うみをえがく。

 フレームを作ってカメラを覗くように眺める。
『微笑む父、父の手を握り寄り添う母、内気で勉強好きの長男、活発で運動神経抜群の長女、絵を描くのが好きなマイペースな末っ子』指フレームの先にはそんな『理想的な家族の絵』がある。
 全ては理想的なのだろう。傍から見れば、ね。

 手を元の位置に戻せばフレームは消えてしまう、それぐらい儚く脆い砂の城のような絵なのにね。



 最寄り駅から自宅までの道を歩きながら今日のことを思い返して気分が上がる。人目がなければスキップもしてたかもしれない。そのぐらい楽しい気持ちだった。あんなこと初めて言われたわ。写真みたいなつまらない絵。言い得て妙とはこのことだと強く思う。確かに写真みたいな絵なら、写真を撮るだけでいいわよね。なんでこんな絵を描いているのか。答えは唯一つである。

「おや、美絵か?」

 誰に見られているか分からない道中、上機嫌なことを隠しながら歩いていると後ろから低い声で名前を呼び止められて、風船が萎んだように気持ちが下がった。いつも通りの無愛想な顔を意識して振り返る。そこにはビジネスバックを片手にした小太りのサラリーマンがいた。私はこの男のことを知っている。籠生家の末娘に与えられた役割らしく振る舞いながら問いかける。

「……お父さん。珍しいね、こんな時間に」
「ああ、今日は定時で上がれてな。美絵は……」
「いつも通りよ。絵を描いてたらこんな時間になってたの」
「そうかそうか、美絵は芸術家気質だなあ。熱中できるものがあるのは良いことだが、あまり遅くならないようにな。みんな心配するから」
「わかった」

 私の返答は完璧だったみたいで、男はお気に召した様子。それはそれは何より。
(心配、ねえ……)
 そんなことしないと思うけれど。父がいなかったら絶対にしないだろうなあ。そう思いつつもとりあえず頷いた。


 家の扉をお父さんが開けて、そのまま入っていく。私もそれに続いた。玄関でも分かるカレーの良い匂いがする。お母さんがご飯を作りながら夫や子どもたちの帰りを待ってくれているのも、他人から見れば満たされている家族に見えるんだろうなあ。お兄ちゃんとお姉ちゃんの靴はまだなかったので帰ってきていないみたい。
 廊下を進んで、リビングとキッチンが一体になっている部屋の扉を開ければ、サラダを切り分けていたお母さんが顔を上げた。

「ただいま」
「……ただいま」
「あら、お帰りなさい。一緒の帰りだったのね」
「帰る途中で会ったんだ。勉と育恵は?」
「勉は家庭教師のアルバイト、育恵は最後の大会だからって頑張ってるわ。二人とももうすぐ帰ってくると思うわ」
「そうか。皆それぞれ熱中できるものがあって素晴らしいな」
「そうね」
「……着替えてくる」

 お父さんとお母さんの会話を聞きながら、声をかけてから自室へ向かう。
(熱中できるものがあって素晴らしい、ですって)
 自分一人の空間になってやっと肺まで酸素を取り込むことが出来た。制服から私服に着替えながら、鼻で笑って心の中で悪態をつく。
(頼んでもないのに)
 ハーフパンツと夏用のパーカーに着替え終えると、玄関の扉が開く音が聞こえてきた。一度家に帰ったら外に出るのは許されていないので、お兄ちゃんとお姉ちゃんが帰ってきたのだろう。いつまでも部屋にいると不審がられるので、大きくため息を吐いて息苦しい世界にまた戻る。階段を下ると丁度靴を脱いだお兄ちゃんとお姉ちゃんとはち合わせた。

「あ、美絵。ただいま」
「ただいま!お姉ちゃんが帰ってきたわよ!」
「おかえりなさい。お兄ちゃん、お姉ちゃん」

 静かに微笑みかけてくるお兄ちゃんと歯を見せて笑うお姉ちゃんに、無表情に挨拶を返した。

「相変わらず美絵は静かだね。少しは育恵も見習いなよ」
「あはは!むりむり!むしろ、勉兄さんや美絵はもっと身体を動かしたほうがいいよ!!」
「……それこそ無理」

 兄妹らしい、喧嘩にもならない程度の他愛のないじゃれあい。違和感はない、はず。みんな内心探り探り。

「ただいま。あ、父さん。帰っていたんだね」
「ただいま!本当だっ、こんな時間にいるなんて珍しいねっ」
「おかえり。勉に育恵。ああ。今日は早く帰れてな。美絵と一緒に帰ったんだ」
「おかえりなさい。もうご飯できるからね」
「良い匂いだね。今日はカレーかな?」
「やった!あたし、カレー大好きっ」
「ふふふ。今日も腕によりをかけて作ったからね」

 兄弟みんなでリビングに行けば先に帰っていたお父さんに対してそれぞれの反応を見せてお父さんは笑い、お母さんはカレーを喜ぶみんなをほほえましくしている。みんな笑顔だ。私も口角を意識してあげてその仲間に入る。仲のいい家族の会話。普通で平凡。何一つ不幸なことなんてない!なんて顔をみんなしてる。
(白々しいことこの上ないわ)ね
 お父さんが帰ってきているのなんて、革製のキャメルの靴が並んでいるのを見れば分かっているくせして、リビングに入ってやっと気が付いた、といった表情をする。白々しいとしか思えないけれどわざわざ和を乱す気もない。なので心の中だけで本音をつぶやいた。



 夕ご飯の用意ができて、テーブルを囲んで食事をする。お父さんとお母さんが隣、向かいにお兄ちゃんとお姉ちゃん、私は真ん中の所謂誕生日席で皆の顔がよく見える。お姉ちゃんは率先して今日の自分の活躍を話してお母さんが相槌を打ち、ひと段落してお兄ちゃんの状況をお父さんが聞いて、お母さんが私のことを聞く。私はやっぱり不愛想に「いつも通りだよ」と返す。ルーティンの一つだ。
(まるで絵みたいね)
 絵の作者は父親。私達の意思などない、お父さんのための家族。私の描く絵みたい。

『今日の夢見る若者は、アーティストを夢見るハヤトくん!彼のスケジュールに密着します!』

 ふと聞こえてきた明るい女性の声にテレビに視線をやる。そこにはお兄ちゃんと同い年ぐらいの紫色の髪の青年の姿があった。服装は真黒で髑髏とかシルバーアクセサリーをじゃらじゃら身に着けている、奇抜な格好をしていていかにも近寄りがたい雰囲気を醸し出しているけれど、その顔はあどけなくて目がキラキラしていた。
 自分で作詞作曲をして、自分で作った音楽で食っていきたいと自分の人生を生き生きと語っているところから始まった。よく見る女性アナウンサーがどんなテーマの曲が多いんですか?と質問すると青年は愛憎がテーマが多いですね、とギター片手に答えたところで……『あはははははは!』笑い声が響き渡る。
 どこかの駅前で少し暗めで雰囲気のあるところで青年がいたテレビの中は、一転して明るい色調で統一された今よく聞く『さるわんこそば』とかいうよく分からない名前のお笑い芸人が映し出され、歯を見せた笑顔の有名人たちでいっぱいになってしまった。

「面白い番組、ないなあ」

 リモコンをテレビに向けながらお父さんがぼんやりつぶやいた。お父さん的には先ほどの奇抜な青年のことはつまらなかったみたい。少し残念。定型文のような家族の会話を聞くよりも有意義だと思ったのに。お父さんはチャンネルを軽く回した末、結局最初に変えたバラエティー番組に安定した。意見することは誰もしない。
 そこまで甘くないけれど舌が痛くなるほど辛くもないカレーを食べて(一度でもいいから辛いカレーを食べてみたいなあ)サラダを胃におさめると手持無沙汰になった。お姉ちゃんは身体を動かした後だからかおかわりしていたけれど、そこまでは入らないだろう。コップに注がれたお茶を飲めばいよいよすることがなくなった。

「ご馳走様」
「あら、もういいの?」
「うん。お腹いっぱい。次の絵のこともそろそろ考えたいから部屋に行くね」
(嘘だけど)

 このままここにいたって何か得られるとは思えない。どうせ次の絵もお父さんが決めてくるだけだから私は絵の構想を考えることはするけれど全部真剣じゃない。結局意味が無くなるから。真剣にやるだけ馬鹿らしい。スケッチブックの中身を埋めれば埋めるだけ、新しいスケッチブックを求めるだけ、お父さんが喜ぶ。
 今も「そうかそうか、もう新しい絵のことを考えているんだなあ。凄いなあ。美絵は」なんて言っている。お母さんもそれなら仕方がないわね、と少し残念そうにしながらも私を見送ろうとしてくれているので、遠慮なくこの場から離れることが出来ると安心していたけれど、思わぬ伏兵がいた。

「なんで?もう少しここにいなよ、絵なんていつでも描けるでしょ?」

 お姉ちゃんだった。食器をシンクに置いてリビングを去ろうとした足を止めて座っている姉を見下ろす。唇を尖らせて不満を訴えかけてくる。お兄ちゃんもお姉ちゃんと同じような目で私を見上げていた。

「……いつでも、じゃないよ」
「せっかくお父さんも早く帰ってきてるんだからさ、もっと家族団らんを楽しんでも良いんじゃないの?ねえ、お兄ちゃん」
「育恵の言う通りだよ。絵を描くのがきみの生き甲斐だというのは理解してるけどさ。もっと家族との時間を大事にしてほしいな」
(なるほど、こうきたか)

 兄と姉にかけられた言葉に感心する。まるで家族思いのようなその言葉に、よく考えたなあと思った。

「こらこら、私が早く帰ってきたからって、そんな気にしなくたっていいんだぞ」
「でもさあ……」

 お兄ちゃんとお姉ちゃんを窘めながらも、目尻に皺を寄せているので満更でもないみたい。父の態度にふたりは誇らしそうだった。だけど、次のお父さんの言葉に躍起になった。

「美絵、お前の次の絵を楽しみにしているよ」

 父は微笑みながら私にそう笑いかけた。

「っ、なんで!美絵のわがままばかり聞くの!!」
「美絵は協調性を持っても良いんじゃないかな?学校で仲良くしてくれる子、いる?」
「……」

(あ)

 私を見送ろうとする父に、不満を抱いたお姉ちゃんは怒鳴り、お兄ちゃんは真剣な顔で淡々と少し硬い口調でそんなことを言ってしまった。これはよくない流れである。

「…………どうしたんだい?勉、育恵。私のいうことに、何か不満があるのかい?」
「っ」
「、なにも……」
「なにもないことは無いだろう?ほら、そんなに黙っていないで……私の言葉に何が不満なのか言ってごらん?」

 口調はとっても優しい。子どもに言い聞かせる、温厚な父親にしか見えない。だけど妙な重圧感はずっしりとこちらの心を畳み掛けてくる。謝ろうと泣こうと喚こうと、自分の気持ちを男に納得するように言葉を紡がなければいけない。
 先程の堂々とした姿勢が嘘のように縮こまり、兄は冷房が効いていて至って快適で全く暑くないのにだらだらと汗を搔いて、姉はふるふると震えながらスプーン片手に俯いているばかり。笑っているのに圧をかけ続けている父に、異様な空気感の中で人形のようにニコニコしているだけの母。選択肢を間違えるとこうなる。このまま兄と姉が父の機嫌を損ねたままだと屋根裏部屋に連れて行かれてしまう。

「……やっぱり、お姉ちゃんたちの言う通りここにいようかな」
「あら、大丈夫なの?」
「うん。皆の話を聞いている方が刺激になることもあるから。それにお兄ちゃんの言う通り協調性も学ぶべきかなって。ちょっと自分勝手だったなって思ったの。ごめんね」
「なるほど……確かによく考えれば美絵を想ってのことの言動だったな。
勉に育恵、ごめんな。もっと二人の意見を尊重するべきだった」
「ううん、その、僕もカッとなっちゃって。ごめん」
「私も、ごめんね」

 せっかく立ち上がった椅子に座り直した。父が謝ればお兄ちゃんもお姉ちゃんもほっとした顔で謝り返すと、空気は緩んで、父は普段通りに母に話しかけながらテレビに意識を逸らす。
(…………)
「…………」
 じっと兄と姉が私を見てくる。勿論、父に気づかれないように。兄妹の中でしか分からない空気に私は辟易しながら意識を半ば無理矢理テレビに集中させる。



 皆食事を終えて、お兄ちゃんはお父さんに今大学でこんな勉強をしている話をして、お姉ちゃんはソファーでゴロゴロしながらスマホをいじり、私はクッションの上で膝を立てて座ってテレビをぼーっと見ていた。お母さんはお風呂を用意した後に食器を片づけている。暫くすると軽快な音が響いて「お風呂が湧きました」と機械的な女性の声が響き渡った。

「あなた。お風呂が沸いたわ、お先にどうぞ」
「私が先でいいのか?育恵も部活で疲れているのだから……」
「あ、いいのいいの!あたし、汗かいてるし……いつも夜遅いんだから、こんな日ぐらい気を使わないで」
「そうか、それなら有り難く一番風呂を頂こうかな」
「ええ、はい。着替え」
「ありがとう」
『そうしてできたのが、こちらのそばサイダーでございます』
『いやまずそうっつうか絶対まずいって!』
『そんなこと仰らずどうぞっ、お客さまあああ!!』
「ぎゃーーーーっ!やめろ、やめ……あ?あれ?うまっ』
『またのご来店お待ちしておまーす!』

 父がリビングを出たのとほぼ同時にテレビの中の芸人のさるわんこそばの二度目の漫才が終わった。するとスマホに視線を注いだままの姉が話しかけてきた。

「ありがとうね。……とか、言わないから。そもそもあんた一人が抜け出そうとするからあんなふうになったんだから」

 父がいないのに珍しく話しかけてきたなと思ったら、そんなことを吐きかけられた。お礼なんて最初から求めてない。まあ、私は理由に融通がきくから妬みたい気持ちもわからないでもない。一人のほうが集中できると言ったら自室にこもっていても何も言われないし。
 お兄ちゃんも私みたいな言い訳もできなくはないけれどいかんせん父の顔色ばかり見ているからそんなこと言える度量はないし、お姉ちゃんに至っては運動系のことだから、こういう言い訳は何もできない。
 お父さんの顔色ばかり伺う家族団らんの時間なんて苦痛でしか無いに決まっている。選択肢を違えれば屋根裏部屋行きだしね。私は屋根裏部屋に行くのは家族と一緒の時間を過ごすよりは余程楽だけど。
 それはともかくとして。感謝は求めていないにしても、そんな言い草は酷いんじゃないかとちょっとムカついた私は勝手に攻撃してきた姉と、ついでにずっと遠くから睨んでいる兄にも向かって鼻で笑った。

「はいはい。別に求めてないから。それにしてもさ、お姉ちゃん……そこで睨んでるお兄ちゃんもさあ?もっとうまくやればいいのに。頭固いよ?ああ、それとも弱いのかなあ」
「チッ」

 兄は言葉にしない代わりに舌をひとつ打った。テレビも点いているのに変に大きく聞こえた気がした。私は立ち上がり、今度こそリビングの扉を開けた。

「お母さん、私部屋にいるね。今度こそ絵を描きたいから」
「ええ、わかったわ」

 お母さんにそう声をかければ、笑顔で頷いた。兄妹がバチバチに敵対して、しかも上二人が末っ子を攻撃している光景にも関わらず、上っ面の仲良し家族のときと同じ表情でいるお母さんが一番何を考えているのか私にはわからない。正直お父さんより不気味だ。



 今度こそ自室に籠もることができて、そこで漸く息を深く吸うことが出来た。スケッチブックを学習机に広げて鉛筆と消しゴムを適当に転がして、ベッドにダイブする。
 顔を横に向けると壁に貼っている絵が目に入る。立派な額縁に入れられた絵の中の晴天の空の下で木々に囲まれている天使をイメージした白いワンピースに身を包んだ今にも歌い出しそうな笑顔の金髪の女と目があった。あれはなんだったかな。確か、中学のときにコンクールに応募した絵だったかな。賞を貰えたんだっけ。お父さんが特に気に入った絵なんだっけ。
 忘れちゃったけれど、あれもお父さんが望んだ私が描いた絵であることは間違いない。ごろりと身体を転がすと真っ白な天井が目に入る。

 お父さんの絵よりも視界に入れてもいいかな。そう思いながら、先程テレビの中の人を思い出す。あのキラキラした目のアーティストを夢見る青年のハヤトくん。彼はどんなルーティンで日々を過ごしているんだろう。
(やりたいこと、自分で決めているんだろうな。いいな)
(夢を見るってどんな気持ち?)
(楽しい?面白い?それとも辛い?苦しいこともある?壁というものにぶち当たることもあるの?)
 少なくとも私みたいにつまらない日々を過ごしていないことが、純粋に羨ましかった。
 父が望んだ美しい絵を描き、それを完成させるために腕を動かして、父の望む解答をして、兄と姉に疎まれつつも、父に与えられた通りに動くために息を吸って吐いて。これから先も同じように生きていくんだと考えると憂鬱にもなる。
 うんざりしながら目を閉じると、今日初めて会話をした割れた眼鏡をつけたずぶ濡れの男子の姿が思い浮かんだ。そういえば、今日はちょっと楽しいことと出会えたんだということを思い出して気分が上がった。

「つまらない絵、か。ふふふ」

 隣のクラスのウミナカジュンに言われた言葉を自分でも口に出してみると思った以上に楽しくなった。
そんなこと、初めて言われた。皆が素晴らしい美しいと讃えてくれる絵をウミナカはそう一蹴してくれた。ごろりと横を向けばやっぱり金髪の女は私を嘲笑っていた。額縁の中に飾られた美しい絵。これも。

「なんて、つまらない絵」

 そうつぶやいてみると、やっぱり愉快な気持ちになって家族にバレないようにくすくすと小さく笑いながら、ベッドから起き上がり投げっぱなしになったスケッチブックと向き合う。
 私からするとあの男が好きそうなものを当てはめていくだけのただの作業。与えられた通りに動いているだけ。ただ今日は。明日の楽しみがあるからか少しだけ筆の進みは軽やかだった。

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