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しっぽや(No.225~)

side<IKOTA>

世の中の何もかもが怖かった。
小さい頃はそんなこと無かった気もするけど、もうその時のことは思い出せない。
自分がどうやってここに来たのかも分からなくなっていた。
心の中には恐怖の記憶しか無かった。

『ほら、噛め、相手に食らいつけ!』

僕を連れてきた人間が怒鳴りつけ、その熱気に当てられた大きな犬が思いっきり噛みついてきた。

『キャン!!』

痛くて怖くて、何が何だかわからなかった。
僕は相手の犬に何もしていないのに、逃げる僕を執拗に追ってきて噛みつくのだ。
お腹だけは守らなければと本能的に感じて、尻尾を股の間に挟んでうずくまる。
がら空きの背中やお尻に相手の牙が食い込んだ。

『ヒ、ヒィー、ヒィ』

もう泣くことも出来ず鼻から空気が抜けていく音を立てるだけで精一杯だった。


人間が近づいてきて相手を引き離してくれる。
助かったと思った瞬間、身体にドンと衝撃が走り転がってしまう。
人間に、噛まれた傷の上を思いっきり蹴られたのだ。
あまりの痛みに悲鳴さえ上げられなかった。

『なんだこの犬は、見てくれだけの木偶(でく)の坊じゃないか
 外国産の闘犬だって言うから、大枚叩(はた)いたのによ
 ちくしょー、あいつ、今度会ったらブチのめしてやる』

その人間は何度も何度も僕を蹴り上げた。

『おい、暫くはこいつを死なせるんじゃねーぞ
 噛ませ犬として使うからな、せめて元は取らねーと
 こいつを倒せば若い犬も自信がつくだろう、昨日1匹死んだから丁度良いか
 しかし、噛ませ犬にしては高過ぎんだよ、くそっ』

人間はブツブツ言いながら去っていった。


『大丈夫?』
うずくまる僕に恐る恐る声をかけてきた人間がいた。
また蹴られると思い少しでも身体を縮めようとしたが、これ以上小さくはなれなかった。

『君は優しいんだね、相手に全く歯を立てようとしなかった
 君の大きさなら、ちょっと唸れば相手も警戒したのに
 それとも、争うのは嫌いなのかな』
僕がこれ以上怯えないように、小さな声で優しくそっと話しかけてくれる。
『怪我したところ洗ってあげるよ、バイキン入ると大変だもの
 本当は薬を塗ってあげたいけど、噛ませ犬に塗る薬は無いんだ、ごめんね
 薬は試合に出れる犬にしか使っちゃいけないって言われてるから』

人間は小さな手で僕の鼻先を撫でてくれた。
温かく優しい手、その手があったから僕はその後の辛い生活を耐えられたのだと思う。





「伊古田、大丈夫か?また夢見てたのか?」
目を開けると大きな犬が僕をのぞき込んでいた。
「きゃんっ!」
思わず悲鳴を上げて飛び退こうとした僕に
「俺だよ、俺、イケてるハスキーの海(かい)だって
 朝飯食いに行こう、お前と一緒だと一品多くもらえてお得!」
ハスキーは安心させるように笑顔(でも怖い顔)で話しかけてくる。
「ほら、顔拭いて」
海はさりげなく僕の涙を指で拭ってくれた。

「おはよう」
ちょっと照れくさく思いながら、僕は彼に挨拶をする。
化生してから暮らしているお屋敷の雑魚寝の間は、朝の喧噪に満ちていた。
「あれ、陸は?」
「波久礼の兄貴が買い出し中に猫拾わないよう、お目付役で一緒に出てった
 朝市で捕れ捕れの魚、買ってきてくれるってさ」
魚が好物の海はホクホク顔だった。
「伊古田、おはよー」
「朝飯の後に草むしり手伝って、日が高くなる前にやっちまわないと」
「オッス伊古田、洗濯物あったら出しといてな」
武衆の犬達が次々と声をかけてくる。
皆大きくて厳つい犬だけど僕に気を使ってくれる、優しい犬達だ。
彼らの気遣いのおかげで、僕はこの屋敷に早めに慣れることが出来ていた。


「伊古田、おはよう
 ここでの暮らしに随分慣れてきましたね」
食事の間で屋敷のボス、三峰様が声をかけてくださった。
「はい、皆のおかげです
 人間の生活のことも色々教えてもらえるし助かります
 人間のいっぱい居る所、僕も早く行ってみたいです
 僕が犬だったときと色々違ってるのを見てみたくて」
僕が答えると
「荒木や日野に渡して欲しいブレスが出来上がったの
 近々波久礼にお使いを頼もうと思っていたので、その時に一緒にしっぽやに移動するのはどうでしょう
 まだ早いかしら?」
小首を傾げて微笑んだ三峰様にそう聞かれた。

「行きたい!行きたいです!また荒木に会いたい!
 日野や白久や黒谷にも会いたいです!」
興奮して思わず声が大きくなってしまった。
「では、日程の調整をしておきます
 白久が使っていた部屋を使えるよう、ゲンに連絡しておきます
 こちらから持って行く荷物は少なくて済むでしょう
 白久のお古ですが、生活に必要な物は揃っていますから」
三峰様が去った後は武衆の犬達に
「しっぽやに移動か、元気でな」
「たまには帰って来いよ」
「他の犬に馴れてくれて良かった、向こうでも頑張れよ」
そんな風に好意的に話しかけられた。

『また、飼い主となる人間と一緒に暮らせるかもしれない』
そんな思いの中
「うん、頑張って一生懸命やってみる」
僕はそう答えるのだった。




しっぽやに移動する日、カバン1つで旅立つ僕を武衆の犬達が皆で見送ってくれた。
「しっぽやに行ったら空(くう)に面倒見てもらえよ
 俺たちの子分なんだ、弱っちぃけど町中の暮らしには1番馴れてるからさ」
「向こうでもちゃんとバランスよく食べるんだぞ」
「皆マメに自炊してるから、器具の使い方とか教えてもらえ」
「飼い主が出来たら教えてくれな」
この場所で初めて『仲間』と呼べる犬達に出会えた。
怖くない犬もいると知ることが出来た。
「皆も元気でね、また遊びに来るよ」
そう言って別れる存在が居ることが嬉しかった。

「伊古田、波久礼をお願いします」
三峰様が小声で話しかけてくので
「はい、何だかよく分からないけど猫を拾わないようにすれば良いんですよね」
僕も小声で返事を返す。
波久礼を見ると、スマホとかいう小さな板(電話?)をいじっていた。
「伊古田、今出れば昼過ぎには向こうに着けそうだ
 そろそろ行こう」
話しかけてくる波久礼に従い、僕はお屋敷を後にする。
麓の町には行ったことがあったが電車に乗るのは初めてなので、山道を駆け下りている最中ずっとドキドキしていた。


「交通カードを買っておいた方が良いな、駅までの金額を気にしなくて済む」
波久礼に言われるままお金を機械に差し込んでカードを買う。
「多めにチャージしておく方が安心だぞ」
何を言われているのかよく理解できなかったが、言われた通りにやってみた。
「私も昔は何が何だかわからなかったが、クマさんに教えていただいて理解できるようになったのだ
 伊古田も飼い主が出来れば、その人の言うことを理解しようとして覚えられるようになるよ」
カードをマジマジと見ている僕に、波久礼はそう言ってくれた。
「えっと、クマサンって人間が、波久礼の飼い主なの?」
「いいや、神だ」
僕にはまだまだ人間との生活は謎に満ちた物に感じられた。



電車を何度か乗り換えてしっぽや最寄り駅に着いた。
「わー人が沢山居る、お店が沢山あって家も沢山ある
 道路が土じゃないよ、車があんなに走ってる、お金持ちが多く住んでるのかな?」
お屋敷はもとより、犬だったときに見ていた町並みとは大違いで珍しさのあまりキョロキョロと辺りを見渡してしまう。
「ここより都心に行けば、もっと大きなビルが建っているぞ
 人間や車も、もっと沢山いるんだ」
そう聞かされても、僕の想像力を越えていて実感がわかなかった。
呆然とする僕を
「買い物の仕方を教えてあげよう
 麓の町や市場では使えない決済方法も、ここでは利用できる店が多いからな
 今は分からなくとも、飼い主が出来たときにパニックにならずにすむだろう」
波久礼はそう誘ってくれる。
もしかしたら彼自身、支払いの段階でパニックになったことがあったのかもしれない。
僕は神妙に頷いた。


波久礼はペットショップなる場所で、猫用のおやつを大量に買い込んだ。
「支払いはこれで」
波久礼はスマホを取り出して触っている。
お店の人が機械を近づけるだけで支払いは完了してしまった。
僕には何が行われていたのかサッパリわからなかった。
「事務所やマンションに行く前に、猫カフェに寄って良いかな
 荒木と黒谷には夕方に行くと連絡してあるので、心配はされないだろう
 早くこれを届けて、皆の喜ぶ顔が見たくてな」
波久礼は買った物を持参していた買い物袋(今はエコバッグと言うらしい)に詰めながら顔を綻(ほころ)ばせていた。

波久礼に案内されて行った場所には、猫が沢山居た。
尻尾をピンと立て波久礼に近寄って、甘い声で泣いている。
「ひっかいたり噛んだりしてくる事もあるが、彼らは本気じゃない
 もしやられても怯えないでくれ」
波久礼に釘を刺され、僕は恐る恐る頷いた。
液状のおやつをあげるときは大混乱で、袋と間違えたのか指を噛んでくる猫がいたが、波久礼の言うとおりそれは本気ではなかった。
噛まれ馴れている僕にはすぐにわかる。
噛まれても痛くなく、嬉しい気持ちになったのは初めてだった。
「猫って可愛いね」
「そうであろう、それに彼らほど尊い存在は三峰様くらいだ」
波久礼は優しい眼差しで猫達を見ていた。

大量のおやつの差し入れのお礼だと、クマサンがお昼ご飯を作ってくれた。
猫の形を模した美味しいお昼ご飯を食べた後、僕達はしっぽや事務所に向かって行った。


事務所で黒谷と再会すると、彼は僕が来たことを喜んでくれた。
「こんなに早く来てもらえると思ってなかったよ、武衆も案外良い仕事するね
 最初は白久と組んで…、あ、いや、ふかやと組んでもらうか
 彼も他種族と相性の良い大型犬だし、捜索の仕方を習うと良いよ」
黒谷の説明を聞いているときに
「波久礼」
嬉しそうな声がした。
先程猫と触れ合ってきたので直ぐに彼が猫の化生だと言うことがわかった。

「貴方は新入りさん?僕、ひろせって言いますよろしくね」
「あの、伊古田です、よろしくお願いします」
ひろせは自分で作ったというお菓子をくれる。
飼い主のために作ったと言うお菓子はとても美味しくて、飼い主の役に立つ事が出来る彼を羨ましく思うのだった。
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