一章


 あれから、ラルは眠り続けていた。
 落ちていく深層の意識の中、繰り返したのはあの時――まぶたにキスをされた瞬間のことだった。あの時、ひとつのイメージと言葉を、彼は残していったのだ。一瞬の瞬きにすぎなかったそれが、眠りの中で鮮明になる。
 森――ネヴァエスタの森とは違う、森と丸い建物の並ぶ、知らない光景。

『おいで』

 優しいやわらかな声が、ラルを招いた。そう、招いたのだ。

 ――シルヴァス……

 おいで、ラル、おいで――……声、イメージが、頭の中ではっきりと像を結ぶ頃、ラルの目は開かれた。

「――姫様」

 ちょうどジェイミが、器に水と、布を持ち入ってきた時だった。
 ジェイミはいち早く、ラルの目覚めに気づくと、部屋を走り出ていった。ラルは、ジェイミと話したかったが、声が出なかった。ただ、まだかすむ視界で、ジェイミの後ろ姿を見送った。あたりを見渡して気づく。ここはラルの部屋――そして自分は眠っていたのだと。
 体を起こそうとして、体中が、重く痛いことに気づいた。小さくうめきながら、気合いを入れて身を起こした。
 スーミの声が聞こえる。なら、今は朝だ。
 にわかに、せわしない足音が迫ってきた。

「姫様! お目覚めになられたと!」
「なりません、主!」

 響いた声より速くエルガが部屋に突進する勢いで入ってきた。そして、跪く。遅れて入ってきたジアンが、エルガにならった。そして、さっと耳打ちする。

「姫様は病み上がりでありましょうに、いきなり訪ねるのは」
「むっ! いかん、そうであった! 姫、無礼をお許しくだされ!」

 エルガは、ラルがまだ寝衣であることに気づくと、真っ赤になって頭を下げた。

「しからば御免!」

 エルガが飛び出していく。ジアンは「まったく」と言いながらも少しのどを鳴らしていた。咳払いをし礼を取り直す。

「姫様、目覚めに慌ただしく申し訳ありません。医師を呼んで参ります」

 そうしてジアンもまた、部屋から出ていった。
 しばらくして、医師を伴い、ジアンが部屋に戻ってきた。医師は、ラルの体に何かつらいところがないか、尋ね、口の中と体の熱、胸の音を聞いた。

「ようございます。精のつくものを召し上がり、念のためもう一日ほどゆっくり休まれるとよいでしょう」

 満足げに言うと、「薬湯を用意いたしましょう」と一礼し、部屋を出ていった。ジアンは、医師の一連の動きを注意深く見ていた。ラルと二人きりになると、ラルに改めて平伏した。

「先の主の振る舞いをお許しくださいませ。あなた様が目覚めるまで、寝食も忘れる様子でありました故に」
「間……?」

 その言葉の深刻な響きに気を取られた。その様子に気づいたのか、ジアンは平伏したままで答えた。

「あの夜より、三日経ちましてございます。三日の間、あなた様は眠られておりました」
「三日……」

 ラルは目を見開く。ジアンは「無理もありませぬ」と答えた。信じられない、今日は昨日の次の日だと思っていた。
 薬湯が運ばれてきた。一口飲むと、体が「久しぶり」だと感じているのがわかった。苦い飲み物であるのに、甘く感じる。あたたかさにお腹が落ち着いた。
 ラルは人心地つくと、はたと思い至った。ジアンに、顔を上げるように言う。そのことすら忘れていた。

「ジアン、明日、出て行くと聞いていたわ。今日は、その明日を過ぎてしまっている」

 ラルの言葉に、ジアンはわずかに目を見開いたが、すぐに平素の顔となり、答えた。

「出立の日取りはのばしました。何も心配はいりません。」
「いいの? 急いでいるって」
「姫様のお体が一番にございます」

 ジアンははっきりと迷いなく言った。ラルはその言葉がくすぐったかった。胸にしみる思いのまま、

「ありがとう」

 と言った。ジアンはふ、と笑った。初めての微笑であった。

「姫様から、出立のことを口になさったのは、初めてのことにございますね」
「そう?」
「ええ」

 ジアンは嬉しそうだった。尋ねておいて、ラルは確かにそうだとわかった。今まで、ラルは自分で出立――王都というところに行くこと――を口にしなかった。実感がわかない? ――違う、言わなかったのだ。
 ラルは何となく落ち着かないような気持ちになって、うつむいた。

「ラルは皆と行く。もう平気よ。心配かけてごめんなさい。ラル、いつでも行けるわ」
 そして、ラルは顔を上げ、ジアンにはっきりと伝えた。

「――有り難う存じます。ご英断を無為にせぬよう差配いたします」

 なれど、今日はどうか、ゆっくりお休みくださいませ。
 そう言って、ジアンは深々と頭を下げた。ラルは頷いた。それから、ジアンは破顔した。それは本物だと一目にわかる笑みだった。こういう風に笑うと、ジアンはとてもエルガと雰囲気が似るのだと思った。
 ジアンは、それから、「長居をいたしました」と言って、部屋を出ていった。
 ラルは寝台に身を預けた。ジアンの心遣いがありがたかった。ふうと長く息をつく。
 ――三日。一人になった部屋で、もう一度、ラルは唱えた。まだ頭がふわふわとしている。そんなに長い間、自分が眠っていたなんて。

(いつもはこんなに、眠ることはないのに)

 でも、昨日――いや、三日前は何か違った。ああ、スーミの声がする。とっさに目を向けた窓には、板がおかれている。そこからは何も見えないけれど、ラルの脳裏には、あの夜の光を感じている。

(あの音を出したからかな)

 あんな音を出したのは、初めてだった。もう一度やれと言われて、できるかわからない。あの時のことは、夢中ではっきりと思い出せない――あの一瞬以外は。
 目を閉じる。瞼の上に、手を置いた。
 さっき、するりと「ここを出て行く」と、エルガ達と共に行くことをのみこんでいる自分がいた。それは、けれど逃げないとか、そういうことでもなかった。ただ、自分の願いが重なったに過ぎないのだ。

 ――シルヴァス。

 あの光の中、ラルは確かに、シルヴァスを感じた。シルヴァスの光、それは躍動し生きていた。
 言葉に表すのは難しい。ただ、生きている光には熱があり、それは、ここに初めてきた夜に、音を出したときには、得られない熱だった。
 ラルの光と、シルヴァスの光は、たしかに同じ温度でふれあった。

(シルヴァスは生きてる……)

 そして、浮かび出した、光景……言葉……。

 おいで、ラル――

 シルヴァスは、あの場所にいるのだ。そしてそれは、ラルがこれから行く先にあるのだと、予感があった。
 だって、感じるのだ。
 今も余韻があって、その光が、ラルを引き寄せる。強く。強く強く――ここを出て、森でもない違うところへ、向かわねばならないのだと。
 前に進むのだ、進むことできっと――。
 この思いが、先のジアンの笑みに、相応しくない気がして少し後ろめたく感じた。
 それでも、――シルヴァスが生きている、そのことが何より嬉しかった。赤に染まったシルヴァスの姿――ずっとラルの心をくぎづけていた。だけど、ようやく、少し安心したのだ。

(頑張る――このまま頑張って、いいんだ。すぐ、会えないのはさみしいけど――)

 きっと頑張っていれば会えるよね。
 ラルはほほえんだ。あたたかな予感を胸に抱ける幸福に、笑みがこぼれる。森を出て初めての、安堵に満ちた、やわらかな笑みだった。
 

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