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しっぽや(No.225~)

side<NOSAKA>

学園祭からの帰り道、伊古田と別れがたかった僕は駅まで一緒に歩くことにした。
僕にとっては遠回りになってしまうが、次にいつ会えるか分からない伊古田と少しでも一緒に居たいと思ったからだ。
僕にとっては奇跡のような良いことずくめの1日は、無事に終わってはくれなかった。
2人で歩く道の向かいから、大きなシェパードが1頭だけでフラフラと近付いてきた。
大きな犬が怖い僕達にとって、それは地獄の使者のように感じられた。


『どうしよう』
この場をどう切り抜けようか、僕はなけなしの犬について知っていることを思い出してみる。
『確か、背中を見せたり走って逃げようとするのは、かえって危ないんだよね
 死んだふりは熊か、そもそも今はそれはやっちゃダメなことだった』
全くもって頭が働かず、僕は伊古田の手を握ることしか出来なかった。
パニックに陥っている時、本で読んだ知識は役に立たない事を痛感してしまう。
僕が伊古田の手を強く握ると、彼の手の震えは徐々に治まっていった。
横目で見ると、さっきまで真っ青な顔をして脂汗を流していたのに、今は毅然とした顔になっていた。
ブツブツと小さく何かを呟いている。
「僕がやらなきゃ、僕が野坂を守らなきゃ、いつまでも弱虫のままじゃ野坂に会えた意味がない」
伊古田は強く僕の手を握り返すとその手をそっと離し、犬に向かってゆっくり歩き出した。


犬と伊古田の距離が縮まっていく。
犬は長身の伊古田に怯むことなく近寄ってきた。
「ん…?何だろう…?」
伊古田は訝しげな声を出し
「ねえ野坂、『クウセンセ』って何だか分かる?」
そんなことを聞いてきた。
突然すぎる問いかけの上、意味がさっぱり分からない。
「あ、あー、そうか、空先生だ、空と先生って言葉が全くつながらなくて分からなかった」
伊古田は一人で納得すると
「ちょっと失礼」
そう言って犬の首輪をいじりだした。
驚いた事に、シェパードはいきなり触ってきた人間を警戒するでもなく大人しく座っていた。

「野坂、大丈夫、この人うちのしつけ教室の生徒さんだよ
 ほら、初級コース卒業のメダルを首輪に付けてる
 今度から中級コースに通うんだって
 この卒業メダル最近配り始めたんだよ、早速役に立った」
伊古田に頭を撫でられて、犬は嬉しそうに尻尾を振っていた。
「まだ若い人だから、きちんと勉強してても少し注意力が散漫になっちゃう時もあるんだ
 今日は鳥に気を取られて門を飛び越えちゃったみたい
 飼い主やうちの講師に怒られないか気にしてる
 誰も傷つけてないし大丈夫だよ、飼い主さんには僕が事情を説明してあげるから」
感謝を表すように、犬は伊古田の手を舐めた。
「野坂も触らせてもらう?大人しい人だから大丈夫だよ
 野坂にも犬は怖いだけじゃないって知って欲しいんだ」
最初は僕よりも犬を怖がっていた伊古田の言葉に、ちょっと笑ってしまった。

「せっかくだから触らせてもらおうかな
 警察犬と同じ犬なんて、めったに触れないもんね」
僕はそっと犬の頭を撫でてみた。
思っていたよりもフワフワで毛がサラサラしていて
「犬ってこんなに触り心地良いんだ」
と驚いてしまう。
「昨日、シャンプーしてもらったんだって」
伊古田が言うとシェパードは誇らしそうな顔になった。
飼い主の話題の時にはバツの悪そうな顔、撫でられると嬉しそうな顔。
最初は怖いばかりだと思っていた犬の顔が、色んな表情になることに気が付いた。
『何か伊古田みたい、見た目の先入観に捕らわれちゃダメってことか』
今まで動物と触れ合う機会が無かった僕は、新鮮な驚きを感じていた。


「ちょっと事務所に電話してみるね」
伊古田はスマホを取り出してタドタドしくいじり始めた。
「あ、黒谷?伊古田です
 今帰る途中なんだけど、しつけ教室の生徒さんが1人でウロウロしてるの見つけたから送っていきたくて
 飼い主さんに取りなす約束したんだ、どうしたらいい?
 え?住所?ここの?」
伊古田は困った顔になり助けを求めるように僕を見た。
それは先ほどシェパードに向かっていくときの毅然とした顔とは大違いで、そのギャップが可愛らしかった。

「僕が出るよ」
僕は伊古田のスマホを受け取り、自分のスマホでマップを開く。
「お電話代わりました、学園祭でお会いした野坂です
 現在地は□□□市○○○町3丁目17番地」
『ああ、野坂さん、伊古田がお世話になってます
 □□□市の○○○町、っと、何?ふかや
 え?ああ、そうなの?じゃあナリに送ってもらうか』
黒谷さんは電話の向こうで誰かと少し話し、弾んだ声で
『ちょうど今、関係者が車でそちらの近くまで配達に出てるんです
 今日はそのまま直帰なので、彼に送ってもらうよう連絡します
 犬を送り届けたら、野坂さんも送ってもらうよう伝えておきますね
 今からだと帰るのが遅くなってしまうでしょう』
信じられないくらいタイミングが良すぎる事を言っていた。
こんな展開の小説を書いたら『リアリティがなさ過ぎる』と批判されるだろう。
それとも運の良い人にとっては、こんな展開も日常茶飯事なのだろうか。

不運に自信のある僕の人生には絶対的にあり得ない展開だった。


いったん通話を終了し、送ってくれる人からの連絡を待つことになった。
「野坂も送ってもらえることになって良かった
 あんまり帰りが遅くなると危ないもんね、野坂は可愛いからちょっと心配だったんだ
 それに、また野坂と居られる時間が増えた
 君のおかげだよ、やっぱりシェパードは正義の犬だね」
伊古田は満面の笑みで犬の頭を撫でまくっている。
そんな伊古田を見ていて、この幸運がまだ続いてくれるのか試してみたくなった。

「あの、あのさ…もし、迷惑じゃなかったら、このまま伊古田の家に行ってみたいな…なんて…」
いつもだったら絶対に口にしない事を思い切って言ってしまった。
自分的には清水の舞台から飛び降りるような覚悟の発言だ。
「寝るのは床でも構わないから
 …って、いきなり行きたいとか迷惑だよね…」
勢いで言ったはいいものの、伊古田の困った顔を見るのが怖くて僕は俯いてしまう。
伊古田は暫く何も言ってくれなくて、僕の不安はどんどん膨らんでいった。
『ああ、バカなこと言っちゃった、迷惑に決まってるじゃないか
 僕なんかが家に行くなんて』
泣きたい気持ちで顔を上げ伊古田を見ると、彼は呆然とした表情で僕を見ていた。

「え?え?それってつまり、野坂が僕の部屋に来るって事?
 野坂が僕なんかの部屋に?事務所じゃなくて?
 野坂の好きそうな物なんて何もない、僕の部屋に?」
僕の言葉は、まだ正確に彼の脳に達していないようだった。
「と言うことは今日はこれからも野坂と一緒に居られるの?明日の朝も?
 そんなに長い時間一緒にいてくれるの?」
彼の驚いた顔には迷惑そうな戸惑いは一切見られなかった。
「あの、本当に良かったらだけど
 だって伊古田、明日は仕事でしょ?」
その表情に少し安堵して言葉を続けることが出来た。
「おもてなし!僕ちゃんとおもてなしできるかな
 部屋に何かあったっけ?こんなことならお菓子とか買っておけば良かった
 安全だけど面白くない部屋だもん、野坂に呆れられちゃう
 ああ、でもあの部屋で野坂と過ごせるなんて、都合の良い夢みたいだ」
伊古田はパニックを起こしていたが、僕が彼の部屋に行くことは決定事項としているようだった。

そんなときスマホの着信音が流れ、2人とも我に返る。
「伊古田、出て」
「あ、うん、えっと、どこ触るんだっけ
 変なとこ触ると切れちゃうんだよね」
焦る伊古田の手元をのぞき込み
「ここ」
そう指さすと彼は少し落ち着きを取り戻して通話に出ることが出来た。
「もしもし、伊古田です
 うん、うん、えっと、向かいの道の先にコンビニがあるよ
 そうなの?それだけでわかるの?なび?黒谷にも説明された?
 凄いね、じゃあ待ってる」
通話を終えた伊古田は
「あまり遠くない場所に居たから、直ぐ来てくれるって
 なび?って言うの見ればわかるんだって
 凄いなー、ナリはバイクにも乗るから道に詳しいんだ」
感心したようにそう言った。
確かに、方向音痴の僕にとってもナビを見て移動できることは凄いことに思われた。


程なく、ワゴン車が近づいて来た。
「あれだ」
伊古田は停止した車のドアを開けようとしたが上手くいかず
「伊古田、横にスライド…、っと、取っ手を上に上げてそのまま引き戸の要領で開けて」
見かねた運転者が声をかけてきた。
その響きは優しくて、車のドアも開けられない伊古田にイライラしている様子は微塵も感じられなかった。
「犬が真ん中になるように2人で挟んで乗ってね
 しつけ教室通ってるから大丈夫だと思うけど、一応、窓からの飛び出し防止」
その指示に従い、伊古田、シェパード、僕の順で車に乗り込んだ。
シェパードは車慣れしているようで、僕と伊古田の間で当然のような顔をして大人しく座っていた。

「初めまして、私は石原 也と言います
 ナリで良いですよ
 最近はさすらいのアルバイターと言うか、便利屋みたいな事をやってますが、一応の本職は占い師です」
本気なのか冗談なのか、彼はクスクス笑いながら言って車を発進させた。
真っ直ぐで艶やかな黒髪をおかっぱ風にした、穏やかそうな人だ。
「先に犬を送り届けたら自宅までお送りしますよ
 あ、住所知られるの不安かな?ナビの履歴は消しておきますから」
「野坂 始です、野坂で良いです
 えっと今日は家に帰らないで、これから、その…」
流石に初対面の人に言うのは恥ずかしく言いよどんでしまう。

「あのね、野坂はこれから僕の部屋に来てくれるんだよ
 明日の朝までずっと一緒に居られるんだ」
僕の言葉の後を、伊古田が無邪気に続ける。
僕は頬が熱くなるのを感じていた。
きっと真っ赤になってしまっているだろう。
「凄い、それは良かったね
 野坂の方は大学大丈夫?まあ、遅刻しても荒木や近戸が上手くやってくれると思うけど
 伊古田と一緒にいることを考えてくれてありがとう
 伊古田、明日はふかやが頑張るから仕事は休むと良いよ」
責任者でもないナリがそんなことを言い出したが、きっと黒谷さんも同じ事を言うんじゃないかと思わせる雰囲気が、しっぽやという場所から感じ取れるような気がするのだった。
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