うみをえがく。
いつの間にか私は自宅の前にいた。
どうやってここまで来たのか、いつ落ち着いたのか、おじいさんになんと言ったのか、濡れたままの私を他人がどう見てきたのか、全部覚えていない。覚えているのは、私は覚悟を決めたこと。そして、海中にまた会うことを諦めないこと。それを彼のアカウントに決意表明をしたこと。それを叶えるために。
「戦うわ」
爆弾を置いた彼のように私もこの現状を打破してやろう。自分を鼓舞するためにそう呟き、震える手で門を開き、そして玄関の扉も開けた。
家の中に入ると恐ろしいほど家は静まり返っていた。靴は私以外の家族が揃っていた。きっととんでもなく怒っているのだろう。リビングから冷えて尖った空気がこちらまで伝わってくる。ごくりと唾を飲み込んで一歩踏み出す。そして。
ーーーダダダダッ!
靴を脱ぐことなく家に上がり、音を立てて階段を上った。
この地点ですでにやばいことは分かってるし、普通に行儀が悪いのも充分理解してる。それでも私はこのまま二階に駆け上る。靴を履いたまま勢いよく階段を登ったのだから当然音は響く。すでに気付かれているだろう。これから行おうとしていることは私にとってとても必要で、父は全く望んでいないこと。
部屋について少しの時間稼ぎにしかならないだろうけれど鍵のない扉を閉めて、私はスクールバックをそのままに壁に飾られた額縁の中に押し込まれた父のための絵を掴んだ。階段を登る音が複数聞こえてきて私は手に持っていたそれを両手を上げて振りかぶって床に思いっきり投げつけた。
ーーーガッシャーン!
フローリングに勢いよくぶつけられたフレームが割れる。結構な音が響き渡り、私にはもう逃げ道がなくなったと察する。もう、後戻りはできない。
(崩れる……ううん、私が崩すの)
私の部屋の扉が開いたのとほぼ同時に机に寄りかかってあるものをペン立てから取り出して背中の真後ろに隠した。
「美絵っ、今の音はなんだ!怪我は……っ」
「怪我は大丈夫よ。お父さん。ただいま」
出来る限り『いつも通り』を意識した声と表情で『家族』と対峙する。でも、笑顔はもううまく作れていないと思う。とっても、引きつってると思う。声も震えていたかもしれない。でも、これでもう、後戻りはできない。安寧しかないこの籠を……私が壊すの。
「これは、美絵、なにを……なにをしているんだ……」
「うーん……革命かなあ」
「なにを、ふざけたことをっ!」
怒鳴られて反射的に竦みそうになる肩を必死に抑え込んで掴みどころない笑顔を作り続けた。
「美絵、え、な、なに、なにして……」
「なんで、こん、こんなこと……」
兄と姉は怯えた顔をしていた。お母さんは珍しく無表情でこの場を静観している。怒りに満ち溢れて息を荒くしているお父さんに蓄えた肉をふるふると震わせているお兄ちゃんと、意味がわからないといった戸惑いを隠せないお姉ちゃん、無表情で本物の人形……否能面のような顔のお母さん。すべてがおかしくて、おかしくて、たまらない。少しの強がりを含めて私は笑う。わざとらしいぐらいに。
「あは、アハハハハハハハハハハハ!」
「!なにがおかしいっ」
「ふふ、うん。もうお父さんの望んだお父さんのための理想的な家族には、戻れないからさ」
ああ、崩れた、崩した。ああ、おかしい、おかしいなあ。あんなに息苦しいのに壊せなかったものを簡単に私の手で壊そうとしている。なんだ、こんなものだったんだ。こんなの、本当に砂のお城みたいじゃない。
外装だけは立派なそれは、波にのまれたら跡形もなくなる、そんなものだった。この人たちに笑顔を向ける。次は本当に心から笑えた。海中とともにいたときとは違う、もっと空虚な哀れみが合わさったむなしいものだけれど。
「……とにかく、理由を聞かせてくれ。どうしてこんなことをした?学校も、突然飛び出して……今日海中くん、だったか?その子は今日休んだと担任から聞いている。その子が何やら掲示板に無許可で掲示板に貼ったらしいじゃないか。そいつと会っていたのか?だから、今日どこかへ行ったのか?何故こんなことした?美絵は変えられてしまったのか?!」
「質問ばっかりだね、お父さん」
「いいから答えなさい!」
酷い剣幕で怒鳴られた。いつもなら、怖かったはずのそれは、私には虚勢にしか見えなかった。あんなに大きく見えた父が何故か小さく見えた。
「彼は関係ない。……ううん、関係あるけれど彼とは会えなかった。でも、この世界の誰よりも私は海中を求めて他の誰かなんかよりも1番大好き。だから、いても立ってもいられなくて探し回った。それだけよ」
「!ちがう!美絵はそんなこと思わない、言わないんだ!!私の考える美絵は、ちがうっ!せっかく与えてやったのに!やりたいことができる前に役割を与えたんだ、そのとおりにしてくれよ!親の言われ通りにするのが子の役目だろう!特に、お前にはさんざん目をかけてやったのにっ!なあ、俺たちは理想的な家族だったじゃないか、今更、お前が、美絵が、崩すのか?今までちゃんとできていたじゃないか。美絵。きみは優秀な子だ。だから、な?お父さんの言う通りにしてくれるよな?」
父は頭を掻き毟る。せっかくワックスでちゃんと整えていたのに勿体ない。でもまあ、どうでもいいことね。
最後は縋るような、愛玩動物を可愛がるようなそんな声で未だ言うことを聞かせようとしている。これで言うことを聞くだろうという打算が見え見えで鳥肌がたつ。人の話は最後まで聞けと言われるから聞いてあげたけど、聞く価値など無かったわね。
「言いたいことはそれだけ?」
「……え」
拍子抜けしたような声に、男はいったい私にどんな対応を求めていたのか聞きたくなる。まあ、どうせ懇願に感動した私がもちろんだよ、と言ってくれるのを期待したんだろうけれど。私はもう役をおりたからあんたの求める答えなんてもうあげない。
「じゃあ、次は私の番だよね」
呆然とする父と未だ私の部屋に入らずにいる父以外の家族を見る。さあ、革命のときよ。この喉から吐き出す言葉でお前らを突き立ててあげましょう。
「まずは、お兄ちゃん。気持ち悪いわよ」
「は、ぼ、僕?」
「朝のこと忘れていないわけでもないでしょ。いつからか知らないけれど、実の妹に劣情を催すのは、気色悪くて仕方ないわ。ふたりだとなにされるかわかったもんじゃないわ。どうせ、勉強しかしてこなかったから、コミュニケーションとかよくわからないんでしょ。男友だちは知らないけど、女友だちは絶対いないでしょ。だから、妹を彼女としてやりたいことやろうとか思ったんじゃないの」
「っ、ぼ!僕は、そんっそんな!!」
「青春を投げ売って勉強に費やしたところで、トップにはなれないのよね。可哀想ね。勉強にしか時間を費やさなかったのに。有名な大学もことごとく落ちてさ。結局無名の大学に入って……結局こんな変態になっちゃってさ。本当お兄ちゃんって可哀そうな人ね」
「うるさいうるさい!!おまえはっ!僕のこと知らないだろっ」
「知らないし、あんたのことを知るつもりもないわ」
バッサリ言い捨ててやると何故かショックを受けたような顔をするのね。不思議。私達のなかに優しさなんて芽生えることないのに。頭良いのに教えてくれなかったし、知らなかったじゃない。もう、お兄ちゃんは敵じゃないわね。さて、と。次はお前よ。
「お姉ちゃんもさ、面倒くさいわよ」
お兄ちゃんから少し距離を置いて、蔑んだ目で兄を見ているお姉ちゃんだ。あたし?と言わんばかりの顔を睨みつけると怯んでいた。
「自分は社交的で末っ子の私より友だちがいるなんてよく自慢してるけどさ。本当はさ、友だちなんていないでしょ」
「は、何いってんの。あんたと違ってあたしには友だちいるわよ、頭おかしくなっちゃったの?」
「みんなのバックをもったりアザにならない程度に抓られて、蹴られても媚び売った顔で笑っているのが友だちなの?それって友だちとは私は思えないんだけど。それが友だち、なの?」
「なっ、あんた……どこで」
「あーその反応。今も続いているんだね。私たち小中同じ学校だったじゃない?体育の時間とか帰り道とかで見かけたよ。だから結構前から知ってたよ。頭悪いって馬鹿にされているのも、馬鹿育恵とか言われてたのも知ってる」
「っ、なんで、知っていたなら、なんで、なにも……」
「私がお姉ちゃんを助けるの?それこそなんで?どうして?私、お姉ちゃんからされたことをいくらでも思い出せるのに?」
あどけない表情を作ってあざといぐらいに首を傾げて姉に問う。私のことを蔑ろにしてきた人間を助けないといけないの?姉だから?私たちの中に助け合いなんていう慈悲なんて育めていないのに。どうして私がそんなことしないといけないの?そう聞くと口を噤んだ。はあ。ふーん、こんなものなのね。
「お母さんは……どうでもいい。どうせ、私……ううん、私たちの言葉は何も響かないだろうから。憎くもないけど好きでもない。あんたが一番怖い。それだけ。あとはなんもない」
「……」
そこまで娘に言われても、やっぱりお母さんは何も反応がなく無口で無表情に私を見るだけ。与えられることをただ受け入れるだけの器みたい。
本当の愛なんてものはきっとこの人は知らないのだろう。そして与えることも、彼女は出来ないんだと思う。受け入れることしかしてこなかったから。愛を受け入れるなんて聞こえはいいけれど、そんなの、人形以上に自分の意思を放棄しているだけだ。そう生きると決めたのはお母さんだから、別にいい。どうでもいい。
手短になるけどお母さんはこれでおしまい。話し合いなんて塵一つ分の期待もしていないわ。
「お父さん」
「……美絵。おまえは……」
「話は最後まで聞いて。まだお父さんの分終わってないよ」
「っ」
人の話は最後まで聞きなさい。よく私達に言い聞かせるときに教えてくれたもんね。だから、話を遮るのは許されない。他でもないあんたがそれを破るわけにはいかない。ぐっと押し黙る男に微笑みかける。私も、怖いのを抑え込んで切り込む。
「ねえ、楽しかった?気持ちよかった?」
何のことを聞いているのか分からなさそうな男の顔。全て作り上げてきたのは、あんたのくせに。恐怖の中に苛立ちの感情が絵の具のように混ざりあう。
「あんたの自己満足に、付き合わせて、言う事聞かせて、名前なんていう役割まで与えて。あんたのための理想の家族を作り上げられて、よかったね。もう見る影もないけど」
寄りかかったまま指でフレームを作って、みんなを写す。少し前までは、朝までは。みんな笑顔の理想的な家族だった。周囲からも良い家族と讃えられていた。やりたいことをやらせてくれる優しい父親と子どもたちのことを受け入れる母親。笑顔のたえない家族だった。上辺だけは。
あれはお父さんが望むだけの、お父さんのためだけの、お父さんが作った籠の中の家族の絵。
『微笑む父、父の手を握り寄り添う母、内気で勉強好きの長男、活発で運動神経抜群の長女、絵を描くのが好きなマイペースな末っ子』そんな家族だった。
『怒りと戸惑いの父、無表情な母親、顔を青褪めさせて怯えた顔の長男、俯いて何も言えなくなった長女』フレームの中の家族はなにもかも、違っている。ああ、私のことを入れるのを忘れてた。
『言葉の刃を吐く末っ子』……そんなところかしらね。革命児末っ子でもいい気がするけれど。どうでもいい。
フレームを消して、後ろの机に手をついて天井を仰ぐ。室内だから空は見えること無い。当たり前のことに安堵した。
「最初からなかったんだよ。あんたの理想の家族なんて。あんたが、お兄ちゃんに役割なんて与えたときから……すでに」
「……」
「既に崩壊してたのよ。勉強漬けにしてもトップには立てないしコミュニケーション能力が消え失せる。運動だけやらせても才能が開花しなければどうしようもなくて試合にも出れずいじめの標的にされる。絵だけを描かせたところで最優秀賞も優秀賞も取れず、せいぜい佳作までいけたらいいところ。これが私たちが本当にやりたいことであればもっと頑張ろうとか悔しいとか全力は出せたと満足したとか、色々考えたよ。でも、そうじゃない。結果が出せなかった恐怖と満足させることができなかった怯えしかなかった。だって私たち兄妹は……やりたいことを父親に決められたから。役割を与えられてそれを全うしなくてはならなかった。そこに自分の意志なんてものはない。あるのは父親のあんたの意思しかないの」
(ああ、疲れた)
言いたいことを言えた達成感よりも父がどんな対応してくるのか恐怖するよりも、これ以上ないほどに自分の思ったことを口に出した疲れが何よりも勝った。
「……言いたいことはそれだけか?」
「……」
「それなら、屋根裏部屋へ行きなさい」
「………」
「美絵」
言い聞かせるように名前を呼ぶお父さんの顔はいつも通り冷めていた。いつもより焦りが出ているけれど、それでも返答はいつも通り、予想通りのものだった。
何かいつもと変わった返答が来るのかなと期待していた。こっちが思ったことを伝えて、あっちも何か腹のうちの訴えたいことを私にも伝えてくれたのなら。これからの家族のことをみんなで一緒に考えて寄り添って妥協して努力して、父だけじゃない独善的な理想じゃない、みんなの想う理想の家族になれるかもしれないというほんのわずかな可能性も考えていた。だけど、父はやっぱり自分のことが一番みたい。
「ハァーーーー」
深くて長い長いため息をした。不快そうに眉を顰められたけれど、そうしたいのはこっちの方よ。私が大人しくいうことを聞くとまだ思ってるんだもん。呆れちゃうよ。それなら、私ももういい。最後の息の根を止めてやる。人差し指を男の喉仏に向けて刃を突き立てる。
「あんたはほんとうは、音楽をやりたかったんだよね」
そういうと明らかに男は狼狽える。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、あのお母さんでさえも、驚いた顔をしている。まさか、これだけ役割に拘ってきた父親がそんなものをやりたいだなんて、と言わんばかりの顔をしていた。
「!な、そんなわけ……」
「気付かれていないと思った?だって、お父さんさ。音楽番組を変えるのは勿論のことだけど。音楽を夢見る人のことをやっていたり、最近歌手デビューしたとかいう人がテレビに出ていたらチャンネルをすぐに変えていたじゃない?あんなもの目指すなんて、って口では言っていたけれどそれは本当の自分のやりたいことの裏返しだったんじゃないの?現に、芸術系の役割を与えようとした私には音楽か絵かで選ばせていたぐらいだしね」
「っ、」
苦虫を嚙み潰したようしたような、苦しそうで悔しそうな表情をするお父さん。
(あ、本当なんだ)
正直半分ぐらいはったりだった。父以外の家族への評判と信仰心に揺さぶりをかけたかったから、私は裏付けされたっぽいそれらしいことを言って否定されようとも適当に理由を付けておこうと思っていたからだ。
(まあ、普段音楽を遠ざけているくせして、私には美音という名の選択肢も与えるという矛盾があるから、そうじゃないかとは思っていたけれど、確信も裏付けも無かったから自信はなかった。この反応は、予想以上にお父さんにとって痛いところだったみたい)
そうなると……赤ちゃんの頃の自分の名前の選択肢は間違えていなかった。それも確信した。
ただでさえ理想の家族を作り上げるために役割を与えてくる面倒くさい男が、自分が叶えられなかった夢を私に継がせようとされたらとんでもないことになっていただろう。本当に絵を選んでよかった。
嫌だったし退屈だとも感じていたけれど、夢を得ることができたのだから……海中と出会うことができたから。それだけは感謝してもいいかもしれない。それでもぶっ壊してやるけれどね。
「ああ、現在進行系でやりたい、のかな?まあ、私にはどうでもいいけどね」
「っお前は!」
「うぐっ」
「っおとうさん!?」
「一体、何をしたいんだ!せっかくお前たちが個性を出す前に学ぶべきことを学ばせてやった!得意分野を名前に与えれば、それに集中するだけだ!!お前たちは私の、俺の!!籠の中で生きていればいい!
愛受も勉も育恵も、美絵!お前もだ!!確かに恐怖で縛り付けたところはあった。だが、それはお前たちをおもってのことだ!俺の愛だ!俺の愛をお前たちに与え、与えられたお前たちはただ受け入れて結果を出せばいいんだ!!籠の中でしかお前たちは生きられないのだから!!」
「く、っ、それが!余計なお世話だって言っているのよ!そんなの、こっちは望んでいないわよ!!!」
「おまえは、まだそんなこと……っ!?」
「よ、美絵……?」
胸倉を掴んで引き寄せられてよく分からないことを言われる。息苦しくてちゃんと理解できなかったけれど、これからも自分のいうことを聞いていればいいと言われてることは分かって、声を張り上げて否定してずっと背中に隠し持っていたものをその顔に押し当てた。ひやりとした感触にさぞ驚いただろう。
手に持っていた鋏の金属部分の、平らなところを、頬に押し当てられたのだから。
男は目を見開いて私を開放して、二歩三歩後ろに下がった。みんな驚き、怯えた顔をする。そんな彼らに私は二、三度咳き込みながらも微笑みかける。
鋏の持ち手のところを握りしめて、まるでナイフのようになった鋏の先端は鈍く輝いている。一歩、近づいて語りかける。最後の、私の、意思表示。鋏を持っていない手で胸をそっと抑える。
「最後に私ね。私は、ずっと強いつもりでいた。多分一番上手く演じてきたよね。みんなのことをよく観察して最低限叱らないように動いた。私自身の安寧のために、ずっと賢いフリをしてきた。お父さんのいう通りに、お父さんが望んだ、お父さんのために絵を描いてきた。本当にやりたいことも私自身が夢をみることもしなかった。お父さんが怖かったから、ずっと演じてきたの。……でもね、もう私じゃない私を演じるの、疲れた。だから、もうやめるね」
最後は何故か声が震えてしまった。あれだけ降りたかった役を降りるこのときを、悲しいと感じるのはどうしてかなあ。胸の中がぽっかり空いた気分になるのはどうしてかなあ。でもね、私は決めたの。もう後戻りはしない、ああ、海中もこんな気持ちであの海に行ったのかな。
後ろ髪引かれる気持ちになった理由に私もいたんだね。少しだけ、理解できた気がする。そして、もう一歩踏み出して私は鋏を振り下ろした。
砕かれた額縁の中、無傷だった植物に囲まれ青い空に愛されている天使のような容姿の微笑んでいる女に向けて。笑顔の女は可哀そうに突き破られ顔にぽっかり黒い丸が生まれる。穴が空いたその箇所から、そのまま上へと移動させて空を破り、右に行き、左に行き、下に行き……そして、その思い入れもなにもない絵は見るも無残な姿へ変貌を遂げた。そこまでしてやっと私は解放された気持ちになって、立ち上がり鋏をするりと床に流れ落ちる。満足感とも寂寥感ともとれる気持ちでぼんやりするけれど、すぐに現実に引き戻される。
ーーーバチンッ!!
乾いた音が響き渡る。その音の発生源は私だった。
視界がさっきと違うところを向いているのは、勢いよく叩かれて勝手に顔の方向が変わったからだ。横目で視線を向けると父が手を構えていた。父に叩かれた。手が出るのはいつぶりかな。もしかして初めてなのかな。叩いた本人も驚いているみたいだしね。
(お父さんの本性を引き出せたのかな。それなら私の勝ちだ)
じんじん痛む頬をそのままににっこりと笑いかける。口角を上げると叩かれた方の頬が痛むけれど、海中が受けてきた暴力に比べたら大したものじゃないだろう。これで海中に近づいたとは思わない。バラバラに散らばった絵だったものと、理想の家族だったもの、今まで役割を与えてきたもの。全部過去のものにするの。
そして、ずっと大事にとっておいた私が嫌いだった私も、捨てる。
「私は、こんな絵を描きたくなんてなかった。私のものじゃない絵なんて面白くなかった。つまらなくて仕方がなくて絵に向き合っている時間が苦痛だったわ。もう、お父さんの思う美しい絵は描かない。……ううん。たぶん、もう、描けないや。これからは、私は。私のために、私の思う美しい絵を描くわ」
そう言って私は駆け出す。呆然として固まっている家族の真ん中をかき分けて階段を降りると、上からいち早く頭が働いたらしいお父さんの怒声が聞こえてくる。
「おい、捕まえろ!!」
私を追う足音が響いたところで私は玄関の扉を閉めて鍵を締めて家に入る前に置いておいたバケツを避けて道を駆け出した。多少の足止めになるかなと思ったけれど、後ろの方からちゃんとバケツに足がひっかかったみたいで悲鳴が聞こえてきた。気分が良い。
道を曲がって、さらにまた曲がり駅まで走る。目指すところは学校。私は、もう自由だ。もう誰かの言う通りになんてしない。してやるものか。私は私の意思で生きる。
「海中、待っててね」
夕日の中を駆け出す私は傍から見たらどう見えているのかな。青い春なんて臭いことを他人は言いそうだなあ。まあ、どうでもいいことよね。私がこうしたいからこうする。それだけのことなのだから。
どうやってここまで来たのか、いつ落ち着いたのか、おじいさんになんと言ったのか、濡れたままの私を他人がどう見てきたのか、全部覚えていない。覚えているのは、私は覚悟を決めたこと。そして、海中にまた会うことを諦めないこと。それを彼のアカウントに決意表明をしたこと。それを叶えるために。
「戦うわ」
爆弾を置いた彼のように私もこの現状を打破してやろう。自分を鼓舞するためにそう呟き、震える手で門を開き、そして玄関の扉も開けた。
家の中に入ると恐ろしいほど家は静まり返っていた。靴は私以外の家族が揃っていた。きっととんでもなく怒っているのだろう。リビングから冷えて尖った空気がこちらまで伝わってくる。ごくりと唾を飲み込んで一歩踏み出す。そして。
ーーーダダダダッ!
靴を脱ぐことなく家に上がり、音を立てて階段を上った。
この地点ですでにやばいことは分かってるし、普通に行儀が悪いのも充分理解してる。それでも私はこのまま二階に駆け上る。靴を履いたまま勢いよく階段を登ったのだから当然音は響く。すでに気付かれているだろう。これから行おうとしていることは私にとってとても必要で、父は全く望んでいないこと。
部屋について少しの時間稼ぎにしかならないだろうけれど鍵のない扉を閉めて、私はスクールバックをそのままに壁に飾られた額縁の中に押し込まれた父のための絵を掴んだ。階段を登る音が複数聞こえてきて私は手に持っていたそれを両手を上げて振りかぶって床に思いっきり投げつけた。
ーーーガッシャーン!
フローリングに勢いよくぶつけられたフレームが割れる。結構な音が響き渡り、私にはもう逃げ道がなくなったと察する。もう、後戻りはできない。
(崩れる……ううん、私が崩すの)
私の部屋の扉が開いたのとほぼ同時に机に寄りかかってあるものをペン立てから取り出して背中の真後ろに隠した。
「美絵っ、今の音はなんだ!怪我は……っ」
「怪我は大丈夫よ。お父さん。ただいま」
出来る限り『いつも通り』を意識した声と表情で『家族』と対峙する。でも、笑顔はもううまく作れていないと思う。とっても、引きつってると思う。声も震えていたかもしれない。でも、これでもう、後戻りはできない。安寧しかないこの籠を……私が壊すの。
「これは、美絵、なにを……なにをしているんだ……」
「うーん……革命かなあ」
「なにを、ふざけたことをっ!」
怒鳴られて反射的に竦みそうになる肩を必死に抑え込んで掴みどころない笑顔を作り続けた。
「美絵、え、な、なに、なにして……」
「なんで、こん、こんなこと……」
兄と姉は怯えた顔をしていた。お母さんは珍しく無表情でこの場を静観している。怒りに満ち溢れて息を荒くしているお父さんに蓄えた肉をふるふると震わせているお兄ちゃんと、意味がわからないといった戸惑いを隠せないお姉ちゃん、無表情で本物の人形……否能面のような顔のお母さん。すべてがおかしくて、おかしくて、たまらない。少しの強がりを含めて私は笑う。わざとらしいぐらいに。
「あは、アハハハハハハハハハハハ!」
「!なにがおかしいっ」
「ふふ、うん。もうお父さんの望んだお父さんのための理想的な家族には、戻れないからさ」
ああ、崩れた、崩した。ああ、おかしい、おかしいなあ。あんなに息苦しいのに壊せなかったものを簡単に私の手で壊そうとしている。なんだ、こんなものだったんだ。こんなの、本当に砂のお城みたいじゃない。
外装だけは立派なそれは、波にのまれたら跡形もなくなる、そんなものだった。この人たちに笑顔を向ける。次は本当に心から笑えた。海中とともにいたときとは違う、もっと空虚な哀れみが合わさったむなしいものだけれど。
「……とにかく、理由を聞かせてくれ。どうしてこんなことをした?学校も、突然飛び出して……今日海中くん、だったか?その子は今日休んだと担任から聞いている。その子が何やら掲示板に無許可で掲示板に貼ったらしいじゃないか。そいつと会っていたのか?だから、今日どこかへ行ったのか?何故こんなことした?美絵は変えられてしまったのか?!」
「質問ばっかりだね、お父さん」
「いいから答えなさい!」
酷い剣幕で怒鳴られた。いつもなら、怖かったはずのそれは、私には虚勢にしか見えなかった。あんなに大きく見えた父が何故か小さく見えた。
「彼は関係ない。……ううん、関係あるけれど彼とは会えなかった。でも、この世界の誰よりも私は海中を求めて他の誰かなんかよりも1番大好き。だから、いても立ってもいられなくて探し回った。それだけよ」
「!ちがう!美絵はそんなこと思わない、言わないんだ!!私の考える美絵は、ちがうっ!せっかく与えてやったのに!やりたいことができる前に役割を与えたんだ、そのとおりにしてくれよ!親の言われ通りにするのが子の役目だろう!特に、お前にはさんざん目をかけてやったのにっ!なあ、俺たちは理想的な家族だったじゃないか、今更、お前が、美絵が、崩すのか?今までちゃんとできていたじゃないか。美絵。きみは優秀な子だ。だから、な?お父さんの言う通りにしてくれるよな?」
父は頭を掻き毟る。せっかくワックスでちゃんと整えていたのに勿体ない。でもまあ、どうでもいいことね。
最後は縋るような、愛玩動物を可愛がるようなそんな声で未だ言うことを聞かせようとしている。これで言うことを聞くだろうという打算が見え見えで鳥肌がたつ。人の話は最後まで聞けと言われるから聞いてあげたけど、聞く価値など無かったわね。
「言いたいことはそれだけ?」
「……え」
拍子抜けしたような声に、男はいったい私にどんな対応を求めていたのか聞きたくなる。まあ、どうせ懇願に感動した私がもちろんだよ、と言ってくれるのを期待したんだろうけれど。私はもう役をおりたからあんたの求める答えなんてもうあげない。
「じゃあ、次は私の番だよね」
呆然とする父と未だ私の部屋に入らずにいる父以外の家族を見る。さあ、革命のときよ。この喉から吐き出す言葉でお前らを突き立ててあげましょう。
「まずは、お兄ちゃん。気持ち悪いわよ」
「は、ぼ、僕?」
「朝のこと忘れていないわけでもないでしょ。いつからか知らないけれど、実の妹に劣情を催すのは、気色悪くて仕方ないわ。ふたりだとなにされるかわかったもんじゃないわ。どうせ、勉強しかしてこなかったから、コミュニケーションとかよくわからないんでしょ。男友だちは知らないけど、女友だちは絶対いないでしょ。だから、妹を彼女としてやりたいことやろうとか思ったんじゃないの」
「っ、ぼ!僕は、そんっそんな!!」
「青春を投げ売って勉強に費やしたところで、トップにはなれないのよね。可哀想ね。勉強にしか時間を費やさなかったのに。有名な大学もことごとく落ちてさ。結局無名の大学に入って……結局こんな変態になっちゃってさ。本当お兄ちゃんって可哀そうな人ね」
「うるさいうるさい!!おまえはっ!僕のこと知らないだろっ」
「知らないし、あんたのことを知るつもりもないわ」
バッサリ言い捨ててやると何故かショックを受けたような顔をするのね。不思議。私達のなかに優しさなんて芽生えることないのに。頭良いのに教えてくれなかったし、知らなかったじゃない。もう、お兄ちゃんは敵じゃないわね。さて、と。次はお前よ。
「お姉ちゃんもさ、面倒くさいわよ」
お兄ちゃんから少し距離を置いて、蔑んだ目で兄を見ているお姉ちゃんだ。あたし?と言わんばかりの顔を睨みつけると怯んでいた。
「自分は社交的で末っ子の私より友だちがいるなんてよく自慢してるけどさ。本当はさ、友だちなんていないでしょ」
「は、何いってんの。あんたと違ってあたしには友だちいるわよ、頭おかしくなっちゃったの?」
「みんなのバックをもったりアザにならない程度に抓られて、蹴られても媚び売った顔で笑っているのが友だちなの?それって友だちとは私は思えないんだけど。それが友だち、なの?」
「なっ、あんた……どこで」
「あーその反応。今も続いているんだね。私たち小中同じ学校だったじゃない?体育の時間とか帰り道とかで見かけたよ。だから結構前から知ってたよ。頭悪いって馬鹿にされているのも、馬鹿育恵とか言われてたのも知ってる」
「っ、なんで、知っていたなら、なんで、なにも……」
「私がお姉ちゃんを助けるの?それこそなんで?どうして?私、お姉ちゃんからされたことをいくらでも思い出せるのに?」
あどけない表情を作ってあざといぐらいに首を傾げて姉に問う。私のことを蔑ろにしてきた人間を助けないといけないの?姉だから?私たちの中に助け合いなんていう慈悲なんて育めていないのに。どうして私がそんなことしないといけないの?そう聞くと口を噤んだ。はあ。ふーん、こんなものなのね。
「お母さんは……どうでもいい。どうせ、私……ううん、私たちの言葉は何も響かないだろうから。憎くもないけど好きでもない。あんたが一番怖い。それだけ。あとはなんもない」
「……」
そこまで娘に言われても、やっぱりお母さんは何も反応がなく無口で無表情に私を見るだけ。与えられることをただ受け入れるだけの器みたい。
本当の愛なんてものはきっとこの人は知らないのだろう。そして与えることも、彼女は出来ないんだと思う。受け入れることしかしてこなかったから。愛を受け入れるなんて聞こえはいいけれど、そんなの、人形以上に自分の意思を放棄しているだけだ。そう生きると決めたのはお母さんだから、別にいい。どうでもいい。
手短になるけどお母さんはこれでおしまい。話し合いなんて塵一つ分の期待もしていないわ。
「お父さん」
「……美絵。おまえは……」
「話は最後まで聞いて。まだお父さんの分終わってないよ」
「っ」
人の話は最後まで聞きなさい。よく私達に言い聞かせるときに教えてくれたもんね。だから、話を遮るのは許されない。他でもないあんたがそれを破るわけにはいかない。ぐっと押し黙る男に微笑みかける。私も、怖いのを抑え込んで切り込む。
「ねえ、楽しかった?気持ちよかった?」
何のことを聞いているのか分からなさそうな男の顔。全て作り上げてきたのは、あんたのくせに。恐怖の中に苛立ちの感情が絵の具のように混ざりあう。
「あんたの自己満足に、付き合わせて、言う事聞かせて、名前なんていう役割まで与えて。あんたのための理想の家族を作り上げられて、よかったね。もう見る影もないけど」
寄りかかったまま指でフレームを作って、みんなを写す。少し前までは、朝までは。みんな笑顔の理想的な家族だった。周囲からも良い家族と讃えられていた。やりたいことをやらせてくれる優しい父親と子どもたちのことを受け入れる母親。笑顔のたえない家族だった。上辺だけは。
あれはお父さんが望むだけの、お父さんのためだけの、お父さんが作った籠の中の家族の絵。
『微笑む父、父の手を握り寄り添う母、内気で勉強好きの長男、活発で運動神経抜群の長女、絵を描くのが好きなマイペースな末っ子』そんな家族だった。
『怒りと戸惑いの父、無表情な母親、顔を青褪めさせて怯えた顔の長男、俯いて何も言えなくなった長女』フレームの中の家族はなにもかも、違っている。ああ、私のことを入れるのを忘れてた。
『言葉の刃を吐く末っ子』……そんなところかしらね。革命児末っ子でもいい気がするけれど。どうでもいい。
フレームを消して、後ろの机に手をついて天井を仰ぐ。室内だから空は見えること無い。当たり前のことに安堵した。
「最初からなかったんだよ。あんたの理想の家族なんて。あんたが、お兄ちゃんに役割なんて与えたときから……すでに」
「……」
「既に崩壊してたのよ。勉強漬けにしてもトップには立てないしコミュニケーション能力が消え失せる。運動だけやらせても才能が開花しなければどうしようもなくて試合にも出れずいじめの標的にされる。絵だけを描かせたところで最優秀賞も優秀賞も取れず、せいぜい佳作までいけたらいいところ。これが私たちが本当にやりたいことであればもっと頑張ろうとか悔しいとか全力は出せたと満足したとか、色々考えたよ。でも、そうじゃない。結果が出せなかった恐怖と満足させることができなかった怯えしかなかった。だって私たち兄妹は……やりたいことを父親に決められたから。役割を与えられてそれを全うしなくてはならなかった。そこに自分の意志なんてものはない。あるのは父親のあんたの意思しかないの」
(ああ、疲れた)
言いたいことを言えた達成感よりも父がどんな対応してくるのか恐怖するよりも、これ以上ないほどに自分の思ったことを口に出した疲れが何よりも勝った。
「……言いたいことはそれだけか?」
「……」
「それなら、屋根裏部屋へ行きなさい」
「………」
「美絵」
言い聞かせるように名前を呼ぶお父さんの顔はいつも通り冷めていた。いつもより焦りが出ているけれど、それでも返答はいつも通り、予想通りのものだった。
何かいつもと変わった返答が来るのかなと期待していた。こっちが思ったことを伝えて、あっちも何か腹のうちの訴えたいことを私にも伝えてくれたのなら。これからの家族のことをみんなで一緒に考えて寄り添って妥協して努力して、父だけじゃない独善的な理想じゃない、みんなの想う理想の家族になれるかもしれないというほんのわずかな可能性も考えていた。だけど、父はやっぱり自分のことが一番みたい。
「ハァーーーー」
深くて長い長いため息をした。不快そうに眉を顰められたけれど、そうしたいのはこっちの方よ。私が大人しくいうことを聞くとまだ思ってるんだもん。呆れちゃうよ。それなら、私ももういい。最後の息の根を止めてやる。人差し指を男の喉仏に向けて刃を突き立てる。
「あんたはほんとうは、音楽をやりたかったんだよね」
そういうと明らかに男は狼狽える。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、あのお母さんでさえも、驚いた顔をしている。まさか、これだけ役割に拘ってきた父親がそんなものをやりたいだなんて、と言わんばかりの顔をしていた。
「!な、そんなわけ……」
「気付かれていないと思った?だって、お父さんさ。音楽番組を変えるのは勿論のことだけど。音楽を夢見る人のことをやっていたり、最近歌手デビューしたとかいう人がテレビに出ていたらチャンネルをすぐに変えていたじゃない?あんなもの目指すなんて、って口では言っていたけれどそれは本当の自分のやりたいことの裏返しだったんじゃないの?現に、芸術系の役割を与えようとした私には音楽か絵かで選ばせていたぐらいだしね」
「っ、」
苦虫を嚙み潰したようしたような、苦しそうで悔しそうな表情をするお父さん。
(あ、本当なんだ)
正直半分ぐらいはったりだった。父以外の家族への評判と信仰心に揺さぶりをかけたかったから、私は裏付けされたっぽいそれらしいことを言って否定されようとも適当に理由を付けておこうと思っていたからだ。
(まあ、普段音楽を遠ざけているくせして、私には美音という名の選択肢も与えるという矛盾があるから、そうじゃないかとは思っていたけれど、確信も裏付けも無かったから自信はなかった。この反応は、予想以上にお父さんにとって痛いところだったみたい)
そうなると……赤ちゃんの頃の自分の名前の選択肢は間違えていなかった。それも確信した。
ただでさえ理想の家族を作り上げるために役割を与えてくる面倒くさい男が、自分が叶えられなかった夢を私に継がせようとされたらとんでもないことになっていただろう。本当に絵を選んでよかった。
嫌だったし退屈だとも感じていたけれど、夢を得ることができたのだから……海中と出会うことができたから。それだけは感謝してもいいかもしれない。それでもぶっ壊してやるけれどね。
「ああ、現在進行系でやりたい、のかな?まあ、私にはどうでもいいけどね」
「っお前は!」
「うぐっ」
「っおとうさん!?」
「一体、何をしたいんだ!せっかくお前たちが個性を出す前に学ぶべきことを学ばせてやった!得意分野を名前に与えれば、それに集中するだけだ!!お前たちは私の、俺の!!籠の中で生きていればいい!
愛受も勉も育恵も、美絵!お前もだ!!確かに恐怖で縛り付けたところはあった。だが、それはお前たちをおもってのことだ!俺の愛だ!俺の愛をお前たちに与え、与えられたお前たちはただ受け入れて結果を出せばいいんだ!!籠の中でしかお前たちは生きられないのだから!!」
「く、っ、それが!余計なお世話だって言っているのよ!そんなの、こっちは望んでいないわよ!!!」
「おまえは、まだそんなこと……っ!?」
「よ、美絵……?」
胸倉を掴んで引き寄せられてよく分からないことを言われる。息苦しくてちゃんと理解できなかったけれど、これからも自分のいうことを聞いていればいいと言われてることは分かって、声を張り上げて否定してずっと背中に隠し持っていたものをその顔に押し当てた。ひやりとした感触にさぞ驚いただろう。
手に持っていた鋏の金属部分の、平らなところを、頬に押し当てられたのだから。
男は目を見開いて私を開放して、二歩三歩後ろに下がった。みんな驚き、怯えた顔をする。そんな彼らに私は二、三度咳き込みながらも微笑みかける。
鋏の持ち手のところを握りしめて、まるでナイフのようになった鋏の先端は鈍く輝いている。一歩、近づいて語りかける。最後の、私の、意思表示。鋏を持っていない手で胸をそっと抑える。
「最後に私ね。私は、ずっと強いつもりでいた。多分一番上手く演じてきたよね。みんなのことをよく観察して最低限叱らないように動いた。私自身の安寧のために、ずっと賢いフリをしてきた。お父さんのいう通りに、お父さんが望んだ、お父さんのために絵を描いてきた。本当にやりたいことも私自身が夢をみることもしなかった。お父さんが怖かったから、ずっと演じてきたの。……でもね、もう私じゃない私を演じるの、疲れた。だから、もうやめるね」
最後は何故か声が震えてしまった。あれだけ降りたかった役を降りるこのときを、悲しいと感じるのはどうしてかなあ。胸の中がぽっかり空いた気分になるのはどうしてかなあ。でもね、私は決めたの。もう後戻りはしない、ああ、海中もこんな気持ちであの海に行ったのかな。
後ろ髪引かれる気持ちになった理由に私もいたんだね。少しだけ、理解できた気がする。そして、もう一歩踏み出して私は鋏を振り下ろした。
砕かれた額縁の中、無傷だった植物に囲まれ青い空に愛されている天使のような容姿の微笑んでいる女に向けて。笑顔の女は可哀そうに突き破られ顔にぽっかり黒い丸が生まれる。穴が空いたその箇所から、そのまま上へと移動させて空を破り、右に行き、左に行き、下に行き……そして、その思い入れもなにもない絵は見るも無残な姿へ変貌を遂げた。そこまでしてやっと私は解放された気持ちになって、立ち上がり鋏をするりと床に流れ落ちる。満足感とも寂寥感ともとれる気持ちでぼんやりするけれど、すぐに現実に引き戻される。
ーーーバチンッ!!
乾いた音が響き渡る。その音の発生源は私だった。
視界がさっきと違うところを向いているのは、勢いよく叩かれて勝手に顔の方向が変わったからだ。横目で視線を向けると父が手を構えていた。父に叩かれた。手が出るのはいつぶりかな。もしかして初めてなのかな。叩いた本人も驚いているみたいだしね。
(お父さんの本性を引き出せたのかな。それなら私の勝ちだ)
じんじん痛む頬をそのままににっこりと笑いかける。口角を上げると叩かれた方の頬が痛むけれど、海中が受けてきた暴力に比べたら大したものじゃないだろう。これで海中に近づいたとは思わない。バラバラに散らばった絵だったものと、理想の家族だったもの、今まで役割を与えてきたもの。全部過去のものにするの。
そして、ずっと大事にとっておいた私が嫌いだった私も、捨てる。
「私は、こんな絵を描きたくなんてなかった。私のものじゃない絵なんて面白くなかった。つまらなくて仕方がなくて絵に向き合っている時間が苦痛だったわ。もう、お父さんの思う美しい絵は描かない。……ううん。たぶん、もう、描けないや。これからは、私は。私のために、私の思う美しい絵を描くわ」
そう言って私は駆け出す。呆然として固まっている家族の真ん中をかき分けて階段を降りると、上からいち早く頭が働いたらしいお父さんの怒声が聞こえてくる。
「おい、捕まえろ!!」
私を追う足音が響いたところで私は玄関の扉を閉めて鍵を締めて家に入る前に置いておいたバケツを避けて道を駆け出した。多少の足止めになるかなと思ったけれど、後ろの方からちゃんとバケツに足がひっかかったみたいで悲鳴が聞こえてきた。気分が良い。
道を曲がって、さらにまた曲がり駅まで走る。目指すところは学校。私は、もう自由だ。もう誰かの言う通りになんてしない。してやるものか。私は私の意思で生きる。
「海中、待っててね」
夕日の中を駆け出す私は傍から見たらどう見えているのかな。青い春なんて臭いことを他人は言いそうだなあ。まあ、どうでもいいことよね。私がこうしたいからこうする。それだけのことなのだから。