おまけ

 カフェの経営も順調で、余裕が出てきた香織里は、あることを始めていた。
「ほうれん草とじゃこの和え物、三食分くらいの量はあるから。ほうれん草くらい食べられるでしょ? それから肉じゃが……うちは豚肉を使うから合わなかったごめん」
 カウンターでパフェを突っついている一歩の前に、香織里は大きなタッパーを二つ置いた。
「ああ、うん、ありがとう。帰って食べる」
 仕事終わりにパフェを食べるのは、日常となっていた。閉店時間と一歩の退勤時間が同じ頃というのもあり、一歩は何の恥ずかしげもなく店に来るのだ。
 それをいいことに、香織里も一歩の夕飯を渡していた。昼食はコンビニのおにぎり、夜はスーパーの惣菜ばかりだというのを知っているからだ。
 早紀から誰のですか、と聞かれた時、誤魔化すことができずに、すぐにバレた。園子にもすぐにバレた。だが働きにくくなるということはなかった。そこがあいメモリーの好きなところの一つである。皆、温かいのだ。人に対して。
「本当は夕飯のあとにデザートにしてほしいんだけど」
「じゃあ香織里さんがうちに来てくれればいいんだ。それで解決する」
「そうしたいのも分かるんだけど。うちの夕飯も作らないといけないから。お父さんにちゃんと説明してからにする」
 お父さん、という言葉にぴくっとした一歩は溜息をついた。
 一歩の家族関係は、香織里も本人から聞かされて知っていた。
 かつて、一歩が通っていた大学は、そこそこ名の知れた私立大学だった。親が希望したのだという。学力がある一歩は、入学に関してはそこまで苦労しなかったが、何かがやりたくて入学したわけではない。入学後、初めてやりたいことが見つかって、そのまま中退し、あいメモリーに就職。それを聞いた親は、怒りに任せ、一歩を家から追い出したのだ。
 一歩も、学歴しか見ない親とは関係を持ちたくないといって、縁を切っていた。一歩の実家には一度も行ったことがない。だが一歩の実家もここから近く、完全に縁を切ろうという意思は正直感じられなかった。
 いつかは解決しないといけないんだろうなとは香織里も思っているし、一歩もこのままではいけないというのは分かっているのだろう。そういう意味の溜息だった。
「九月頭に、愛翔が帰ってくるんだ。その時、うちに来てよ。愛翔もお父さんも、一歩くんに会いたがってる」
「ん、んー……分かった」
 煮えきらない返事に、香織里は苦笑する。
 家族というものに関わるのが、今は少し躊躇いがあるのかもしれない。
 一歩が食べ終わり、香織里も退勤の準備を始めた時だった。一歩のスマホが鳴った。スピーカーになっており、香織里にも聞こえてくる。
「ごめーん、かずちゃん! 退勤後のラブラブパフェタイム邪魔してほんとごめん!」
 園子のよく通る声が響く。一歩はうっと顔をしかめ、スマホのボリュームを下げた。
「もう。何、園子さん」
 キッチンから顔を出し、香織里も一歩と園子のやり取りを聞く。
「かずちゃんを指定したいってお客様が来てるの。よく分からないんだけど、とにかくそこにいるなら営業所に戻ってきてちょうだい。あ、打ち合わせならそっちに行ったほうがいいか。ごめんごめん! 今からそっちに向かうから、対応お願い!」
 ブチッと通話が切れ、一歩はなんだよもう、と行って下唇を突き出した。
 退勤後のデザートタイムを邪魔されたうえに、からかわれて怒っているようだ。
「まあまあ。仕事かな。私も時間大丈夫だからもうちょっといるよ」
 一歩をなだめ、照明を点け、ドアの鍵を開けた。
 ちょうど園子が一人の男性と一緒にカフェの前に来た。手には真新しいプランシートがある。
 男性の姿を見た一歩は、動きを止めた。どうやら知り合いのようだ。
「……久しぶり、一歩くん。俺のこと、覚えてるかな」
 四十手前の男だった。一重の吊り目が印象的だが、雰囲気は丸そうである。
 一歩はプランシートを見ずとも、男の名を呼んだ。
「明智……拓也さんですよね。睦ちゃんのお兄さんの」
 プランシートを見た一歩は、息を呑んだ。それからすぐに、打ち合わせ席に拓也を招いた。
 香織里はいつものようにコーヒーを淹れ、拓也に出した。そのあと、なんとなく一歩と一緒に話を聞いたほうがいい気がして、隣に座った。
 打ち合わせが始まると、拓也はすぐに故人の話を始めた。
 故人、万道睦とその子供。臨月に入り、いよいよ出産間近となって踏切に入って自殺。夫が先に鬱で自殺しており、後追い自殺だったのではないかと言っていた。夫は万道優一郎。ゲーム業界では有名なシナリオライターの一人だった。睦は漫画家で、優一郎のシナリオのコミカライズを担当していた。優一郎は鬱から新幹線のホームに飛び降り、この世を去った。睦もまた踏切で列車に轢かれたことから、後追い自殺の可能性は高かった。
「俺が無理やりにでも、睦をこっちに連れて帰っていれば良かったんだ。でも、睦は、優一郎さんの近くがいいって言って……東京から戻ってこなかった……。産むか産まないかでも悩んでたくらいなのに……」
 遺体の損傷が激しく、火葬だけ東京で先に済ませたらしい。だが、睦を一度、実家に帰らせたかった。骨をこっちに持ってきているから、実家でもう一度別れがしたい、というのが拓也の依頼だった。
 自殺者の葬儀は香織里にとっては初めてだった。皆が皆、穏やかな死を迎えるとは限らない。事故、事故、場合は様々だ。それは頭では理解しているが、話を聞いていると、胸が痛む。
 一歩は一通り話を聞き、また連絡するといって拓也を帰した。
 そのあと、一歩はカウンター席にどっしりと座り、机に突っ伏していた。
「大丈夫?」
 一歩に温かいお茶を出し、香織里は隣に座った。
 泣いてはいなかった。だが、泣きそうな顔をしていた。
「睦ちゃん……そっか……」
「一歩くんの知り合い……なんだよね」
「同級だよ。中学生までの。家も近くてさ。登校班も一緒でさ。そっか。漫画家になってたんだ。まあ絵は昔から上手かったしなあ」
 幼い頃はよく一緒に遊んでいたという。低学年の頃まではお互いの家に遊びに行っていた。拓也がゲーマーで、拓也も一緒になって遊んでいた記憶を一歩は香織里に語った。中学年、高学年になるにつれて、別に好意を持っているわけではないのに、なんとなく異性として意識するようになって話すこともなくなったが、それでもたまに挨拶くらいはしていた。
「何してるんだろうなって、たまに気になるくらいの仲だったけど。死んじゃったんだなあ」
 初めてだな、こういうの。一歩は呟いて、天井を見上げた。
「関わりがある人が死ぬって、こういう感じなんだな」
 一歩は遠い親戚の葬儀に1度だけ参列しただけで、親しい人の死は体験したことがなかったという。香織里も友人の死は経験したことがない。母の死とはまた違う感覚なのだろう。
「睦ちゃん、旦那さんのところに逝けたらいいよなあ……」
 一歩がそう呟いた時だった。
「優一郎さんのところには、どうやったら行けるのですか」
 背後から、凛とした女性の声が聞こえてきた。
 香織里も一歩も、その声がした方を向く。
 拓也と似た吊り目。すっと通った鼻。まっすぐ切りそろえられた髪。香織里はすぐ「美人だ」と思った。お腹が膨らんでいる。一緒に亡くなった子供がいるのだろうか。
「あ、」
 一歩が驚いて立ち上がる。
「……睦ちゃん」
「一歩くん。久しぶり……だね……」
 睦は、ぎこちなく笑った。
 そのぎこちなさは、昔から変わっていなかったのだろう。一歩もまた、顔を歪めた。
「久しぶり。なんだ、変わってないじゃん。安心した」
「一歩くんも……。ごめんなさい。私の夫がどこにいるかなんて、分からないよね。迷惑かけて死んだのに、死んだ後も迷惑かけて。私……、間違ってたかな……」
 睦は泣きそうな顔をしていた。
 夫を追いかけて死んだにも関わらず、夫の場所に行けないというのはあまりにも酷な話だった。
 一歩も香織里と同じことを思ったのか、睦に明るく言った。
「僕たちが、睦ちゃんを旦那さんのところに送ってやるから。大丈夫。それまでは実家でゆっくりしてな。ずっと帰ってなかったんだろ? 拓也さんはそれを望んでいるらさ」
 それを聞いた睦はほっとした顔で消えていった。一歩に言われた通り、実家に帰ったのだろう。
 一歩は泣かなかった。葬儀コーディネーターとして仕事をしなければならない。立場はわきまえていた。


 翌日、一歩は拓也に電話をしていた。
「あ、お世話になります。あいメモリーの福原です。拓也さんですか? 昨日はお越しいただいてありがとうございました」
 打ち合わせ席の一番奥に座って、邪魔にならないように仕事をしていた。香織里は遠くからその様子を見ている。
 一歩がカフェで仕事をするのは珍しいことではなかった。故人が何かしらの問題や願いを持っている場合、カフェで故人から直接話を聞くことがあるからだ。香織里もお見送りランチを用意しやすくなるという利点があった。
「遺品を見せていただきたいんです。はい。優一郎さんと睦ちゃんの……、失礼でなければなんですけど。まだ整理していませんよね。いや、教えていただければ僕だけで行きます。拓也さんはお家で睦ちゃんとゆっくりしてほしいんで。睦ちゃん、お家にいるはずですから」
 一歩の様子を見ていた早紀は、香織里に耳打ちしてきた。
「亡くなられたの、一歩さんの元カノですか? 睦ちゃんって呼んでますけど」
「えっ、ち、違うよ。小さい頃の友人だって。そんな関係になったとは聞いてないよ」
「ふーん。あ、お客様だ」
 いらっしゃいませ〜と挨拶しながら早紀は仕事に戻る。
 元カノ、という言葉に少しだけもやっとし、香織里は首を横に振った。別にいたとしても、それは普通のことだ。一歩はモテるような見た目をしている。いくらでも経験はあるかもしれない。
 でも何故もやもやとするのだろう。香織里は胸を撫でながら溜息をついた。
「香織里さん?」
 一歩に背後から呼ばれてびくっと肩を震わせた。
「え、あ、何?」
「香織里さんも行くよ」
「え? どこへ?」
「聞いてなかったのかよ。睦ちゃんと優一郎さんが住んでたアパート。東京。遺品を見に行くから。優一郎さんの逝った先を探さないといけないだろ。香織里さんもお見送りランチの参考になるものがあるかもしれないし、来てくれないか」
 明日はカフェ閉店日だ。問題はなかった。
 頷くと、一歩はすぐに夕方発の新幹線とホテルの予約を取った。
 部屋は一部屋しか借りてないけどいいよね、と言われ、香織里はどぎまぎとしながらありがとうと返事をした。何を緊張しているのだろう。一歩と二人きりで過ごすことは今までも数回あったのに。
 平然としている一歩を見ていると、何だか悔しかったし、早紀からの質問がずっと引っかかったままだった。
 早めに退勤し、宿泊の準備をもって父に最寄り駅まで送ってもらった。一歩とは在来線の中で落ち合った。
 新幹線に乗り換え、東に向かって進んでいく。一歩は隣ですぐに寝入っていたが、香織里はぼんやりと暮れゆく空を見ていた。
 東京に行くのは初めてだった。何があるのか全く分からない。一歩に着いて行っているだけだから尚更。
 一歩と遠出をするのもこれが初めてだが、デートではなく仕事というのが少し寂しかった。
 モヤモヤとしたまま数時間過ごし、ホテルの近くにあったカフェで夕食をとり、すぐにホテルにチェックインする。それも全部一歩がやってくれた。
 日中はカフェでいつもどおり働き、そのあとの移動でかなり疲れていた。シャワーの後、すぐにベッドに入った。だが、自分のベッドでも一歩のベッドでもないせいか、寝心地が悪かった。家族、友人と一緒に旅行に行くことも、一人で旅行に行くことも少なく、ホテルのベッドで寝ることに慣れていなかった。
 何度も寝返りを打っていると、一歩に後ろから抱きしめられた。
「寝れない?」
「う、うん、今まであまり旅行とか行ったことなくて……ホテルに泊まるなんてこと滅多にないから……疲れてはいるんだけど……」
「あー。急に決めてごめん」
 そのあと、一歩の深い溜息が首筋にかかってきた。香織里は一歩の手を握る。
「仕事じゃなかったら良かったのにって思っちゃう……大切な仕事なのに」
「あ、だからずっと黙ってたんだ。香織里さんいつもより静かだったし、何か怒ってるのかなって思ってた。デートが良かったってことか。そっか。それは申し訳なかったな」
 安心したように一歩が強く抱きしめてくるので、香織里は言おうか言わまいか悩んだ。
 悩んだところで、何かが変わるわけではない。そう思って、一歩の指を握った。
「あの、ね、聞きたいんだけど……」
「何?」
「ほんとに、ほんとに、睦さんとは、何もなかった?」
「どういうこと? あ、付き合ってたとか恋愛感情持ってたとかそういうこと? 話した通りだよ。ちょっと意識してた時期はあったけど、それって単純に異性だから意識してただけ。中学の時はほぼ喋らなかったし。それに睦ちゃん、旦那さんを追って死んじゃったわけだろ。だから睦ちゃんも、僕のことは眼中にないよ。何もないよ。昔仲良かった友達の一人」
 そこまで言った一歩は、笑いはじめた。
 何かおかしい質問でもしてしまっただろうか。香織里が振り向くと、軽いキスをされた。
「睦ちゃんに嫉妬した?」
「し……?」
 言われて初めて、香織里は自分の中にある感情が嫉妬に近いものだということに気付いた。確かにそうかもしれない。不安になって、嫉妬していたのかもしれない。
「睦ちゃんはもちろん大切な友達の一人で、お見送りもちゃんとしたいと思っているけど、睦ちゃんが特別というわけでもないから。香織里さんが一番だよ」
「ん……、ちなみに一歩くんは今まで付き合ってた人は……」
「高校の時に数人いたけど全部フラれた。僕から告白したことは一度もなくて、全部された。それで、適当にオッケーしてたら顔がいいだけで思ってたのと違ったって言われた。だから、僕からこんなに好きになったのは香織里さんが初めてなんだよ。今だってちょっとやばい。香織里さんが疲れてるから我慢するけど」
 頭を撫でられていると、香織里はやっと眠気に身を任せる準備ができた。
 一歩のまっすぐな気持ちと、温かさが落ち着かせてくれた。一人で勝手に不安になっていたのがバカバカしく思う。一歩のことはずっと信じていたい。
「私も好きだよ」
「ん。おやすみ香織里さん」
 先に眠りに落ちた香織里は、一歩がまた一つ大きな溜息をついて「やばかった……」と呟いていたのを知らない。
 

 睦と優一郎の住まいは郊外にあった。アパートが立ち並んでいる地区で、近くには学校もある。比較的新しいアパートで、二人の部屋は三階にあった。
 拓也から部屋の鍵を預かっていた一歩は、鍵を開けて「お邪魔します」と声をかけた。
 電気をつけ、まず目に入ってきたのは、漫画を描く道具が置かれたデスクだった。リビングの隅が睦の作業場所だったようだ。液晶タブレットの周りには資料がたくさん置かれていた。資料の奥に写真立てが飾ってあった。結婚式の写真のようだ。そこで優一郎の顔を初めて見た。睦よりも背が高く、優しそうな笑みを浮かべている。目が細いのが印象的だった。睦は恥ずかしそうに優一郎に寄り添っていた。
 リビングの中央にはダイニングテーブルがある。そのテーブルの上には一冊の手帳が置かれていた。中を見ると、スケジュールがたくさん書き込まれていた。締切、会議、ゲームリリース日――これは優一郎のものだった。昨年のものだ。優一郎が亡くなってからずっとそのままにしていたのだろう。メモ欄にはゲームのアイデアを書き留めていたのだろう。単語が乱雑に書き込まれていた。
 手帳の隣に置かれていたのは育児雑誌だった。表紙に「プレママ必見」と大きく見出しが載っている。睦がこれで情報を集めていたのだろう。産むか産まないかでも悩んでいたという拓也の言葉が蘇った。睦は一度、産むと決めた。だからこうやって雑誌を買って、情報を仕入れていた。雑誌に何か紙が挟まっているのに気付いた香織里は、それを雑誌から抜き取った。
 名前の候補が書かれていた。男の子だと分かっていたらしく、全部男の子の名前だった。優一郎の名前から取ったのか「郎」のつく名前が多かった。その中で、ひときわ目立つ大きさで書かれていた名前があった。「未来」と書かれている。その名前の隣に、星の顔をしたマスコットキャラクターがいた。何のキャラクターかは分からなかったし、一歩に聞いても分からないと返ってくる。吹き出しには「これにした!」と書かれていた。
 ここまで決めておいて、睦は、我が子と一緒に優一郎の元へと旅立とうとした。その理由は何だったのだろう。臨月に入り、不安が大きくなってしまったのだろうか。
 一人でここに座り、一人で食事をとり、一人で胎動を感じ、一人で出産を待っていたのだ。妊娠、出産で鬱になる女性もいると聞く。精神面でのサポートがなかったのかもしれない。
 雑誌の下には、茶封筒があった。差出人は速水慧斗という人物で、宛先は睦だった。封は切られている。中には一度ぐちゃぐちゃに丸められた形跡がある手紙と、大学ノートが入っていた。

「万道睦様、今月の慰謝料を振り込みました。出産の無事を祈ります。専門学校時代、優一郎と一緒に創作したものが遺っていました。自分よりも、睦様が持っていたほうが、優一郎は喜ぶでしょう。一度同人ゲームにしようとして、ボツにしたものですが、世界観は優一郎のお気に入りでした。きっと優一郎もその駅にいると思います。不思議な話ですが、夢で優一郎に会いました。彼は優一郎という名前ではなく、バンドウという名でしたが、優一郎だと思います。お忘れ物センターの職員でした。その彼が私に言ったんです。やり直せ、死に逃げるなと。私は裁判前、自殺しようと思っていましたが、優一郎がそれを止めたんです。きっと睦様のためだったんだと思います」

 そこまで読んで、香織里は大学ノートを見た。裏表紙には、先程見た、星の顔をしたキャラクターがいる。名前は星間ちゃんというらしい。1ページ目には「転生したいなら、異世界鉄道会社」と大きく書かれていた。
「星の間中央駅はもっとも大きな駅であり、様々な世界と繋がっている。ここで働く職員は皆、鉄道が関係する事故・事件などで命を失った者である。前世の記憶はなく、老いることもなく、ただ命ぜられた仕事をしている」
「記憶を取り戻したい場合は、お忘れ物センターに行けばよい。そこでは前世の記憶を捜してくれる」
「地球から異世界に行く場合、特急チキュウ、特急タナバタ、特急スイセイなどを利用する。転生がまだの場合、転生したいと望めば特急は魂を迎えに行く」
 様々な設定が羅列してあった。
 もう一度、ノートの表紙を見る。涙の跡が残っていた。
 優一郎は新幹線に身を投げだし、睦もまた踏切に入って亡くなっている。
 つまり、この設定通りなら、二人とも異世界鉄道会社の職員になるというわけだ。それを見越して、睦は踏切を選んだのかもしれない。
 香織里は本棚を見ていた一歩を呼び、ノートを見せた。
「創作をしている人って、自分で世界を作ってしまうから。次の世が自分の創造した世界の場合もあるだろうな。ここにいる可能性は高いと思う」
 茶封筒に手紙と大学ノートを入れ、その封筒だけ持って帰ることにした。
 部屋を出る時、香織里は玄関前で想像した。
 優一郎と睦が向かい合って、食事をとりながら、自分たちの創作物の話をしているシーンを想像した。
 一歩から声をかけられ、香織里は部屋から出た。
「拓也さんには、早めに遺品の整理をするように言ったほうがいいな。この中は、時が止まってしまっているから」
 鍵をかけた一歩が香織里の顔を見て、またドアを見つめた。
「全部、遺ってたな」
「うん」
 一歩が香織里にハンカチを出してくれた。
 帰りの新幹線の中で、香織里は車内販売でアイスを買った。設定の中に「車内販売ではガチガチに固まったアイスが売ってある」というものがあったからだ。お土産にしたい、と客室乗務員にわがままを言うと、ドライアイスを分けてくれた。
 到着が近くなると、一歩は拓也に電話をかけた。このあと、cafeおてんとに来てほしいという連絡を入れる。
 約束の時間は午後四時前。特急タナバタの出発時刻が近かった。
 cafeおてんとに戻った香織里は、ノートを頼りに、急いであるものを作った。


「速水慧斗は優一郎さんと睦が働いていたゲーム会社の社長だよ。優一郎さんを追い詰めていた本人だというから、裁判で慰謝料の請求をしていたんだ」
 茶封筒を受け取った拓也は、手紙とノートを読んでいた。その後ろに睦もいる。睦は死のショックのせいか、このノートの存在を忘れていたようだ。
 拓也がノートを机に置くと、睦は表紙を撫でた。
「睦ちゃんのお見送りは、特急タナバタに乗せてやることだと思うんです。もう少しで発車時間です。拓也さんも、この世界に、睦ちゃんが行けるように祈ってくれませんか。故人によって次の世は異なりますから」
「……もちろんだよ。優一郎さんのところに逝けるなら、それが一番だ」
 香織里は拓也に、あるものが入ったビニール袋を手渡した。もう一つ、同じものを机の上に置く。
 中には”ガチガチアイス”と一緒に、弁当が入っている。
 ノートの一番最後のページに書かれていたものだった。星の間中央駅で売られているという駅弁だった。字は優一郎のものではなく睦だったから、睦があとから設定を付け足していたのだろう。
 白米、星の形をした人参のグラッセ、ハンバーグ。星の粒に見立てたコーンがたっぷりはいったポテトサラダ。将来、未来ちゃんにも作ってやろうと思っていたのだろう。とても可愛らしい弁当だった。
 腕時計を見て、一歩は「時間です」と告げた。拓也は黙祷する。
 睦の背後に、新幹線の扉のようなものが出てくる。中から首にきらきらと光るスカーフを巻いた黒髪の女性が出てきた。名札には「特急タナバタ客室乗務員 ハナビ」と書かれてある。
「ご乗車をご希望ですか?」
 睦はこくんと頷いた。
「あ、初めての転生ですね。切符は不要です。星の間中央駅へのご案内になります。どうぞ空いた席に座ってください」
 客室乗務員はそう言って、車内に戻っていった。
 優一郎の遺したノートと、弁当を持った睦は、片足を踏み入れ、そしてもう一度振り返った。
「ありがとう、お兄ちゃん。あと、お弁当と、アイス、ありがとうございました。優一郎さんとよく旅行に行ってたんです。その時、一緒に食べたアイスなんです。私、これから、多分、私じゃなくなる。睦という名前も忘れる。この子のことも、優一郎さんのことも、今まで何があったかも、全部忘れる。でも、絶対、また思い出すから。絶対思い出して、優一郎さんとまた一緒になるから――」
 笛が鳴った。
 睦は特急タナバタに乗り込んだ。扉が消え、睦は次の世に旅立った。
 黙祷が終わったあと、拓也は弁当を持って帰っていった。家族と分け合って食べるようだ。必要だったら人数分用意するから、また連絡してほしいと伝えた。
 仕事を終えた一歩はいつものようにカウンター席に座ってパフェを頼んだ。
「転生したら一度全部忘れてしまうというのも酷だけど、きっと思い出せるよな。優一郎さんが、思い出せるように、設定してるはずだもんな」
「お忘れ物センター、だったっけ。そうだね。思い出せるよ。きっと」
 香織里は一歩の隣に座って、余ったハンバーグを食べた。
 人の数だけ、次の世がある。今まで何人も見送ってきたが、今回はなんだか特別な感じがした。次の世について具体的に知ることができたからかもしれない。
 愛しい人が創造した次の世に逝けたのだ。睦には、次の世でも幸せになってほしい。
「また泣いてる。もう、香織里さん。感情移入しすぎ」
「だって」
「これから六時間か。いい旅してほしいよな」
「うん」
 遠くから、汽笛の音が聞こえてきたような気がする。
 人の数だけ、次の世はある。次の世の数だけ、異世界鉄道会社の路線がある。優一郎の世界は広かった。睦が優一郎の元にたどり着けるのを、香織里はハンバーグを食べながら、心から祈った。


 星の間中央駅のお土産売り場には、今日も星間ちゃんグッズが大量に置かれていた。
「おねーさん、お弁当三つください!」
 小さな職員が背伸びして名札を渡した。ミライだ。その名札には『星の間中央駅、お忘れ物センター、ムゲン』と書かれていた。背が届かないので、ムゲンがミライを抱き上げ、名札裏のバーコードを読み取らせた。
 名札で支払いをしたあと、店員から弁当を三つ入れた袋をもらった。受け取ったのはバンドウだ。
「駅弁、久しぶりですねえ」
 特急チキュウが出発する十番乗り場に向かいながら、バンドウは袋の中を見た。
「僕、これを設定した記憶がないんですけど」
「私です。ノートにちょっとだけ付け足したんです。速水社長からノートが遺品として届けられたので」
「ああ、ムゲンちゃんでしたか。そうですか。ところで今回行きたいのって、ご実家付近でしたよね」
 エスカレーターから降りて、ホームに並ぶ。時間はちょうどだ。特急タナバタがホームに滑り込んでくる。バンドウはその間、目を瞑っていた。
「お礼を言いたい方がいるんです。私とミライをここまで送ってくれた葬儀屋さんがあって。私、死んだ衝撃で記憶が抜け落ちてしまって、優一郎さんがどこに逝ったか、分からなくなってたんです。ちゃんとバンドウさんのところに逝けて、ちゃんと記憶も取り戻したと、お伝えしたいんです」
 車内はいつもより人が多かった。会社が『お盆キャンペーン』と仰々しく宣伝していたせいだ。今日は転生後も前世に思い入れがある人々が乗っている。
 三人で乗っていると、ハナビがにこにこしながら話しかけてくる。ムゲンはハナビに、自分がタナバタに乗った時のことを覚えているか聞いてみたが、ハナビは首をかしげた。
「ごめんなさい、私、日々いろんな人の顔を見ているから、お客様のことはすぐに忘れちゃうんです。でも、その葬儀屋さんなら知っていますよ。度々、ドアが繋がりますから。いい葬儀屋さんなんでしょうね。そこから乗ったお客様は比較的多いです。いつも若い男性の方と女性の方の二人でお見送りをしています。ミライちゃんの研修兼家族旅行、楽しんでくださいね〜」
「ありがとうございます」
 タイミングがよければ、あの二人のお見送りを、ミライも見れるかもしれない。
 二人に見送られ、タナバタに乗った後の記憶は今もまだ戻っていない。だが、あの二人と兄に見送られた記憶まではしっかりと取り戻していた。
 人が死んだあと、人はどう故人をお見送りするのか。転生するのか。その瞬間を、ミライに見せたかった。思いやりと祈りに満ちた場所だ。一歩は、もしかしたら兄を呼んでくれるかもしれない。
 弁当を食べた後、ハナビからガチガチのアイスを買い、時間をかけて食べた。片道六時間は一人では長く感じてしんどいが、三人だと楽しい。
 到着し、タナバタから降りると、別のドアの前にちょうどあの二人がいた。お見送りをしていた最中だった。遺族の人もいる。ムゲンは一度、カフェの隅に移動し、お見送りの邪魔にならないようにした。二人は遺族の帰りを外まで見送っていった。それからまた二人はカフェに戻ってくる。声をかけるなら、今だった。
 ミライを抱き上げ、ムゲンは二人に声をかけた。
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