おまけ

 香織里の通うスーパーと、一歩の通うスーパーは別だった。
 香織里は町のメイン道路を挟んであいメモリーのほぼ目の前、車で三分のところにあるスーパー。一歩はあいメモリーからは車で東に向かって十五分、一歩のアパートからは徒歩五分のところにあるスーパーを使う。だから、一歩の通うスーパーに買い出しに行くと、一歩のために買いに来ているんだと実感することが多かった。
 香織里の通うスーパーと、一歩の通うスーパー、どちらが大きいかといわれたら、一歩のスーパーのほうだ。惣菜コーナーと冷凍食品コーナーの大きさが、比べ物にならない。中華、フライ、天ぷら、寿司、サラダ、特大弁当、おにぎり、サンドイッチ、食べたいなと思うものならなんでもある。冷凍食品コーナーは大型冷凍庫がざっと壁一面に並べられていて、冷凍食品がぎっしりと詰まっていた。
 一歩がほぼ毎日、夕食を惣菜などで済ませられるのは、この惣菜コーナーの豊富な品揃えを見て納得した。値段も安く、種類も多いから、毎日食べていても飽きないのだろう。刺激の強いものは苦手だが、それを除けばこだわりはあまりないのも理由だろう。甘味に対してのこだわりは異常だが。
 今日も、惣菜の量に圧倒されながらスーパーに入った。いつもなら生鮮食品コーナーの前にある入り口から入店し、野菜から巡るのだが、疲れていたのか、惣菜コーナー前の入り口から入ってしまった。ぼんやりと惣菜を見ていて、たまには、私も惣菜が食べたいかも、と思っていた。お腹も空いているし、今すぐ食べられる惣菜がいいかも。ちょっとだけだけど、料理、面倒くさいかも。一歩くん、今日くらい、許してくれるかな。普段、そんなこと思わない香織里だが、今日はどうしてもそう思ってしまう理由があった。
 一歩とは別のコーディネーターが担当する葬儀があった。普段、学生バイトを雇っているのだが、テスト期間とあってバイト生が足りなかった。人手不足で急遽、スタッフとして手伝ってほしいと頼まれ、カフェは臨時休業にし、香織里は久しぶりに式スタッフとして手伝いに出た。もちろん、早紀も一緒である。さらに会場は営業所の隣にある本館ではなく、分館だった。香織里が研修で働いていた場所である。早紀を助手席に座らせ、香織里が運転して分館まで行った。分館はあいメモリーから車でおよそ二十分、アパートよりさらに東のところにあった。
 首にスカーフを巻くのも、髪をうなじで団子にするのも、ジャケットを羽織るのも久しぶりだった。それだけで窮屈さを感じた。椅子を並べたり、祭壇を運んだり、参列者の案内をしたりと、やることはたくさんあった。カフェでも立ちっぱなしだが、式の手伝いもかなり疲労を感じた。物を運ぶことが多かったからだろう。
 本当は、今日は退勤後は家に帰りたかった。早紀もへとへとだったし、自分もへとへとだった。でも、一歩との約束があった。明日は休日だから、泊まりに行くと約束していたのだ。早紀をカフェまで送った後、香織里はそのままスーパーに車を走らせた。
 アパートに行くのも、泊まるのも、楽しみだからもうちょっとだけ頑張れると思っていた。だが、惣菜を目の前にすると、心が揺らぐ。一歩の「香織里さんの作るものは、全部美味しい」を思い出し、なんとか惣菜コーナーから離れた。だが、メニューが思い浮かばない。何を作ろう、何を作ればいい、野菜や肉を前にしても作るものが決まらない。
 スーパーの中をウロウロと彷徨って、結局、旬で特売となっていたキスの天ぷらにした。冷蔵庫に残っていたはずの人参やさつまいもなども、悪くなる前に一緒に揚げてしまおう。レジで精算を済ませ、アパートに向かった。
 一歩は既に帰宅していて、入浴中だった。シャワーの音が聞こえる。炊飯だけはしてくれていた。しゅんしゅんと湯気が出ていて、米の甘い香りが部屋に広がっている。壁にかけていたエプロンを身につけ、コンロ下の棚から味噌汁用の鍋と深型フライパンを出し、油をボトボトと入れる。豆腐と白ネギ、わかめの簡単な味噌汁を先に作り、揚げ物用の野菜を切っていく。天ぷら衣を用意して、キスから揚げていった。野菜から揚げるべきだったが、今の香織里は、そこまで頭が回っていない。
 キスを揚げ終えたタイミングで、一歩がリビングにやってくる。熱いうちに食べてほしかったし、味噌汁もできていたし、ご飯も炊きあがっていたから、一旦ここで皿に盛り付けて食卓に持っていった。
「待つのに」
「いいよ、食べてて」
 塩とめんつゆどっちがいいか聞くと、めんつゆと答えられたので、小皿につゆを入れて出す。
 やっと一歩にご飯を出せた。もう野菜はいいかな、とも思ったが、衣がまだ余っていたし、野菜も切ってしまったし、油もたっぷり残っているし、ここでやめるわけにはいかなかった。揚げ物は、思ったより時間がかかる。炒めものにすればよかったと後悔した。
 人参は火が通るまで時間がかかる。ぼうっとしていた。いつしか菜箸が止まり、油がパチパチと跳ねる音もどこか遠くのもののように感じはじめる。立ったまま寝そうになった。いや、一瞬、寝た。カクッと顔が落ちたところではっとして、フライパンの中を見た。慌てて人参を返す。
「あっ……、ちょ、うわぁ……」
 盛大に焦がしてしまった。衣は全体的に濃いきつね色になってしまっているし、黒く焦げている部分もあった。やってしまったぁ、と深い溜息が出る。フライパンをひっくり返すとか、放置した油から発火して火事になるとか、そういう大事になかっただけよかったが、ヒヤリとした。料理でヒヤリとすることは滅多にないから、心臓がバクバクしていた。それに、これは一歩に食べさせることはできない。うなだれながら人参を油から上げ、バットに置いた。
「どうしたの」
「ひやっ」
「え」
 一歩の手が肩に置かれ、香織里はびくっと身体を震わせた。変な声が出てしまい、顔が真っ赤になるのを感じる。バットの中を後ろから覗かれた。ふんわりとシャンプーの清涼な香りが漂ってくる。
「なんか香織里さんが大きな声出してるから、様子見に来たんだけど」
 一歩の身体が密着しているのも恥ずかしいのだが、バットの中にある焦げた人参を見られるのも恥ずかしかった。天ぷら衣の中にさつまいもを入れてぐるぐるとかき回す。
「や、ぼうっとしてて、焦がしちゃって……あはは……、これ、私があとで食べるから」
 失敗を見られるのが恥ずかしい。菜箸が空でうろうろとしていた。ぽたぽたと天ぷら衣がボウルの中に落ちていった。
 後ろから一歩が人参に手を伸ばし、口に運んだ。咀嚼音が耳元で聞こえてくる。
「え、美味しいじゃん。これも食べる。香織里さん、もしかして疲れてる?」
「あ、うん……」
 嘘はつけなかった。今日、自分がどこで何をしていたのかは、一歩なら知っていると思ったからだ。
「やっぱりな。カフェ、臨時休業なの見たよ。分館に行かされてたんだよな。スタッフの数でゴタゴタしてたのは知ってたからさ」
 一歩に菜箸をボウルを取られてしまう。隣に立った一歩は、こわごわと油にさつまいもを入れていった。一度静まり返っていた油が、またパチパチと音を立て始めた。料理は絶対にしない、と言っていた一歩が、手伝ってくれている。火が通ったら教えて、と言われて、こくりと頷いた。
 あいメモリーはどちらかといえばホワイトな会社だ。ただ、バイトやパートに頼っている部分も多く、人事はもうちょっと頑張れよ、と一歩はさつまいもを突きながら愚痴っていた。一歩の担当する式でも、スタッフ不足は稀にあるのだという。
 火が通り、バットにさつまいもをあげていく。その手付きは初心者丸出しだった。無理に手伝わせているみたいで、胸が痛む。
「手伝わせちゃって、ごめんね」
「は? なんで。いいんだって、僕も、ちょっとだけ……、ほんと、ちょっとだけだけど、やってみたいかもって思ってたし。炊飯器買って、気持ちが変わったというか。香織里さんに教えてもらえるなら、いいかもって思ったというか」
 ボウルに残っていたさつまいもを全て油の中に入れていく。
「別に、そういう日は、無理して作らなくていいんだけど」
「でも、一歩くん、楽しみにしてくれてるし」
「来てくれるだけでいい。香織里さんの料理は、他の日でも食べられる。いくら料理が得意で、好きだっていっても、作りたくない日もあると思う。無理して台所に立って、包丁で指切るとか、やけどするとか、失敗して落ち込むとか、そういう香織里さんを見るほうが嫌だ。しんどかったら、惣菜とか冷食とかでいいじゃん。あそこのスーパーの惣菜、悪くないじゃん」
 美味しいじゃん、とは言わなかった。悪くない。香織里を思って、そういう言葉にしたのかもしれない。香織里の作るもののほうが美味しいから、惣菜の評価は、悪くない。
「そうだね、たくさんあるしね」
「そう」
 大皿に野菜すべてを盛り付け、一緒に食卓に座った。先に食べていいよと言ったはずだが、一切手をつけずに待ってくれていた。先に出していたものを温め直し、二人でいただきますをする。キスは身がほくほくとしていて美味しい。焦げた人参は、独特の香ばしさがあって、これはこれで、まあ、美味しいのかな、と思った。不味くはない。
 高級炊飯器で炊いたご飯は、とてももちもちとしていて、甘さを感じられた。動画を見て、軽い気持ちで「いいな」と言っただけだった。まさか買っているなんて思わなかった。香織里さんのご飯がもっと美味しくなる、と嬉しそうに見せてくれた時、やっぱり、この人にはたくさん食べさせてあげたいと思った。
 だが、無理しすぎて、逆に気を遣わせてしまうのも嫌だった。今度またこういう時があったら、二人で惣菜を買いに行ってもいいのかもしれない。あのたくさんの惣菜を、何食べよう、何しよう、と話しながら二人で選ぶ。きっと、楽しいはずだ。
 惣菜も、悪くない。一歩の言う通り、悪くないのだ。香織里が、手作りにこだわりすぎていただけだった。
 片付けは全部やると言われたので、それに甘えた。
 食事を済ませ、入浴も済ませ、ベッドに入ると、すぐに眠気が香織里を襲ってきた。疲れたぁ、と、気の抜けた声が出てしまう。
「お疲れ様、香織里さん」
 頬を撫でられ、軽くキスを落としてくる。あたたかくて、すぐ眠りに落ちた。
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