うみをえがく。

 家族を振り切り、電車に乗り込んで移動している途中窓越しの自分と目が合う。叩かれた頬は冷やしもしていなかったので腫れてきていて痛々しそうに見えた。扉に寄りかかって顔を見られないように注意をはらい、そのまま電車に揺られる。

 学校につく頃にはだいぶ薄暗くなっていた。昇降口はまだ開いているけれど、一階の開いている窓を探すことにした。親から学校に電話がきているかもしれないことを考えると、昇降口から堂々と入ってしまうと目的の場所に辿り着くことなく先生たちに捕まる可能性が高いかも。
 開いている窓がなかったらなかったでまた考えよう、そう思っていたけれど、運良く鍵がかかっていない窓を見つけた。背伸びして周囲に誰もいないことを確認してそこから侵入を果たした。

 薄暗い廊下は普段の賑いが嘘のように静まり返っていて、少し不気味。そんな中を歩いて階段を登る。もちろん、靴を脱いで足音を出来る限り小さくして。
 この時間に見回りする先生がいるのか分からないけれど、用心するに越したことはないと思っていたが拍子抜けするほどあっさりと目的の場所につくことができた。もちろん、電気はついていない。

 ここが、私の目的の場所。

 そこは、海中と出会うことができたところ。すっかり馴染みのある美術室。
 新品のキャンバスと使い古されたイーゼル、木製の椅子を用意する。無駄に設備が整っているおかげでトイレ前まで行かずとも美術室用の水道場があるので水を汲むこともできた。パレットと絵の具、絵筆。
これで準備ができた。椅子に座りまっさらな真っ白なそれと向き合った。
 目を閉じると、目の前は暗闇へと変化する。だけど私の頭の中には海の光景が映る。息苦しくて、塩っぱくて、ゴミが浮遊する、濁った海の中。海中が思い描いていたものとはきっと真逆だった。それなら、その真逆のものを、目の前の白いそれに写し出せばいい。それが海中の理想の海だと信じて。

 目を開いた私は、パレットにまず青を勢いよく出す。

 そして群青、黒、少しの白、紺色、藍色。色んな青を混ぜ合わせてほんの少しだけキャンパスに乗せた。少し足りない。もっと青を出した。こんなに青を出したこと、今まであったかな。たぶん無いね。
いくつかのテストの後、満足の行く色に出来上がった私は遠慮なく塗る、塗る。下書きもせずに頭の中で、描いたものを映す。
 ビニールゴミはクラゲ、ペットボトルはイカ、優雅に泳ぐ魚たち。綺麗な青の中を生きる彼ら。これが、あなたがきっと頭の中にあった海の中。私の考える綺麗な海の中。
(完成させたい、はやく、完成した海を、みたい。私が描いた海を、私が見たい)
 筆は勝手に動く。まるで自分のものではないかのような感覚だった。無我夢中で描く。こんなこと初めてだ。こんな気持ち、初めてだ。

 わたしはえがく。

 海を。彼を。うみを。うみをえがく。

 私の中の彼が消えないように。

 彼がどこかにいることをねがいながら、描きながらいろんなことを想った。海中と出会ってからの今までの短い日々を思い返す。私は知らない自分にいっぱい会えた。

 誰かと話す楽しさ。誰かと一緒にいる嬉しさ。触れられたくない苦しみ。嘘を吐いてしまう罪悪感。意識が飛ぶほどの怒り。頭が兄以上に回るときもあること。体が姉以上に動いてしまうことがあること。自分には思ったことをぶつける強さがあること。

 あなたに会えないさみしさも。あなたに、次も会えるかも分からない悲しさも。

 そして、描きたい絵が出来たことも。描きたいものを描いている感覚がこんなにも気持ちがいいものであることも。描いているものをはやく創り上げたいという焦る気持ちも。全部が全部、初めてのことであって、全て私という人間の愛おしいものであるということも。

 ああ、私は、人間だった。父の決めた美しい絵を描くための役割を演じていた私じゃない。私が決めた美しい絵を描きたい美絵というひとりの人間がここにいる。海中に、会えたから知れたこと。今までより苦しいけれど、今までより私はちゃんと生きている。

 海中の言った『海の中で死にたい』という夢を叶えられるように。『海中が死にたいと思える美しい海』を描ける日がいつか訪れますように。

 私自身が描いてみたくなったの。

 わたしは、うみをえがく。

 これは『夢』と呼べるのかな。思い描いていた夢とは随分と苦しくて悲しくて、何だか違う気もするけれど、きっとこれが、私の思う『夢』だよ。海中。今なら、言えるよ。私が本当にやりたいこと。それはあなたのうみをえがくこと。
 あなたの想う美しい海を、私の意思で描きたい。あんなに嫌いだ、退屈だと思った絵。それは私が描きたいと思っていなかったことだったからだった。やっと、私は私がこの名前を選んだ理由がわかったよ。
 絵を描くことこそが、私が選んだことだ。誰でもない、私自身の選択だった。最初から私はいたのよ。





 描き始めて何時間経ったのか。筆をとめて、だらりと力を抜いた。今何時なのか、私以外のことがどうなっているのかわからない。私の描きたいものを、キャンバスに映し出し終えた満足感とほんの少しの喪失感に浸ることしかできない。ぼんやりと目の前のキャンバスを見つめる。

 ねえ。これが、私の考える『あなたのうみ』だよ。

 深い色の青い海のなかにいる、海の生き物たち。底にはダイオウグソクムシを描いてみた。どうかな、海中。これが『私』が初めて描いた絵だよ。今までの絵のどれよりも、輝かしく美しく、描けたよ。届くかな。届いて、ほしいよ。


 せっかく出来た海は、視界がぼやけて上手く見えなかった。



 あれから。私を取り巻く環境はすっかり変わった。いつの間にか私は朝まで美術室にいたらしく、美術顧問の先生に見つけられた。案外驚いた様子が無かったのは本当は親から連絡が学校に入った直後に、先生が私を見つけていたかららしい。何故他の先生に言わなかったのか、それは私が今までにないほど一心不乱にキャンバスに向かっているところを邪魔したくなかったから、だと。みんなには内緒だよと笑う先生。
 美術系だからだろうか、他の人と感性が違う。私も、この先生も同類なのかと思うと少し複雑だった。
処置もせず時間が経っているせいで叩かれた頬がパンパンに腫れていることや今まで絵を描くのがつまらなかったのは父のせいだと私を見つけた先生に伝えてみら、上手く言ってくれたようで父はあの日以来私の絵に口出しすることもなければ、関心も持たなくなった。周りに白い目で見られたことが堪えたのか、父が望む絵じゃなく私の好む絵が最優秀賞を貰うことができたせいなのかは分からない。とにかく、私が望んだ、自分の絵を描く環境を得ることができた。
 最優秀賞をもらえたけれど、私にはどうでもよかった。その結果を聞くころには私はもう次の海にとりかかっていたからだ。どこかにいるかもしれない彼に届いてほしい、ただそれだけの想いだった。

 彼は、あれから行方不明のままだ。だけど彼の母親と対面したよ。汚い金髪で、骨しかないような細身に安っぽい赤いドレスみたいな格好をしていて面倒くさそうにしていたから、息子であるはずの海中に興味がないのかもしれない。たぶん、捜索願は出されていないんじゃないかな。警察は来なかった。

「あんた、あいつが好きなの?趣味悪いわねえ」
「ええ。あんたみたいなのが海中の母親だとは驚きましたよ。そちらは虫も酔ってきそうな馬鹿みたいに甘い匂いを漂わせていてよく平然とした顔をしてらっしゃいますね。正直不愉快です」
「美絵!お前は黙っていなさい!私の娘はそちらの息子さんとは仲良くはさせていただいてはおりましたが、今回の件は娘は無関係でして……」
 不躾な視線とともにそんな失礼なことをいうものだから思わずそう言い返してしまったら、父が私を叱り、彼の母にはぺこぺこしていた。情けないな。家だとあんなに大きな存在だったのに。こうしてみると情けなく腰の低い小太りの中年の男だ。
 失礼な子どものことを叱るくせに失礼な大人には何も言わないのって不思議ね。何故彼の母と話すことになったのかと言えば、私が海中とともにいたと噂があったからだ。
 まあ、海中はあの爆弾を落として以来忽然と姿を消して、その日私もどこかへ駆け出していったからそう疑われるのも無理はないのかもしれない。……私に、一緒に海の中に行こうと言ってくれたのなら、どれだけ良かったかしらね。
 そういえば海中をいじめていた彼らは停学になってその後学校もやめたみたい。どうでもいいけどね。いつの間にか海中に関することは誰も話さなくなって、私の絵が受賞したことで持ちきりになった。まるで、海中の存在は最初からいなかったかのように。日常は回っていて私以外の世界はいつも通りだった。


 でも、私だけは、いつも通りにはなれない。なろうとも思わない。私は知ってしまった。海が生まれてしまった。生まれてしまったからには、もう愛すしかないの。だから。


 今日も私は海を待っている。せめて、またもう一度だけ。一度だけでいいの。私は、あなたに会いたい。



「ねえ、私の描く絵こそ、あなたの海になれたのなら……。どうか、私とこの世界で生きて。海の中よりも苦しいかもしれないけれど、私もとなりにいるから、お願い」



 そう願って私はまた今日も、うみをえがく。
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