序章
「シルヴァス、おやすみなさい」
目を閉じて、シルヴァスの唇がまぶたに触れるのを待った。しかし、いつものそれはいつまでもされることがなく、ラルは不思議そうに目を開いた。
シルヴァスは、上を見ていた。いつものように、ただ黒く染まった枝葉がおおうだけで、ラルには何も見えなかった。しかし、シルヴァスは何かを見ていた。ざっと風が吹く。見たことのない顔だった。悲しそうでも、呆れているのでもない、ただ、顔をこわばらせている。強い光の宿った目で、空のない上空をにらんでいた。けわしい、という言葉を知らないラルは、シルヴァスの顔をそう形容することが出来なかったが、何かがおかしいことには気づいていた。だから、とっさにシルヴァスのゆったりとした外衣をつかもうとした時、不意に引き寄せられた。
「シル――」
「静かに」
突然の事に驚いて、声を出すことは出来なかった。シルヴァスが抑えた声でささやくやいなや、強く抱きしめられる。まるで外衣の内に、ラルの体を隠そうとしているようだった。シルヴァスの緊張が、ラルにまで伝わりラルは息もうまくできない。ぐっと目をつむった。強く自分を封じ込めるシルヴァスの腕が、ラルとシルヴァスの衣と筋をぎしぎしと言わせた。シルヴァスの抑えたように吐き出される息は、震えていた。
不意にその息が、何かを形作ったような気がして、ラルはつむっていた目を開いた。シルヴァス――もう一度シルヴァスと呼ぼうとした時だった。
果てのないネヴァエスタの黒が、緑青のまばゆい光に裂かれた。黒の葉に覆われ、夜と同化しゆく空は、ネヴァエスタの森を外界から隔絶する殻のようにしていた。緑青の亀裂が入りゆき、全てを覆う黒の外殻は、全ての枝が散り散りにみじんに折られていくような音を立て、崩れた。
轟音、聞いたこともない大きな音は、ラルには世界がこわれてしまったかのようにひびいた。音は体をも激しく揺らし、ふるわせた。目を見開き、恐怖に、シルヴァスの衣をつかんだ。体に走った揺れも、心に走る不安が恐怖であることを、言葉としてはまだ知らず、感情だけ先に、走った未知の感情にすらラルはおそれた。こわい、と言葉にできたら、体の震えもましになったであろうが、それすらもラルにはまだわからない。
ただ、これまでの全てが崩れてしまった。その予感だけは等しく、正しく、ラルの足下に静かに浸食してきていたのだった。
シルヴァス、と名を呼ぶこともできない緊張の中で、地揺れと轟音の余韻が静まる。草木が、かすかにざわめくのみとなった。
ラルは異変に気づいた。あたりが明るい。シルヴァスの衣ごしでもわかる。昼よりも明るいのだ。こんな事は今までにない。なのに、今までのように、いつもどおりに草木がざわめくのが不気味だった。
次いで感じたのは、途方もない寒さだった。
寒い。衣に入り込み、浸食する冷えは、夜ではありえないことだった。シルヴァスは動かない。何も言わない。それがよけいに不安をあおる。なのに、いつものように名を呼ぼうとしても声が出なかった。空気が、かつてなく大きな面積となって、あたりに存在している。そう、広かった。ネヴァエスタの森は、いつもたくさんの木々に囲まれているから、こんな風に周囲に何も感じなくて頼りなくなる事なんて、なかった。ラルは、二、三度息を吸うと口を開いた。
「よお」
シルヴァス、そう呼ぶはずだった、ラルの音は形になる前に一つの音にさえぎられた。聞いた事のない音だった。ウォーロウのほえ声よりも艶があって、ヨルドリより低く芯がある。ちょうどシルヴァスの出す音と似ていたけれど、ずっと獰猛な気配がした。
それは、金に透ける朱い髪の男だった。
「お出ましか」
シルヴァスが返した。硬質な響きで、生き物ではないような声だった。
「そりゃ、こっちの台詞だ――と、言いてえところだが。探したぜぇ、
森の生き物とも違う、自分たちと同じ音の流れで話す存在に、ラルは体をこわばらせた。シルヴァス以外に、そんな存在はいなかったのだ。ラルは、背後から聞こえたその存在を、振り向いて確かめたかったが、シルヴァスが強くラルを抱きしめているので、かなわなかった。
「シルヴァス」
抑えられた息を、ぬうようにして名を呼んだ。
「見逃してはくれぬか」
「はは、そりゃ冗談で言ってんのか」
答えはない。ラルなどいないように、話を進めている。
「シルヴァス!」
今度こそ、ラルは大きな声で叫んだ。
「あ? ……んだ、そのガキ」
反応したのは、シルヴァスではなかった。シルヴァスの、ラルの体を抱く力が強くなる。気配が自分に密集したのを、ラルは察した。初めて覚えた恐怖の感情は、不安と混ざり、シルヴァスへの困惑へとつながった。
「シルヴァス、何? これ、何?」
ラルの声は周囲にとんと抜けて、いささか緊迫した二人の間には間が抜けて届いた。朱の男には、それが、どうにも気に入らなかったらしい。だが、それとは別に納得するところもあるようで、ぴくりと動かした目元が次第に得心のいった顔へと変わる。そこには、呆れ、あざけりの色がたっぷりと含まれていた。
「……ああ。そいつが例の、姫さんか」
「違う」
シルヴァスの声が、にわかに大きくなった。ラルは驚いて、目を見開いた。シルヴァスがこんな大きな音を出すなんて、知らない。シルヴァスはいったいどうしてしまったのだろう? しかしラルの動揺など意に介さず、反して男は愉しげな笑みへと転じた。
「違いねえ。……だろ? フフ、にしても、『シルヴァス』、ねえ」
男の気配が、ラルの全身、いや、シルヴァスとラルを眺めた。なめるようにというにふさわしい嘲弄して憚らない目つき。
「こっけいだぜ。シルヴィアス・レイモンフリート」
男の空気が変わった。木々がざわめき、そして静かになる。ラルは、未だその男の姿を目に映していない。その姿がどのようなものかもわからず、ただ向けられたことのない音を向けられ、無性に気味が悪くなった。だから、その姿を人目見んと、みじろぎした。そんなラルに一瞬気をとられ、シルヴァスの視線が、朱の男からはずれた。
「ラル、いけな――」
「ラルフィールの、大神官さまよォッ!」
男の怒号が、シルヴァスの声をかき消した。その声と同時か、それよりも速く、一陣の風が、ラルとシルヴァスに打ち当たった。そのままからめ取られ、重心が揺れる。激しい空を切る音に、空はうなるのだと、その時ラルは、初めて知った。風に全て、さらわれる前に、ラルは、どん、とまた別の力が、自分に働いたのを知った。
耳の奥が弾けるような轟音が響いた。何か聞いたこともない甲高い音に、石を打つ音がちょうど混じったような音。耳障りで、生物的ではない音だった――ラルは、茂みに体をつっこんだ。草木がラルの肌を刺した。土がすれて、体に傷を作った。だが、その痛みがラルの体に正しく走る前に、ラルは眼前の光景に、全ての神経を奪われた。
「シルヴァス……!」
朱が金色に透けたような毛並みの生き物が、手にしているもので、シルヴァスを打ち倒していた。シルヴァスの体は、赤く染まっている。生き物が手にしているものはシルヴァスが普段杖にしている銀の棒より、ずっと鋭く、長く大きな石刃のようだった。
シルヴァスと似た姿をした生き物など、自分以外に知らず、それはラルに少なからず動揺を与えたはずだった。しかしそれよりも、何よりも、ラルはシルヴァスのその身体がラルの名を呼び、その直後にくずれ落ちたのが目に焼き付いた。
「シルヴァス、シルヴァスッ」
飛ぶように起きあがり、シルヴァスの元へ、ラルは駆け寄る。さっき感じた力は、シルヴァスがラルを突き飛ばしたのだと悟った。シルヴァスの衣は赤に染まっている。そして今も衣を赤く染め続け、茂みの色さえも変えだした。鼻先にかすめたにおいは、以前、ウォーロウがけがをした時にあふれたそれと、同じものだった。ウォーロウに、その赤いものが流れすぎたから、もうじき生命が消えると言ったのはシルヴァスだ。シルヴァスの元へ、ひざまずいて、シルヴァスの身体から流れ出る赤にラルは触れた。温かく、シルヴァスの身体から離れると、冷たくなる。それが一定の節で溢れている。シルヴァスは、目を閉じて、ぐったりとしていた。まとめわげた緑色の髪が、頬にかかり輪郭が見えなくなる。髪をよけてやり、その頬に触れた。温かいか、冷たいかさえ、ラルにはわからない。頬にまで赤いものが飛んでいた。衣の袖で拭って、ラルは抱きしめた。
「シルヴァス、どうしたの。なんで?」
ラルの声は震えていた。しかし自分の声すらもまともに届いていなかった。頭を抱いて、それから、シルヴァスの赤を止めようと、もう一方の手で押さえる。
「しっかりして、シルヴァス。おきて」
ラルはシルヴァスの頬に手をじっと押しつけた。熱が伝わるように、強く。シルヴァス、名を呼んで、繰り返すしかできない。額をシルヴァスの額に押しつけた。
「遊んでんじゃねぇよ」
いつの間にか、背後に迫っていたらしい、朱の男が、ラルの髪をつかんだ。
「あっ……!」
そのままぐい、と身体を起こされ、シルヴァスから離される。
「痛い、痛い!」
痛みに顔をしかめた。朱の男はラルをその目に映して、鼻で笑った。
「これに執心たァ、ずいぶんとおろかになったじゃねぇか。なあ?」
ラルを掴む手はそのままに、男はシルヴァスを見下ろした。口元には皮肉げな笑みを浮かべて。
「……手荒に、するな」
かき消えるような声で、シルヴァスが言った。細い声だった、しかしその声に反応したラルが、「シルヴァス!」と呼ぶ。シルヴァスは薄く目を開けていた。血の気の失せた顔は、緑の髪に透けるようだった。それでも、ぎこちなく、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「いきなさい」
「シル――」
ラルは呼ぶ声を飲み込む。シルヴァスの言ったことはわかったが、意味がつかめなかった。思考が止まり、ようやく困惑へと変わるころには、シルヴァスはすでにラルを見ていなかった。朱の男を、何か訴えるように見つめていた。緑青の瞳の光を、朱の男は一笑に付す。
「あっ!」
「あばよ、シルヴィアス」
そしてラルを抱えあげると、シルヴァスに背を向けた。後ろ向きに、肩に担ぎ上げられたラルは、シルヴァスの姿が遠ざかっていくのが見えた。次第に白霧が音を立てんばかりの勢いで立ちこめ、シルヴァスの姿を隠し見えなくなる。
「シルヴァス、シルヴァス!」
その間、ずっと、ラルはシルヴァスの名を呼び続けていた。