一章


「姫様、ご機嫌麗しゅうございます! 本日も美しいお姿にお目通りかなうこと、嬉しく存じます」

 エルガがラルの部屋にてひざまずき、声を張っていた。顔を伏せていても、笑顔でいるのがわかった。エルガは稽古帰りであるのか、身だしなみが整えられていたが、熱の余韻を感じさせた。

「顔を上げて」

 自分に頭を下げている生き物を楽にさせたいなら、こう言うことを学んだ。一番えらいのは、ラルなら、ラルが相手の責任を持つ。
 エルガがさっと顔を上げた。顔すべて、笑んでいた。エルガの全身は生き生きとした活気にみちており、ラルの心を励ました。エルガの言葉――というよりもこの群の生き物の言葉は知らない言葉が多い。しかし、エルガは言葉より顔や体がすべて語ってくれるので、ラルも聞き返すことなく、言葉を返した。

「ありがとう。ラルも、エルガに会えて嬉しい」
「もったいなきお言葉!」

 エルガが喜色に満ちた声で答える。ラルもまた、口元をほころばせる。

「姫、何かお変わりありませぬか? 困りごとがありましたらぜひ」

 エルガはラルの不自由な日々を気遣い、いろいろと尋ねてくれる。ラルはありがたかった。

「うん、平気。ジェイミも、よくラルを気遣ってくれる。そう、変わったことはね、ラルは夜の明るさに慣れてきたの」
「おお! それは、何とも喜ばしいことです。姫の鍛錬のたまものですな」

 エルガが、全身から喜色を発してほめてくれた。ラルも嬉しくなって、破顔する。光になれる為に、夜に板を外している事をすでに伝えてあった。ジェイミが罰されないためにも、必要だと思った。

「ありがとう。ラルはちゃんと白いところ――光のもとで歩けるようになりたいの」

 この言葉は、形にするのは、少し勇気がいった。何故かはわからない。ただ、何かを否定してしまうようで、苦しいものがあったのだ。

「賢明なご判断です、姫。何分、これから、短からぬ旅となりますが、光ある外に出ることになります故――もちろん、姫の体にさわらぬようにこのエルガ注意を働きますが――光に慣れることはすばらしくよいことです」

 エルガが、胸の前に手をかざし、ラルの言葉喜んだ。ラルは、少し、自分の心と何かがが、そっと慰められるのを感じた。

「姫には、あたたかき光りのもとに、見ていただきたいもの、感じていただきたいものがたくさんございます。エルガはその時が楽しみでなりません。必ずやお力になりましょう」
「ありがとう」

 エルガが言うと、外の世界は、とてもいいものばかりな気がする。それは、本当にエルガがいいものを思い浮かべていて、それが肌でわかるからだろう。

「恐れながら」

 側に控えていたジアンが、すっと声を上げた。ラルの視線とエルガの注意が、ジアンに集まる。ジアンは髪色と同じ深い藍の目を伏せて、すらすらと流れるように話し出す。

「姫様のお加減さえよろしければ、少し外に出られるのはいかがでしょう」
「外?」
「なにっ、夜にか!?」

 ラルが高い声で聞き返したのと、エルガが素っ頓狂な大声をあげるのは同時だった。ラルは驚いて、エルガを見る。エルガは慌てており、咳払いをした。ジアンはそんな主の様子など知らぬ顔でラルに頷いて、続ける。

「外の空気に触れるのも、一興かと」
「外に出られるの?」
「はい。一人歩きはあぶのうございますから、供をつけることになりますが。ずっとお部屋にこもりきりでつらかろうと、わが主、エルガ卿もずっと憂いていたところです。姫様さえよろしければ、お時間を作りましょう」

 流れるように言葉をのべるジアンは、終始笑みを浮かべていた。それは秀麗なジアンの顔を親しみ深いものにした。「供だと!」とエルガ卿がまた声を上げていたが、しれっと流している。

「嬉しい。ラル、外に出たい」
「との仰せです」
「うむ、しかし、夜か」
「夜はだめ? エルガ」
「夜に歩くは姫に、不都合が……」

 エルガが珍しく渋っていた。ううむと唸る。というのも、ラルは当然知らぬ事であるが、夜に女人が外を出歩くのはカルデニェーバでは、基本、はしたなきことであるとされているからであった。

「今、姫様にとって、ご都合よきが夜なのです、いわばこれは、昼に歩くようなものでしょう。この際、常識は沼に捨てるがよろしい」

 ジアンがエルガに進言する。ラルはジアンの言う常識などしらぬので、首を傾げていた。

「ううん、そうなのだが……姫がこれで、よからぬ噂をたてられては」
「ならば、卿がお供をなされませ。それならば、問題ありますまい」

 ジアンの言葉に、エルガはのぼせ上がるように真っ赤になった。あんまりすごい勢いの赤面だったので、ラルは目を瞬かせた。――カルデニェーバで女人が夜に外を出歩くのは、はしたなきこととされている――ただ、男性を供にしている時をのぞいては。そしてその男性は、年頃ならば、まず主として伴侶に見られた。

「姫様ほどの高貴な方ともなれば、お供は騎士であると伝わりましょう。御名に傷つかぬよう、主が適任かと。しかし重ねて申しますが、この散歩は実質、夜ではなく、昼ではありませんか。なにも問題はありません。ただ外が暗い昼です」
「う、うむ、そうか」

 たたみかけるようなジアンの調子に、ひたすら赤い額からにじむ汗をぬぐっているエルガを、ラルは不思議そうに見ていた。

「姫様がこんなにも努力されているのです。お応えしたくはありませんか」

 ジアンはちゃっちゃとエルガの反論を封殺し、エルガに頷かせたのであった。
 ラルは、終始頭上に疑問符を浮かべていたが、外に出られるとわかって、たいそう嬉しかった。

「では、姫! このエルガ、僭越ながらお供させていただきます」
「ありがとう、エルガ」

 エルガが、やけに改まってラルに言うので、ラルはすこしおかしかった。エルガはいつもの一色の喜びではなく、いろんな感情があふれ、それを懸命におさえているように見えた。
 
 その日の夜、エルガはラルを迎えに来てくれた。エルガは、薄青色の棒――槍というのだと教えてくれた――を脇に携えてはいたものの、いつものいかめしく固い衣姿ではなく、柔らかな衣に身を包んでいた。白色の衣に、赤の布を斜めにかけている。どちらの布もたいそう艶やかだった。いつもが頑強な岩だとすると、立派で優美な木のように、雰囲気が変わって見えた。
 すでに話を通してくれたようで、見張りの兵士たちもエルガとラルに礼をして、こころよく部屋の外に行かせてくれた。

「姫、足下にお気をつけください」
「うん。ここの地面は、草がないのね」
「庭師が手入れしておるそうです」

 エルガはどこか緊張した面差しで、何を話すにも浮き足立っていた。しかし、笑みを絶やさず、ラルをつれ、邸をぐるりと連れて歩いてくれた。

「それにしても、いい夜ですな!」
「明るい夜ね」
「夜も明るうございますか?」
「うん。森の外の夜は皆こうなの?」
「そうですな――うん、これくらいです」

 ラルの問いに、少し考えるそぶりをして、エルガは答えた。

「そっか」
「ああ、しかし。私が赴いた先では、夜でもずっと白く明るい地がありました」

 思いついたとばかりに、エルガは手を打って言葉を続けた。

「そんなところがあるの?」
「ええ。見事なものです。ずっと光のもとにいるのですから。何とも、力強かった。まあ、中には眠れずに困っているものもありましたが」

 満面の笑みに加えて身振り手振りを加えて話す、エルガの横顔をラルは見上げた。すごい、という感情だった。

「エルガの世界は広いな」

 ラルの言葉に、エルガはしばし照れ笑いを浮かべた。それから、きゅっと表情を引き締めた。そして、ラルを見つめた。切れ長の目が、真摯な光を帯びている。

「姫様の世界も、広くなります」
「エルガ」
「これは絶対のことです。姫、あなたは誰より広い世界をお持ちになります」

 そうして、恭しく一礼した。ラルは、エルガの心が嬉しかった。広い世界を持つ、実感はなかったが、あたたかな手で、背を押された気がした。

『これからお前には、もっと大きな幸せがやってくるよ』

 シルヴァスの言葉がよみがえる。シルヴァスの言う幸せは、エルガの言う、広い世界と重なったような気がした。
 その時、ふと心に風が吹いた気がした。その風は、ラルに何度か吹いていた。何かを知らせようとする風だ。しかし今回もまた、ラルがその心に捕まえる前に、過ぎ去っていってしまった。

「おっと、段差があります。姫、お手をどうぞ」

 エルガが、手をさっと差し出した。ラルはしばしその手を見ていた。しかし意図に気づくと、その手を取った。あたたかで大きな手だった。
 エルガは、明るく優しく、強い。そして群の中で、一番偉い存在だ。エルガにならば、大丈夫かもしれない――そんな気持ちがわいてくる。しかし、ラルはまだそれを言葉にできかねていた。それがなぜかはわからない。ただ。音にならない。
 エルガはというと、ラルの手をとってから、なんだかよりいっそう落ち着かない様子で、鳥を追うようにあちらこちらへと視線を動かしていた。かと思えば、いきなり咳払いをした。エルガを見つめると、エルガは赤い顔をわずかにこわばらせて、しかし視線は外さなかった。そうして、勢い込んで、口をひらいた。

「――しかし、許せません! あなた様から、世界を奪った者が」
「え?」

 世界。ふと、ネヴァエスタの森が浮かんだ。そして、あの朱金の――

「シルヴィアス・レイモンフリート……――名を音にするも憎い、あの奸賊です!」

 ラルの顔から、さあっと血の気が引いた。

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