好きなことをしている楽しさと目の輝きが夢を追う者のそれだった。
楽しんだ分だけ皺が刻まれていったのかな。でもなんとなく、私は彼女の言う海が素晴らしいというのは分かる気がした。あまり見たことがないから、実際の海がどんなものなのかわからないけれど。でも、海の中で死にたいと海中がいうぐらいだから、きっと素敵なものだと思う。
「海より空のほうが良いと思うんだがなあ」
思考の海に入っていきそうだった私を止めたのは男の声。ソファに座る父の声であることを理解するのに少し時間はかかったけれど、長年培ってきた父の好みの返答をするのには理解するより先に口にしていた。
「お父さんは空の方が好き?」
「そうだな。一番身近にいて包み込んでくれて、かつ色んな表情が見れるのは空だけじゃないか?色々楽しめるじゃないか」
(そんなのありきたりで普通じゃないの。普段見れない神秘に近づいてみる、もしくは想像して創造するのも、芸術家じゃないの?)
「そうだね」
本音を遠ざけるのも慣れきっているはずなのに、なんだか、口が重く感じたのは気のせいだと思う。
皮膚と肉がこんなに重くなるなんて、ありえないもの。
「はい!」
父とその間に元気よく入り込んできたのは、ソファの後ろから手を挙げる姉である。
「私は青空が一番好き!身体動かすのに一番いいよね!」
「そうか、いいよな。遠足の日とか運動会とか、楽しみなときに快晴だと嬉しくなるよな」
聞いてもいないのにお姉ちゃんがそう言う。面倒なことを、と思ったけれど父は自分の話題を広げられるのも好きなので嬉しそうだ。話を聞いていた母と兄も話題に入ってきた。
「そうねえ、洗濯物も乾くし天気がいい日は嬉しいわね。でも雨もまたいいわよね、雨音を聴きながらお部屋の中でコーヒーを飲むの。好きなのよね」
「僕も雨音を聴きながら勉強が捗る気がするね。帰り道の夕日とかも、好きだよ」
「はは、やっぱり空の移り変わりは素敵だな」
皆の反応に父はご満悦といった感じ。自分が話の中心になるのは、楽しいよね。それは最近やっと分かったのよ。父は歯を見せてにこにこしながら私を見た。この感じは、きっと絵のリクエスト。
「なあ、美絵。そういえば夕日の絵を描いたことなかったよな?まだ作品に取り掛かっていないのなら、どうだろうか?少し難しいかもしれないが見てみたいんだ」
今回はテレビを見て家族の会話の流れから、父が見たい絵を言われるパターンだった。ここ数年は私がいくつか描いて見せて意見を聞くという名目で選択をお願いしてきたから、久しぶりだ。自分から案が出なかったからちょうどいい。また空が出てくるのかと思わないでもないけれど、本音は隠して台本を作り上げて読み上げようとした。これなら少し微笑んで頷いてこう言うの。
(お父さんがそう言うなら頑張ってみようかな)
「正直もう空は描き飽きたわ」
(…………あれ?)
頭の中で思い描いていた台詞と、実際に出ていた言葉は、異なっていた。一瞬自分が何を言ったのか分からなかった。それは家族も同じで、一番ショックを受けたように目を見開いて私を凝視していた。時間がたつにつれて自分が何を口走ったのか理解してきてしまった。私がしっかりと声に出していたのは、私の本当の気持ちだった。
「……空の絵はそんなに、描いたかい?まるで、私がいうから嫌々描いてきたような口振りじゃないか。美絵」
絞り出すような父の声。あまり怒っていないように聞こえるけれどそうじゃない。この諭すような声は怒っている証だ。震えそうになる腕を抱きしめるように抑えて頭を下げた。
「ごめんなさい。最近、スランプみたいなの。イライラしちゃってた」
「そうか。美絵、人に八つ当たりしてはいけないな。今日は屋根裏部屋で寝なさい」
「……うん」
苦し紛れの言い訳は父の許しを得るにまでは及ばなかった。命じられるがまま立ち上がり、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出してリビングを出る。ちらりと振り返ると父と母は既に関心はテレビの中で、兄と姉は光のない暗い目で私を粘着質に笑ってこちらを見ていて、虚しい気持ちになりつつ階段を上る。
自分の部屋を通り過ぎて兄と姉の部屋の目の前を通り、1番奥の夫婦の部屋の少し手前で止まり上を見る。金属が長方形に型どっている部分。
2階の廊下の行き止まりに長い棒が置いてあるので手に取り、腕を伸ばして先端の鉤爪のようになっているところで引っ掛かりにかけて、引っ張ると出てくるのは収納式梯子。棒を置いて梯子を登ってそのまま自分で締めると灯りも窓もない屋根裏部屋は真っ暗になった。
分かるのは手に持ったペットボトルだけ。熱気の籠もった暗闇の中で朝まで待たないといけない。少しでも涼みたくて床に寝転ぶ。だけど、生温かくて冷たくはなかった。
むしろ掃除されていないせいで溜まった埃が汗で付着して不愉快度指数は爆上がりしている。暑くて臭くて、皮膚には纏わり付く感覚。汗だらけのペットボトルも少しすれば温くなるだろう。その前に、と起き上がり一口飲んで首筋に押し当てる。このまま朝まで父が階段を開けてくれるのを待つしかない。息をついても体内の熱は少しも冷めない。
(言うつもりなかったのに)
何度も後悔する。あそこで本音を言うなんて愚の骨頂だ。分かっているのに……。本当に、わたし、どうしちゃったんだろ。どうしてだろう。どうしてあんなこと言えちゃったんだろ。自分自身のことなのに何も分からない。
目を閉じても閉じなくても闇しか見えないつまらない視界で出来ることは己のしたことへの後悔を募らせることぐらいしかできない。……そう思っていた。
確かに暫くは後悔していたけれど、私の暑くて茹だりそうな頭の中に脳裏で描いたのは父や家族の顔じゃなかった。先程見た、青い海の絵。そして、海中のこと。海中は、あの絵のこと知ってるかな。きれいだったよ、と言いたい。
ああ、でもどうかな。絵より実物が良いと言われちゃうのかな。どんなリアリティを追求した絵でも実物どころか写真にも敵わないかな。
(海中と、話したいな)
ごくり、また水を飲む。少しでもこの気持ちを飲み込めないかな、なんて思ったけれど無駄だったみたい。
海中。あなたに会いたい。ひと月以上会えないのも、話せないのも、苦しいな。海中の顔を思い描きながら、目を閉じた。少しでも意識が飛ばせれば、と思って。叶うことなら目を覚ましたらそのまま朝になっていないかな。
(海中が、うちにいたりしないかな。……なんて、それは確実に叶わないわね)
沸騰した頭でそんなあり得るわけないことを思いながらも、そんな都合のいいことが起こったらいいのにと意識を飛ばそうと集中した。
知らない自分に出会えた私は、相変わらず、また描きたくない絵に向かう。父の思うままに。
「あー髪切りたいなー」
「え、長いのに勿体ないなあ。テストはどうだった?」
「鬱陶しいしこれぐらい伸びてると寝ているとき首が締まるのよね。テストは赤点は免れているぐらい。海中はそのもっさりを切らないの?テストはどうだったの?」
「へえ、髪長い人はそんな苦労があるんだね。僕はまだいいかな。僕もテストはまあ平均点ぐらいかな?」
「私も別に好きでこれだけ髪を伸ばしてるわけでも、おさげにしている訳でもないわよ」
「そうなの?似合ってるけどなあ。でもショートヘアも似合いそうだね」
「ショートヘア!良いわね、素敵よね」
おさげの一束をつまんだ。いつもいつも髪を切りたいと夏の度に思いながらも、結局切っても毛先だけに留めてしまうけれど、同じクラスのバスケ部の女の子のしているようなベリーショートとか、テレビで見る前髪が少し長めのショートヘアの女優とかにとても憧れている。体育に強い姉でさえ、女性は髪が長いほうが可愛いという父のために伸ばしっぱなしで今はポニーテールとかおだんごにしたりしている。
単純にお姉ちゃん自身の好みかもしれないけれど、それは姉の気持ちは知らないし聞こうとも思わなかった。
「テストの返却が終わって早々また何か描くんだね」
「そろそろ何を描くか悩んでいないとお父さんに催促されるからね。秋にはコンクールもあるしね。ま、適当にモチーフを選んでお父さんに相談という名目で選択させるだけだけど」
父にはいつも通りテスト期間が始まる前に絵が完成したことを伝えた。そしてテスト期間もその返却も終わった今そろそろ何を描き始めるかを考えないとならない。せっかく久しぶりに海中と会って話せているのに私はつまらないものにまた時間を費やさねばいけなくなってしまった。ああ、嫌だなあ。しかも、今回はいつもとはちょっと事情が違う。
「次は何の絵を描くの?」
「うーん……」
「あれ?悩んでる?」
(うるさいわよ)
心の中で悪態を吐いて、表面上は海中の質問に唸る。父の好みは何となく分かっているけれど、そろそろバリエーションが尽きそう。空とそれに関する何かを父は大層お気に召しているので、その辺を描きたいところだけれど。大空はまあよく描いてる。
大空を飛ぶ鳥の絵とか、快晴の下木々に囲まれている架空の女の絵とか、月明りの下で踊る動物とか、雨の中の紫陽花とカタツムリとか生き生きとした青空の下で葉っぱの上で踊る赤と黄色のてんとう虫とか。
果物だけの絵よりはどこかに空の要素を入れておけば大体何とかなる。普通は皆が綺麗だと思うものばかり描いている。この間海中にも同じような絵でつまんないと言われたような、そんな綺麗な写真のような絵を。……その言葉を初めて聞いたときは愉快でしかなかったのに、無自覚に引っかかりを覚えていたのかな。
いつもならこんな感じなら父も気に入るだろうと適当に妥協して、この天気でこんなものを描いたらどうかと言われたら、お父さんの選んでくれたものに喜んで賛同してそれを描き始めるのがいつものルーティンのはずなのに、どうしたって気に入らない。
私の絵が、父のための美しい絵が、前よりもずっともっとどこか色味がないように感じてしまった。父が気に入るものが上手く描けない。いつもなら有り得ないことだ。これ以上スケッチブックに向き合ったところで得るものは何もない。今までそんなこと無かったけれど、絵を描き続けているからこそ今はどれだけ考えても描くことはできないと何となく理解してしまった。
今の今まで順調に美しい絵を描いてきたけれど、今までと違う自分の感覚。それが何なのか分からないけれど、とにかく今はせっかく開いたスケッチブックを閉じた。
「はあ……」
「あれ、もういいの?」
「んー今日はもういいかな。これがスランプというものなのかしらね?」
「きみにもそんなときがあるんだね」
「私も初めてよ」
気分転換に美術の教科書のなかの絵を流し見しようとして、海中がずっと手に何か持っていたことに気が付いた。本屋の名前が書かれたブックカバーがついた冊子のようだった。最初は小説かと思ったけれどそうじゃないみたい。
「ところで海中はなにを呼んでいるの?漫画?」
「ん?ああ、エッセイ漫画だよ。青野ハジメっていう作者が漫画家を志して両親の反対を押し切って家出当然で家を出て……て始まるんだ。高校卒業して即家を出て、バイトで食いつなぎながら漫画を描き続けて結果が出なくて凹んだときに不思議なを見て、バイト先の年上の後輩と切磋琢磨して、なんだかんだ両親と和解して、ずっとまた描き続けて……そしてデビューまでこじつけたって話だね」
「へえ……とんでもない行動力の持ち主ね。そんなに心が揺れ動いて、身体まで動かせるぐらいなりたいことなのね」
青野ハジメという夢のために今までの生活を捨てた人がいると聞いて、思い浮かんだのはこの間テレビで見たもう名前も顔もうろ覚えのアーティストを夢見た青年のこと。けれどその生き生きと輝いている瞳だけはちゃんと覚えてる。みんなあんな目をして生きているのかな。
(いいなあ、楽しそう)
私は、きっと彼らに比べて死んだように生きているんだと思う。羨ましいと思うと同時に、自分にはそんな生き方は無理だ。
(だって、自分のやりたいことなんて。美絵(私)にはわからない)
そんなことを改めて実感していると、ずいっと目の前に本が差し出された。
「そんなに気になるなら読んでみる?貸してあげるよ。僕何回も読んでるから内容はもうわかってるし」
漫画本にばかり視線を向けていたせいで海中に勘違いされてしまったようだ。
「ううん、大丈夫」
うざったいおさげを揺らして両手をあげて貸し出してそうとしてくれるのを拒絶したけれど、海中は本を差し出すのをやめてくれなかった。
紙で出来た脆いブックカバーは皺がよって少し破れていたことから、海中のこのエッセイ漫画への想いが伝わってきた。だからこそ、余計に受け取りにくいことを察してほしい。不満が顔に出ていたのか、海中は私の顔を見てレンズ越しの目を細めた。
「籠生さんに読んでほしいと思うんだよ」
「でも、もう夏休みだし……それに……」
言い淀んだ言葉の先を察した海中はああ、と納得したようにぼやく。
「家族に何か言われるかもと思うなら、学校の机の中とかに入れておけばいいよ。返すのはいつでもいいからさ」
「……」
「ね?」
首を傾げながらカーブをえがく口角はどこまでも優しげだったけれど、受け取るまで退くつもりなどないという意思が伝わってきた。一つため息を吐く。海中って見た目によらず結構頑固だったのね、と新たな彼の一面を見て少しだけ気分はよかった。
「わかった」
私は渋々、卒業証書を受け取るようにして両の手に受け取った。ブックカバーを破かないように外すと淡い水色からスカイブルーそして藍色へ。藍色からまたさらに少しずつ暗くなって群青、そして最後には濃紺の色へと変わっていく、まるで空から海の底へと沈んでいくようなグラデーションが一色の表紙。そしてタイトルが書かれている。
『ゆめみる少年』
スカイブルーと藍色の間に白色でゴシック体で大きく、少しゆめの文字が歪ませ穏やかな丸みのある文字体であるにも関わらず不安感を少し煽ってきた。すぐ下には作者の名前が書かれている。ぱらり、とページを捲ると真ん中に大きく堂々と。
『夢があるんだ。他人にとっては鼻で笑われてしまうようなーーー』
そんな一文で丸々1ページを使って書かれていた。その次のページには目次。そして、メガネをつけたデフォルメの黒髪の温和そうな男の人が挨拶をする漫画が始まった。この男性、実物はどうか知らないけれどこの絵は海中に似ているなと思いつつ、本編がもう始まるところでパタンと本を閉じた。今は海中と話す時間の方が大事だと感じた。
夢。夢、かあ。私には持ったことのないそれは、海中にはあるのかな。この漫画の作者みたいな、この間見たテレビで見たアーティストみたいな、楽しそうなものが。
「海中には、夢はあるの?」
「あるよ」
「そうなの?どんな夢?」
即答されてやっぱりうらやましいな、選択肢があっていいな、と感じながらその夢の内容を問いかけた。少しわくわくしていた。彼にはどんな夢があるんだろう。私が知っているものなのだろうか。期待の眼差しを一身に受けながら、その口が動いた。海中の薄い唇が蠢いていたのが、妙に生々しくゆっくりに見えた。
「海で死にたい」
そんな声が鼓膜を動かしても、一瞬言ったことが理解できなくて目を見開いて、海中を見つめた。厚いレンズの眼鏡の中の瞳はあまり動きがなく、読めない表情だった。普段の海中と違った、どこか、冷めたような。客観しているような、諦観しているような、どこかでよく見たことのある顔だ。どこで、見たんだっけ。
それを思い出すよりも海中はスマホを差し出してくる。どこかの、海岸だった。電車の中から撮った真っ白な雲と濃い目の水色の下の海の群青色と陶器のような利休白茶の砂が絵よりも美しい写真だった。
「それが僕の夢。この『潮祷(うしおとう)』っていう駅から降りたところなんだけど、ここが良いと思うんだよ」
「……そう、なんだ」
「うん。小さいとき行って以来だけれど、やっぱり綺麗だよね。あのときは楽しかったなあ。駅前も栄えてて、お土産屋さんもあってさ。青い屋根だったのをよく覚えてるなあ。これ、お父さんに買ってもらったんだ」
自分の近くに置いていたスクールカバンをくるりと回して私の方に白いキーホルダーを見せてくれた。
少し黄ばんで薄汚れた白いダンゴムシみたいな生き物が、ぶら下がっていた。数年前、よく朝のニュースでやっていた生き物とよく似ていた。
「ダイオウグソクムシ、だっけ」
「そうそう、当時は珍しかったんだよ。ほら、裏側もリアル。普通のイルカとかもあったけれど、他にもチョウチンアンコウとかシーラカンスとか深海魚もあってさ。籠生さんも機会があったら行ってみてよ。海の幸が食べられるところとかもあったからさ。観光にも良いと思うんだ」
いつもよりも、何倍も海中は饒舌で楽しそうにその○○というところを語り出す。本当にその海が好きなのだとよく分かる話し方だった。こんなに自分の話を生き生きとしてくれるのを遮るのは心苦しいし、いつも私の話を聞いてくれている彼。相槌を打つだけにするべきかもしれない。彼の話にも興味がある。だけど、どうしても私には聞き流せなかった。
『海で死にたい』なんて、生きることとは正反対のことを将来の夢だという彼のことを。私が思い描いていた夢とは違うものに混乱していたということもあったかもしれない。
「海中っていう名前だから、海が好きなの?海が好きだから、最後のときは海の中で死にたいの?」
「……」
オブラートに包む、なんてことを今まで学ぼうともしなかった弊害がここで生まれてしまったかもしれない。私の不遜な物言いにも穏やかに笑って話を続けてくれた彼が、ぴたりと静かになってしまった。笑顔は、張り付いたまま。そのまま口を開いた。だけど、それは私が質問した答えではなくて。
「きみは?何か夢を持ったこと、ないの?」
鋭い、そう、私からするとまさしく言葉の刃だった。まるで心臓を刃物で刺されたような感覚。目に見えない、内部を切り刻まれていたような、そんな気持ちだった。
「……私に、それを、聞くの?」
胸あたりをぎゅっと抑えて、絞り出すようにまた聞き返した。私の家のことを知っている彼に、そう聞かれたのが苦しかった。他人は知らないだろうけれど、彼は知っている。彼にしか言ったことないし、訴えようとも思いもしなかった。
美しい絵を描くように、と名前という名の役割を与えられた私が、それを演じることをしてきた私に、夢なんて見るなんて、できるわけがない。そんな綺麗なもの、私には持っていない、いや、もてない。
美絵(私)が持ったとして、汚いものに変貌してしまうことは、目に見えているから。いつの間にか下を向いていて歪む視界の中に自分の膝が見えた。すると、頭をぽんと撫でられた。
「ごめん、意地悪なことを聞いた。ほんとうに、ごめん」
「……うん」
頭には海中の手が置かれていて、そのぬくもりがじわじわと伝わった。目のふちに溜まった水滴が零れて少しクリアになった世界で、目の前の海中が心底申し訳なさそうな表情をしていた。
いつも通りの顔に見えて安心してしまった。わざと意地悪してきたのだというのに責めることも出来ず、頷くことしかできなかった。しばらく私の頭を撫でた後、がたりと立ち上がる。そしてダイオウグソクムシのキーホルダーがついたスクールバックを持って歩き出した。
「きょうは、もう帰るよ」
「……」
「……それ、気が向いたら読んでみてね。絵のインスピレーションの手伝いになれたら、うれしいな。
また、来るよ。次は夏休みの登校日になるのかな。バイバイ」
すん、と鼻を啜って立ち去ろうとした海中を私は座ったまま呼び止めた。
「うみなか」
「……なあに?」
振り返る海中の声が少し甘いように聞こえたのは気のせいかはたまた彼なりの罪悪感の証なのか。詰まりそうになる喉から声を吐くように出した。
「……ぜったい、来てよ。バイバイ」
「うん。もちろんだよ。またね」
私の言葉に簡単に頷いて微笑みかけて、彼は去って行ってしまった。ひとりぼっちになった美術室の中でしばらくじっと扉の方を見つめた。ぽろりぽろり、落ちる涙が鬱陶しい。拭っても拭っても落ちてくるのだ。海中から受け取った本をぎゅっと抱え込んで涙が止まるのを待った。
「……うん、大丈夫そうかな」
トイレの鏡の中の自分を見る。まだ少し白目部分が赤いけれど家に着くころにはもう大丈夫なはず。きいと女子トイレから出て自分の教室に向かうために廊下を歩く。
(けっきょく、どういう意味だったんだろ。海で死にたい、なんて)
海中の真意は理解できないままだったことがまた気になってしまった。突っ込まれたくなかったから、言われなくなかったことをわざと海中が言ったとは察していた。そうじゃなければ、あんなこと海中は言わないだろう。
自分の教室に辿り着く。海中に借りた本を教室の机の中に入れて、さくっと後にして、また熱気のこもった廊下を歩く。もうすぐ18時になるけれど、まだまだ日が高く上ったまま。眩い太陽光に目を細めながら上履きを踏みしめた。
「……あ、連絡先、聞けてないや」
私は部活のために学校に来ることもあるけれど、海中は帰宅部っぽいから来月の8月28日まで顔をあわせることはないだろう。今日こそ、連絡先を交換しようと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。
「はあ」
思わずため息を吐いた。何もかも、上手くいかない。連絡先は聞けていない、海中を知りたくて聞いたこともその領域に踏み込みすぎてしまったらしいし、暑いし、まぶしいし。美しい絵を描くという役割をこなすことも、上手くできない。靴を履き替えて、外に出て空を見上げた。もやもやした私を見下してくる太陽と青空に手で影を作ってじろりと睨み上げた。
地獄のような熱さを乗り越えてやっと辿り着いた冷房のかかった体感温度だけは快適な家の中で、ご飯の時間も終わってお父さんが帰ってきて、いつも通りにまたぼーっとテレビの中を眺めていた。
途中まで面白動物動画やら海外の少しおまぬけな映像やらが流れる番組だったけれど、ゲストのアーティストがCM後新曲披露するのでチャンネルはどうかこのままで!司会者のお願いと綺麗な女性がはにかみながらお辞儀をしたところで無情にもチャンネルが他の番組に切り替わる、リモコンを操作したのは言わずもがな父である。
海の絵を描くことで有名な女性の画家のインタビューをしていた。遅めの食事を終えたお父さんが私がもたれかかっている後ろのソファーに座った。
『海は素晴らしいですよ。外から見た穏やかな海、と思えば荒い波に揺らぐ怒りのような姿も、そのそこに眠る深海たち。沈没船に住まう魚たちにフジツボ。綺麗なだけじゃない、少しグロテスクな浪漫で溢れていて、私の描きたいものばかりで、筆がどんどん動いていくんです。描いても描いても足りないですね』
私と同じように絵を描いているひと。初老ぐらいだろうか。でも細身でスタイルがいい。その年齢より若々しく見えるのは、好きなことをしている楽しさと目の輝きが夢を追う者のそれだった。
楽しんだ分だけ皺が刻まれていったのかな。でもなんとなく、私は彼女の言う海が素晴らしいというのは分かる気がした。あまり見たことがないから、実際の海がどんなものなのかわからないけれど。でも、海の中で死にたいと海中がいうぐらいだから、きっと素敵なものだと思う。
「海より空のほうが良いと思うんだがなあ」
思考の海に入っていきそうだった私を止めたのは男の声。ソファに座る父の声であることを理解するのに少し時間はかかったけれど、長年培ってきた父の好みの返答をするのには理解するより先に口にしていた。
「お父さんは空の方が好き?」
「そうだな。一番身近にいて包み込んでくれて、かつ色んな表情が見れるのは空だけじゃないか?色々楽しめるじゃないか」
(そんなのありきたりで普通じゃないの。普段見れない神秘に近づいてみる、もしくは想像して創造するのも、芸術家じゃないの?)
「そうだね」
本音を遠ざけるのも慣れきっているはずなのに、なんだか、口が重く感じたのは気のせいだと思う。
皮膚と肉がこんなに重くなるなんて、ありえないもの。
「はい!」
父とその間に元気よく入り込んできたのは、ソファの後ろから手を挙げる姉である。
「私は青空が一番好き!身体動かすのに一番いいよね!」
「そうか、いいよな。遠足の日とか運動会とか、楽しみなときに快晴だと嬉しくなるよな」
聞いてもいないのにお姉ちゃんがそう言う。面倒なことを、と思ったけれど父は自分の話題を広げられるのも好きなので嬉しそうだ。話を聞いていた母と兄も話題に入ってきた。
「そうねえ、洗濯物も乾くし天気がいい日は嬉しいわね。でも雨もまたいいわよね、雨音を聴きながらお部屋の中でコーヒーを飲むの。好きなのよね」
「僕も雨音を聴きながら勉強が捗る気がするね。帰り道の夕日とかも、好きだよ」
「はは、やっぱり空の移り変わりは素敵だな」
皆の反応に父はご満悦といった感じ。自分が話の中心になるのは、楽しいよね。それは最近やっと分かったのよ。父は歯を見せてにこにこしながら私を見た。この感じは、きっと絵のリクエスト。
「なあ、美絵。そういえば夕日の絵を描いたことなかったよな?まだ作品に取り掛かっていないのなら、どうだろうか?少し難しいかもしれないが見てみたいんだ」
今回はテレビを見て家族の会話の流れから、父が見たい絵を言われるパターンだった。ここ数年は私がいくつか描いて見せて意見を聞くという名目で選択をお願いしてきたから、久しぶりだ。自分から案が出なかったからちょうどいい。また空が出てくるのかと思わないでもないけれど、本音は隠して台本を作り上げて読み上げようとした。これなら少し微笑んで頷いてこう言うの。
(お父さんがそう言うなら頑張ってみようかな)
「正直もう空は描き飽きたわ」
(…………あれ?)
頭の中で思い描いていた台詞と、実際に出ていた言葉は、異なっていた。一瞬自分が何を言ったのか分からなかった。それは家族も同じで、一番ショックを受けたように目を見開いて私を凝視していた。時間がたつにつれて自分が何を口走ったのか理解してきてしまった。私がしっかりと声に出していたのは、私の本当の気持ちだった。
「……空の絵はそんなに、描いたかい?まるで、私がいうから嫌々描いてきたような口振りじゃないか。美絵」
絞り出すような父の声。あまり怒っていないように聞こえるけれどそうじゃない。この諭すような声は怒っている証だ。震えそうになる腕を抱きしめるように抑えて頭を下げた。
「ごめんなさい。最近、スランプみたいなの。イライラしちゃってた」
「そうか。美絵、人に八つ当たりしてはいけないな。今日は屋根裏部屋で寝なさい」
「……うん」
苦し紛れの言い訳は父の許しを得るにまでは及ばなかった。命じられるがまま立ち上がり、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出してリビングを出る。ちらりと振り返ると父と母は既に関心はテレビの中で、兄と姉は光のない暗い目で私を粘着質に笑ってこちらを見ていて、虚しい気持ちになりつつ階段を上る。
自分の部屋を通り過ぎて兄と姉の部屋の目の前を通り、1番奥の夫婦の部屋の少し手前で止まり上を見る。金属が長方形に型どっている部分。
2階の廊下の行き止まりに長い棒が置いてあるので手に取り、腕を伸ばして先端の鉤爪のようになっているところで引っ掛かりにかけて、引っ張ると出てくるのは収納式梯子。棒を置いて梯子を登ってそのまま自分で締めると灯りも窓もない屋根裏部屋は真っ暗になった。
分かるのは手に持ったペットボトルだけ。熱気の籠もった暗闇の中で朝まで待たないといけない。少しでも涼みたくて床に寝転ぶ。だけど、生温かくて冷たくはなかった。
むしろ掃除されていないせいで溜まった埃が汗で付着して不愉快度指数は爆上がりしている。暑くて臭くて、皮膚には纏わり付く感覚。汗だらけのペットボトルも少しすれば温くなるだろう。その前に、と起き上がり一口飲んで首筋に押し当てる。このまま朝まで父が階段を開けてくれるのを待つしかない。息をついても体内の熱は少しも冷めない。
(言うつもりなかったのに)
何度も後悔する。あそこで本音を言うなんて愚の骨頂だ。分かっているのに……。本当に、わたし、どうしちゃったんだろ。どうしてだろう。どうしてあんなこと言えちゃったんだろ。自分自身のことなのに何も分からない。
目を閉じても閉じなくても闇しか見えないつまらない視界で出来ることは己のしたことへの後悔を募らせることぐらいしかできない。……そう思っていた。
確かに暫くは後悔していたけれど、私の暑くて茹だりそうな頭の中に脳裏で描いたのは父や家族の顔じゃなかった。先程見た、青い海の絵。そして、海中のこと。海中は、あの絵のこと知ってるかな。きれいだったよ、と言いたい。
ああ、でもどうかな。絵より実物が良いと言われちゃうのかな。どんなリアリティを追求した絵でも実物どころか写真にも敵わないかな。
(海中と、話したいな)
ごくり、また水を飲む。少しでもこの気持ちを飲み込めないかな、なんて思ったけれど無駄だったみたい。
海中。あなたに会いたい。ひと月以上会えないのも、話せないのも、苦しいな。海中の顔を思い描きながら、目を閉じた。少しでも意識が飛ばせれば、と思って。叶うことなら目を覚ましたらそのまま朝になっていないかな。
(海中が、うちにいたりしないかな。……なんて、それは確実に叶わないわね)
沸騰した頭でそんなあり得るわけないことを思いながらも、そんな都合のいいことが起こったらいいのにと意識を飛ばそうと集中した。