うみをえがく。
あの日を境に海の絵ばかり描くようになった私に対して世の中の声は賛否両論があった。前の方が色んなものを描いていて面白かった。今の方が生き生きとしていて面白い。海しか描かないなんてつまらない。前の綺麗でしかない絵のほうがつまらなかった。などなど。
まあ、私からするとどちらでもいい。有難いことに今度個展を開くことにもなったので、絵描きとしては成功していると言ってもいいだろう。皮肉にも私には絵を描くということは性に合っていた。
あの頃みたいな、義務感ではなくなったからかな。愛しさと苦しさとともに楽しんで描いている私がいる。今の私は結構好き、かな。あと見た目も変わったね。
あのださいおさげを切って今はショートヘアで、服には変わらず興味ないからシンプルにTシャツにGパンが多いかな。中身は相変わらずだ。今も海中を待っているけれども。
家からはとっくの前に出た。高校卒業と同時に、大学にはいかずに絵を描く仕事や短期バイトなどで食いつなぎながら、海を描き続けていた。空いた日にはこの海に来てはおじいさんのゴミ拾いのお手伝いをしている。
「ふう、随分綺麗になったなあ……」
「時間はかかっちゃいましたけれどね」
「美絵ちゃんが手伝いに来てくれるおかげで地元のやつらもゴミ拾いをするようになった。ああ、そうだ。最近また海に来るもんが増えてきたから、シャッター街を利用しようとしていてな。そこでわしもちょっとした土産物屋を再開しようと思うんだ」
「そうなんですか、それはよかった」
「今度買いにおいで。今日はそのことで地元の奴らと話し合いがあるから、わしはそろそろ帰るぞ。美絵ちゃんは?」
「私はもう少しここにいます」
「そうかい、熱中症には気を付けるんだぞ」
おじいさんは爽快に笑いながらゴミ袋片手に階段を登っていった。おじいさんを見送ったあと、海を見る。
(あれから、5年かあ)
ゴミ袋を置いて日傘を開いて海を眺める。海を描き続ける私に、皆の反応はそれぞれだった。今の私の絵が好きという人がいれば父の絵のほうが好きだと言う人もいる。それはあまり気にならないけれど、海を描き続ける理由を聞いた反応に苛立つことが多かったかな。
あなたの海に私がなりたいから描いている、なんて言ったら大体はロマンチックだねーと鼻で笑われ、いつ会えるかその人よりも私を大事にするだとかふざけたことをぬかした人もいたわ。海中のための絵を描きたいから私はこうしているのに。全部一蹴してやったわよ。……でも、いつになればあなたに会えるかな。
諦めるつもりはサラサラない。でも、弱気になることもある。少しでもあなたの海になれる可能性をあげるために絵を描き続けたし、こうしてゴミ拾いをしてあなたの記憶どおりの海に近づけられるように頑張ってきた。
私の描いた海でも、私とおじいさんたちとで協力して綺麗にした海でも、どちらでも構わないの。水に濡れない程度に近付き、ポケットに入れていたスマホを取り出す。慣れた手付きであるアイコンを押して、これでもかと見てきたアカウントを眺める。5年前、あなたの気持ちが綴られたアカウントは今まで動きなんて無かった。でも。
『明日、思い出の場所にいきます』
毎日欠かさず見ては動かずにいるアカウントに落ち込むのをくり返していたけれど、昨日5年ぶりにそんなことが書かれていて、目を疑ったわ。目を擦って頬を抓ってみても、そう書いてあったのだ。何時に行くのか、何処に行くのか私には分からない。だけど、きっとここだと信じて早朝からここにいる。
「会いたい、な」
本当にここなのか分からない。ここじゃないところが海中の思い出の場所なのかもしれない。海中の家なのかもしれないし、身近なところなのかもしれないし、爆弾を投下した学校なのかもしれない。もっと私が知らない海中の記憶の中のことなのかもしれない。私と会わなかった5年の間に見つけたところなのかもしれない。どこにいくの、そう打っては下書きのまま削除しての繰り返しで、結局何も打つことが出来ずに今あの海にいる。
とりあえず、まだ他の海の中に行ってしまっていなくて安心したけれど。でも、もうあなたにとって私の存在がどうでもいいものになっていたらどうしよう。返事がなかったらどうしようと私は怯えてしまったの。
あなたに関することには、臆病になっちゃったよ。こんなに会いたいと思っているのに。私の存在が海中にとって取るに足らない存在になっていたら嫌だから。一度だけでいいって願っていたのにね。探そうと思えばいくらでも考えられたのに何もせずにいたのはそんな現実を突きつけられるのが怖かったから。
もちろん、私が強制的に探し出すよりも海中本人から現れてくれないと意味がないのが一番の理由だったけれど。でも、不安になるの。
「私のこと、忘れていないかな」
なんて。
「忘れるわけ、ないだろ」
弱音に対していつも通り波の音しか返ってこないだろうと思いこんでいた私の鼓膜に、誰かの声が響き渡る。大きな声で、少し荒々しく否定される、でも優しく低い響きだった。その声の主が誰なのか理解するよりも先に目から水が滲んでくるのを感じる。思わず日傘を砂の上に落としてしまうけれど、それよりも振り返ってその姿を確認したかった。でも、それは叶わなかった。振り返ることはできたけれど、私の視界が滲んで、彼の姿が見えなかった。
うっすら姿形がわかったけれど海の中にいるように鮮明に見えない。だけど、呼ぶ。呼び続けていたその名前を。
「うみ、なか」
会いたくて仕方がなかった彼の人の名を。声にするだけで泣き出してしまいそうなほどに愛おしくて溜まらない名前。未だふわふわした私を、目の前の人は駆け寄って腕の中に閉じ込めてきた。私の想像よりも力強くて暑くて、たくましかった。滲んだ涙が頬を伝う感覚。そのままの体勢で彼は話し出す。私は一言一句聞き逃さないように意識を集中する。
「籠生さん」
「うん」
「ハンカチ、返さないでごめん」
「うん」
「連絡先教えるって言ったのに、そのままいなくなってごめん」
「う、ん」
「海の絵、描いてくれたんだよね。ありがとう」
「……っ、う、ん」
「籠生さん」
ぐっと腕の力がさらにこもって少し肩と腰が痛かったけれど、それすらも嬉しかった。海中が、私を抱きしめてくれると実感できたから。
「ずっと、会いたかった!」
「っわたしも、ずっと、会いたかった!」
震える声でそう叫ばれて、私もつられて声を張り上げて意外と厚い身体に手を伸ばしてぎゅっと抱きしめた。
会いたかった、ずっと、会いたかったよ。
私を望んでくれる海中に。きっと、あなたも同じでしょう?あなたを望む私に、会いたかったんだよね。夢みたい。あれだけ欲していた海が私の腕の中にいる。海が逃げないように、もう離さないように、力の限り抱きしめた。嬉しくて愛おしくて苦しくて、全てを込めてしょっぱい海になる。私の肩も濡れている。
海中も私と同じ気持ちだったら、いいな。
「きみのせいで夢、変わっちゃったよ。どこかの海の中でこの身を沈めて終わろうと思ったのに。どうやってもきみの顔ときみの描いた海が脳裏に浮かんで消えないんだ。こんな世界。いつでもさようならできると思っていたのに」
「私も、あなたに会うまでは世界の色は暗くてつまらなかったけれど。海中に会えて鮮やかになったよ。こんな世界だけど、あなたとならいつまでもいたいと思うの。届いてくれて、よかった」
「……ごめんね。今まで、何も反応できなくて。やっと一人でも稼げるようになったんだ。やっと、籠生さんの前に来ても恥じない自分でいられたと思ったから」
「いつでも私の前に来てくれてよかったのに」
「きみと次あったらもう今度こそ離せないと確信してたから。……ごめん」
「なんで謝るの?嬉しいのに。私だってもう逃さないわよ」
「はは、顔赤いよ」
「暑いからよ。海中も赤いわよ」
「暑いからね」
あのあと暫く二人で泣いて、落ち着いた頃には日はさらに高くなり脱水症状をお互いに起こしてくらくらして防波堤に登るための階段で座ってふたりで日傘の下に並んで水を飲みながら今までの分を取り戻すように話した。やっぱり、海中にいるのは心地よくて、5年の距離があったなんて思えなかった。それでも昔よりも出来上がった身体と男らしくなった顔立ちには年月が経ったのだと実感する。手を私の方に伸ばされ、あの頃と違って短くなった髪を撫でられた。
「髪ばっさりいったんだね。とっても似合うよ」
「海中ならそう言ってくれると思った。周りにはもったいないとか言われて鬱陶しかったのよ」
「あははは、籠生さんの辛辣さも変わらなくて安心するよ」
そこで安堵を覚えられるのって……複雑な気持ちにならなくもなかったけれど、海中が笑っているのならまあいいかな。ああ、そうだ。
「あと、これ」
「ああ、本……と、これは……」
「この海に落ちてたの」
「ああ、そっか。気付かなかった」
「?気付かなかったの?」
私がバックから取り出したのは5年前借りっぱなしだったエッセイ漫画と、ここで拾ったダイオウグソクムシのキーホルダー。本の方は覚えていたようだけど、キーホルダーの方にはあまり関心がなさそうというか、なくしたことにも気がついていなかったみたいだった。あんなに大事そうにしていたのに、と首を傾げる私に海中は微笑みかける。
「あの頃のことよりも、また籠生さんに会うことのほうが重要だったんだよ。もう、小さい頃の記憶だけにすがるのは、5年前きみからのメッセージを見て辞めたんだよ。あれを見る前まではこの海ではない違う海の中で消えようと思っていたけれど。きみは僕の海になってくれる、そう言ってくれたから。僕はここまで生きることが出来た。生きる理由になれたんだ。だから、これはもう捨てるよ」
「……そう、あのね、あなたが小さい頃に行った青い屋根のお土産屋さんのおじいさん、また土産物屋を開くことにするんだって」
「そうなんだ。じゃあ、そこで新しいものを買おうかな。一緒に、選ぼうよ」
「うん。……ねえ、今までのこと、教えてよ。今までどこにいたのか、どうしていたのか」
「そうだね。お互いに、ね。いっぱい話そう。それで、ずっと一緒にいよう。これからはもう、離れないから」
ぎゅっと手を握られて、私は頷いた。そのまま綺麗になった海を眺めながら、ぽつりぽつり会話を重ねる。たまに、波の動きを眺めつつもそれでも会話はいつまでもやまない。
「私はあなたの海になれた?」
「……うん。きみの描く海も、今目の前にある海も、どちらも僕なんかのものでいいのかと思うぐらい」
「あなたの海なんだから受け取ってね。まあ、目の前の海はおじいさんの努力のほうが大きいわね。だからあなたの海は、私の描く海だけにしておいて」
「あはは、そっか。そうだね。じゃあ、籠生さんが僕の海だ」
「……ねえ、もう籠生って呼ばないで。私もうあの家に帰るつもりなんてさらさらないのよ」
「もう籠の中ではないんだね。そっか、うん。じゃあ、美絵さん。僕の姓になってほしいなあ」
「…………それって、あれ?」
「あれだね、結婚的な」
「籍入れちゃう感じね」
「海中美絵っていい響きだね」
「籠生より断然いいわね」
あっさりと決まっちゃったけれど、なんだかなるべくしてなった感じがする。籠生なんて姓は今の私には似合わないし、恋い焦がれていた海中と一緒の姓になるの、とっても嬉しい。ああ、でも、あれか。私も同じ海中になるのに、彼を海中と呼ぶのはおかしいわね。
「巡」
「……」
「どうしたの」
「いや、うん。なんだか、きみに名前を呼ばれるのは初めてだからさ。あーうん、むず痒い。嬉しさと恥ずかしさ的な」
「嫌ではないならいいんじゃないの」
「まあ、うん。頑張って慣れるね。美絵さん」
「……ええ」
「どうしたの?」
「名前を、父たちに呼ばれるよりも断然良いな、て」
「そっか。じゃあ……改めまして。美絵さん、僕と結婚してください。約束はもう違えない。ずっと僕の海でいてください」
「ふふ……はい。巡。あなたの海を愛してね」
これから。私たちはどうなるのか分からない。もしかしたらまた離れ離れになるかもしれない。でも今だけはこの誓いに嘘はない。離れ離れになってもまたきっと私たちは会える。ううん、絶対にさせない。
もう待つのはこれで勘弁してほしい。これからはもう他人に邪魔されずにこの世界で巡と生きたいから。
ああ、まずはおじいさんに報告しなきゃかな。
会いたかった人とこれからも一緒にいることを決めました。まあ、お父さんたちには何も言わなくていいかな。海中もきっと自分の家族に何も言わないだろうし。未成年だったときとは違って私たちはもう成人していて、割と何でも出来る。
うん、もう私たちが縛られることなんてない。そうだ。海中……じゃなかった、巡とまた会えたらこうしたいと考えていたことをやれるんだ。
「ねえ、巡。あなたの絵を描いてもいい?」
「えっ、僕?美絵さん、人物なんてあまり描かなかったよね?」
「うん。でも、あなたは描きたい」
「うーん……」
「だめ?」
「いやあ、恥ずかしくて……」
あなたのための海を描きたくて描いた私だけど、今日からは私も私のための絵も描いていきたい。
「あなたは、わたしのうみだから」
今までも、これからも、死ぬまでずっと、わたしはうみをえがく。そうして死ぬまで生きていく。この世界で。あなたと、いっしょに。
そう言うと巡は照れながらも頷いてくれた。
「ねえ、過去の話は今日でお終いにしてさ。明日からはこれからの話をしよう。絵の中でも海の中でもない、この世界の中で生きる、私たちの未来の話を、さ?」