うみをえがく。



 目を閉じればいつだって思い出せる。海と出会ったあの日のことを。私が今までの私じゃなくなってしまったあの日のことを。
 父が評価する言葉しか無かった私は、彼の海の色によって塗り替えられてしまった。





 絵具をキャンバスに塗りたくる。
 アンティーク調の机の上に乗せられた赤い薔薇が生けられた花瓶と金の懐中時計、そして背景には鳥かごの中のような大きな窓、外は青い空と真っ白な雲。イーゼルに飾られ、少女の目の前のキャンバスの中にはそんな絵があった。その絵の完成をただ目指して、少女は色を塗る。
 美術室に響き渡る時計の音を喧しく思いながら、眉間に皺をよせた険しい表情で絵と向き合っていた。
 傍から見た少女は熱心に自分の作品を完成させるべく、懸命に筆をすすめているようにしかみえないだろう。そういう風に見られるようにしてきたのだから、当然ではあるのだが。
(……面白くない、つまらない)
 ちらりと横目で飾られた質素な時計を見てもそれほど時間は経っておらず、何だかとっても鬱屈とした気持ちになった。
(はやく、終わらないかな)
 絵の完成でも、時間が過ぎても、いっそのこと世界滅亡でも何でも良い。
(苦痛でつまらないこの時間が早く終わって欲しい、終わらないかな)
 時計をチラチラと見ても一向に進んでいない長い時計の針が嫌になる。ただそんなことを思いながら真剣な振りをしてキャンバスに色を塗る、塗る。下校時間まで後1時間ほど。
 先生が見回りするまでこの場から離れることができないのが、本当に苦痛で仕方がない。気を紛らわせることもできないまま、今日が終わるのを心待ちにしながら絵具をパレットに出しては筆に水をつけて伸ばしやすいようにして、キャンバスに塗る。単純作業の繰り返し。
 唯一自由な耳から伝って外から運動部の大きな声が聞こえてくる。掛け声なのか怒鳴り声なのかよくわからないけれど……私たちみたいに家で役割を与えられていないのなら、好きなようにすればいいのに。
 進んで不自由に向かっていく人間の心理が私には分からない。運動部なんて不自由の最たる例だと思うのにそれを楽しんでやっているのが心底理解できない。……自分がやりたいことを好きなだけ出来るって、一体どんな環境なんだろう。そんな思考に切り替わって筆が止まりそうになったその瞬間。

ーーーガラガラガラ。

 美術室の扉が開く耳障りな音が私だけの空間に響いた。美術の虹野先生だろうか。髭の生えた奇抜な柄のスーツを着た面白い先生として人気だけど、私にとって苦手な人。絵とはどうたらこうたら煩いから。
 まあ、絵の良し悪しがわからないくせに綺麗な絵とか良い絵だとか曖昧にいい言葉だけ使うその他の先生よりはましだけどさ。

「……だれ、あんた」

 振り返った先にいたのは、自分が想像していたどの先生でもなかった。そもそも先生ですら無い。じとりと扉を開けてきた犯人を見つめた。犯人は私の責める視線を物ともせず、にこりと笑いかけてきた。

「はじめまして。きみは籠生美絵さん、だよね」
「そうだけど。あんたは?」
「僕はウミナカジュン。隣のクラスなんだけど……」
「ふうん。隣のクラスの男子ね。どうしたの、こんなところで。全身びしょ濡れだし、眼鏡も割れてるわよ」

 面倒な先生でもその他の先生でもなく、同い年の隣のクラスの男子生徒が扉を開け放った犯人はこいつだった。衣替えの時期も終わり、白のカッターシャツも下の夏用の薄い生地で作られた制服のズボンまでぐっしょりと濡れている上に、厚みのある眼鏡にはヒビが入っている。無遠慮に聞いてみると、男子生徒の表情が強張った気がした。

「…………ぼーっと立っていたら、園芸部に水をかけられて、教室に戻ろうとしたら階段で思いっきりこけた」
「ふうん、あんたドジなのね」
「籠生さんって、見た目によらず口悪いって言われない?」
「言われたこと無い。誰かと話すことなんてないから」

 話しかけられても無視することはないけど。そこまで私と話そうとする人間なんて今までいなかったし、どうでもよかった。まあ、私に話しかけてくる理由は大体決まっている。絵が上手いね。私に向けられる言葉はそれだけだ。それしか無いのだからどうでもいい。

「前々からきみの絵を見て思ってたんだけどさ」
「……」
「本当に、綺麗な絵だよね。今描いているのだってまだ途中なんだろうけれど、すでに触れそうなぐらいリアル」
「そう」

 すっかり聞き慣れた言葉が鼓膜を響かせる。いつも通りつまらない称賛。私の目が映したものをそのまま描いていればいい。観察した通りに描けるようになるには練習は必要だけど、それでもいつかは誰だってたどり着ける境地なのだ。絵なんてありのままを描くだけのもの。絵を褒められる。私は素っ気なく返事をする。せっかく褒めてあげたのにと顔を歪ませて去っていくのかな。それとも去っていく際に悪態をつくか、舌打ちをするか、無言か。予想を立ててみる。
 勝手に近づいて来て勝手に誉めてきて、ありがとうと言ってくれるような予想とは違う態度と返答に憤り悲しんで勝手に去っていく。身勝手だわ。いつも通りのこと過ぎて最早そう感じることもない。
(さて。この男子生徒はどれかな。温厚そうだから悪態をついたりしないように見えて案外真面目そうなやつほど口汚かったりするし。舌打ちも有り得そう。一番無いのは無言かな。無言ならもう去っているはずだし)
 どれかな。なんて考えているのにいつまでもこの男子生徒が去ることはなく、私の返事を聞いているのか聞いていないのか、まじまじと今描いているキャンバスの中を眺めてきた。
(いい加減鬱陶しいし邪魔)
 これ以上リアクションがないならさっさとここから去って行ってほしい。これじゃあサボっていることがバレる。サボっているのがバレると後々面倒なことになる。動かない男子生徒を追い出そうと決めて口を開いた。

「でも、つまらないよね」

 だけど、それより先に男子生徒は顔を上げて私の顔を見てそう言った。息をのんだ私の言葉などお構いなしに矢継ぎ早に言葉を重ねていく。

「きみの絵って、ただ綺麗なだけって感じ。面白味がない、なんだか、見たまんま、見本通りに描いてますーって。お利口さんの絵だよねってずっと思っていたんだ」
「……」
「だから、描いているところを見て納得した。本当につまんないや。前に受賞されたやつもそうだけど。これも、つまんない。確かにすごいけどさ。どうしてこんな写真みたいな絵がいいのか僕にはわからないや。これなら写真撮っていたほうがよくない?なんでこんな絵描いてるの?」

 そこでようやく彼は私の顔を見た。目を見開いた私ににこりと微笑みかけてきたのだ。私の絵を見て好き勝手言い退けたのだ。こちらのことなんて何も考えていないであろう発言、憤るべきだろう。私のことなんて知らないくせに、と。
 リアリティを追う苦労も知らないくせに、私の絵を馬鹿にするな、と。彼の濡れたカッターシャツの襟を掴んで、大声で怒鳴らないといけない場面なのだろう。

 私が与えられた『役割』を考えれば、そう演じるのが正解。そう分かっている。だけど。

「……ぷっ」
「え」

 一度抑え込んでいたものを少しでも表に出したら、もうダメだった。

「ふ、あはっ、ははははは!はははははははははは!!」

 感情のストッパーが外れたように溢れだしていく。まるで狂ったみたいだな、と自分でも思いながらもそれでも止められなかった。ついにはお腹まで痛くなってきてその場で蹲ってしまう。どこか人形みたいな彼の表情も崩れているのが見えなくても戸惑う声だけで分かった。ああ、楽しい。こんなに言われてみたかったことを言われることが、気持ちよくて面白いことだなんて、初めて知ったわ!
 顔を上げると次は彼の方が目を見開いていて、それすらも愉快な気持ちになりながら、声を大にして問いかけた。

「ねえ!あなた、名前は!?」
「えっ、ウミナカジュン……覚えてくれてなかったの!?さっき自己紹介したじゃないかっ」
「覚える気がなかったからすり抜けてたわ。でも、もう覚えた。ウミナカ、ウミナカジュンね!いい名前じゃないの、ウミナカ。あなた……最高ねっ!!ふふ!」

 彼……ウミナカに向けてそんな言葉を高揚した気持ちのままに投げかけた。彼がどんな表情で私の言葉を受けたのか分からない。自分のことを分かってくれた初めての快楽を受け止めることに精一杯だったのだから。些事だと思い込んだまま、私はずっと吐き出して仕方がなかった胸の中で燻り続けていたものも勢いのままに投げつけた。

「だって、私の絵じゃないもの。今までのもっ、今のもっ!次のもっ!!これからも!!!」
「それって、どういう……」

 私の言っていることがよく分からなかったのか、理解できなかったのか、ウミナカは躊躇ったまま意味を問いかけてきたので、口をすべらせてしまう。

「私が絵を描くのは、お父さんの意思で決められて、お父さんが望んで描いた絵なんだから」

 これはうっかりよ。私の絵の真実を零した。もっと深く理由を聞きたい様子のウミナカを放って、いつの間にか立ち上がっていた自分を落ち着けるためにも、どかりとキャンバスの前の椅子に座る。そして呆けた様子のウミナカに微笑みかける。

「明日の放課後、またここに来てくれる?ウミナカになら教えてあげる。私の全部を……。籠生家の役割を」

 今日、全部教えてもよかったけれど、楽しみは少しでも長く続けていたい。ウミナカがずぶ濡れのままなのも気になったのも少しだけあるけれど。意味が分からないと顔に書いてあるままに、それでも少しの間を生んだ後、小さくうなずいてくれたので嬉しくなった。

 退屈ばかりの同じことの繰り返しの灰色の毎日に、僅かに彩が生まれた瞬間だった。

 これが、海と出会った日。

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