一章
不意に足音が近づいてきて、ジェイミは身を起こした。当人としては、細心の注意をはらってきているつもりなのだろう足運びに、頭を抱えため息をついた。痛めつけられた身体の節々が痛んだ。
「ジェイミ」
「馬鹿かお前は」
そっと戸を開け、中に滑り込んできたアイゼに、ジェイミはざらついた、それでも極力絞った声で応対した。アイゼはその様子に、眉を下げながらも、ジェイミの前にかがみ込んだ。
「傷痛むか?」
「いいから、出てけ。ここに来るな」
アイゼは、懐から、ポトの実を差し出した。ふかして間もない実は、まだ湿っていて、ここに来るまでの摩擦からかところどころ皮がむけていた。
「腹減ってるだろ?」
「話を聞け。何のために俺がここにいるかわかってるのか」
「わかってるよ。だから、こっそり来た」
こいつはいつもこれだ。ジェイミは倒れ伏したい気になった。しかし、逃避をしている場合ではない。殴り飛ばしてでも、追い出さなければ。
「アイゼ。気を引き締めろって言われたばかりなはずだぜ。その上、もうすぐ閣下がおいでになるんだ。手はいくらあっても足りない。誰でも、すぐお前がいないのに気づく。わかったら出てけ」
「――姫様と話してきたんだ」
ジェイミの動きが止まった。アイゼの顔を見る。アイゼは、真剣な面もちでジェイミを見ていた。てっきりのんきな顔をしていると思っていたのに。
「姫様、ジェイミを助けてくれるって」
「は」
「オレのせいで、ごめんなジェイミ。あと少し、辛抱してくれ。それだけ言いたかったんだ」
アイゼの顔は終始真剣だった。「助けてくれる」とは浮かれた言葉だが、アイゼにまったく浮かれた様子はなかった。だから、ジェイミも簡単に皮肉で返すことはできなかった。
「思い上がるな。お前のせいじゃない」
「ジェイミ」
「行け」
これきり、話は終わりという風に、ジェイミはアイゼに背を向けて寝ころんだ。アイゼはそれを察したらしく、うなずく気配の後、去っていった。珍しく飲み込みのいいアイゼに、ジェイミは複雑な気持ちになった。それほど、アイゼは思い詰めているということか。
「ばかなやつ」
こんな所で易々死ぬつもりなど、俺にはないのに。
ただ、頭を垂れたくはない。それだけだ。
だからこそ、アイゼの言葉が引っかかった。……姫様と話しただって?
(いったい、何を考えてる)
女の姿を浮かべると、ジェイミの中の不愉快がいっそう大きくなった。昨日からずっと、ぐるぐると、渦巻いて、ジェイミを苛んでいるものだ。
勘違いするな、アイゼ――人間に、ひざまずくな。
アイゼと約束した。ラルは、決意を新たに、部屋の中ひとり立っていた。板でしきられた暗い部屋。それでもラルにはずっと明るい部屋で、ラルは考える。
(ジェイミを助ける……そのために、大事なことはなんだろう)
思考の末に出た結論は、約束を守ってもらうことだった。なぜなら、ここにいる生き物は、大抵が、ラルの理解の外の生き方をしているからだ。ラルの気持ちとは違うことを、ラルのためと言ってする。ラルがいけないことをしたら、ラルではなく違う生き物を罰する。
それなら、「ジェイミを助けて」とラルが言っても、聞いてもらえないかもしれない。最悪、聞いたふりをして、ジェイミの命を消すかもしれない。要するに、信じられないのだった。ここの生き物が皆うそつきとは言わない……ただ、わからない以上、信じられない。
その為には、ここの生き物達の考えを、規則をわからなければならないが……今は、時間も、自由もたりなかった。
自由……ラルはそっと板の隙間を見る。ほんの少し漏れ出た白。くらくらするような白。でも、皆、この色の中、目を開けるのだ。ここで目を開けさえすれば、もう少し動ける。目が開けられないせいで、ここから外にも出られない。自由を奪われている。
(見張り、を抜けると見張りがラルの代わりに罰されるんだっけ)
どちらにしても、自由はない――そう思うが、この白になれること、それは自分に必要だった。いざというとき、不安だからだ。
自由を奪われているということは、自分のしたいことができない、相手の言うことをするしかない……それが、ラルにはわかってきた。そして、ジェイミを……シルヴァスを助けるためには、それじゃだめなのだと。
だから、エレンヒルには頼めない。なら、エレンヒル以外のあの群の生き物に頼んだらどうだろう? そこで浮かんだのが、森でのあの目の大きな生き物。あの生き物は、群の中で、たしか一番のように思う。けれど……全く知らない。少し接したエレンヒルでさえ、わからない、信じられないというのに。
「うー……」
顔を押さえて唸る。そう言っている間に、時間は過ぎていく。悩まず、とにかく頼んでみようか。群の中で、一番偉い生き物……その言うことなら、聞くと思うのだ。少なくとも森ではそうだった。何も知らないラルは、結局森の知識に頼るしかない。
その時、にわかに、部屋の外が騒がしくなった。先からあわただしい空気はずっとしていたが、気が引き締まるような緊張と、気分の高揚が混ざっている。ラルは、部屋の外に耳を近づけて聞いた。
「閣下のお越しだ!」
ざっざっという音がしている。それは集まり大きくなっていって、最高潮に達した頃、ぴたりと止んだ。ラルは部屋の外をそっと見た。見張りの兵士の数は増え、廊下にずらりと美しい線のように並んでいた。それはラルの為ではなく、これからくる者の為の礼儀だった。
広間に、兵士達一同が集まっていた。駒のように規律正しく並び、皆が敬礼を取っていた。
「やあ、皆! ご苦労である!」
颯爽と現れ見事なホロスから、うららかに声を張ったのは、エルガ・ドルミール――ガスツェ・ドルミール伯の第三令息であった。
エルガ・ドルミールは鷹揚な調子の青年で、後ろに撫でつけた濃茶色の髪が風になびいているのが、よく似合っていた。
「エルガ卿。お待ち申しておりました」
グルジオが跪き礼をとる。内心の動揺を一分も見せない、見事な礼だった。エルガはそれに頷くと、グルジオに応えた。闊達な声だった。
「うむ。此度のお前の働き、うれしく思う。父上も喜んでおられた」
「かたじけのうございます」
後から、遅れてホロスとホロスに引かせた車が広間に入ってきた。飛ばしてやってきたようだったが、ぴたりと足をそろえて止めた。エルガは、肩越しに振り返ると声を上げた。
「遅いぞジアン。ようやく来たか」
「申し訳ありませぬ。風のように飛んでいかれるものですから」
ジアンと呼ばれた藍色の髪の青年は恭しく頭を下げながら、どこかちくりとトゲのある様子で答えた。エルガは気にした風もなく、大笑した。大笑というにふさわしく、顔全体で笑っていた。
「さて。早速だが、姫にお目通り願いたい。姫はどうしておられる?」
ホロスから下りると、グルジオに尋ねた。グルジオは、は、と平伏し応えた。
「卑しき森で過ごされ、さぞつらい思いをなさっていたはずだ。丁重にもてなしておるのであろう?」
「は。姫は魔の森で育ったためか光がおつらいようで、光を遮って過ごしておられますが……それ以外は、健康なご様子です」
「光に? それは……なんとお労しい。おのれ奸賊め、ますます許せぬ」
グルジオの応えに、エルガは驚き、それから嘆いた。大げさなまでの動きだったが、どうにもエルガに似合っていた。
「誰よりも光のみもとにあるべき姫から、この尊き光を奪うとは。なんと汚い。ジアンよ、俺はもっとあの男がきらいになったぞ」
「は。お怒り、ごもっともでございます」
エルガは、陽光に右手をかざし、それから握りしめた。あまりに強く握りしめるので、拳がふるえていた。グルジオらは、それをじっと見守り、エルガが満足するまでと控えていた。
「うーむ、許せぬ。――おお、ゼムナ、息災であったか」
「はは。エルガ卿におかれましては、ますますご健勝のことお喜び申し上げます」
礼を取っていた村長のゼムナに気づいたのか、にこにこと声をかけた。ゼムナは、人のよい顔立ちを限界までかしこまらせて、頭を下げた。整えられた白髪がまぶしい。
「ははは。そうかしこまるでない。かたい顔は似合わぬ」
「エルガ卿、そろそろ参りましょう」
「うむ。姫のご加減よいときでかまわぬ。ここは、俺にとって好ましき土地ゆえ、いくらでも待たせてもらう」
「もったいなきお言葉にございます」
ゼムナとジアンをともに、邸の中へ入っていく。兵士達は礼を持って見送った。
「エルガ卿の為、今から姫を伺う。エレンヒル。ついて参れ」
「はっ」
グルジオの言葉に、エレンヒルが恭しく答える。隊列からはずれ、グルジオの後に続く。
(……――何故、エルガ卿が?)
エレンヒルは、浮かんだ疑問を凪がせていた。波立ち、周囲との規律を乱さぬように、ひたすらに静かに。
「姫様。 お目通りかない、まことに光栄にございます。お初にお目にかかります。エルガ・ドルミールにございます」
エルガは、ラルの部屋にて、礼を取った。なんと暗く不格好な部屋か、という悲しみを一心に隠しての礼だった。
「この度は、わが父、ガスツェ・ドルミールの名代として参りました。父は急な病にかかりました故。あなた様に直接お目通りかなわぬこと、まことに遺憾であると申しておりました」
恭しく、しかしどこまでもはつらつとエルガは言葉を述べる。
そういうことか、エレンヒルは思った。
おそらくドルミール卿は、この件から降りたのだ。わき起こった不愉快な気持ちを抑えた。表に出してはならない。無理もないことだ。今回のこと、まだ姫の素性わからぬ以上、危険が多すぎる。いくらレヴ家と旧知であったと言え、いや、だからこそか――沈むかもしれぬ船に乗れまい。
(ドルミール卿は、最近とみに迷信深いと聞く。ネヴァエスタにいた者なぞ、ご落胤であろうと抱えたくない、とも考えられるが)
そういった者は実際、グルジオらの中でも少なくはない――しかし、ひとまず、自分の推論を心においておいた方がよいだろう。ここはあてにならぬと。何にせよ、「あの」エルガ・ドルミールを寄越してきたのだから。
「……――エルガ?」
姫がエルガの名を、確かめるように呼ぶ。それにエルガが喜びに満ちた声で、「は!」と返事をするのを、さめた心持ちで聞きながらエレンヒルは結論づけた。
(私は、わが主のためになすべきことをなすのみ)