一章
アイゼが疾風のように走り去り、厩で叫んでいる頃。
ラルの方もまた、大変であった。
昨日ほどではないが、まず、ぼんやりと混乱していた。
一体、さっきの声の主は何だったのだろう。去ってからようやく、ラルの中で彼の存在を把握する事ができた。中低音の、澄んだ音の持ち主。ラルと同じ響きの音を発する――つまり同じ言葉を使っていた。だとすると、シルヴァスや昨夜の者達のように、や自分とそう変わらない形の生き物だろう、そう思った。
それにしても世話とは、どうしてだろう。改めてラルは考える。熱を出したときは、シルヴァスが自分の世話を見てくれたことを思い出す。もしかして、自分は今熱を出しているのだろうか。目を固く瞑ったまま、そっと瞼を覆う手を額にやる。よくわからなかったが、熱はないように思えた。次いで、シルヴァスの冷たい手を思い出す。目元と胸の内から、しくしくと水が染み出る様な、そんな痛みがラルをおそう。
さっきはほんの少し、アイゼという外の世界と関わった。けれど、またラルは自らの思考の世界に沈み込み始めそうになる。
――その時。
「失礼します」
また、左斜めから声がした。今度の声は、アイゼのものより幾分低い、落ち着いた音だった。柔らかいゆったりとした響きだがそうしようとつとめている様な、窺う様な調子である。本来の性質は、はきはきしているのだろうと聞き手に思わせる、そんな話し方だった。
「姫君、お食事をお持ちいたしました」
言うが早いか、さっと近づいてきた。音と同じように、やはりきびきびとした足音が、ラルに近づいてくる。
それは、壮年の男性だった。長身で、焦げ茶の髪は日に当たると、少し明るく透ける。光の強い目を、時折探るようにうろつかせる癖がある。左眉に刻まれた傷が、面差しをややいかめしいものにしていた。そしてやはりこの男性も、頭頂に耳がある――いわゆる
しかし、ラルがまだ寝台の上で、着替えも済んでいないのを確認すると、ぴくりと訝しげに眉を動かした。
「申し遅れました。私、召使頭のアルマと申します。……恐れ入りますが、ここにアイゼという世話役は来ておりませんか」
「アイゼ……?」
「赤茶の毛並みの者です」
「し、しらない」
アイゼという名前には覚えはある。しかし、ずっと目を閉じていたラルは、毛並みなど見ていないので、とっさにそう答えてしまった。すると、アルマはさっと顔色を変えた。ラルは未だに目を閉じているので、その表情の変化は見えなかったが、ただ気配が変わったのだけはわかった。そして、なんだかまずいことを言ってしまったのかもしれないと思った。
「あの」
「申し訳ありません。姫君に何というご無礼を……頭として、なんとお詫びすればよいか、言葉もございません」
ばっと頭を下げた。勢いと儀礼的な動きが両立されている。ラルにはやはり見えていないので、突如起こった身振りの風に、さらに困惑している。しかしそんなラルの困惑をよそに、アルマは言葉を続けた。
「え?」
「アイゼには必ずや罰を与えましょう。姫様の願い通りの処分を、何なりとお言いつけくださいませ」
「あの……」
「さあ姫君」
言い切ると、アルマは、ははあ、と息を吐き出した。
しかしラルは、話の流れが、全く分からなかった。しかし、なんだか自分が置いてけぼりのまま、どんどん話が進んでいる事だけはわかった。自分に対しての言葉のはずなのに、どうしてこんなに居心地が悪いのか。目を押さえたまま寝台の上で体を小さくする。
「わからない」
「は」
「だから、わからない」
「それは、――……もしや、先に食事をなさる、という事でしょうか? 申し訳ありません。私としたことが気の利かぬ――」
ラルの要領をえない答えに、それまでのきびきびとした様子とは打って変わって、困惑した声を出した。動揺した姿は厳めしい雰囲気を幾分和らげている。
「違う」
「え?」
「もうわからない、知らない! 知らない!」
かんしゃくを起こしたようにラルは叫んだ。アルマの「姫様」という焦った声が届く。ラルは、体を丸め耳をふさいだ。もう何も聞きたくはなかった。
姫様だとか、罰だとか、世話だとか、そんなことを一度に、しかも急に言われても意味が分からないのだ。昨日までの自分はずっと、ただのラルだったのに。
そもそも、ここは目が痛くて開けられない。そもそも、ここがどこかもわからない。
わからない事ばかりなのに、いろいろと言われて、話を進められる。しかも罰だとか、処分だとか、そんな怖い響きの事まで言ってくる。自分はそんな事をしなきゃいけないのだろうか。
ざわざわと少し周囲も騒がしくなり、またアルマも、ラルが背を丸めた向こうですっかり困惑しきっていたが、ラルはそれに構う余裕はなかった。
ここはどこ、全くわからない。――シルヴァス、シルヴァス助けて。
「もしや、え、
「――必要ねェよ」
不意に、アルマの声を、低い音が遮った。アルマが息をのみ、その名を口にしようとし、また慌てて礼をとろうとする横を一瞥もくれず通り抜け、寝台へと向かった。
「おい、なにわめいてんだ」
寝台へと近づくと、丸まったラルに身を屈めて声をかける。ラルは聞き覚えのある声に、反射的に硬直したが、それでもかたくなに返事をしなかった。一瞬の沈黙が落ちる――より、声の主が行動を起こした方が、ずっと早かった。
「聞こえてんだろ」
「――あっ!」
ラルの髪をつかんで、ぐいと持ち上げた。後ろで、アルマが恐れに目を見開いた。上体を起こされた事で、光が顔に当たり、ラルは慌てて顔を手で覆おうとした。しかし、それを声の主は阻んだ。片手でラルの両手をつかむと、ぐっと顔から遠ざける。
「痛い!」
「はっ、おうちが恋しくて泣いてたのかよ。姫さんよォ」
ラルの顔をのぞき込んで、嘲笑した。泣くという意味がわからなかったが、バカにされたことは理解したので、とっさに睨もうとした。
「っ!」
しかし、やはりすぐに目を閉じてしまう。――痛い。痛くて、とても目が開けられない、しかし、ぼんやりと見えた目の前の色で、自分を持ち上げている者は確認できた――朱金の髪。
「ふん」
生理的な痛みでより増した涙を、アーグゥイッシュはまた笑った。反抗的に睨もうとしたのも知った上で、やはりそれ見たことか、という風に。それに違う、といいたかった。
そして同時に、アーグゥイッシュは、いや、ここの者たちはみんな目を開けていられるのだと――アーグゥイッシュが自分の様子がつぶさにわかっているらしい事から、ラルは悟った。アーグゥイッシュは自分と違って見えているのだ。
こんなに真っ白で、痛いところで、どうして目を開けられるんだろう。目を瞑っていても、瞼の裏が黒じゃなくて明るい橙色くらいに見えるのだ。そんな異様さが怖かった。
「いたっ――……いたいっ、離して」
「甘ちゃん。――おい、俺は気が短い。いつまでもぐずぐずしてるんじゃねェよ」
アーグゥイッシュは、低い声で唸るように囁いた。
「ったく、シルヴィアスはどういう教育をしたんだかなァ。それともお前の出来が悪いのかね」
「!」
シルヴァスの名を出され、ラルの中の反抗心が大きくなった。この生き物、アーグゥイッシュが、シルヴァスを赤に染めたのだ。それなのに、シルヴィアスの事を口にして、ラルをバカにするのは、とても許せないことに感じた。何に対してかわからないが、くやしさが一気に胸の中に膨らむ。
「離して!」
目の前にいるであろう、顔めがけて思い切り立ち上がり足を蹴り上げた。髪と手をつかまれて居るが故の苦肉の策だった。髪が数本ぶちぶちと抜ける音がした。
「っと!」
難なくよけられてしまったが、ラルからアーグゥイッシュの手は離れた。頭を振り、手首をさすって、つかまれていた痛みを分散させる。
「おいおい、もう少し淑やかにしろよ、姫君」
「シルヴァスのこと、悪く言わないで!」
「あ? シルヴィアスじゃなくて、おまえの事を言ってんだ」
「シルヴァスだもん!」
「……はーァ。――おい、ガキ」
アーグゥイッシュの空気が変わった。先ほどまでも粗暴な空気をはらんでいたが、それとは違う、いらだちという感情がのっていた。ずいと近寄って、ラルの顎をつかむ。
「忠告しといてやるよ。言う事は聞け。反抗するな。木偶は木偶らしく従っていろ」
アーグゥイッシュは至近距離で、ラルにそう言った。言い聞かせる、というに相応しい、ゆっくりと一語一語吐き出されたそれは、妙に柔らかく甘い響きを持っていて、逆に潜んだ凶暴さがむき出しになっていた。あの時、ラルの顔の横に、銀の石刃を突き立てた時のように、いつだって、この男は「ああ」する――そう感じさせる凶暴さを。
「わかったか?」
そう、だめ押しの様に囁かれ、ラルは動くことができない。悔しくて仕方がないのに、からだが縫いつけられたように動かなかった。
「不敬罪だぞ」
新たな闖入者の声に、アーグゥイッシュが舌打ちをした。良く通る朗々とした音の持ち主で、その白金の髪は光を受けて輝いている。エレンヒルだった。アーグゥイッシュはラルから手を離した。
「うるせェよ」
「いやその姿勢、最悪中の最悪の下衆な狼藉を働いた事になるやもしれん」
罰が悪そうなアーグゥイッシュに、気にせずエレンヒルは、わざとらしく辺りを見渡した。ざわざわとした喧噪があったはずなのに、いつの間にやら静かになっており、アルマも下がっていた。
「私に感謝するんだな」
「ふん」
顎をつ、とあげて笑うエレンヒルにアーグゥイッシュは顔を背け、部屋から出ようと出口へと足を向けた。エレンヒルは、入れ違いにラルに近づき、恭しく礼をした。これ以上ないほど、恭しく、いっそわざとらしいくらいであった。
「アーグゥイッシュの無礼をお許しくださいませ。姫」
返事を返すことができない。ラルはへたり込んでいた。エレンヒルは、身を起こすと、
「……姫君は今は気が高ぶってらっしゃるご様子。無理もありません。食事の事も、使いをまたやります故、今はお休みください」
つい、と踵を返し、外へ出て行った。戸の閉まる音に、ラルはここの帳は堅いのだと、どこか場違いな事を思った。何もわからないところで一人でいることは、不安だった。けれどようやく一人になって、少なくとも意味の分からないことは言われず、怒られないことに、安堵してもいた。
ラルはうつ伏せになって、顔を寝台に押しつけた。目を強く閉じ続けることを少しやめたかった。顔に触れる布の感触に、少しだけこわばっていた体を緩める。
夢ならいいのに。そう思った。目が覚めたら、ネヴァエスタの森の、自分の棲み家の帳の中にいる。そうして、シルヴァスと食べるご飯の用意をするのだ。
目をずっと閉じているせいで、よけいにそれがかなう気がした。そして、そんな気がしたからこそ、ラルは目を開けることを躊躇した。開けると痛い、最初はそうだった。でもそれだけじゃなく、いつしか、目を開いたらいつもの日常が待っている。そう信じていたくなっている。
シルヴァスに、怖い夢を見たよ、と伝えたい。シルヴァスがひどいけがをして、意味のわからない事をいう生き物達が、目が痛くて開けられないような、痛いくらい白い場所に、ラルを連れてきている。そうして、お世話を――。
そのとき、アイゼの声がよみがえる。彼の声は、昨夜の生き物達と、音が違った。アイゼの音は緊張して、はちきれそうだったけれど、本来の性質は澄んで明るい音をしているのがわかった。そして何より柔らかい響きを、ラルに向けていた。それは、昨夜から通して、いや、自分と同じかたちの生き物で、シルヴァス以外では、初めての事だった。
エレンヒルの声も柔らかかった。けれど、どこか入り込めない分厚い石の様な、そんな気がした。アーグゥイッシュの様に粗暴でなくとも、みんなどこか窺う様な、何か違う者に恐れているような、そんな音をしていた。
自分に向けられた音のように、感じることができなかったのだ。
彼は、どうなったのだろう。目を開く事のできない、内にこもろうとする心の中で、アルマが口にした「罰」という言葉だけ、ひっかかった。
「ひどい顔だぞ」
ラルの部屋を出てすぐの廊下、憮然とした様子で歩くアーグゥイッシュに、追いついたエレンヒルが声をかける。
「ふん」
「そんなに傷が痛むか?」
「冗談だろ」
エレンヒルの言葉に、眉間のしわが深くなる。グルジオに殴られた右の目の下の傷は、赤いかさぶたもまだ生々しく、青あざが浮いている。
「短慮なのが、お前の欠点だな」
「うるせェよ」
「しかし、あの様子で間に合うのか」
「知らねェよ。あーァ頭が痛え。どいつもこいつも、あんな甘ったれた小娘に右往左往させられてよォ」
ぐいと伸びをしながら言う、アーグゥイッシュに、エレンヒルは苦笑しながらも諫めない。人払いが済んでいることを知っているからだ。
「はは。手厳しいな」
「事実だろ。それでも、俺たちの打てる手が、あれしかねェときたもんだ。情けなすぎて涙がでるね」
「否定はしないな。しかし、力は尽くさねばな」
「まあなァ……ったく、いっそ殺してやりてェよ。あの物知らずのガキが」
けだるげに、しかし手厳しく吐き捨てるアーグゥイッシュに、エレンヒルは笑みを崩さず、しかし是と返した。脳裏に新たに思案を飛ばしながら。