概念サバンナの今日たち

 捨てたはずのもの、記憶が蘇ってくるのが怖い。
 いや、そもそも「捨てる」ということそのものが間違っているのかもしれない。人間に捨てられる記憶などない、記憶とは積み上げられるものであり、一つ抜くとジェンガのように崩れ落ちてしまう。何が、って、己が。
 己が崩れるとどうなるか。崩れた己を立て直そうと何かが働く、そして形は歪になって、歪になった場所は、ぐるぐるぐると回るのだ。
 そんな風に回っている俺の頭の中、がどうなっているか。それはもう、死んだうさぎが大運動会だ。あちらこちらに跳ねている。
 跳ねたって何も起こらない、他人に迷惑をかけるだけ。そうなってもどうなってもどうにもならない、そもそも状況がどうにもならない。ここから先には進めないし、かといって後ろに下がることもできない。
 停滞しているだけ。
 それが救いだと言う人もいる。しかし人間は老いる生き物、不変であることはできず、いつか必ず「変わって」しまうときがくる。
 変化しないものはない、万物は転じ、地球、太陽、宇宙にさえも滅びのときはやってくる。
 だからどうだというのか。つまり停滞とは無理をすることだと言いたいのか。停滞しながらもどこかは必ず変わっている、そもそも肉体が入れ替わっている、細胞が入れ替わっている、代謝している。そのことを無視して不変と言うのはまやかしだと。停滞はまやかしだと。
 そんなのは詭弁だ。ただの論理。論理で人は救えない。
 本当に?
 わからないまま回している、うさぎがぴょんぴょん跳ねている。ぐるぐるぐるぐる回り続けていったいどこを目指すのか、停滞している。
 それは一人で回っているからなのか。俺は対人が苦手だ。他人が怖くて仕方がない、だが俺は一人では生きていけない、一人でいると停滞してしまうから。身体だけが変化し、精神は停滞する、食い違った人間になってしまう。
 そういう人間がいたっていい、と言われるか。
 世間の声を聞きすぎた。それはいつしか呪いと化し、自立した「世間」となって行動を縛るようになり、これをしたら嫌われる、あれをしたら避けられる、脳内はそんなことばかり。
 うさぎが跳ねている。跳ねて跳ねて恐怖と不安を回している。
 止まってくれないのだ。
 ぐるぐるぐるぐると回っている、今日も答えは出なくて、回って回って最初に戻る。
 捨てたはずのものが蘇り、
 明日もまた、繰り返すのだ。
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