一章


 深々と夜もふけた頃。邸には、ショウジョウの羽音が響いていた。ドミナンに多いその虫は、その甲羅が赤、内側の羽が青で彩られている。夜行性の虫らしく、飛べば青白く光をぶうんと放っていた。
 そのショウジョウの突撃を体に受けながら、アイゼはひとり歩いていた。

 あの後、急ぎ召使頭であるアルマの元へ向かったが、時すでに遅し。アルマ自ら食事を運びに行った後であった。

「ばか! お前、何してるんだ」

 給仕が早く行け、と背中を張り飛ばし、アイゼは大慌てで姫の部屋へ向かった。すると、なにやら周囲がざわざわとしていることに気づく。召使いの獣人達がこそこそと集まっているのである。目の前の部屋が誰のものであるか一応心得ている為、みんな声を押さえているが、それでもこそこそと互いに耳打ちしあい、いわゆる野次馬特有の騒がしさだった。
 どうしたんだろう、そう思っていると、今度は一斉に口をつぐみ、散り始めた。仕事を再開し、聞き耳など立てていなかったように振る舞う。
 怪訝に思ったが、その理由はすぐに理解した。聞こえたというのが正しい。木造の地面が、微かに軋む音だ。規則的で、踏みしめる音がやや硬質であることから、底の硬く、厚い靴を履いていることがわかる。ドミナンの人間は、柔らかい底の靴を履いている。――この邸の客人である軍団の、兵士の者だ。
 理解するが早いか、アイゼはその者が姿を現す前に居住まいをただそうとした。しかし、今は姫の部屋へ向かう最中である。姫の元へも急いで行かなければならない。どちらを優先させるべきか、迷い体が動きを停止させ、反応が遅れてしまった。結果、アイゼは姿勢だけ正した様子で半端に廊下に立ちすくんだとき、ちょうど角を曲がってきた兵士と対面してしまう羽目になった。
 それは背の高い、美しい男であった。白金の美しい髪を惜しげもなく肩に垂らしている。やはりというべきか、人間である。甲冑をはずしており、昨夜に迎えた時よりも幾分軽装になっていた。息づかいも微かな悠然とした様子で、どこか人を見下ろすように見る節がある。ドミナンでは珍しい姿に、アイゼは一瞬呆然とした。しかし、男の海石のような深い青の瞳がアイゼを見留めた時、即座に我に返る。
 男の目が、訝しげに眇められる。たったそれだけの事であるが、金の睫に縁取られた蒼が暗くなり、アイゼの体にかつてない緊張が走った。獣人が人間の前に立ちふさがるなんて、あり得ない失態。特に、ドミナン以外から来た人間には殺されても文句は言えない。
 男は歩を進めず、そこに立っている。言わんとすることがわかった。だが、一言も発さずアイゼが示すか見定めている。
 跪かなければ。そうでなくともせめて頭を下げねば、いやそれよりも端にもっと寄って道を譲らねばならない――速やかに動かねばならないのに、せわしなく思考が飛ぶせいで、混乱した体はぎくぎくと左右に振れた。
 ほんの少し、男の体が身じろいだかに見えた。実際はそよ風が吹いただけであったが、それが契機となった。アイゼは弾けるように体を跳ねさせ、その場に這い蹲った。硬直した体を無理に動かしたせいで、飛び上がって着地に失敗したかのようなやや滑稽な動きであったが、アイゼに格好を気にする余裕は無かった。
 男の歩く音が、近づいてきた。アイゼが這い蹲って間もなくの事であった。アイゼは、自身の血の脈動を間近に聞いた。緊張からの熱が皮膚一枚下でくすぶるのに、嫌な汗だけわき出て、一筋アイゼの首を伝った。
 沈黙。男の足音と、自身の心臓の音だけが響いていた。男は何も言わず、アイゼの前を通り過ぎると、部屋の中へと入っていった。そこはちょうどアイゼが目指していた部屋であった。
 それからまもなく、やけにしずしずと、しかしとても素早く部屋から退出してきた頭のアルマとはち合わせた。アルマの顔色は、先ほどひどく青ざめたが部屋から出たことで常の色をとりもどさんとしていている途中、といったような、青いのだか茶色いのだか半端な色をしていた。しかしそれでも十分に血の気は引いていた。
 それゆえだろうか。アルマは気力が萎えたのか、アイゼは特に今日の失態をとがめられることはなかった。もちろんアイゼを叱咤し、頬を打ったが、それはずいぶん形式的なものだった。
 そして夜に、執事含め、邸の召使達が執事長に集められた。この邸の召使は獣人であるが、主人と直接接する執事長のみは人間である。

「以前から通達したおいた通り、今日未明よりお出でのドルミール卿傘下の軍が、我らの邸に駐屯されている事は知っているな。今日過ごして、軍からはおまえたちの態度が悪いとの言葉をいただいた」

 召使たちは、困惑するもの、息を詰めるものそれぞれである。しかし、困惑する者が多かったと見え、辺りはざわめく。

「静かに!」

 執事長の叱責が飛ぶ。辺りは水を打ったように静かになった。執事長の背後より、護衛兵の内の数人が前へ現れた。召使い達が滅多に見ることのない、この邸直属の人間の兵であった。

「これから、その責として一人ずつ罰を受けてもらう」

 まず執事達の上着を脱がせ列に並べると、兵士達が背を鞭で打った。執事達は皆、呻きをかみ殺す。赤々としたミミズ腫れをぬらすように、血がにじんでいた。
 それから、今度は執事達が、給仕、厩番、雑務係、などの頭を呼び、常備している鞭で打ち据える。そうして、次はそれぞれの頭が自分の配下を杖で打ち据えた。それの繰り返しである。目上の者が目下を打つ。皆打つ者は、肌に血をにじませ痛みに耐えながらのものであったが、いつもの打擲より加減はなかった。
 血のにおいと、不安定な息づかいとが、辺りに不規則に散らばる中、平然と執事長は言い放つ。

「ここドミナンはおまえたち獣人に対して寛容である。それは、ただひとえに村長である当主様の温情に他ならない。しかしかの軍は、アテルラよりお越しだ」

 アテルラとは、ドルミール卿のお膝元、すなわち都市部である。

「その事をよくふまえて振る舞うように、と当主様は仰せだ。このありがたいお言葉をふまえ、行動せよ」

 皆、応と返事をするしかできなかった。緊張と不安が張りつめて、空気は重くなっていた。
 これで済んでよかったのだ。罰が軽かったのは、明日の業務に支障を起こさないためだ。元も子もないからな、そうジェイミが言った。
 召使達の部屋に帰る前に、アイゼは今一度、アルマから折檻を受けた。

「お前のせいだ。お前がしくじったから、皆このような目にあったのだぞ」

 息を荒げアイゼを打ち据えるアルマの顔に、新たな傷があるのを見つけた。アルマも他の頭達から、叱責を食らったのであろう事がわかった。アイゼは傷が痛んだが、それ以上に、自分の巻き添えを食らった皆を思うと心が痛かった。
 ここに雇われてから今まで、しくじったことは何度もある。しかし、こんな大失態は初めてであった。召使の部屋、特に年少の子供達が入る部屋の押さえがちなすすり泣きを聞いていられず、そっと抜け出して来てしまった。
「おまえは鈍くさい」

 ジェイミはよく、アイゼに対し呆れたように言った。アイゼは比較的獣人に寛容なドミナンに慣れて警戒心が薄いのだと。しかし、今日ばかりはその言葉を言わなかった。アイゼがじっとジェイミを見ていると、ため息をついて

「責めてほしいなら、よそに行け」

 一言そう言った。それきり翌日の支度を始める。何も言わなかったが、話しかけてほしくない、そう背中が言っていた。アイゼはその背に、「ごめん」と言うのが精一杯だった。ジェイミは、アイゼ達少年の獣人の中では年長者である。それは、アイゼより年下の獣人達にとってもそうであり、ジェイミは彼らの世話をまかされていた。世話役という事は、つまり今日の夜、多くの獣人の子供達をジェイミは打ったという事に他なら無かった。
 改めてジェイミの気持ちを思うと、合わせる顔がなかった。厳しい言葉をくれるジェイミに甘えていたことを気づかされ、ひどく恥ずかしくなった。
 ショウジョウの鳴く声が耳に響く。とても息が苦しかった。謝っても仕方ない、後悔してももうどうしようもない。けれど、胸がずっともやもやとスッキリしなくてそれが何かしなきゃいけないような、そんな気にさせる。もとよりアイゼは、悩むのは得意ではなかった。解決策のない問いに、頭をぐしゃぐしゃとかき回した。

「うーー……」

 不意に音が聞こえた気がした。

「……ん?」

 何だろう、ふと顔を上げてアイゼはふらりと顔をうろつかせた。何か聞こえた気がする。いや、もしかしたら見えた、のかもしれない。ケーフラが飛び過ぎていくのを見たのかもしれない。ケーフラは夜に光を放つ虫だ。それなら理由がつくが、不思議な感覚だった。形にするなら、りん、だとか、そういう不思議に意識に残る――

「いや、気のせいか」

 幻覚を見るほど参っているのだろうか。それとも自分はこんな時に他のことに気をとられるような、弱虫なのか……アイゼはまた肩を落とす。とぼとぼと歩くアイゼの肩を、何者かが叩いた。

「うわっ」
「わっ」

 アイゼは飛び上がった。相手もアイゼが驚くとは思っていなかったらしく、驚きの声が重なった。後ろにいたのは、キーズだった。

「なんだよお」

 俺が近づいてきたの、気づかなかったのか。
 呆れたようにキーズが言った。それからしーと人差し指を口元に当て、静かにと言う。いつもはジェイミがする仕草だった。アイゼは開いた口を固めて、それに何度もうなずく。しかしキーズと対面すると、驚いたままの表情をそこからどうもっていっていいのかわからなかった。情けない顔はみられたくない。それでも、いつも通りに振る舞うこともできなかった。アイゼは、半端な笑みをかみ殺すかどうか判断できず、ただ気まずくなる。

「とりあえず、戻らん? あんまりうろついたら、またどやされちまう」
「うん……」

 キーズはいつも通りだった。促す声も、アイゼの背を押す、少しおおざっぱな手つきも、何も変わらない。獣人の耳には届く程度に、声音を小さくしている以外は、今日の折檻まで何気なかったかのような空気を出している。それでも、アイゼは胸が詰まった。

「あのさ、本当にごめん」
「あん? 何が。ああ、これのこと?」

 キーズの後を追うアイゼが、小走りで隣に並ぶとその勢いのままで言った。すると、キーズは訝しげに顔をしかめたが、言わんとすることがわかったのか、頬をさする。乾いた血の跡の残る口の端は、切れて青黒く変色していた。

「そんな気にすんなって」
「……謝ってもすむ話じゃねえけど……」
「おっも。重いって。あのなあ、そんなん俺たちも一緒だって」

 キーズが傷をさすりながら、苦笑した。――そう、自分たちは事前に気をつけるように言われてはいたのだ。事実、気をつけているつもりだった。でも結局それは、「ドミナンでの配慮」の範疇を出なかった。「ドミナン外での獣人の危機管理」には全く及ばない。

「でも、オレがへましなきゃ」
「うん。わかるよ。今回は、お前のへまがあったからかも。でもさぁ、皆わかってなかったんだよ。やっぱ」

 俺とお前、ちびたちだけじゃなくて、本当に皆がだぞ、そうキーズは念押すように言った。自分達はドミナンの安全さに飼い慣らされていたのだと、腕を頭の後ろでくんで歩きながら言う。口調は気負いも怒りもなく、静かだった。

「俺たち、たぶんこっから出たらすぐ死ぬなってさ、思った。やべえよ、これ。だからこれくらいで済んでよかった。痛かったけどさ。つーか、だから? むしろよかったんじゃねえかな、みたいに俺は思うわけ。痛かったけどさ」

 痛かったけど、これで皆の気も引き締まる。皆、無駄死にしなくてすむ。

「そういう意味では、お前がへましてよかったんじゃね。俺の気持ちとしてはそんなかんじ」

 そう言って笑った。前歯が一本欠けていた。アイゼの目から、ぽろりと涙が溢れた。キーズはアイゼの肩を抱く。

「泣いてんなよ、めっちゃ笑える」
「泣いてねえ……――ごめんな、キーズ。次の歯が生えてくるまでオレのビヌのスープあげるよ」
「いーらねえよ。あれ食った気しねえもん。もっと歯ごたえあんのくれ」
「ええ……」

 肩を抱き合って、小声で囁くように話しながら、ふらついたまま寝床への道を歩いた。いつもなら少し笑いあったりするものだが、そこはもう心得ていた。

「ただっつか、だからっていうか……――ジェイミは今、そっとしといてやろうぜ」

 あいつ、堪えてるだろうから。
 建物の中へ入る前に、こそりと、本当に小さな声でキーズは言った。アイゼは、キーズが自分の事以外にこの言葉も言いたかったのだと、そして、自分の為に、その言葉が聞けるだけの準備が整うまで見ていてくれたのだと悟る。

「うん」
「おう、悪いな」
「ありがとうな」

 キーズがばつが悪そうに謝る。アイゼは今度は謝らなかった。代わりに笑ってみせると、今度こそキーズも笑った。
 
 「しかし、一気に雰囲気変わったな」
「うん」

 一連の流れが少し照れくさかったのか、鼻の下をこすりながらキーズは話を変える。乱暴にこすったために傷にさわったのか、「いて」と小さく顔をゆがめた。話題を変えるようで、掘り下げているが、アイゼは今度は動揺しなかった。ただそれに同意する。

「人間、いや、違うな。都市部はやべえなあ」
「うん。やべえよ」
「まあ、ここが特殊だったんかもしれんけどさ、都市で生きてる獣人はやべえよ」
「……これからどうなっちまうのかなぁ。ちびたち、大丈夫かな」
「まあそれは大丈夫、と思うしかねえな。ある程度は慣れなきゃいけねえもの」
「だよなあ……」

 言っても詮無いことではあるが、張りつめた空気を思うと息が詰まる。単に明日からの仕事の厳しさを思うだけでない。さっきアイゼは、キーズの言葉に、都市部に生きている獣人がいるのか、と言い掛けてやめた。言葉が余りに冷たくて、口にする前にぞっとしたからだ。
 自分が獣人であることが、やはり自分の人生にとって害悪であるのだという事実。それは、今まで感じてきてはいたが、本当のところわかっていなかった。いや違う、わかっていても、それなりにわからない振りをしていられた。それが今、真を迫ってアイゼやキーズ、そしてジェイミも――彼らという一個の命の上に陰を落としている。その陰に直面せざるをえなくなってきていた。
 アイゼは言葉にしなかった。言葉にすると、余りに重い気がした。うまくそれを持ち続けていられるか、わからなかった。

「――まあ、できるところは俺たちが助けてやっか」

 キーズは空気を変えるように、少し調子をあげて言った。

「おう。そうだな」

 アイゼも笑みをつくり、応と返す。それ以外に返す言葉も無かった。重い空気になってしまった。キーズは、何か考え込むように、切り出しにくそうにうろうろと顔をさまよわせていたが、やがて意を決したという風に切り出した。

「あーと……たださ」
「うん?……あ」
「お」

 その時、微かな光が二人の視界の端を横切っていった。ただそこにいたと告げるよな、静かな瞬きだった。二人はまばたきも忘れて、その光の跡を追いかけた。

「……ケーフラか?」
「かなあ。オレ、さっきも見た」

 気のせいじゃなかったのかと、アイゼは思った。

「へえ、珍しいな。今の時期に」
「うん」

 どこか感心したように、キーズは光の跡をじっと見つめていた。

「きれいだな」
「うん。あ、キーズ、さっきのは」
「あ? ……ああ、いいや。また今度で」
「そうか?」
「おう。寝ようぜ」

 日が昇っちまう。そう言うなり、キーズはまた、歩き出す。さっきのことなんてなかった様に、また頭の後ろで手を組んで。アイゼは少し腑に落ちなかったが、まあまたキーズの気の向いた時にでも聞けばいいかと、キーズの後ろをついて行った。
 アイゼの背後で、また光が小さく弧を描き、瞬いて消えた。そこにはケーフラの陰も無い、無の空間であった。


「……――誰?」

 訝しげな声に、何も返すことができなかった。まばゆげに細めた目は、睨んでいる風に見える事だろう、人事の様に思った。
 また一瞬だけ、目の前の人間の黄金の髪が、夜の空に鮮やかになる。他でもない、彼女の手から生み出された光によって、瞬きのような微かな時間。
 自分は殺されるかもしれない。でも、今更、跪く気にもなれなかった。だから名前を告げたのは、半ば自棄だった。

「ジェイミ」
 
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