一章


 恐ろしいほどに美しい。それが、目の前の光景に対する、ジェイミの形容だった。

 眠れなかった。水でも飲もうと外に飛び出した。あのようなことがあったというのに、大人しくしていないなど、平素のジェイミらしからぬ、自棄といっていい行動だった。腹の底には、怒りと嫌悪の情がうずまいていた。
 今日に限ったことじゃない。どうしようもない怒りを、ジェイミはいつも飼っている。消えたことはない。ただ、飼い慣らしているだけだ。

――何故、俺は獣人エルミールなのか。

 ただ、生まれただけでどうして差別にさらされなければならない……――他者に問答無用で平伏せねば、生きていられない存在に、何故。
 アイゼやキーズをはじめ、ドミナンの獣人達は、大抵が自分たちがいかにむなしい生き物であるか、知らない顔をして生きている。そのことにいらだちを覚えないこともない、しかし、ジェイミは彼らが好きだった。だから、怒りは腹の奥に潜め、何も知らない顔をして生きてきたのだ。それでもこの世界の真実というものを、忘れたつもりはなかった。
 それがおごりであることを、今日まざまざと気づかされた。
 穏やかでおろかな暮らしに、自分が麻痺していたことを思い知らされた。この屈辱を、侮蔑を――……それは、怠惰だ、生者としての、尊厳の放棄だった。

 井戸からくんだ水を飲む。水に映った自分の姿を、にらんだ。この姿を恨む。しかし、恨むものかという思いもある。……自分が恨んでいるのは、この身のうちの人間の姿か、果たして獣の姿か?
 そんな折りに、足音が聞こえた。限りなく、静かに空気と混じった音。こんな音で走れるのは、おおよそ獣か、獣人しか知らない。音の主は未だ遠い。獣人のジェイミだから聞き取れる音だ。
 獣でもはいったか、ならば追い払わないといけない。しかし、まずわき起こったのは、純粋な興味だった。自然、気配を殺して待った。
 そうして現れた存在に、ジェイミは息をのんだ。
 人間。しかも女。
 まだ少女といっていい頃合いの――年は、自分と同じくらいだろうか。頭から、衣をかぶっていた。変わった衣服……ちょうど、あれは、神官、それも高位のものが着るような……いずれにせよ、ここ辺境では見ないこしらえだった。
 そこまで考えて、理解した。――この女は、王都の女だ。
 そして、この女こそが、ここに駐屯している軍隊の主なのだ。そう理解したとたん、感じたのは、かつてない、すさまじい怒りだった。
 この女の為に……平素ならば「浅ましい」と己をいさめ止める感情が、止めようもなく、みじめに感じる間もなく、起こった。平伏など頭になかった。消え失せていた。あったとしても、することは出来なかった。ジェイミ自身、制御しようも、理解しようもできない怒り、ただこの身の屈辱は、全てその女に集約される。
 だが、その女から、目が離せなかった。女は、空を見上げていた。空におびえているようだった。高貴な者は、空も見たことがないのかもしれない、そう思った。その時、見上げた拍子に、女のかぶっていた衣が落ちた。ジェイミは誰知らず目を見開いた。
――恐ろしいほど、整った容貌。生物の気高さや美を全て集めたような顔。人間でこれほどまでの美を見たことがなかった。美は強者だ。思わず誰もがひれ伏す力を持つ。女の容貌は、その頂点にいた。
 一つ問題があるなら、表情だった。その表情は、悲しげで、頼りなかった。それが、女の完全な美を壊しており、アンバランスにさせている。
 しかし、ジェイミはそこにこそ、ひかれた。ただの美ならば、ひれ伏さない。
 女は、唇を開いて、何か音を出した。それは歌だった。不思議な節の歌だ。かすかな音色だが、ジェイミにははっきりと聞こえた。
 女の唇から、一筋の光がこぼれたような気がした。目の錯覚かと思う前に、女の前方に差し出した手から、光の玉が浮き上がった。
 光は、何度も浮き上がっては夜の闇に消えていく。光とともに、女の顔が照らされては、また影になる。
 幻想的な光景だった。女の声は切実な響きを持っており、聞いていると目の前の光景とともに、胸がつまった。
 ――魔法……――
 どこかぼんやりとした頭に浮かんだのはこの言葉だった。神官とは、本当にこのような力があるのか。ジェイミは今まで聞いたことはあっても、実際に目にしたことはなかった。ここでは、おおよそ見られないものだ。
 ――美しい。
 それ以外に、この光景を形容する言葉が生まれなかった。ジェイミは、思わず詰めていた息を吐き出した。
 その瞬間、女がジェイミの方を振り向いた。
  ジェイミは、そのことに少し驚いた。そしてそんな自分に、驚いた。女の歌が止んでいることにすら、今気づいた始末だった。それほど、自分は魅入っていたのだと気づく。

「……誰?」

 女の顔に、自分への嫌悪はなかった。ただ不思議そうにこちらを見ている。夜目がきかず、自分が獣人であることに気づいていないだけかもしれない。平伏せよ、と平素のジェイミがジェイミに告げた。今なら間に合う――だが、ジェイミには、もうその気はなかった。半ば自棄の気持ちであった。

「ジェイミ」

 眇めた目もそのままに、ジェイミは自身の名を告げた。
 光が止んだ。女は、ジェイミの顔をじっと見た。

「そう」

 一言。一言そう言うと、それから、視線をはずし、また上空を見上げた。

「ここは明るい。それに寒い」

 そう言った。ジェイミに向けているようで、独り言のようでもある、不思議に間延びした話し方だった。妙なことをいう女だと思った。ジェイミは袖のない服を着て、腕をさらしていた。自分が寒さにも暑さにも強い獣人であることはさておき、ドミナンは比較的温暖な土地だ。まだ寒いということはなかろう。

「ジェイミ、ここはどこ?」

 ジェイミは一瞬黙した。明らかな不敬であったが、気にしなかった。この言葉には、慎重に答えなくてはならない。そんな気がした。

「井戸端です」
「いどばた?」

 女が不思議そうに言うので、身体を少しずらし、井戸を指さして見せた。

「水をくむための場所です」
「水をくむ……水の箱?」

 女は、ふらふらと近寄って、井戸をのぞき込もうとした。ジェイミはとっさに腕を出し、女を止めた。

「危ない。落ちます」
「落ちる?」
「井戸は深いんです。落ちたら助かりませんよ」
「そんなに。すごいのね」

 女は、感心したように言った。手を伸ばそうとするのをせきとめて、井戸から離した。女の方も、興味は別に移ったのか素直に促された。じっとジェイミの顔を見ている。

「怪我してる」

 女の言葉を、ジェイミは受け止めかねた。皮肉にしかとれなかったからだ。この怪我において一番腹が立つのは自分だが、原因の一端はこの女にもある。それを全く意識していないかのようだ。腹のうちに、ぐるぐると怒りが渦巻くのを感じた。

「かわいそう」
「平気です」

 痛ましそうに、のばされた手をジェイミはよけた。女はジェイミの行為には気にした風もなかったが、ただ少し悲しげに目を伏せた。

「怪我をしてる生き物は、いつもそう言う」
「平気だからです。……ここから向こうは、使用人たちの部屋です。あなたにはそぐわないかと」

 言葉をかわしながら、女が、来た方とは逆……ジェイミの帰るべき場所へ行こうとしているのを制した。

「ジェイミ、しようにんって何?」

 顔をしかめたくなるのを我慢して、ジェイミは言葉を紡いだ。

「あなたのような方の為に働く者のことです」
「ラルの? そんなものがあるの?」

 女の首を傾げて言う。この女の口をどうにか塞いでやりたい。衝動を、ジェイミはかろうじて抑えていた。
 ――そんなものがあるの、だと? そこまで傲れるほど、この女は下の者を平然と使ってきたのか。今日とて、自分のために、この邸のものがどのような仕打ちを受けたかなど、一生知らずに生きていくのだ。
 ふつふつと煮えたぎる怒りを抑え、ジェイミはラルを元いたであろう部屋に帰すことにした。もうこの女を見ていたくない。

「冷えてはいけませんから、お部屋までお送りします」
「おへや?」
「あなたがもといた所です」

 何で、この女はこんなに飲み込みが悪いんだ。高貴な者は皆そうなのか。――ほんの僅か、覚えた違和感――走った直感に、ジェイミはこの時、怒りにとらわれて気づくことはなかった。女の方はというと、ジェイミの言葉に、顔色を変えた。

「だめ。ラル、行かなきゃいけないところがあるの」

 女は、必死な様子で、ジェイミにぐっと近寄った。金色の髪が、さらりと揺れた。

「ジェイミ、ここはネヴァエスタの森? それとも違うところ?」

 ジェイミは今度こそ言葉を失った。――ネヴァエスタの森だって? あそこは禁足地だ。入ったら、二度と出られない。万に一つも出られたとして、今度は村の者から迫害される。

「違うなら、ここから森へどう行けばいい? 教えて、ラル、行かなきゃいけないの」

 ジェイミは背筋に汗が伝うのを感じた。いやな予感がする。聞いてはいけないことを、俺は聞いてはいないか。

「何故、そんなことを俺に」

 言葉にしたのは、ただの時間稼ぎだった。貴人の問いに問い返すなど、あり得ないことではあったが、そのつもりだった。女は、ジェイミの言葉に、改めて、自身の行動を振り返るように、宙を見上げ、それから言葉を紡いだ。

「あなたは、信じられそうだから」

 その言葉に、ジェイミは息をのんだ。女の目はまっすぐに、ジェイミの目を見つめていた。打ちふるえるような感覚が、足先から、のぼってきた。
 その瞬間、ジェイミの心は石が音を立てたように、かたくなになった。
 音が近づいてきた。せわしない。もうすぐここに着く。そう察したジェイミは、すぐさま平伏の姿勢をとった。

「ジェイミ? ジェイミ、どうしたの」

 ジェイミは答えなかった。音が姿を現した。

「姫様!」

 兵士があわただしくやってきた。女は、見るからに動揺し、小さくなった。ジェイミを見て、それから、あたりを見渡し身じろぎした。が、兵士が女の近くによった方が早かった。

「よかった、お姿が見えず」

 兵士が安堵と狼狽の混じった声で、女に言った。姫。――やはりか、ジェイミは静かになった思考で思った。

獣人エルミールめ、貴様が連れだしたのか!」

 髪をつかまれ顔を上げられる。そのまま、強い力で殴りつけられた。思考に火花が散る。吹き飛ばされ、そのまままた、平伏した。とんだ言いがかりだったが、この男の狼狽から見ると、責任をなすりつけたいのがわかった。おろかな人間め。心の奥のさげすみが出ぬよう、目を伏せた。

「やめて!」

 女が、兵士を止めた。ジェイミと兵士の間に回り込んだのが気配でわかった。

「姫様」
「連れ出したってなに? ラルを連れ出したってこと?」
「それは――」

 兵士の声が揺れる。まさか女が獣人をかばうなど考えなかったのだろう。

「ラルは一人で来たの! 一人でここまで来たの! 何でジェイミにひどいことするの? あなた達、昨日から、ひどいことばっかり!」

 女が腕を振り、感情を露わにするのを、ジェイミは静かに、静かに息を殺してやり過ごしていた。兵士はどうするわけにもいかず、怒りのやり場も奪われ、消沈し、女に「部屋へ案内します」と告げた。女は黙り込んで、促された。

「ごめんなさい」

 ジェイミに、ぽつりと呟いて。
 女と兵士が去っていった後、ジェイミは、しばらくそのままでいた。しかし、待てども兵士が戻ってくる様子はないので。ふらりと立ち上がり、部屋に戻ることにした。処断されるのなら、どうせならゆったりと構えたい。
 まずアルマに、今回のことを報告した。アルマはこの一日でげっそりと疲れた顔を、青ざめさせ、ジェイミにひとまず謹慎を言い渡した。どうせ処断がくるものだからか、温情からか、折檻する気も、起きないようだった。
 謹慎場所の物置小屋に、ジェイミは用具とともに転がった。土の地面は湿っていて、ジェイミの肌を汚した。しばらく目を閉じていたが、眉をひそめて、目を開く。そうして、天井を見上げた。
 最後の日かもしれないのに――今夜はとても寝られそうにない。
 それは、決して恐怖からではなかった。もっとすさまじいものだった。
 

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