うみをえがく。
『名前』それはその人を現しているとものとされる。
『名前』それは親が最初に与えるプレゼント。
『名前』それは親がこんな人間になって欲しいと願ってつけるもの。
『名前』それは親から与えられた『呪い』だと私は考えている。
放課後、まだ7月に入ったばかりなのに既に気温は30℃を越えている。そんな中でも外からは相変わらず部活動に励む声が聞こえてくるから凄い。そんな私は冷房の入った美術室の中にいた。今日はキャンバスに向き合わず、机に広げられたルーズリーフに文字を書き込んでいた。それをウミナカは覗いている。
「兄の名前は勉、姉の名前は育恵、私の名前は美絵。漢字にすると……こうね」
「……」
「で、命名は父の与識で母は愛受。さあ、ウミナカはみんなの名前をどう思う?」
「名前に意味しか無いね」
「ほんそれ」
わっかりやすい名前よね。勉学に勉めなさいの『勉』の兄、体育に恵まれるようになれの『育恵』の姉、美しい絵を描けという『美絵』の末の私。そして与えようとしてくる識の『与識』の父に愛を受け入れる『愛受』の母。
「どちらの祖父母もどういった意図で父と母にそんな名前をつけたのやら」
「さあ……やっぱり、お兄さんは勉強が得意で、お姉さんは体育に強いの?」
「そうそう。お父さんの言う通りに、忠実に、役割をこなしているわよ」
ウミナカと出会って以降、彼は放課後になると美術室にやってくるようになった。そしてこうして家の話を彼にする。今まで誰にも話したことがなかったことを何故話し出すようになったのか。なんとなくとしか言えない。きっとウミナカが真剣に聞いてくれるから、かな?
「……世間一般では良い父親だと思うよ」
「そうねえ。よく言えば教育熱心なのかなあ。まあ、確かにやさしいけどね。でも、思う通りじゃないと口頭での説明を懇切丁寧に求められた挙げ句に、しっかりとお仕置きされる」
「お仕置き……」
「あ、多分ウミナカが思っているようなものじゃないよ。追い出されるとか、ごはん抜きとか、暴力とか。そういう大げさなものじゃないの」
「………そっか、そうなんだ。それじゃあどんなお仕置きされるの?」
「屋根裏部屋に閉じ込められるわ。朝には出してくれるけれどね、明日も学校もあるし。ご飯も普通に食べれる」
「それだけ?」
ウミナカはお父さんのお仕置きの内容に呆気にとられたようにしている。滑稽な表情に笑いそうになる。
そうよね、お仕置きと言われたらもっとニュースで報道するような大きなものをイメージするわよね。
それに比べて私のところは屋根裏部屋に閉じ込められるだけ。しかも朝には出してくれるのだから拍子抜けよね。ニュースで出てくる子どもたちに比べたら本当にちょっとしたお仕置き程度のイメージしかできないだろう。
それが、一晩で終わるなら、ね。
「うん、それだけ。スマホの持ち込みは禁止で冷暖房もなくて、電気もなくて、窓もないから昼間でも暗い、埃と毛布しかない屋根裏部屋で、お父さんが満足するまで毎晩閉じ込められる。それだけよ」
「……熱中症は、大丈夫なの」
「真夏なら最低限の水分は用意されているからギリギリ大丈夫なんだよね。昔はお姉ちゃん結構反抗してたけど、今はもうぜんぜんね」
兄は私の4つ上の大学2年生、姉は2つ上の高校3年生。私から見たお兄ちゃんはちょっと遠いけれど、お姉ちゃんはちょっと近い。お兄ちゃんはお父さんの言うことに何の疑問を持っていないようでからっぽのお母さんと似ているけど、お姉ちゃんは違った。
こうしてほしいああしてほしいがはっきりしてた。だけど、今はそれもしなくなっちゃった。
まあ、あんなこと何度もされていたら……反抗する気も失せるよね。お姉ちゃんは特に体育系で体力的な意味でも精神的な意味でも消耗するものが多いから、余計にね。
お母さんはお父さんのすることに何の疑問も抱いていないのか、特に否定することもないみたいで屋根裏部屋に閉じ込められる私達が引きずられていても、私達が必死に抵抗しても。いつもニコニコとしてるけど。
一晩閉じ込めるだけ、スマホなども持ち込めるなら、まあ気が紛れるから閉じ込められるのは大丈夫かもしれないけれど、時間の感覚も分からない中で、暑さや寒さと戦いながら朝を待つ。肉体的にも精神的にも消耗する。出来ることならそんな仕置きなんて受けたくない。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、もちろん私も。ちゃーんと屋根裏部屋のお仕置きを受けてるよ。だから、反抗する気も失せちゃったんだよね」
「そんな……兄妹みんなで訴えれば……」
「あ、確かに一番有効な手かもね。私は非力だから戦力外だけど、お兄ちゃんも身体は成長しきった大人の男だし、お姉ちゃんも女の子とはいえ体育会系だから力もあるしね」
盲点だったけれど、ウミナカからの案は一番現実的であり、効果的だと素直に思った。兄弟同士手を合わせて親に訴えかける。とても綺麗な解決法だ。漫画とかでありそう。……まあ、そんな解決法。
親へ何かを訴えを起こす気持ちが少しでもないと無理なんだけどね。少しでも皆で考えを出し合えるのなら、ね。
「そうだよ、それならきっと……」
「でも私、お兄ちゃんとお姉ちゃんから嫌われているからなあ」
「ええ!?なんでっ」
「えーと、唯一選択肢を与えられたから、だったからかな。ばつー」
ノートの中に書いた私の名前のところにバッテンマークをつけながら答えた。ウミナカは困ったような心配したような表情で私を見た。
「どういう意味?」
私の答えにウミナカが首を傾げて問われて思い返す。まだ幼い頃だったと思う。
「おにいちゃんとおねえちゃんは、おとうさんがいないところでは、どうして私のことをむしするの?」
お兄ちゃんとお姉ちゃんにそう聞いたのはいつ頃だったかな。私の舌がまだうまく回らなくて、お兄ちゃんとの身長差がもっとあった頃だったから小学校に上がるか上がらないぐらいかな?
お父さんがいるときといないときの私への反応の違いに不思議に感じて、それ以外に何の他意などない純粋な疑問を投げかけた。何度も声をかけても反応が来ることがないことが、幼心に寂しかったんだと思う。それにまず答えたのは兄だった。
「お前はね。やりたいことを選べたから」
「?」
「名前の候補が、2つあった。ぼくたちには無かったのに」
「どういうこと?」
「美絵か美音、絵を習うか音楽を習うか。赤ちゃんのお前は楽しそうに絵の方を選んだ」
「……わたし、おぼえてないよ?」
首を振ってそんな選択をしたことなんて覚えていないと言うとお兄ちゃんは私を見下ろして小馬鹿にしたような口調で笑いながら言った。
「赤ちゃんだったからね。でも、選択肢を与えられたのも、やりたいことを選べたのも、お前だけ。僕は勉強しかなかったのに。その名前しか与えられなかったのに」
「あたしは体を動かすことをやるように言われ続けてた。兄さんに聞いたわ。あたしも選択肢はなかったって」
今まで無言を貫いていたお姉ちゃんも参戦してきた。そして、こういった。
「だから、僕はお前が嫌いだよ」
「私はあんたが憎いわよ」
私を見下ろして憎悪を込めて見るふたり。その瞬間すーっと何か胸が冷めたのをよく覚えている。あのとき小さかったから気持ちをちゃんと言葉にはできなかったけれど、たぶんふたりに期待しても何も得るものはないという事実に、興味が一気に失せた。
「……じゃあ、わたしも。おにいちゃんもおねえちゃんも。どーでもいいや」
きっと、小さい子どもがするようなものではない目で二人を見上げていたと思う。二人ともすごく驚いたようにしていたから。
「末っ子なら何を言っても許されて、何をされても懐いてくれると思ったのかしらね?馬鹿よね。お姉ちゃんはともかく、お兄ちゃんなんて勉強はできるのにすごく馬鹿よ」
「……きみって、毒舌だよね。見た目によらず……誰かに指摘されたことない?」
「誰かとこうして話すこともないから。指摘されるとか以前の問題よ」
ウミナカに1日に何度も言われるそれにそろそろ耳にタコができそうね。煩わしいなと思いつつもこのやりとりが嫌いではない自分がいて不思議だわ。担任やクラスメイト、家族ですら会話自体億劫なのに。なぜかわからないけれど、ウミナカ相手だと口がツルツル滑り出すのだから仕方ない。
「そうそう。そう言ってからお父さんに与えられた役割通り絵を描くのを再開させたら、二人ともすごかったわよ。怒鳴るわ叩いてくるわで散々だったわ」
「ダメージ受けてないきみを見て苛ついたんじゃないのかな」
「喧嘩ふっかけておいて思い通りの反応にならないことに癇癪起こされても困るわよ。お母さんはニコニコしているだけで止めないし、お父さんが帰ってきても私のことガン無視だもん。……まあ、叩かれた頬が腫れたからお父さんにすぐに異変に気付かれて何があったか問われたから何から何までしょーーーじきに、ぜーーーんぶ、答えたわよ」
「わあ」
ウミナカから呆れたとも引いているとも取れる声に楽しくなる。そしてそのときのふたりのことも思い出す。あれだけ一番下の私に対して偉そうにふんぞり返っていたくせに、ふたりにされたことを話し出した途端顔色悪くなってめちゃくちゃふるえていたのよね。そしてお父さんに引きずられながらも泣き喚いていたっけ。
最初は楽しかったけれど、顔を真っ青にしながらキーキーいう姿はあんまり好きじゃなかったな。気持ちがいいものではなかったからかしらね。まあ、お兄ちゃんとお姉ちゃんの自業自得だけど。
「確かにね、私は一番縛りがゆるいと思うし割と融通が効くわね。今までの中でもお仕置きされたことなんて片指で数えられる程度かな?そこも私をよく思わないポイントなんだろうけど。でもそれはお兄ちゃんとお姉ちゃんの振る舞いを見て学んできたことだから。やってはいけないことの見本とか、こういう振る舞いが求められているとか。色々教えてもらったわ。反面教師ってやつ?お兄ちゃんもお姉ちゃんも私の真似してもっと楽に生活できるようにすればいいのになって思う。……ふふ、まあ嫌いで憎い私の真似なんて死んでもごめんなんでしょうけどね」
にやりと口角を上げる。我ながら邪悪な笑みを浮かべていることだろう。目の前のウミナカも引き攣っている。
「うーん……性格も悪い」
「うるさいわよ。そんなこと承知の上よ」
「でも、やられっ放しじゃないのはすごい。僕には真似できないや」
「それ褒めてるー?」
「褒めてるー」
「……とまあ、そんなこんなでさ。私はお兄ちゃんからもお姉ちゃんからも嫌われてる。まあ、私もそんな態度にムカついて煽るようなことを言っちゃってるから、どんどん険悪になってるの。ここまで来ると笑えるでしょ」
「うーん。そりゃあ、性格も歪むだろうなって納得もしてる」
「あら、こんな大人しい女子に対して酷いわね」
「見た目だけは、大人しい女子、だね」
「あはははは、違いないわ」
「貶されているのに笑ってられるところがまた歪みを感じる」
「なんだ、やっぱり誉めてないじゃないの」
「ばれたかー」
ゆるっとした空気感を醸し出しながらウミナカは笑う。私も彼の笑顔に釣られて笑う。ちらりとウミナカに気付かれないように完成した父の絵を見る。ウミナカと出会ったときに製作途中だったそれは既に完成されていた。ウミナカと話しながら絵具を乗せていたら意外と早く終わったことに驚いたのは記憶に新しい。だからこそこうやってウミナカと向き合って話すことができるわけだけれど。
私の絵は相変わらず写真のようで、やっぱり何の価値も見い出せなかった。そんなものよりも無邪気に眉を下げて分厚い眼鏡をかけたウミナカと話しているほうが、楽しいと思えた。机の上にも視線を傾ける。ルーズリーフには私が書いた籠生家の人間の名前がある。そしてふと思った。
(ウミナカの漢字、私も知らないや)
もう半月ぐらい放課後にこうして話す仲なのに名前は知っていても漢字は知らなかった。ずいっとウミナカに持っていたシャーペンを突き出す。ウミナカはきょとんとしていた。
「ね。ウミナカジュンっていう名前はどんな漢字を書くの?ここに書いてみてよ」
「あ、そういえば教えてなかったか。僕の名前はこうだよ」
私の真意を理解したウミナカは差し出されたシャーペンを手に持ってさらさらと書いた。温和な見た目によらず達筆で尖った字だった。はい、とルーズリーフを回してこちらに受け渡されたそれに目を映す。
『海中巡』
正直な感想、予想通りと意外の真ん中な感想だった。ウミナカの漢字は私の知識の中ではそのぐらいしか思い付かなかったし、それしかないだろうと感じていたから。予想外なのは名前のジュンの方。
「ふーん、海の中を巡るでウミナカジュンって読むのね。苗字はまあ予想通りだけど。名前の方は勝手に潤うって書く方かと思い込んでいたわ」
「あはは、よく言われるよ。けど僕はこっちのほうが気に入ってるよ。海の中が潤うより海の中を巡る方が良くない?」
「まあ、海の中は十分潤ってるしね。そう言われると海の中を巡るほうが良い感じがするわね」
「でしょ」
「海中はその名前の通り海が好きなの?」
「んー、まあ、確かに山よりは海派ではあるかなあ」
「ふーん。私はどっちも遠足ぐらいでしか行ったことないからなあ」
「僕だって学校以外だと一度だけしか行ったことないよ」
「そうなの?大体の家族とか友達同士が出かけるところだと思っていたんだけど」
「予定が合わなくてね」
その後もとりとめのない話は続いた。時計の短い針が4と5の間、長い針が6から少し通り過ぎた頃に今まで談笑していた海中が立ち上がる。
「そろそろ帰るよ」
「もう帰っちゃうの?先生もまだ来ないし、あと30分ぐらいさ……」
「あはは、ごめんね」
唯一楽しいと感じるこの時間を少しでも先伸ばさせようと試みるけれど、海中は穏やかに笑いながらもこれ以上ここにいることを拒む。未だに成功はゼロだ。出会った次の日からずっと引き止めようとしているのだけれど、上手くいった試しはない。
昨日までならこのまま唇を尖らせながら手を振る彼を見送っていた。でも、私も兄に足りないとよく言われる頭で考えた末の策があるのです。そのときは足りない私よりなんで足りているはずのお兄ちゃんのほうがお父さんからのお仕置きが多いんだろうね、と返した記憶もあります。
「それなら、私も帰る。ちょっと待ってて」
「えっ」
「これなら問題はないでしょ?」
そう。私も海中に合わせて帰るというもの。これなら海中も時間通りに帰れる。私も海中と一緒にギリギリまで話せる。いいこと尽くめの案。この案が思いついたときには我ながら素晴らしいことを閃いたものだと自分を誉め称えた。けれど、帰り支度をしようと動いた私を海中が止める。
「僕に合わせて帰っちゃったら、放課後ギリギリまで残ってがんばってますよアピールに穴ができちゃうよ」
「大丈夫よ。あなたと別れたらそこらへんの公園とかで時間をつぶすし」
「熱中症になっちゃうじゃないか。それに、お父さんに見られたら?いや、お父さんじゃなくても、お母さんやお兄さん、お姉さんに見られて、お父さんにうそを吐いていることがばれたら……流石の籠生さんも、立場悪くなっちゃわない?」
「……」
海中に言われたことを想像してみる。お母さんは、まあ、どこで買い物しているのかおおよそ想像できるし、そもそも買い物以外で家から出ることは皆無なので大丈夫だろうけれど、お兄ちゃんとお姉ちゃんの活動範囲を私は把握していない。それはあちらも同じことだろうけれど、いつも下校時間ギリギリまで熱心に絵を描いているという印象を与えている私がお父さんにうそをついて公園でぼんやりしていたら、そうチクるかもしれない。いや、あの二人のことだもの。絶対にチクるわ。
うっわあ、すぐ想像できた。ぜっっったいに二人ともここぞとばかりに容赦なく私を叩きのめしてくるだろう。
「……」
「また明日も来るから、ね?」
「……海中は私と帰るのは嫌なの?」
「えっ、そうじゃないよ、そんなはずないじゃないか」
「じゃあなんでよ。今日ぐらい一緒に帰ってくれてもいいじゃない」
せっかく生み出すことが出来た案は、さくっと海中が現実に引き戻してくれた。詰めの甘い私の案に待ったをかけてくれたことに感謝するべきなのかもしれないけれど、戸惑ってくれたままだったら今日だけでも一緒に帰れたかもしれないのにと不満な気持ちのほうが大きくて、つい駄々っ子みたいになってしまった。海中は首を振りながら穏やかな口調で答えてくれる。
「僕のせいできみが家でうまく立ち振る舞っているのをダメになったら、それこそいたたまれないし、お父さんから何か言われてこうして放課後に少しだけ話すことすらできなくなるかもしれないじゃないか」
「……たしかに」
海中のいう言葉に今度こそぐうの音も出なくなってしまった。私は父の思うがままに生きている。
今まで出来る限り父の意に沿って友達付き合いもせずに内向的で大人しくずっと絵を描いて絵を描いているときこそ一番の幸せだというふうに演じてきていたのだ。人生初の楽しみの時間を増やそうとしている私は、たぶん浮かれていたんだと思う。少し考えれば分かるようなこともわからなくなるぐらいには。
あんたって本当に動かないよね、すぐ足腰おばあちゃんになりそう、というのはお姉ちゃんの言葉。
ずっと動かずに絵だけを描いてきた私に対してお姉ちゃんは厭味ったらしく言われた。そのときは落ち着きなく忙しないお姉ちゃんこそマナー大丈夫そう?と質問したのは覚えているけれど、こんなことならお姉ちゃんの言う通り少しぐらい動いて外に意識を向けておくべきだった。それなら外に出ている理由をつけることが出来たのに。
肩を落とす私に、海中は困ったように笑いながら少し茶化したように声をかけてくれる。
「それにさ、男女が一緒にいると周りに付き合っていると勘違いされちゃうよ?嫌でしょ?僕と付き合ってる、なんて言われるの」
「……別に、それは構わないわ。海中といるの、一番楽しいから」
「……あのねっ!そんなこと言うと、勘違いされちゃうから!」
珍しく少し怒った表情で語気を強くしてそう言われてしまった。よく見ると頬も赤くなっている。そんなに怒らなくても、と思いながらも感じたことを伝える。
「だから、別にいいってば。他人に勘違いされるなんて……」
「っ、ぼくが、だよっ」
「え?」
意味がわからずに首を傾げる私に、海中はガシガシともっさりとした黒髪をかき回しながら、時計の秒針に掻き消されそうなぐらいの声でポツポツと呟く。
「僕なら、勘違いされてもいいとか……その、僕ならいいんだなーて、えっと、僕のこと、そんな嫌いじゃないっていうか、そういう恋愛感情?的な、ものあるんじゃないかなーとか、都合好く勘違いしそうになるんだよね……」
私からの視線から逃げようとしているのか眼鏡越しの瞳を彷徨わせている海中が気になって、その言葉をちゃんと脳が受け取るのに時間がかかってしまった。そんな足りない動かない私がやっと生み出せた言葉は。
「……え」
そんな、間の抜けたものだった。私の変な声に海中は赤らめていた顔を、さらに熱中症にでもなったのかと心配になるほどに真紅に染めた。
「ああああわかってる、籠生さんにそんな気がないのは!他人からの評判を気にしない姿勢、素晴らしいとおもうよ!じゃあ僕は今度こそ行くからねっ」
早口かつ大声で言い放ちながら振り向かずに美術室の扉に手をかけたところで、やっと私の脳は海中が帰ってしまうと反応することができて、慌てて何も考えずに大声を上げていた。
「あっ、した!!」
しまった変に裏返った、そう後悔するより先に海中が真紅色のままの不機嫌そうな表情で振り返ってくれた。
「なにっ」
わざとらしくぶっきらぼうに、でもこちらを振り返ってくれた海中に安心しながら言いたいことを伝える。
「明日も、来てね!ぜったいよ!!」
「わかってるよ、明日も来るよ!ばいばいっ」
「ば、いばい」
力強く頷き、勢いよく扉を開けつつ閉めるときは意外と静かに、パタパタと足音が遠ざかっていった。
(……来てくれるんだ)
慌てていたからかもしれないけれど、あんなに強くそして当然のように来るよと言ってくれた。暫く海中の言葉ににやにやと口角が上がりっぱなしだったけれど、ふと、私以外誰もいない美術室があまりに静かなことに気が付いた。周りを見渡す。
卒業生や在学生の絵やモチーフに使われる造花や作り物の果物やら石膏やら何やらで、理科室や家庭科室なんかよりもゴチャついていてずっと鮮やかなはずの美術室が色味が薄い気がした。ざらざらな机に目を向ける。
なんの変哲もないどこにでも売っているルーズリーフと、その辺のコンビニで買った適当なシャーペンが散らばっていた。私が書いた家族の名前たちは罫線の間に収まって小さかったけれど、彼の書いた彼の名前は罫線二つ分で書かれている。『海中巡』の文字の羅列をそっと消えないように擦れてしまわないように気を付けながら撫でた。名前のせいか、頭の中で海の中の映像が浮かんで仕方がない。
実際に見たわけじゃなく、テレビで見ただけで、そのときはただ目に映っているだけで何とも感じなかったけれど、今は無性に、海の中は美しいものではないかと思った。り、思わなかったり。
(なんか、うん、さっきの私の発言。まるで、あれよね)
少し冷静になって、やっと先ほどのことを思い起こす余裕が生まれた。海中といるのが一番楽しいから構わない、なんて。今時ドラマや漫画でもそんなセリフ、出てこないと思う。いや、そういう他人の作った話を真剣に見たこともないけれど。なんとなく。
「確かに、なんだか私が海中のこと……すき、ともとれる発言だったなあ……」
考えれば考えるほど、顔が熱くなってくる。画材やらなんやで汚れているのは知った上で美術室の机に頬を寄せる。海中の書いた海中巡の名前に確かに嬉しさを覚えるのは本当。一緒にいて楽しいと思えたのが海中が初めてなのも本当だし、一緒にいられるなら噂されようとどうだって構わないのも本当の本当。けれどそれが海中に向けた恋慕なのかどうかは分からない。そもそも友だちもいなくて、恋に現を抜かすのも馬鹿らしいと思っていた。私にあるのは気が休まらない家族と、面白くもない絵を描くことだけ。それぐらいしか私にはない。
「もし、本当に海中に好意があるのなら……一緒にいさせてくれるかな」
そんなこと、海中には言わないけれど。さすがの私でも理解していないことを自分の欲のために口を滑らすなんてことはしない。もやもやする気持ちのまま、足をパタパタ動かしながらスケッチブックにルーズリーフを挟んだ。私しか開かないガラクタばかり描かれているスケッチブックの中の唯一の宝物。
「……ふふ」
これで、退屈でしかない絵の時間はデッサンを開くたびにこの宝物を視界に映すことができる楽しみが生まれた。それだけで今は満足だ。下校時刻がやってくるまでご機嫌に資料を探すふりをするために図鑑を開いた。
『名前』それは親が最初に与えるプレゼント。
『名前』それは親がこんな人間になって欲しいと願ってつけるもの。
『名前』それは親から与えられた『呪い』だと私は考えている。
放課後、まだ7月に入ったばかりなのに既に気温は30℃を越えている。そんな中でも外からは相変わらず部活動に励む声が聞こえてくるから凄い。そんな私は冷房の入った美術室の中にいた。今日はキャンバスに向き合わず、机に広げられたルーズリーフに文字を書き込んでいた。それをウミナカは覗いている。
「兄の名前は勉、姉の名前は育恵、私の名前は美絵。漢字にすると……こうね」
「……」
「で、命名は父の与識で母は愛受。さあ、ウミナカはみんなの名前をどう思う?」
「名前に意味しか無いね」
「ほんそれ」
わっかりやすい名前よね。勉学に勉めなさいの『勉』の兄、体育に恵まれるようになれの『育恵』の姉、美しい絵を描けという『美絵』の末の私。そして与えようとしてくる識の『与識』の父に愛を受け入れる『愛受』の母。
「どちらの祖父母もどういった意図で父と母にそんな名前をつけたのやら」
「さあ……やっぱり、お兄さんは勉強が得意で、お姉さんは体育に強いの?」
「そうそう。お父さんの言う通りに、忠実に、役割をこなしているわよ」
ウミナカと出会って以降、彼は放課後になると美術室にやってくるようになった。そしてこうして家の話を彼にする。今まで誰にも話したことがなかったことを何故話し出すようになったのか。なんとなくとしか言えない。きっとウミナカが真剣に聞いてくれるから、かな?
「……世間一般では良い父親だと思うよ」
「そうねえ。よく言えば教育熱心なのかなあ。まあ、確かにやさしいけどね。でも、思う通りじゃないと口頭での説明を懇切丁寧に求められた挙げ句に、しっかりとお仕置きされる」
「お仕置き……」
「あ、多分ウミナカが思っているようなものじゃないよ。追い出されるとか、ごはん抜きとか、暴力とか。そういう大げさなものじゃないの」
「………そっか、そうなんだ。それじゃあどんなお仕置きされるの?」
「屋根裏部屋に閉じ込められるわ。朝には出してくれるけれどね、明日も学校もあるし。ご飯も普通に食べれる」
「それだけ?」
ウミナカはお父さんのお仕置きの内容に呆気にとられたようにしている。滑稽な表情に笑いそうになる。
そうよね、お仕置きと言われたらもっとニュースで報道するような大きなものをイメージするわよね。
それに比べて私のところは屋根裏部屋に閉じ込められるだけ。しかも朝には出してくれるのだから拍子抜けよね。ニュースで出てくる子どもたちに比べたら本当にちょっとしたお仕置き程度のイメージしかできないだろう。
それが、一晩で終わるなら、ね。
「うん、それだけ。スマホの持ち込みは禁止で冷暖房もなくて、電気もなくて、窓もないから昼間でも暗い、埃と毛布しかない屋根裏部屋で、お父さんが満足するまで毎晩閉じ込められる。それだけよ」
「……熱中症は、大丈夫なの」
「真夏なら最低限の水分は用意されているからギリギリ大丈夫なんだよね。昔はお姉ちゃん結構反抗してたけど、今はもうぜんぜんね」
兄は私の4つ上の大学2年生、姉は2つ上の高校3年生。私から見たお兄ちゃんはちょっと遠いけれど、お姉ちゃんはちょっと近い。お兄ちゃんはお父さんの言うことに何の疑問を持っていないようでからっぽのお母さんと似ているけど、お姉ちゃんは違った。
こうしてほしいああしてほしいがはっきりしてた。だけど、今はそれもしなくなっちゃった。
まあ、あんなこと何度もされていたら……反抗する気も失せるよね。お姉ちゃんは特に体育系で体力的な意味でも精神的な意味でも消耗するものが多いから、余計にね。
お母さんはお父さんのすることに何の疑問も抱いていないのか、特に否定することもないみたいで屋根裏部屋に閉じ込められる私達が引きずられていても、私達が必死に抵抗しても。いつもニコニコとしてるけど。
一晩閉じ込めるだけ、スマホなども持ち込めるなら、まあ気が紛れるから閉じ込められるのは大丈夫かもしれないけれど、時間の感覚も分からない中で、暑さや寒さと戦いながら朝を待つ。肉体的にも精神的にも消耗する。出来ることならそんな仕置きなんて受けたくない。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、もちろん私も。ちゃーんと屋根裏部屋のお仕置きを受けてるよ。だから、反抗する気も失せちゃったんだよね」
「そんな……兄妹みんなで訴えれば……」
「あ、確かに一番有効な手かもね。私は非力だから戦力外だけど、お兄ちゃんも身体は成長しきった大人の男だし、お姉ちゃんも女の子とはいえ体育会系だから力もあるしね」
盲点だったけれど、ウミナカからの案は一番現実的であり、効果的だと素直に思った。兄弟同士手を合わせて親に訴えかける。とても綺麗な解決法だ。漫画とかでありそう。……まあ、そんな解決法。
親へ何かを訴えを起こす気持ちが少しでもないと無理なんだけどね。少しでも皆で考えを出し合えるのなら、ね。
「そうだよ、それならきっと……」
「でも私、お兄ちゃんとお姉ちゃんから嫌われているからなあ」
「ええ!?なんでっ」
「えーと、唯一選択肢を与えられたから、だったからかな。ばつー」
ノートの中に書いた私の名前のところにバッテンマークをつけながら答えた。ウミナカは困ったような心配したような表情で私を見た。
「どういう意味?」
私の答えにウミナカが首を傾げて問われて思い返す。まだ幼い頃だったと思う。
「おにいちゃんとおねえちゃんは、おとうさんがいないところでは、どうして私のことをむしするの?」
お兄ちゃんとお姉ちゃんにそう聞いたのはいつ頃だったかな。私の舌がまだうまく回らなくて、お兄ちゃんとの身長差がもっとあった頃だったから小学校に上がるか上がらないぐらいかな?
お父さんがいるときといないときの私への反応の違いに不思議に感じて、それ以外に何の他意などない純粋な疑問を投げかけた。何度も声をかけても反応が来ることがないことが、幼心に寂しかったんだと思う。それにまず答えたのは兄だった。
「お前はね。やりたいことを選べたから」
「?」
「名前の候補が、2つあった。ぼくたちには無かったのに」
「どういうこと?」
「美絵か美音、絵を習うか音楽を習うか。赤ちゃんのお前は楽しそうに絵の方を選んだ」
「……わたし、おぼえてないよ?」
首を振ってそんな選択をしたことなんて覚えていないと言うとお兄ちゃんは私を見下ろして小馬鹿にしたような口調で笑いながら言った。
「赤ちゃんだったからね。でも、選択肢を与えられたのも、やりたいことを選べたのも、お前だけ。僕は勉強しかなかったのに。その名前しか与えられなかったのに」
「あたしは体を動かすことをやるように言われ続けてた。兄さんに聞いたわ。あたしも選択肢はなかったって」
今まで無言を貫いていたお姉ちゃんも参戦してきた。そして、こういった。
「だから、僕はお前が嫌いだよ」
「私はあんたが憎いわよ」
私を見下ろして憎悪を込めて見るふたり。その瞬間すーっと何か胸が冷めたのをよく覚えている。あのとき小さかったから気持ちをちゃんと言葉にはできなかったけれど、たぶんふたりに期待しても何も得るものはないという事実に、興味が一気に失せた。
「……じゃあ、わたしも。おにいちゃんもおねえちゃんも。どーでもいいや」
きっと、小さい子どもがするようなものではない目で二人を見上げていたと思う。二人ともすごく驚いたようにしていたから。
「末っ子なら何を言っても許されて、何をされても懐いてくれると思ったのかしらね?馬鹿よね。お姉ちゃんはともかく、お兄ちゃんなんて勉強はできるのにすごく馬鹿よ」
「……きみって、毒舌だよね。見た目によらず……誰かに指摘されたことない?」
「誰かとこうして話すこともないから。指摘されるとか以前の問題よ」
ウミナカに1日に何度も言われるそれにそろそろ耳にタコができそうね。煩わしいなと思いつつもこのやりとりが嫌いではない自分がいて不思議だわ。担任やクラスメイト、家族ですら会話自体億劫なのに。なぜかわからないけれど、ウミナカ相手だと口がツルツル滑り出すのだから仕方ない。
「そうそう。そう言ってからお父さんに与えられた役割通り絵を描くのを再開させたら、二人ともすごかったわよ。怒鳴るわ叩いてくるわで散々だったわ」
「ダメージ受けてないきみを見て苛ついたんじゃないのかな」
「喧嘩ふっかけておいて思い通りの反応にならないことに癇癪起こされても困るわよ。お母さんはニコニコしているだけで止めないし、お父さんが帰ってきても私のことガン無視だもん。……まあ、叩かれた頬が腫れたからお父さんにすぐに異変に気付かれて何があったか問われたから何から何までしょーーーじきに、ぜーーーんぶ、答えたわよ」
「わあ」
ウミナカから呆れたとも引いているとも取れる声に楽しくなる。そしてそのときのふたりのことも思い出す。あれだけ一番下の私に対して偉そうにふんぞり返っていたくせに、ふたりにされたことを話し出した途端顔色悪くなってめちゃくちゃふるえていたのよね。そしてお父さんに引きずられながらも泣き喚いていたっけ。
最初は楽しかったけれど、顔を真っ青にしながらキーキーいう姿はあんまり好きじゃなかったな。気持ちがいいものではなかったからかしらね。まあ、お兄ちゃんとお姉ちゃんの自業自得だけど。
「確かにね、私は一番縛りがゆるいと思うし割と融通が効くわね。今までの中でもお仕置きされたことなんて片指で数えられる程度かな?そこも私をよく思わないポイントなんだろうけど。でもそれはお兄ちゃんとお姉ちゃんの振る舞いを見て学んできたことだから。やってはいけないことの見本とか、こういう振る舞いが求められているとか。色々教えてもらったわ。反面教師ってやつ?お兄ちゃんもお姉ちゃんも私の真似してもっと楽に生活できるようにすればいいのになって思う。……ふふ、まあ嫌いで憎い私の真似なんて死んでもごめんなんでしょうけどね」
にやりと口角を上げる。我ながら邪悪な笑みを浮かべていることだろう。目の前のウミナカも引き攣っている。
「うーん……性格も悪い」
「うるさいわよ。そんなこと承知の上よ」
「でも、やられっ放しじゃないのはすごい。僕には真似できないや」
「それ褒めてるー?」
「褒めてるー」
「……とまあ、そんなこんなでさ。私はお兄ちゃんからもお姉ちゃんからも嫌われてる。まあ、私もそんな態度にムカついて煽るようなことを言っちゃってるから、どんどん険悪になってるの。ここまで来ると笑えるでしょ」
「うーん。そりゃあ、性格も歪むだろうなって納得もしてる」
「あら、こんな大人しい女子に対して酷いわね」
「見た目だけは、大人しい女子、だね」
「あはははは、違いないわ」
「貶されているのに笑ってられるところがまた歪みを感じる」
「なんだ、やっぱり誉めてないじゃないの」
「ばれたかー」
ゆるっとした空気感を醸し出しながらウミナカは笑う。私も彼の笑顔に釣られて笑う。ちらりとウミナカに気付かれないように完成した父の絵を見る。ウミナカと出会ったときに製作途中だったそれは既に完成されていた。ウミナカと話しながら絵具を乗せていたら意外と早く終わったことに驚いたのは記憶に新しい。だからこそこうやってウミナカと向き合って話すことができるわけだけれど。
私の絵は相変わらず写真のようで、やっぱり何の価値も見い出せなかった。そんなものよりも無邪気に眉を下げて分厚い眼鏡をかけたウミナカと話しているほうが、楽しいと思えた。机の上にも視線を傾ける。ルーズリーフには私が書いた籠生家の人間の名前がある。そしてふと思った。
(ウミナカの漢字、私も知らないや)
もう半月ぐらい放課後にこうして話す仲なのに名前は知っていても漢字は知らなかった。ずいっとウミナカに持っていたシャーペンを突き出す。ウミナカはきょとんとしていた。
「ね。ウミナカジュンっていう名前はどんな漢字を書くの?ここに書いてみてよ」
「あ、そういえば教えてなかったか。僕の名前はこうだよ」
私の真意を理解したウミナカは差し出されたシャーペンを手に持ってさらさらと書いた。温和な見た目によらず達筆で尖った字だった。はい、とルーズリーフを回してこちらに受け渡されたそれに目を映す。
『海中巡』
正直な感想、予想通りと意外の真ん中な感想だった。ウミナカの漢字は私の知識の中ではそのぐらいしか思い付かなかったし、それしかないだろうと感じていたから。予想外なのは名前のジュンの方。
「ふーん、海の中を巡るでウミナカジュンって読むのね。苗字はまあ予想通りだけど。名前の方は勝手に潤うって書く方かと思い込んでいたわ」
「あはは、よく言われるよ。けど僕はこっちのほうが気に入ってるよ。海の中が潤うより海の中を巡る方が良くない?」
「まあ、海の中は十分潤ってるしね。そう言われると海の中を巡るほうが良い感じがするわね」
「でしょ」
「海中はその名前の通り海が好きなの?」
「んー、まあ、確かに山よりは海派ではあるかなあ」
「ふーん。私はどっちも遠足ぐらいでしか行ったことないからなあ」
「僕だって学校以外だと一度だけしか行ったことないよ」
「そうなの?大体の家族とか友達同士が出かけるところだと思っていたんだけど」
「予定が合わなくてね」
その後もとりとめのない話は続いた。時計の短い針が4と5の間、長い針が6から少し通り過ぎた頃に今まで談笑していた海中が立ち上がる。
「そろそろ帰るよ」
「もう帰っちゃうの?先生もまだ来ないし、あと30分ぐらいさ……」
「あはは、ごめんね」
唯一楽しいと感じるこの時間を少しでも先伸ばさせようと試みるけれど、海中は穏やかに笑いながらもこれ以上ここにいることを拒む。未だに成功はゼロだ。出会った次の日からずっと引き止めようとしているのだけれど、上手くいった試しはない。
昨日までならこのまま唇を尖らせながら手を振る彼を見送っていた。でも、私も兄に足りないとよく言われる頭で考えた末の策があるのです。そのときは足りない私よりなんで足りているはずのお兄ちゃんのほうがお父さんからのお仕置きが多いんだろうね、と返した記憶もあります。
「それなら、私も帰る。ちょっと待ってて」
「えっ」
「これなら問題はないでしょ?」
そう。私も海中に合わせて帰るというもの。これなら海中も時間通りに帰れる。私も海中と一緒にギリギリまで話せる。いいこと尽くめの案。この案が思いついたときには我ながら素晴らしいことを閃いたものだと自分を誉め称えた。けれど、帰り支度をしようと動いた私を海中が止める。
「僕に合わせて帰っちゃったら、放課後ギリギリまで残ってがんばってますよアピールに穴ができちゃうよ」
「大丈夫よ。あなたと別れたらそこらへんの公園とかで時間をつぶすし」
「熱中症になっちゃうじゃないか。それに、お父さんに見られたら?いや、お父さんじゃなくても、お母さんやお兄さん、お姉さんに見られて、お父さんにうそを吐いていることがばれたら……流石の籠生さんも、立場悪くなっちゃわない?」
「……」
海中に言われたことを想像してみる。お母さんは、まあ、どこで買い物しているのかおおよそ想像できるし、そもそも買い物以外で家から出ることは皆無なので大丈夫だろうけれど、お兄ちゃんとお姉ちゃんの活動範囲を私は把握していない。それはあちらも同じことだろうけれど、いつも下校時間ギリギリまで熱心に絵を描いているという印象を与えている私がお父さんにうそをついて公園でぼんやりしていたら、そうチクるかもしれない。いや、あの二人のことだもの。絶対にチクるわ。
うっわあ、すぐ想像できた。ぜっっったいに二人ともここぞとばかりに容赦なく私を叩きのめしてくるだろう。
「……」
「また明日も来るから、ね?」
「……海中は私と帰るのは嫌なの?」
「えっ、そうじゃないよ、そんなはずないじゃないか」
「じゃあなんでよ。今日ぐらい一緒に帰ってくれてもいいじゃない」
せっかく生み出すことが出来た案は、さくっと海中が現実に引き戻してくれた。詰めの甘い私の案に待ったをかけてくれたことに感謝するべきなのかもしれないけれど、戸惑ってくれたままだったら今日だけでも一緒に帰れたかもしれないのにと不満な気持ちのほうが大きくて、つい駄々っ子みたいになってしまった。海中は首を振りながら穏やかな口調で答えてくれる。
「僕のせいできみが家でうまく立ち振る舞っているのをダメになったら、それこそいたたまれないし、お父さんから何か言われてこうして放課後に少しだけ話すことすらできなくなるかもしれないじゃないか」
「……たしかに」
海中のいう言葉に今度こそぐうの音も出なくなってしまった。私は父の思うがままに生きている。
今まで出来る限り父の意に沿って友達付き合いもせずに内向的で大人しくずっと絵を描いて絵を描いているときこそ一番の幸せだというふうに演じてきていたのだ。人生初の楽しみの時間を増やそうとしている私は、たぶん浮かれていたんだと思う。少し考えれば分かるようなこともわからなくなるぐらいには。
あんたって本当に動かないよね、すぐ足腰おばあちゃんになりそう、というのはお姉ちゃんの言葉。
ずっと動かずに絵だけを描いてきた私に対してお姉ちゃんは厭味ったらしく言われた。そのときは落ち着きなく忙しないお姉ちゃんこそマナー大丈夫そう?と質問したのは覚えているけれど、こんなことならお姉ちゃんの言う通り少しぐらい動いて外に意識を向けておくべきだった。それなら外に出ている理由をつけることが出来たのに。
肩を落とす私に、海中は困ったように笑いながら少し茶化したように声をかけてくれる。
「それにさ、男女が一緒にいると周りに付き合っていると勘違いされちゃうよ?嫌でしょ?僕と付き合ってる、なんて言われるの」
「……別に、それは構わないわ。海中といるの、一番楽しいから」
「……あのねっ!そんなこと言うと、勘違いされちゃうから!」
珍しく少し怒った表情で語気を強くしてそう言われてしまった。よく見ると頬も赤くなっている。そんなに怒らなくても、と思いながらも感じたことを伝える。
「だから、別にいいってば。他人に勘違いされるなんて……」
「っ、ぼくが、だよっ」
「え?」
意味がわからずに首を傾げる私に、海中はガシガシともっさりとした黒髪をかき回しながら、時計の秒針に掻き消されそうなぐらいの声でポツポツと呟く。
「僕なら、勘違いされてもいいとか……その、僕ならいいんだなーて、えっと、僕のこと、そんな嫌いじゃないっていうか、そういう恋愛感情?的な、ものあるんじゃないかなーとか、都合好く勘違いしそうになるんだよね……」
私からの視線から逃げようとしているのか眼鏡越しの瞳を彷徨わせている海中が気になって、その言葉をちゃんと脳が受け取るのに時間がかかってしまった。そんな足りない動かない私がやっと生み出せた言葉は。
「……え」
そんな、間の抜けたものだった。私の変な声に海中は赤らめていた顔を、さらに熱中症にでもなったのかと心配になるほどに真紅に染めた。
「ああああわかってる、籠生さんにそんな気がないのは!他人からの評判を気にしない姿勢、素晴らしいとおもうよ!じゃあ僕は今度こそ行くからねっ」
早口かつ大声で言い放ちながら振り向かずに美術室の扉に手をかけたところで、やっと私の脳は海中が帰ってしまうと反応することができて、慌てて何も考えずに大声を上げていた。
「あっ、した!!」
しまった変に裏返った、そう後悔するより先に海中が真紅色のままの不機嫌そうな表情で振り返ってくれた。
「なにっ」
わざとらしくぶっきらぼうに、でもこちらを振り返ってくれた海中に安心しながら言いたいことを伝える。
「明日も、来てね!ぜったいよ!!」
「わかってるよ、明日も来るよ!ばいばいっ」
「ば、いばい」
力強く頷き、勢いよく扉を開けつつ閉めるときは意外と静かに、パタパタと足音が遠ざかっていった。
(……来てくれるんだ)
慌てていたからかもしれないけれど、あんなに強くそして当然のように来るよと言ってくれた。暫く海中の言葉ににやにやと口角が上がりっぱなしだったけれど、ふと、私以外誰もいない美術室があまりに静かなことに気が付いた。周りを見渡す。
卒業生や在学生の絵やモチーフに使われる造花や作り物の果物やら石膏やら何やらで、理科室や家庭科室なんかよりもゴチャついていてずっと鮮やかなはずの美術室が色味が薄い気がした。ざらざらな机に目を向ける。
なんの変哲もないどこにでも売っているルーズリーフと、その辺のコンビニで買った適当なシャーペンが散らばっていた。私が書いた家族の名前たちは罫線の間に収まって小さかったけれど、彼の書いた彼の名前は罫線二つ分で書かれている。『海中巡』の文字の羅列をそっと消えないように擦れてしまわないように気を付けながら撫でた。名前のせいか、頭の中で海の中の映像が浮かんで仕方がない。
実際に見たわけじゃなく、テレビで見ただけで、そのときはただ目に映っているだけで何とも感じなかったけれど、今は無性に、海の中は美しいものではないかと思った。り、思わなかったり。
(なんか、うん、さっきの私の発言。まるで、あれよね)
少し冷静になって、やっと先ほどのことを思い起こす余裕が生まれた。海中といるのが一番楽しいから構わない、なんて。今時ドラマや漫画でもそんなセリフ、出てこないと思う。いや、そういう他人の作った話を真剣に見たこともないけれど。なんとなく。
「確かに、なんだか私が海中のこと……すき、ともとれる発言だったなあ……」
考えれば考えるほど、顔が熱くなってくる。画材やらなんやで汚れているのは知った上で美術室の机に頬を寄せる。海中の書いた海中巡の名前に確かに嬉しさを覚えるのは本当。一緒にいて楽しいと思えたのが海中が初めてなのも本当だし、一緒にいられるなら噂されようとどうだって構わないのも本当の本当。けれどそれが海中に向けた恋慕なのかどうかは分からない。そもそも友だちもいなくて、恋に現を抜かすのも馬鹿らしいと思っていた。私にあるのは気が休まらない家族と、面白くもない絵を描くことだけ。それぐらいしか私にはない。
「もし、本当に海中に好意があるのなら……一緒にいさせてくれるかな」
そんなこと、海中には言わないけれど。さすがの私でも理解していないことを自分の欲のために口を滑らすなんてことはしない。もやもやする気持ちのまま、足をパタパタ動かしながらスケッチブックにルーズリーフを挟んだ。私しか開かないガラクタばかり描かれているスケッチブックの中の唯一の宝物。
「……ふふ」
これで、退屈でしかない絵の時間はデッサンを開くたびにこの宝物を視界に映すことができる楽しみが生まれた。それだけで今は満足だ。下校時刻がやってくるまでご機嫌に資料を探すふりをするために図鑑を開いた。