おまけ

 九月上旬の昼下がり。残暑が厳しく、車内温度を下げるためにクーラーの設定温度を最低まで下げていた。家から駅までそこまで距離がなく、車内は完全に冷え切っていなかった。香織里の額にべったりと前髪が貼り付いていた。
 送迎所に車を置き、弟を待っていた。この春に家から出ていった愛翔は、大型連休もお盆も帰らず、この九月に初めて帰省をする。大学はまだ夏季休暇の真っ只中だ。
 しばらく待っていると、ホームに真っ黄色の電車が滑り込んできて、数人の客が下車をした。その中に、愛翔の姿が見えるはずだったが、すぐに見つけられなかった。大きなボストンバッグを肩から提げている青年がいるが、それが愛翔かどうか分からなかった。いや、愛翔のはずなのだが、雰囲気が違う。
 その青年は香織里に向かって手を振って、軽快な足取りで近寄ってきた。後部座席のドアを開け、やっほ、と軽い挨拶をしてくる。荷物が投げ込まれた。そのまま乗り込んできた青年の顔をミラーで確認して、やっとその男が愛翔だと確信できた。
「ねえ、その髪、どうしたの」
 似合っていないわけではないが、黒髪の愛翔しか見たことがないため、違和感があった。
「染めた」
「染めたのは分かってるよ」
「いいでしょ。なんとなく、したかったから」
 家を出たから。高校を出たから。環境が変わったから、心機一転で染めたのかもしれない。自由にやっている愛翔は、少し垢抜けているように見えた。歳の離れた弟だから、幼い印象を抱いていたが、いつまでも幼いままではなかった。
 信号で止まると、愛翔は身を乗り出して香織里の服を見てきた。
「香織里さー、今日なんかおしゃれしてる?」
 白のシャツブラウスにデニムパンツ。愛翔から見ればいくらかは、おしゃれに見えるのかもしれない。ラフすぎない服を選んだ理由があった。
「今日、一歩くん来るから」
「まじか。え、結婚の挨拶?」
「違うよ。顔見せに来るだけ」
「なんだ。違うのか。俺もなんかいい感じの服着ればよかったかな」
 愛翔は黒のTシャツにジーンズだった。一度、愛翔には一歩の写真を送ったことがある。付き合い始めたことを報告したのだ。顔が整っている一歩なので、愛翔も意識してしまっているのだろう。
 帰宅後、愛翔は荷物を自室に運び、仏間で母に帰省したことを報告し、リビングのソファでくつろいでいた。父もすぐにリビングに来て、愛翔の学生生活の様子を聞いていた。香織里はキッチンに立って、お茶菓子を作りながら二人の会話を遠くから聞いていた。大きな怪我も病気もなく、元気にやっているようで安心した。
 今日作っているのはカップケーキだ。チョコチップ、林檎、紅茶の三種類を用意する。甘さは父に合わせてやや控えめ。チョコや林檎が甘いから、一歩も気に入ってくれるだろう。愛翔は特にこれといって好きなものはないから、全部美味しいと言って食べてくれるだろう。母の死後、香織里の作ったものを美味しいと言って食べてくれる身近な存在だった。
 弟に励まされていた。あの頃は、父と愛翔と励まし合い、支え合い、生活していた。愛翔が帰ってきて、そういう時期があったことを、ふと思い出してしまう。だが、今なら、そういうこともあったなという気持ちで思い出せる。それほどの変化があったのだ。自分にも、この家にも。
 オーブンが焼き上がりを知らせ、ケーキの粗熱を取っていると、チャイムが鳴った。
 約束の時間ちょうどに一歩がやってくる。一歩が東条家に来るのはこれが初めてだった。玄関まで迎えに行く。
 一歩は白のシャツの上にネイビーのシャツジャケットを合わせていた。手には挨拶用のお菓子が入った袋があった。
「来てくれてありがとう。愛翔もお父さんも待ってた。上がって」
「あ、うん。お邪魔します」
 緊張しているのだろうか。いつもよりなんだか表情が強張っているような気がした。
 今まで何度か、家に誘ってはみたが、はぐらかされてきた。愛翔が帰ってくることを理由にして、やっと来てもらえた。
 一歩には家庭の事情があり、家族というものにやや抵抗があることは分かっていた。だが、父も愛翔も、楽しみにしてくれていたから、打ち解けてほしいとは思っていた。
 リビングに入ると、父も愛翔も一歩に朗らかに挨拶をし、話しかけていた。最初はぎこちなく返事をしていた一歩だが、愛翔がぐいぐい話しかけていくので、それでやや緊張がほぐれたようである。
「香織里さ、どんくさいとこあるから、ちゃんと働けてるか、俺も父さんもちょっと心配しててさ。香織里は飲食の方がいいって、俺言ったんだよ」
 キッチンでコーヒーを淹れながら、香織里は一歩たちの会話を黙って聞いていた。どんくさいとは何だ、とは思ったが、事実なので口を挟まなかった。
「僕も、香織里さんは、食事を提供する仕事が似合うって思ったよ。だから、カフェの仕事に切り替えてもらった」
「あ、一歩くんがそうさせたの?」
 父が興味深そうに聞いている。仕事のことは父にはあまり話していない。だが、仕事で何かがあったことは、日々の夕食で察せられていた。
「僕が提案したんです。香織里さんの作るものは美味しいから、もっと色んな人に食べてもらいたいって気持ちもあったし、それでお見送りができるっていいなって思って。毎日香織里さんの作ったものを食べられるの、羨ましいです」
「そうだね。香織里はいいご飯を作ってくれるよ。一歩くんも食べに来たらいい」
 父の誘いに、一歩は、小さく頷いた。頷くだけだった。
 どことなく、距離を取っているような気がする。香織里はそこで、コーヒーとケーキをリビングに運んだ。
 久しぶりの香織里のお菓子に、愛翔は喜びながら手を伸ばした。
 一歩は甘いものになると無我夢中で食べるのに、今日は遠慮しているのか、ゆっくり食べていた。元々食べるのが遅い父よりも遅い。様子を伺っているようだった。
「林檎のやつうまい。やっぱり香織里の菓子はうまいよ」
 ほんのりと温かく、柔らかい果肉から広がる甘さと香り。我ながら上手に焼けたと思う。
「愛翔くん、香織里さんのお菓子好きなんだ」
「あー、うん。そう。昔からいっぱい食べさせてもらってた。香織里って、自分が食べないのに作るからさ」
「僕もいっぱい食べさせてもらったよ。余り物処理担当かよって最初は思った」
「あはは。だよねー。太るから気をつけたほうがいいよ。香織里の作る量半端ないから」
「作りすぎてすみませんでした。趣味に付き合ってくれてありがとうございます」
 そのタイミングで、父がおもむろに立ち上がった。一歩に「ちょっと」と声をかけ、二人でリビングから出ていった。
 母へ挨拶しに行ったのだろう。着いていく必要はなさそうだった。
「いい人だな」
「いい人だよ」
「香織里にはもったいないかもね」
「それは余計」
 一歩が遠慮しているのは分かっていたので、余ったカップケーキを袋に詰め始めた。
 持って帰って、思う存分食べてもらえればそれでよかった。
 仏間から、おりんの音が聞こえてくる。それからしばらく経っても、父と一歩は戻ってこなかった。
 コーヒーを飲み終えた愛翔は、自室に戻っていった。
 おかわりの分を半分飲み終えた頃になって、ようやく父と一歩がリビングに戻ってくる。父が香織里に借りてごめんと謝ってきた。父は一歩にゆっくりしていってと声をかけ、自室に行った。
 一歩を香織里の部屋に案内し、残ったカップケーキを渡した。
「緊張してたよね。これ、帰って食べて」
「あ、うん、ありがとう。もうちょっと食べたかったから、嬉しい」
 香織里の部屋をぐるっと見回したあと、一歩は溜息をついた。
「この家は、あったかいな」
「え? 普通だと思うけど」
「普通だからいいんだよ。僕の家とは違う。僕の家と違って――ちょっと安心した。あ、ここにいていいんだって。香織里さんのお母さんのこと、お父さん、教えてくれた。三人でやっと持ち直して、今があるってことも。僕が葬儀会社の人だから、話したくなったんだろうな。三人でやってきた家だから、なんか、それだけの絆みたいなものがあって、あったかいなって。それが香織里さんの家なんだって」
 親から勘当され、家から追い出された一歩にとって、香織里の家は、安心できるものだった。緊張していたのは、異物として扱われないかどうか心配していたからなのだろう。今まで何度か誘ってもはぐらかされたのは、受け入れてくれるかどうか不安だったからだ。
 一歩の両親は、思うように育ってくれなかった一歩を追い出した。不要になれば追い出す。それが一歩にとっての家族だった。だが、東条家はそうではなかった。
 一歩は、これまでの葬儀で、いくつもの家族の姿を見てきた。その中には、深い絆で結ばれた家族もあれば、そうではない家族もあった。羨ましいと思うこともあったのだという。
「愛翔くんも、お父さんも、香織里さんの作ったご飯やお菓子が好きだって言ってて、ああだから、香織里さんの作るものは、全部美味しいんだって思ったよ。羨ましい。この家が」
「だったら、いつでも来たらいいよ。お父さんも誘ってたし。愛翔がいなくなると、ちょっと寂しいんだ。食べに来ていいよ。というか、食べに来て」
「そうする。お父さん、嬉しそうに手を合わせてたし」
 今度は夕飯に合わせて来る。そう約束してくれた一歩に、香織里は嬉しくなった。
 一歩の実家に行くことはあるのだろうか。そう思ったが、今は言わないことにした。一歩が帰ると決意したら、挨拶に行けばいい。帰らないと決めているなら、それに従うだけだ。一歩は自分の実家の話はあまりしたがらない。話したくなった時に、教えてもらえれば、それでよかった。
 帰り際、愛翔が一歩に何か言っていたが、それは香織里には聞こえなかった。一歩は愛翔にはにかみながら「分かってる」と応えていた。
 また来ます、と挨拶して、一歩は帰っていった。
 その後、香織里は久しぶりに三人分の夕飯を作った。今日は、愛翔の好きな、東条家の肉じゃがだ。東条家では牛肉ではなく、豚肉を使う。これは母の実家から受け継がれてきたレシピだった。
 父の隣は、いつも空席だった。そこは、ずっと母の席だった。
 だが、いつか、また三人、または四人になれる時があればいいなと香織里は思っている。
 一歩から正式にプロポーズされたわけではないが、既に結婚の話は出ていた。
 家族の姿は変わり続ける。愛翔も今後どうなるか分からないし、自分も父もどうなるか分からない。だが、この東条家の温かさは、いつまでも変わらないでほしかった。
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