1章
あいメモリーを出て東に少し進むと、ホームセンターとスーパーがある。そのスーパーで買い物をして帰るのが日課だ。
疲れきっている香織里は、無意識のままに目に入ったものをどんどんカゴの中に入れていく。
実家住まいではあるが、家族が食べるものは香織里がだいたい作っていた。母は既に他界しており、料理が一切できない年の離れた高校三年生の弟と、簡単なものだけならなんとか作れる父がいる。その父も、最近腰を悪くし、家事は弟と手分けをしていた。掃除は弟、料理と洗濯は香織里が担っている。
車で十分ほど走って帰宅し、窮屈な制服を脱ぎ捨て、家着に着替えたらすぐに晩御飯の支度を始める。母から譲り受けたブラウンのエプロンをつける。買ってきたものの中に豚肉があったので、キャベツと一緒に炒めた。焼肉のたれでなんとなく味付けをし、朝の残りである味噌汁と一緒に出す。父と弟を呼び、黙って食べた。
父は葬儀会社で働くことに、反対はしなかった。母の葬儀で散々お世話になったからである。香織里が葬儀会社を選んだことに対して、母の葬儀を経験したからかと聞かれたが、別にそういうわけではないと答えた。
夕飯を終え、片付けをすると、香織里の風呂の番になる。
湯船に浸かっていると、一歩の冷たい視線を思い出してしまう。口まで浸かり、ぶくぶくと泡を吹いていると、苦しくなって勢いよく立ち上がった。
気がついたら、キッチンに立っていた。左手にはボウルがある。右手には泡立て器があった。
メレンゲを作っていたらしい。ボウルの中でふわふわに泡立っていた。
あれ、私、何を作りかけていたんだろう。香織里は目の前に並んでいる材料を見渡した。
小麦粉と、砂糖、チョコチップがある。お菓子を作ろうとしていたのは分かるが、目的地は分からなかった。
またやってしまった。香織里は天井を仰ぎ「あー」と情けない声を出す。
何かストレスが溜まると、無意識に料理を始めてしまう。作るものを決めずに、適当にあるもので作り出すのだ。
ここまで作ってしまったら、もう完成させるしかなかった。パウンドケーキにすることに決めた。棚の中には、百円ショップで買っていたパウンドケーキの型がある。
さっくりと材料を混ぜ、生地を型に流し込み、予熱していたオーブンに入れた。三十分もかからず完成するだろう。
コーヒー豆を挽いていると、二階から弟が降りてきた。
「あー、またやってる。俺も欲しい」
「愛翔はまだ寝ないの」
「もうちょい勉強してから寝る。何焼いてんの?」
聞きながら愛翔はオーブンの中を覗いた。入っているのがパウンドケーキの型だとすぐ分かり、なるほどねえ、とつぶやく。
香織里が淹れたコーヒーに砂糖とミルクをふんだんに入れながら、愛翔はにやにやしていた。
「香織里がお菓子を作る時は、だいたい落ち込んでいる時か、好きな人ができた時か、どっちかだよね。俺は後者だと予想した」
「違います、前者です」
否定すると、愛翔はスプーンを行儀悪く舐めて、とぼけた顔をした。
「どうだか。俺の友達のねーちゃんがさ、年明けに結婚式するんだってさ。いいよなー、めちゃくちゃ美味しい料理が出るんだって。俺もはやく香織里の結婚式に招待されてーなー」
三十二歳。独身。恋人もなし。香織里は肩を落とし、コーヒーを啜った。苦かった。
母が亡くなった時、香織里は二十五歳だった。その時、職場の先輩たちの結婚ラッシュが始まっていたから、母に自分の花嫁姿を見せることができないことを悔やんだ。
願望はある。だが、出会いはない――そう思ったところで、ふと、自分より若い一歩の顔が思い浮かんだが、それはないなとすぐに打ち消した。
このまま一人で生きていくのかもしれない。愛翔は県外の大学を志望している。父を残して家を出るわけにもいかない。なんとなく、そう思っていた。
オーブンが焼き上がりを知らせ、そこで香織里の思考は途切れた。
愛翔も一緒についてくる。オーブンの扉を開けると、甘く、香ばしい香りが部屋に広がった。
早く早くと愛翔に急かされながら、パウンドケーキの型を外す。
「うおー、うまそー。やっぱ香織里は料理だけは上手いよな」
だけ、と限定されて胸がちくっとするが、事実だった。
「あんたも県外出るんなら、ちょっと練習しといたほうがいいんじゃないの」
「それは分かってるけどさー……、いただきー」
一足先に味わっている愛翔をよそに、香織里は第二弾を焼き始める。思ったよりも多く生地を作ってしまった。量が多いということは、よっぽどストレスが溜まっていたのだろう。
職場で親しくできる友人もいないし、テキパキと働くこともできない。そういったことが、気が付かないうちに大きなストレスとなっていたようだ。
オーブンに型を入れ、香織里も焼き立てのパウンドケーキを食べる。外はかりっとしていて、中はふわふわだった。溶けたチョコチップも美味しかった。
「つーか、なんで葬儀屋なの?」
愛翔が唐突に聞いてきた。
「なんでって、採用されやすそうだったから」
「てっきり、次はレストランとか、居酒屋とか、そういう飲食系だと俺は思ってたんだけど。そっちのほうが香織里っぽいなって」
得意なことといえば、料理くらいだが、得意なことや好きなことを仕事にするという選択肢は香織里の中にはなかった。趣味でしかなかったからだ。それに、いくら家族に褒められても自信に繋がらなかった。
もし飲食店で働けたとしても、すぐ厨房で働けるというわけではない。必ず料理ができるという保証はない。前職が事務だっただけに、事務職にまた回されてしまうかもしれなかった。
あいメモリーだって、いくつか業務が分かれている。自分は葬儀に携わることができるアシスタントの仕事をしているが、中には仏具などを扱うショップの店員や、営業をしている人もいる。希望する職場に就けたからといって、希望する仕事ができるとは限らないのだ。
「全員が全員、天職に就けるわけじゃないよ。あんたもきっとそうなる」
「俺は大丈夫だし。一応頑張ってるし」
「それって何、私が頑張ってないってこと?」
愛翔は、やべ、という顔をして、パウンドケーキを一つ掴み取って逃げた。
静かになったリビングで、溜息をつく。
頑張っていないと言われたら、確かにそうかもしれない。面接で落とされるのが嫌で、すぐ受かりそうなところにした。すぐ働けそうなところにした。楽に採用されようとした結果が今である。
研修期間は楽しかった。言われたことをすれば良かったからだ。それでも感謝された。葬儀が終わったあと、遺族から「ありがとうございました」と言われた。前の職場では、感謝されることなど、一度もなかったのに。
頑張ろうとはしている。葬儀アシスタントとして、精一杯やろうと決めて、研修期間を終えたのだ。
父も、母の葬儀を終えたあと、お世話になった葬儀会社の人に感謝していたのを思い出す。母が息を引き取ったあとは、落ち着かなかった。どうしていいか分からない中、頼りになったのは葬儀会社の人たちだけだった。
自分も何か手助けをしたいのに――。
そこでオーブンが香織里を呼んだ。
今度は自分のことではなく、大量にできたパウンドケーキの消費に悩んだ。休憩室の机に置いておけば、誰かが食べてくれるだろうか。ぱさつくかもしれないが、ダメになるよりはいい。誰も食べなくても、愛翔と自分が食べればいい。父も食べてくれるだろう。
大きめのタッパーにケーキを詰めながら、香織里は、ふと「私、何やってんだろ」とつぶやいた。
疲れきっている香織里は、無意識のままに目に入ったものをどんどんカゴの中に入れていく。
実家住まいではあるが、家族が食べるものは香織里がだいたい作っていた。母は既に他界しており、料理が一切できない年の離れた高校三年生の弟と、簡単なものだけならなんとか作れる父がいる。その父も、最近腰を悪くし、家事は弟と手分けをしていた。掃除は弟、料理と洗濯は香織里が担っている。
車で十分ほど走って帰宅し、窮屈な制服を脱ぎ捨て、家着に着替えたらすぐに晩御飯の支度を始める。母から譲り受けたブラウンのエプロンをつける。買ってきたものの中に豚肉があったので、キャベツと一緒に炒めた。焼肉のたれでなんとなく味付けをし、朝の残りである味噌汁と一緒に出す。父と弟を呼び、黙って食べた。
父は葬儀会社で働くことに、反対はしなかった。母の葬儀で散々お世話になったからである。香織里が葬儀会社を選んだことに対して、母の葬儀を経験したからかと聞かれたが、別にそういうわけではないと答えた。
夕飯を終え、片付けをすると、香織里の風呂の番になる。
湯船に浸かっていると、一歩の冷たい視線を思い出してしまう。口まで浸かり、ぶくぶくと泡を吹いていると、苦しくなって勢いよく立ち上がった。
気がついたら、キッチンに立っていた。左手にはボウルがある。右手には泡立て器があった。
メレンゲを作っていたらしい。ボウルの中でふわふわに泡立っていた。
あれ、私、何を作りかけていたんだろう。香織里は目の前に並んでいる材料を見渡した。
小麦粉と、砂糖、チョコチップがある。お菓子を作ろうとしていたのは分かるが、目的地は分からなかった。
またやってしまった。香織里は天井を仰ぎ「あー」と情けない声を出す。
何かストレスが溜まると、無意識に料理を始めてしまう。作るものを決めずに、適当にあるもので作り出すのだ。
ここまで作ってしまったら、もう完成させるしかなかった。パウンドケーキにすることに決めた。棚の中には、百円ショップで買っていたパウンドケーキの型がある。
さっくりと材料を混ぜ、生地を型に流し込み、予熱していたオーブンに入れた。三十分もかからず完成するだろう。
コーヒー豆を挽いていると、二階から弟が降りてきた。
「あー、またやってる。俺も欲しい」
「愛翔はまだ寝ないの」
「もうちょい勉強してから寝る。何焼いてんの?」
聞きながら愛翔はオーブンの中を覗いた。入っているのがパウンドケーキの型だとすぐ分かり、なるほどねえ、とつぶやく。
香織里が淹れたコーヒーに砂糖とミルクをふんだんに入れながら、愛翔はにやにやしていた。
「香織里がお菓子を作る時は、だいたい落ち込んでいる時か、好きな人ができた時か、どっちかだよね。俺は後者だと予想した」
「違います、前者です」
否定すると、愛翔はスプーンを行儀悪く舐めて、とぼけた顔をした。
「どうだか。俺の友達のねーちゃんがさ、年明けに結婚式するんだってさ。いいよなー、めちゃくちゃ美味しい料理が出るんだって。俺もはやく香織里の結婚式に招待されてーなー」
三十二歳。独身。恋人もなし。香織里は肩を落とし、コーヒーを啜った。苦かった。
母が亡くなった時、香織里は二十五歳だった。その時、職場の先輩たちの結婚ラッシュが始まっていたから、母に自分の花嫁姿を見せることができないことを悔やんだ。
願望はある。だが、出会いはない――そう思ったところで、ふと、自分より若い一歩の顔が思い浮かんだが、それはないなとすぐに打ち消した。
このまま一人で生きていくのかもしれない。愛翔は県外の大学を志望している。父を残して家を出るわけにもいかない。なんとなく、そう思っていた。
オーブンが焼き上がりを知らせ、そこで香織里の思考は途切れた。
愛翔も一緒についてくる。オーブンの扉を開けると、甘く、香ばしい香りが部屋に広がった。
早く早くと愛翔に急かされながら、パウンドケーキの型を外す。
「うおー、うまそー。やっぱ香織里は料理だけは上手いよな」
だけ、と限定されて胸がちくっとするが、事実だった。
「あんたも県外出るんなら、ちょっと練習しといたほうがいいんじゃないの」
「それは分かってるけどさー……、いただきー」
一足先に味わっている愛翔をよそに、香織里は第二弾を焼き始める。思ったよりも多く生地を作ってしまった。量が多いということは、よっぽどストレスが溜まっていたのだろう。
職場で親しくできる友人もいないし、テキパキと働くこともできない。そういったことが、気が付かないうちに大きなストレスとなっていたようだ。
オーブンに型を入れ、香織里も焼き立てのパウンドケーキを食べる。外はかりっとしていて、中はふわふわだった。溶けたチョコチップも美味しかった。
「つーか、なんで葬儀屋なの?」
愛翔が唐突に聞いてきた。
「なんでって、採用されやすそうだったから」
「てっきり、次はレストランとか、居酒屋とか、そういう飲食系だと俺は思ってたんだけど。そっちのほうが香織里っぽいなって」
得意なことといえば、料理くらいだが、得意なことや好きなことを仕事にするという選択肢は香織里の中にはなかった。趣味でしかなかったからだ。それに、いくら家族に褒められても自信に繋がらなかった。
もし飲食店で働けたとしても、すぐ厨房で働けるというわけではない。必ず料理ができるという保証はない。前職が事務だっただけに、事務職にまた回されてしまうかもしれなかった。
あいメモリーだって、いくつか業務が分かれている。自分は葬儀に携わることができるアシスタントの仕事をしているが、中には仏具などを扱うショップの店員や、営業をしている人もいる。希望する職場に就けたからといって、希望する仕事ができるとは限らないのだ。
「全員が全員、天職に就けるわけじゃないよ。あんたもきっとそうなる」
「俺は大丈夫だし。一応頑張ってるし」
「それって何、私が頑張ってないってこと?」
愛翔は、やべ、という顔をして、パウンドケーキを一つ掴み取って逃げた。
静かになったリビングで、溜息をつく。
頑張っていないと言われたら、確かにそうかもしれない。面接で落とされるのが嫌で、すぐ受かりそうなところにした。すぐ働けそうなところにした。楽に採用されようとした結果が今である。
研修期間は楽しかった。言われたことをすれば良かったからだ。それでも感謝された。葬儀が終わったあと、遺族から「ありがとうございました」と言われた。前の職場では、感謝されることなど、一度もなかったのに。
頑張ろうとはしている。葬儀アシスタントとして、精一杯やろうと決めて、研修期間を終えたのだ。
父も、母の葬儀を終えたあと、お世話になった葬儀会社の人に感謝していたのを思い出す。母が息を引き取ったあとは、落ち着かなかった。どうしていいか分からない中、頼りになったのは葬儀会社の人たちだけだった。
自分も何か手助けをしたいのに――。
そこでオーブンが香織里を呼んだ。
今度は自分のことではなく、大量にできたパウンドケーキの消費に悩んだ。休憩室の机に置いておけば、誰かが食べてくれるだろうか。ぱさつくかもしれないが、ダメになるよりはいい。誰も食べなくても、愛翔と自分が食べればいい。父も食べてくれるだろう。
大きめのタッパーにケーキを詰めながら、香織里は、ふと「私、何やってんだろ」とつぶやいた。