一章
いよいよ明日、エルガ卿の一行は、邸を出立する。
グルジオらが訪れた日から考えると、ここドミナンにしては長い緊張の期間であった。召使いの部屋には、安堵ある疲労が部屋に満ちていた。
「こらお前達、まだ明日があるのだぞ。見送るまで気を抜くんじゃない」
アルマが声を張った。ジェイミは「それを言うなら、出て行ってからも、だろう」と思ったが顔にも出さなかった。自分に関係のなくなる場所に、口を出すのは無責任というものだ。
「ジェイミ、今までありがとう」
「向こうでも頑張って」
「元気でね」
年少の召使いたちが、ジェイミのもとを訪れては、口々に別れの言葉を紡いだ。名残惜しさ、寂しさ、不安、特有の気恥ずかしさ――それらがいっぱいになった彼らの顔を見下ろして、ジェイミはふ、と微笑した。
「ああ。おまえ達も元気でな」
全員の頭を、一度ずつ撫でてやる。彼らはくすぐったそうに笑った。そうして笑いの中に、賢明に涙を隠していた。いじらしい様子に、少しやりきれない気持ちになる。
ジェイミはここを出て、エルガ卿の一行についていくことになっていた。
「男しかおらぬ道中故、姫様の世話をするものがほしい」との言葉だったが、やはりあの時、自分の命はあの一行に預けられたのだと、感じるほかなかった。
まさか、こんなに早く、この村を離れることとなるとは……狭い召使い部屋の中を見渡す。罰を待つ身となったとき、一度は逃げだそうとしたのに、こうなると名残惜しい気がするから不思議だ。それは、新たな奉公先の枷が、どうにも重く、息苦しいからかもしれない。
(さて、これからどうなることやら)
この数日で、たくさんの事が起こりすぎた。いや、そもそも人間の都合で、命など簡単に消える身の上だ。現実に立ち返ったという方が正しいか。
(やはり、ここに慣れすぎた)
気を引き締めなければならない。
自分の左隣を見る。そこにも獣人達が集まっていた。
「アイゼ、元気でね」
「くれぐれも、へまするなよ」
「皆、ありがとう。精一杯頑張ってきます」
獣人達が、アイゼに口々に声をかけていた。アイゼは、彼らの激励に笑って答えている。
アイゼもまた、ジェイミと共に、一行についていくことが決まっていた。
――この数日で、こいつに起こった出来事が、一番大きな事だったかもしれない。ジェイミは思う。獣人だから、ではくくれないことが、アイゼの身には起きた。
四日前、人間相手に襲いかかり、その咎で殺された。しかし、「魂問い」によって、再び命を得たことで、その罪を許されたのだ。
アイゼがここを出て人間達についていくのは、「邸の庭を荒らしたので暇を出されたところを、エルガ卿の温情で世話として使っていただくことになった」ということに表向きはなっている。――庭を荒らした獣人に温情をかけるなど、理屈に合わないがそこは皆知らないふりをしている。
ほとんどの獣人は「魂問い」を知らないふりをして生きているからだ。なので、アイゼが魂問いで許されたことは公然の秘密なのだ。
四日前のあの時、五感の鋭い獣人達はすぐに異変に気づいた。
そしてあの光景――すぐに兵士達により人払いがなされたが、何かとてつもない、すさまじいことが起きていることなど、見なくてもわかった。四日経った今でも、皆の心の底にあの時の不思議な空気が染み着いていた。
――だから。
アイゼがあの後、部屋に帰ってきて、それからアルマに沙汰を下されるまで、部屋は常と違う空気に満ちていた。押さえようとしても、あふれてくる、そんな感じだった。
魂問いにより、獣人が救われた――という、不信と喜び。
救われたアイゼを見る奇異、誇り、畏怖、嫉妬の視線。
「アイゼ、お前は暇をとらす。代わりに、エルガ卿の一行に付き従うがよい」
あの時の、驚きと、喜びと、劣等感に満ちた空気。
今だって隠しているだけで感じる。アイゼは、自分たちとは別のものだという感情がよかれ悪しかれあたりに満ちていた。無邪気なのは、年少の獣人達くらいである。
「アイゼ、頑張ってね」
「ありがとう!」
ジェイミはアイゼを気の毒に思った。アイゼに別れを惜しみにくる仲間達は、ジェイミのそれより、ずっと少ない。
ジェイミとて、何も言われなかったわけじゃない。
しかし、アイゼは質にとられたジェイミと違う扱いで、人間たちの一行に加わった。羨望や嫉妬など、あてられる感情は、ジェイミの比ではなかった。――アイゼは、殺されたというのに。
アイゼはというと、気にした様子などおくびも見せず、ずっとにこにこと笑っていた。
あの件に関して、ジェイミの率直な気持ちを述べるなら、バカなことをと思う。しかし、人間相手に向かっていくなんて、なかなか出来ることじゃない。
今の態度も併せて考えると、思ったよりずっと、克己心がある奴だ。でも、心配しない訳じゃない。
しかし、本当にこれから、大変な道のりが待っているだろう。
――にもかかわらずだ。
「なんでお前まで来ちゃうかね」
「んあ?」
右隣のキーズに、ジェイミは嘆息した。キーズはというと、敵のようにビヌを食べていた。顔中傷だらけで、原型もないほど腫れ上がっている。
「キーズ、気をつけてな」
「おう、ありがとな」
仲間たちの言葉にキーズは笑顔で返す。実際には顔が腫れすぎて、笑顔にはなっていなかったが、雰囲気でつかめる。口を開いた拍子に見えた、前歯がほとんどなかった。今食べても、血の味しかしないだろうに、せっせとビヌを食べている。
キーズもまた、一行について行くことになっていた。
今日の午後、顔をこれ以上なく腫らしてきたかと思うと、飛び上がらん勢いで、報告してきたのであった。
いったい何をどうしたのやら――相当の無茶をしたはずだ。
「あーあ。アイゼが行くって決まったときに、黙り込んでるから変だと思ってたんだよ」
いつもなら、一番にはやすか、心配してみせるのに、キーズは「そうか」と言ったきり、黙り込んでいた。キーズに限って、アイゼを排除しないだろうと思っていたが……
「ああ、あんときゃ悪かった。うらやましーなって思っちまってさ」
耳ごと頭をわしわしとかいて、キーズが照れ笑いをした。
「お前らも大変だったのにさ。シットなんかしてんの、だせーじゃん。なら、俺もちゃんとぶつかろうと思ってさあ。お前らみたいに」
「別に俺ら好きでぶつかったわけじゃないけどね」
ジェイミの皮肉をよそに、キーズはにししと笑う。
キーズ曰く、アイゼの沙汰があってから、キーズはなんとなんと、エルガ卿に直談判に行ったらしい。
当然、門前払いを食らった。しかし地面にはいつくばり、しがみついて叫んだそうだ。
「『お願いします! 俺も連れて行ってください! 毒味から、身の回りのお世話まで何でもします! 俺は耳もききますし、よく走れます! 何でもしますから、どうか連れて行ってください!』ってな」
「お前……」
「で、当然、ボコボコよ。『図に乗るな、獣人!』って、もう兵士に囲まれて殴られるわ蹴られるわむちゃくちゃだったぜ」
「まあ、そうだろうね」
むしろ、即処断されなくて幸運だった。まあ、出立前であるから、ゼムナの顔を立てたのかもしれないが……キーズもそれをわかっているらしく、苦笑した。
「そしたらさ、エルガ卿とジアン様と、エレンヒル様がやってきて」
「部屋にいなかったのかよ」
「だは、俺も思った。で、さっきの言葉を繰り返したのよ。まあ、やっぱ断られたんだよな。けど、エレンヒル様がさ」
ジェイミは眉をひそめる。先から妙に言い方が引っかかる。そんなに有り難がるものでもないだろうに。
「『世話はもう一人くらい増えても問題ないでしょう』って言ってくれたわけ。そんで『いいよ』ってなったの」
キーズはビヌをまた二、三粒口に放り込んだ。むぐむぐと口を動かしている。腫れた唇とあいた歯の隙間から、ビヌの汁がとんだ。
「全く、命知らずだな……」
ジェイミはがくりとうなだれた。一気に疲れた気がする。
「これくらいしねえとな」
キーズはふいに声を落とした。
「俺、絶対ここで終わりたくねえもん」
キーズは横目で、ジェイミを見た。腫れたまぶたが邪魔をして、視線はまっすぐに届かなかったが……。
「王都に行きてえ。そんで、いい暮らしをすんだ」
――馬鹿な夢を見るな、そう言うことは出来なかった。キーズの目は、どこまでも真剣で、燃えていた。これを否定するには、相応のものが必要だと思わせるくらいに――。
「獣人でもよ」
「そうか」
ジェイミは何も言わなかった。ただ、正面に向き直った。乾いたパヌを手に取り、一口食べる。
「まあ、安心しろよ。俺はけっこうわりきってるから」
キーズは正面を向いたまましれっと言った。
「俺たちは俺たち、人間は人間。だろ?」
「ああ」
ジェイミは頷く。
「アイゼとはちげえ」
キーズが付け足した。
「そうだな」
ジェイミが返した。重い声であった。
「アイゼ、姫様が、目をさましてよかったね」
「そばにいられて、よかったね」
年少の獣人達が、アイゼに言葉をかけていた。アイゼははにかんだ。心底うれしそうな笑みだった。皆、察している、アイゼの気持ちを――。
アイゼは、心からあの女――姫のことが好きなのだ。人間とか、獣人とか関係なく――人間に襲いかかるくらいに。
あの女の世話を命じられてから、自分たちの運命は――大きく変わった。
突き詰めると、あの女のせいだ。けれど、ジェイミは、以前より、あの女を――姫を、憎むことが難しくなってきていた。
(何かが、俺を阻むんだ)
それをするといけないと――あの女のためではない、ジェイミのために。そっちに行ってはいけないと、心の何かが、ジェイミに警鐘を鳴らしている。
(わからない)
どうして、憎んではいけない? あの女といると、自分の中の何かが揺らされる。
(これ以上、俺の心を乱さないでくれ)
なのに、これからもあの女との日々は続くのだ。自分が自分でいられなくなるような恐れを――抱かなければならない。それさえ憎らしいのに……
「――ジェイミ? どしたん」
キーズがジェイミの顔を覗き込んでいた。その顔を見ると、ジェイミは気を取り直した。そうだ。少なくとも、こいつはわかっている。自分側なのだと思わせてくれた。
それに、自分のことにかかずらわっている場合じゃない、アイゼの事もある。
「さみしくなっちまった?」
「ばーか」
キーズの言葉を笑い飛ばして、ジェイミは立ち上がった。
最後の夜だ。どう過ごそうと、一夜きりならば楽しく過ごせばいい。皆に挨拶をすませに行こう。これからのことは、なるようになる。
キーズは背を見送ると、ジェイミの置いていったパヌを取り、ほおばった。そうして、まだ見ぬ王都に思いを馳せていた。
アイゼは、そっと輪から抜け出すと、空を見上げた。そうして、たった一人の人を思い浮かべた。
そうして、三人の夜は更けていった。
確かに変わる何かを、それぞれに感じながら。