序章
「シルヴァス!」
「うるせぇよ」
シルヴァスの姿が見えなくなりしばらくして、朱の男はラルを投げ落とした。ラルは木の梢にひどく尻餅をついて、衝撃に身体が跳ねる。痛みに息がつまった。
見上げると、朱の男がラルを見下ろしていた。ネヴァエスタの黒はかつて見たこともないほどの明るさとなっており、割れた空の黒から漏れ出た「光」は、男の姿を黒い「陰」にした。ただ、男の瞳だけが、光っていた。ラルはこの生き物の目は金色だと気づいた。ウォーロウの飢えた時の目と重なる。しかし、ラルの頭には、シルヴァスのことしかなく、ただ、情報とだけしか入らなかった。急いで起き上がり、シルヴァスの元へいこうと、元来た道を引き返そうとする。
「行かせねえったろ」
朱の男の腕が阻み、再度ラルの身体を掴む。
「はなして、はなして!」
身じろぎして、逃げようとするが、相手は片腕にもかかわらず、びくともしない。自分のうでよりも二、三まわりは太そうな腕に、ラルは得体の知れない寒気が背に走った。それは正しく恐怖だった。
「静かにしろよ。なあ」
男のなだめるような声が降る。その場にそぐわない、やわらかい音だった。
「いやだ、はなして。きもちわるい、シルヴァス」
男の舌打ちを、ラルが聞くが早いか、ヒュッと空を裂く音が耳元でしたとほぼ同時に、強く何かをたたきつけるような音が、あたりに響いた。
ラルは、何が起こったのかわからなかった。だが、銀色の石刃が、自分の顔の横にある。そして、自分の背後の木がめきめきと悲鳴を上げた。そのまま後ろ向きにずん、と倒れるのを気配で察した。肩越しに、木がどうなったのかをちゃんと見たかったが、朱の男から目を離すことができなかった。男は銀の石刃を引き、肩に担ぐと、すっとラルに身を屈めた。金色の目が、すっと細められる。
「大人しくしろ。わかったか?」
頬に触れ、言い聞かせるようにささやいた。甘い、やさしい音だった。頬に触れた手で、そのまま両手首を握り込まれる。ラルは、自分の体が、ふるえているのがわかった。シルヴァスの元へ行きたい。でも、身体がうまく動かなかった。声も出ない。こんなことは初めてで、何から何まで初めてで、ラルは、どうしていいかわからなかった。
「おおい……」
体の震えを何とかこなそうとしている間、森の向こう――シルヴァスのいる方からは反対側の方角から音が走ってきた。間延びした、しかし張りのある音で、やはり、シルヴァスやこの朱の男と同じ、自分と似た生物から発する音だった。
「チッ、遅ぇ」
朱の男は、舌打ちを派手に一つすると、銀の刃を地面に刺しおろす。そして、柄に手をかけると、懐から小さな枝を取り出して、指先で火をつけた。火のついた方の逆がわをくわえる。黒が、少し晴れたとはいえまだ常人には黒い空間を橙が照らす。そのまばゆいゆらぎを、ラルは、遠いところで見つめていた。
明るい。
早く離れたい、その心もどこか遠くに感じてしまうほど……
音の主が近づき、姿を現した。銀の固そうな衣に身を包んでいる。
「ああ、ようやく追いついた。全く先にばかり行かないでくれ」
「トロいんだよ。合わせてられッか」
「そんなことを言って、以前はぐれたのは誰だったかな」
「うるせェ」
朱の男が、バツが悪そうに吐き捨てる。
「行くぞ。隊長が首を長くしてお待ちだ」
この音は、いくぶん柔和だった。けれど、入り込めない音だった。銀の衣の男は、金色の髪を肩まで伸ばし、前髪を真ん中で分け、形のいい額を見せていた。ラルの方を見る。先から気づいていたのに、存在しないようにしていたのをやめたという見方だった。
「ああ、姫君。アーグゥイッシュ、おびえておられるではないか。少し手を緩めたまえ――姫君、お初にお目にかかります」
朱の男をアーグゥイッシュと呼び、ラルの腕に、自身もまた手を重ねた。白の布を毛皮のように手にまとっている為に、肌に伝わる感覚は、幾分ゆるく感じた。
「おそろしい思いをさせ、まことに申し訳ありません。アーグゥイッシュは、野蛮ではあるけれど、悪い男ではないのですよ」
朱の男、アーグゥイッシュが、鼻を鳴らした。ラルが金の男にわたったと見るや、振り切るように手を離した。金の男はラルに目を合わせ、両手でラルの両の二の腕を包むように握った。深い青の目は水を含み輝いている。ラルのこわばりは解けることはなかったが、男はニコリと笑みを深めた。
「では、姫。お連れいたします」
ぐいと引っ張ると、ラルをうながして、歩き始めた。物腰とは反し、有無を言わせない動きで、しかし一見誘導している体で身体を押さえ込まれ、ラルは身じろぎ一つできず、ただ歩くことしかできない。ラルはひたすら、呆然としていた。逃避といって等しかった。シルヴァスはいったい、どうなるのだろう。シルヴァスは、と、思うのに、シルヴァスの元へ向かうことが出来ない。シルヴァスの元へ思考を飛ばすことしかできなかった。
金の男に連れられていった先は、森の木々が開けた場だった。森には、こんなにひらけた空間などなかった。ラルは目を見開いた。しかし、それ以上に、そこに集まった多くの生物に圧倒された。金の男と同じ格好――実際は着ているものはそれぞれ形に差はあるが――をした男達が、数十人、そこには集まっていた。
「遅くなりまして、申し訳ありません。アーグゥイッシュ、捕獲いたしました」
金の男が声を張った。鷹揚な調子だが、集団に礼を取っている。いや、正しくはその集団の中心にいる人物に対してだ。礼をとり、頭を下げた。声に、ざっと一斉に男達は振り返り、中心の人物に対し、金の男達が見えやすいよう、道をあけるように開いた。実際とうに知っていたのに、いまかいまかと列を作るのを待っていたような、そんな速さだった。
中心の男は、いかめしく、この集団の中で、一、二を争う年かさに見えた。ホウガという鳥のように大きな目が、印象的な男だった。その目でじろりと金の男、そしてアーグゥイッシュを見る。にらむというにふさわしい見方だったが、実際は違うらしい。金の男も、アーグゥイッシュも、平然としている。金の男の方は、す、と頭を下げる。鳥の目の男は、視線を移動させ、ついにラルをとらえた。驚かぬという様子で、それはただの確認だった。ラルは、半ば呆然としたまま、その目を見返した。まだ現実をとらえられていなかった。風が、ラルの頬をなでる。たくさんの男達の元を通ってきたそれは、砂が焼けるようなにおいがして、妙に熱を持っていた。生ぬるいのに、肌が総毛立つ気がした。
「う……」
「申し遅れました。隊長、彼女が、我らが目的の姫です」
「そのようだな」
「姫は「賊」に襲われおびえておりましたゆえ、このような形でお連れ申しますこと、おゆるし頂きたく」
金の男の、ラルの腕を握る手が、断固たるものになった気がした。隊長と呼ばれた鳥の目の男は、知っているという風にうなずき、そうして地面に一度、勿体をつけるように視線を落とした後、顔を上げ、ラルの方へと歩き始めた。
ぴり、と気が引き締まる。周囲の男達が、より姿勢を正したかのようだ。ただ、金の男は笑みを浮かべたまま、そして、ラルの背後のアーグゥイッシュだけ、気配の変わる様子はなかった。
隊長は、ラルの目前に来ると、ぐい、と顎を掴んだ。自然飲み込んだ息が、乱暴にラルの気道を痛める。ラルに気にもとめず、その大きな目で、ラルの顔を確かめた。目の奥までのぞこうする眼光だった。その目が、ラルの目を見つめるごとに、爛々と輝いていくのに耐えられず、ラルは目を伏せた。
「たしかに。ご苦労。エレンヒル」
「は」
抑えた声には紛れもない昂奮が見えた。金の男――エレンヒルは、それを知らぬ顔で、礼をもってねぎらいに応える。その音はこの日一等、太く発されたものだった。隊長はそれにうなずく。掠れた音だ。先の昂奮を沈めたその声に、この隊長という者の音はもとより掠れているのだと、ラルは気づいた。ラルから一度目をそらし、そしてもう一度顔を上げるとき、隊長の目が、一瞬、獰猛な光を宿した。
「ッ!」
瞬間、枝の折れるような音が響く。ラルはとっさに、伏せていた目をひらいた。隊長が銀の棒――アーグゥイッシュのものと似ているがそれよりも細く、装飾がこっている――をラルの背の向こうの人物――アーグゥイッシュにつきだしていた。
その柄でアーグゥイッシュ打ったのだとわかったのは、隊長が棒を収め、また後ろで赤いもののにおいがしたからだ。シルヴァスのそのにおいは鼻の奥までしみついていると思っていたのに、そのにおいがまだすることに、驚く余裕もなかった。
「アーグゥイッシュ。また独断で動いたな」
「俺が動かなきゃ、あれをみすみす逃すところでしたがね」
「申し訳ありません、隊長どの。アーグゥイッシュを見逃したのは、私の手落ちでもありますれば――」
「黙っていろ、エレンヒル。その責は連れてきたことに免じる。それにこれはお前でなくば手に負えん。情けないことにな――アーグゥイッシュ、お前がいかにメノー家の次男と言えども、隊律違反は違反だ。責はとらす。おれは特別扱いせんぞ」
目をむき、指をさし、一言一言、言い含めて、隊長は言った。
「へいへい」
アーグゥイッシュはそれすらも面倒くさそうに返答する。周囲の空気が、一気に殺伐としたものとなった。隊長は戒めるように今一度、銀の棒をどんと地面に打ち付ける。アーグゥイッシュは、ようやくそこで礼をとり、頭を下げた。隊長は、それを確認し、銀の棒を腰にはいた。
「大神官は?」
隊長は確認するように尋ねた。アーグゥイッシュは「確かに」と、差し出した。隊長が、しかつめらしい顔をして受け取ったのは、シルヴァスの緑髪にいつも挿していた枝だった。それを見留めたラルの目が揺れた。
そこで隊長は、ラルに改めて向き直った。そして、突然大きくひざまずいてみせた。
「大変お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。姫、我々は、カルデニェーバ王国、国王陛下より、あなた様をお救いせよとの王命を直々に授かり衣この森まで参りました。私はこちらの小隊の長をつとめるグルジオと申します。危険な森の中故、かような少数であなた様の前に馳せ参じましたこと、お許しください。森の外には数多の兵が控えておりますゆえに、そこまでお供いたします。我らは身分いやしき身なれば、道中にあなた様のような高貴なお方に、心苦しき思いをさせたやもしれませぬが、あなた様を我が主にお連れできるのは、この上なき喜びでございます」
ラルの手を取り、その手の甲にうやうやしく額を当てた。ラルに男達の礼が集まる。異様な空気に圧倒されながらも、今、ここでようやく少し気を取り戻したラルには、ずっと言いたかったことの為に口を開いた。
「シルヴァスは? シルヴァス……」
一瞬あたりが静かになった。隊長は、わずかに探るような目つきでラルを見た。ラルはその反応に、びくりと身体を硬直させる。何かいけないことを言ったのだろうか。後ろのアーグゥイッシュが舌打ちしたので、その懸念が正解だとわかった。
「シルヴァス? ……レイモンフリートのことで、ございましょうか」
隊長はしかし、何も尋ねず、そしてどこかとぼけた様子でラルに尋ね返す。しかし隊長のラルに確かめるようにあげた名は、全くラルの知らない名前で、ラルの困惑を深めただけだった。