一章


 天を仰いだ。そよ風がぬれた頬を撫ぜていく。風の音に、アイゼの命の余韻が溶けていく。
 アイゼは体を捨てる。
 魂となる――

『還してあげなさい』

 ――いつものように。
 ――うん。
 ラルの世界は広く、遠く、無音となった。
 体の重心が上がっていく。同時に、天上からラルの体に力が降り積もっていく。
 それは光だった。
 ラルは目を開いた。あたりに光が浮き、散っている。地面からたえず光は上がり、天上からは降り注いだ。そうして彼らは、一面、一枚の光となる。そうして光はラルとアイゼを包んだ。
 光に何もかもが、のまれていく。その中で、ただひとつ、ゆれるもの――ひときわ明るい小さな光の玉が、点となり、跳ね合い、やがて線となった。
 揺れ、波となる光の線を追うように、ラルは口を開いた。
 ラルの唇から音がこぼれ落ちる。
 天に点が打たれるとき、舌を動かす。生まれた音は、光の内に溶け、より大きな波となり、反響し、ラルの元へ返ってくる。何度も反響する音を、今なお打たれる点を追いながら、心のどこかでつかまえる。
 それは、何度も繰り返してきた響きだった。ウォーロウ、ワーフ、ルス、デァ――森の生き物達に――ラルがそれを悟ったとき、光の点は消えた。ラルにはもう、わかっていた。

「魂送りだ」

 つぶやいたのは誰の声だろう。おそらく知っているのに、ラルの中にその答えはとどまらなかった。ラルは舌をふるわせ、節にのせ、音を発し続けた。
 ラルが音を発するたびに、ラルの唇から、地面から、光があふれる。それは、絡み合い、のぼり、光の束となり、はじけて天に散っていく。それを何度も繰り返し、空の彼方上へと続く光が、天と地をつなぐ頃、アイゼの体が光り出す。
 それは優しく、あたたかな光だった。体からあふれ出て、胸の中心へと集まり、山なりになる。山はどんどん高くなり、上へと上がっていく。次第に、足もとと頭から、光が引いていき、光は胸元へ集まりきる。
 すると、大きな光の山がくびれ、ふわふわと胸の上でゆれ――
 途切れる――それは、魂の離脱だった。
 アイゼの体から離れ、光の玉となり、ゆっくりと天上へと昇りだした。光の道を昇るように、ゆっくり、ゆっくりと。
 何度も見た光景。この瞬間は、ラルの目からひとりでに涙がこぼれる。しかし、ラルは音を発し続けた。
 アイゼ、ありがとう――
 アイゼへの言葉があふれた。言葉は薄紅色の細い光となり、アイゼの魂を慰撫し、消えていった。アイゼの魂は、上がっていく。
 涙はずっと止まらない。それでも、音は止めない。アイゼの魂が、天に昇れるように――
 止まるわけにはいかない。これが、唯一、ラルに出来ることだから。誰の力でもなく、ラルに出来ること、ラルの責任と――ただ一つの自由だから。
 あたりの光が、ひときわ強くなった。魂の上昇が、速まったのだ。力を得て、魂は天に向かいひたすらに上がっていく。皆、何も言わなかった――言えなかった。
 ラルの音は高く上がり、息もつかぬ速さへと引っ張り上げられていった――どこまでその音が進むか、自分でもわからない状態になり、ラルの世界はだんだんと白くなっていく。
 あと少し、あとすこしで、アイゼの魂は天に昇る――
 ――その時だった。
 音が鳴る。それは、無数の銀の輪を打ち鳴らしたような音だった。
 次いで降ってきたのは、ラルの出す音と違う節の音。それが、波となり、渦を巻くように、天上よりたえず降ってくる。
 その声を、ラルは知っていた。ひかれるように、ラルの音は知らず、その音に重なり出していた。
 彼の音が、ラルの音となる。
 音はまた新たな光の波となり、帯となり、天上から降りてくる。ラルの光の中を周り、重なり、組まれ、とけ込んでいく。そうして、アイゼの魂を、そっとすくい上げる。ラルは音を出し続ける。おそれはなかった。
 
 光の外で、ジアンがひざまずいた。感激にふるえる右手を肩に合て、天上を見上げていた。降りくる彼の音は、ラルにだけ、聞こえていた。皆が知るのは、ラルが節と音を変えたことと――果てない光の奔流だけだった。
 光はアイゼの魂を抱き、ゆるやかにラルのもとへ回り降りてくる。ラルの音と彼の音はいつしか完全に重なっていた。――リュウテの音が、粒をなして響き出す。
 光は髪となり、顔となり、体をつくり――ラルの頭上に、頭から舞い降りてくる。

(――)

 そうして、その長い髪が、ラルの肩をかすめ、その顔がゆっくりとラルへ近づき――ラルの目元に、そっと、キスを落とした。ラルは、いつものように目を閉じる。
 瞬間、あたりは大きな光にのまれる。それは、すべてをくらますような、みどりの光だった。
 しかしそれは一瞬のことで、光はもとの白き光となり、そしてやわくなり、地面に、天に還りだした。
 ラルはずっと目を閉じていた。体の内から、何か放たれ、同時に満ちていく感覚。全てと一体であり、全てから離れている。
 力がラルを満たし、そして静かに抜けていく。ラルは、ラルへと戻り始めていた。
 目を開いた。
 ――シルヴァス。
 彼の名を魂で呼んだ。肉体の感覚が戻ってくる。ラルは指先と頭の先におさまり、ゆっくりとふたを閉じる。

「おお……」

 嘆息が響く。発したのは、エルガであり、ジアンでもあった。皆この光景の一部分となっていた。
 ラルは天を仰いでいた顔を、視線を元に戻した。まだ、意識は夢とうつつをさまよっている中、思うはただひとつだった。
 アイゼ……。
 天に迎えただろうか。
 その時、ラルは、自分の腕があたたかいことに気づいた。抱えている腕が、あたたかい。見下ろしたアイゼの体は、うっすらと光をまとっていた。光はアイゼの体に飲まれていく。
 そうして、音が。アイゼの体の内に、はじめの音が鳴る。薄く開いた唇から、すうと長い音を発した。
 アイゼが目を開いた。眠りから覚めたような、穏やかな目覚めであった。

「……姫様?」
「アイゼ……!」
「あれ? オレ……」

 アイゼの顔色は、平素の穏やかで明るいもので、そこに一切の苦痛は消え、あたたかだった。どこかほうけた様子で、アイゼが自身の胸に手をやる。砕けていた手は、あとかたもなく治っていた。

「痛くない? どこも、変じゃない?」
「はい。……あれ、何で……」

 ラルはアイゼの頬を今一度、拭った。顔の傷もすべて消えていた。何が起こったのだろう。もっと状況のつかめていないアイゼは、しばらくラルにされるがままになっていた。しかし、ラルに抱えられていることに気づくと、火がついたように真っ赤になった。

「わあっ姫様!」
「よかった……! アイゼ、ありがとう……」
「あ、あわ、あわわ」

 ラルがアイゼを抱きしめる。アイゼは泡を食ったようにあわてていたが、ラルの泣き声が聞いて、されるがままになった。ラルは泣いた。どういうことだろう? 何もかもが信じられない。けれど、アイゼがあたたかく、動いている。この真実を、受け止めたかった。

「魂問い……」

 ジアンがつぶやく。その声は陶然としていた。

審問ラルフィールか」

 アーグゥイッシュは吐き捨てるように言った。そしてその場を去ろうとする。すると、平素の様子を取り戻したジアンが、厳しい声で呼び止めた。

「用はまだ済んでおらぬ」
「まあ、待てジアン。今は言うな」

 エルガが止めた。エルガは滂沱しており、声は情緒にあふれていた。

「獣人の、お前は、アイゼといったか」
「はい」

 アイゼは身を起こし、平伏する。ラルは不安になり、エルガを見上げた。

「人間に手をあげるのは、死罪と知っているな」
「エル――」

 ラルが庇おうとするのを、アイゼはそっと押しとどめた。

「はい、存じております」

 そうして頭を下げた。

「うむ。しかし、お前は先に一度死んだ」

 ラルとアイゼが同時に顔を上げる。

「先に死に、魂問いにより、今お前は再び命を得た」
「え、と……それは……?」

 アイゼが戸惑いに満ちた声を上げる。ジアンがその不敬に眉をひそめたが、エルガはふっと笑った。

「お前の罪は消えたという事だ」

 ラルとアイゼの目は、大きく見開かれる。アイゼは信じられない、という顔で、それから、あわてて平伏した。

「あ、ありがとうございます……!」
「エルガ、ありがとう」
「何の。魂問いにゆるされた命を、許さぬなどあり得ぬ事ですからな」

 ラルの言葉に、エルガは笑い、首を振った。その頬は紅く輝いていた。

「姫様、私はあなた様にますますの忠誠を誓います」

 ひざまずいて、そっとラルの手に自身の額をつけた。ラルは、ほほえんだ。

「ありがとう」

 そうして、ラルは――糸が切れたように倒れた。

「姫!?」
「姫様!」

 皆の声も、抱えられた腕も遠く、ラルは深い、深い眠りに落ちていった。
 よかった――その言葉と同じく、もっと深いところに、彼の音の余韻を、刻みながら。
 

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