おまけ

 東京にある私立大学を中退してから、十年が経った。十一月。この月になると、いつも思い出す。
 十九歳だった一歩は、葬儀スタッフを初めてのバイトに選んだ。何となく、すぐ採用されると思ったからだ。大学の近くには結婚式場が多く、ブライダルのバイトをする人は多かったが、その煌びやかな世界は自分には似合わないと思った。だから葬儀にした。そのあたりは、香織里のあいメモリーの志望動機と似ていたかもしれない。学歴のために親に決められた大学、学部では何も学びたいものはなかった。
 葬儀のバイトをして、人を見送ることの意味を知り、自分もこれがしたいと思った。何もかも親が決めていた人生の中で、初めて自分からしたいものが見つかった。そうなると、もう大学なんて行く意味がなかった。勝手に中退し、実家に帰り、実家と同じエリアにあった葬儀会社あいメモリーに就職した。
 正直、親には、理解してもらえるかもしれないとは思っていた。だが、それは一歩の、親なら許してもらえるかもしれないという生暖かい妄想だった。ここまで親の希望通り生きてきたのだ、そろそろ自分も我儘言っても許されるだろう。そう思っていた。
 もう二度と家に入ってくるな。福原の血に傷をつけたお前は自分たちの子ではない。学歴主義の両親からそう言われて、それから十年、ずっと一人で過ごしてきた。両親に勘当されてすぐは営業所の休憩室で寝たり、当時まだアシスタントだった一歩が組んでいたコーディネーターの先輩の家に上がり込んで何とかしていた。住む場所を決め、部屋を整えるために何日か有給を取ったこともある。そういう時に自分を支えてくれたあいメモリーには感謝しかない。
 実家近くのアパートを借りたのは、まだ親に許してもらいたかったという思いがあったからなのかもしれない。親の理解を得たいという気持ちは少なからずあった。人生は、人の価値は、学歴だけじゃない。それを認めてほしかった。だが、そうはいかなかった。親から連絡が来ることはなく、一歩からも連絡はしなかった。もう十年だ。諦める潮時なのかもしれない。
 夏から、東条家で過ごす時間が増えていた。家族というものにトラウマを抱えていた一歩だが、東条家はとてもあたたかかった。母を失った悲しみを乗り越えた三人家族。その中に、一歩も加えてもらっている。香織里の弟である愛翔は県外の大学に行っているので、その埋め合わせ的な感じにもなっていた。香織里の父からはかなり感謝される。親から感謝されることなどなかった一歩には、初めての経験だった。
 今日も東条家に来ている。夕食をごちそうになり、一晩泊まるために来ていた。香織里は夕食の片付けを済ませ、入浴中だ。一歩と香織里の父の二人でリビングのソファに座り、テレビを見ていた。一歩の実家にも、アパートにも、テレビがないから、テレビの音がするのは新鮮だった。
 CMになり、一歩はテーブルの上に置いていた湯呑みを両手で包んだ。
「あの、お父さん」
「ん?」
 眼鏡の奥にある優しい瞳が、香織里そっくりだった。なんでも言えるような、包まれるような眼差し。
「僕、そろそろ、両親の戸籍から抜けようと思っているんです。両親から勘当されて十年経っていますし、香織里さんとの入籍を考えたら、そっちの方が絶対いいって思ってて」
「そうなの? 僕は戸籍についてはよく分からないんだけど、縁切りってことになる?」
 香織里の父には既に一歩の実家問題については話していた。帰りたくなかったら帰らなくていいと思うよ、と言ってくれる一人だった。香織里も同じことを言ってくれている。
「はい。まあ、親子関係が法律的に切れることはないんですけど、少なくとも戸籍上はそうすることができます。そっちの方が東条家にとっていいと思うんです。僕の親とは関わらない方がいいから」
「そっか。一歩くんがそうしたければそうすればいいんじゃないかな。香織里もそう言うと思うよ。それから、一歩くんが東条に入ってくれるの、とても嬉しいんだ。香織里にはプロポーズしたの?」
「分籍したら、しようと思ってます」
 いいじゃない、と、笑ってくれた。
 葬儀コーディネーターのくせに、自分の家の問題は縁切りという形でしか解決できなかった。だが、それでいいと認めてくれる人がいる。それが東条家だった。
「香織里さんのお父さんが、僕の父になってくれるのは、ちょっと救いなんです」
「あはは、そうか。大変だったね、一歩くん」
 そう言われると、泣けてくる。そうか、自分は大変だったのか、大変だったのだ。初めて実感した。しんどかったと、初めて認識した。
 飲むか、と言われたので、頷いた。渡されたのはビールだった。本当は愛翔と先に飲みたかったけど、一歩くんでもいいよ、と笑っていた。
 香織里と一緒に市役所に行こう。そう決めた。
 香織里が入浴を終え、自分も入浴を済ませ、香織里の部屋に行く。狭いベッドに二人で横になる。一歩には床で寝る習慣がなくて、そうさせてもらっていた。
「あのさ、香織里さん」
「なに?」
 スマホで動画を見ていた香織里に、市役所に一緒に来てほしいと伝える。
「親との戸籍上の縁切りがしたくてさ。分籍っていうんだけど」
 重い話で申し訳なかった。だが、香織里はスマホを枕元に置いて、一歩の話を聞いてくれた。反応は先程と同じだった。一歩くんがそうするって決めたなら、そうしたらいいんじゃない。抱きしめて言ってくれた。
「明日行く」
「うん」
 そして、明日、香織里に言うのだ。前からなんとなく話には出していたが、ちゃんと、明日、はっきり言う。分籍したら、迷いも不安もなくなるはずだから。


 手続きはすぐ終わった。拍子抜けしてしまうほど、あっさり終わった。
 分籍届に記入し、判子を押し、提出し、戸籍上での縁を切った。住んでいるエリアが同じなのだから、自分の追跡は簡単にできるだろうし、なんなら働いている場所も知られているし、完全に逃げることはできなかった。法律的にも完全な縁切りは無理だが、それでも分籍すると気分がすっきりした。
 これで良かったのだ。親から許してもらおうなんて思っていないし、親が分籍を知ってまた怒り狂っても、こっちにはこっちの人生がある。十年も音沙汰ないのだ。もう関わることはないだろう。
 窓際のソファに座って待っていた香織里に、終わった、と声をかけると、微笑んでくれた。
「どこか、食べに行こっか」
「パフェがいい」
「うん、行こう」
 運転は香織里がしてくれた。精神的に疲れるだろうからと気を利かせてくれたのかもしれない。向かったのは『ベリーズ・ベリー』だった。二人が初めて一緒に行ったカフェだ。
 特大のパフェを頼み、思いっきり食べた。香織里が嬉しそうに見つめてくるので、半分食べたところでスプーンを止めた。
「なに?」
「一歩くんが美味しそうに食べてて、なんかこっちも安心しちゃった。良かったね」
「あ、うん。なんか思ったよりあっさりしてたから、気が抜けたよ。こんなに簡単にできるんだなって」
「そっかあ。あ、ごめん、食べてるの邪魔しちゃった。食べて食べて」
 香織里が頼んだのはパフェではなくイチゴのケーキだった。それも半分もらう。今日は夕飯は多くは食べられないかもしれない。
 カフェオレを飲み、お腹がいっぱいになった。
 カフェを出て、香織里にあるところに連れて行ってもらった。
 駅近くの公園だ。一歩が香織里に初めてキスした場所だった。下手くそな告白だったし、香織里を泣かせてしまって、なんだか思い出すのも恥ずかしいが、大切な場所である。
 高台のベンチに座ると、香織里は懐かしいね、と笑った。
 十一月の冷たい風が頬を撫でる。だが、日差しはあたたかかった。
「あのさ、香織里さん」
 そっと左手で香織里の手を握る。気恥ずかしくて、香織里の顔が見れない。
「分籍しようと思ったの、縁切りしたかったっていうのもあるんだけど、もっと大事な理由があってさ」
「うん」
「あのさ……、前からも言ってるけど、香織里さんと、結婚したいんだ。僕を東条家に入れてほしくて、迷惑かけたくなくて、分籍したんだ。福原家と関わらせたくなくて。分籍したら、改めて言おうと思ってたんだ。僕と結婚してほしい」
 きゅっと手を握り返される。
「うん、いいよ。おいでよ、私の家。私の作るご飯をみんなで食べて、私と一緒に寝て、それから、あのね」
「何?」
「一緒に仕事に行って、一緒に退勤して、一緒にお買い物して帰りたい。それから、それからね、子供もできるかもしれないから、一緒にいっぱい遊んで……」
 まだあるよ、やりたいこと。香織里がはにかんで言った。
「全部しよう、全部」
「うん」
 抱きしめると、香織里がふふ、と笑う。
「一歩くんといると、やりたいことが増えるんだ。カフェの提案があった時からずっとだよ。いろんなことやってみたいって気持ちにさせてくれたのは、いつも一歩くんだった。ありがとう、大好き」
「僕もだよ、誰の言いなりにならず、自分の選んだ人生を歩む勇気をくれたのは、香織里さんだ」
 一歩は、よし、と立ち上がった。
「今から婚約指輪買いに行こう。香織里さんが欲しいやつ」
「う、うん」
 近くにあった宝飾店に入り、香織里に好きな指輪を選んでもらった。一粒のダイヤモンドが輝く指輪は、シンプルでいながら、とても綺麗だった。店員が一歩に「彼女さんの指に、はめてみてください」とサンプルを渡してきたので、香織里の指にサンプルをはめる。気恥しいのは一歩だけでなく、香織里もだった。香織里の選んだ指輪はとても似合っていた。
 そのあとすぐ、香織里から一歩に腕時計が贈られた。仕事でも使えるシックなものを選んだ。
 東条家に帰り、父に報告すると、すぐにビールが出てくる。
「ようこそ東条へ」
「や、お父さん、気が早いよ!」
 ハムとチーズ、オリーブオイルで簡単に作ったつまみを持ってきた香織里の顔は真っ赤だった。
「今日も泊まって行くか、一歩くん」
「あ、はい。そうします」
 乾杯、とグラスを鳴らす。
 東条家が好きだ。香織里も好きだ。はやくこの家に越してきたい。そう思った。
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