3章

「香織里さん、私、残ってなくていいですか?」
 モップかけをしながら早紀が聞いてくる。時刻は午後七時前。閉店準備をしている早紀の前で、香織里は園子とお見送りの席を用意していた。
「大丈夫だよ。また明日もよろしくね」
「はあい」
 一通り掃除を終えた早紀は、お疲れ様でしたと声をかけて退勤した。
 それを見送った香織里は、席を遠くから見る。
「園子さん、もうちょっと可愛い感じになりませんか」
「あら、ちょっと清楚すぎた?」
 席を飾っていた花はキキョウだった。凛とした印象を受けるが、今の梗花の印象とは少しかけ離れていた。
 園子はそうねえ、と呟きながら店に置いてあった白のカーネーションをいくつか持ってくる。ふわふわのカーネーションの合間に見えるキキョウが映えた。
 園子も香織里も、いい、と頷いた。
「香織里ちゃんからリクエストなんて初めてかも。香織里ちゃんも今度、フラワーデザインのお勉強会に来てよ」
「そうですね。お花を買ってくれる人も増えてきたし。また勉強に行かせてください」
「うん、来て来て。じゃあ、お見送り、成功を祈ってるわ」
「はい。ありがとうございました」
 園子が営業所に戻るのを見送った後、香織里はシャツの袖をめくった。
 キッチンに向かい、調理を再開する。
 まずはサラダだ。ポテトサラダである。柔らかく茹でた人参、きゅうり、たまねぎをじゃがいもと混ぜ合わせる。マヨネーズは大人用に使用し、離乳食用にはヨーグルトを使った。
 美奈子から預かっていたクマのプレートの右耳にポテトサラダを盛り付ける。大人用のポテトサラダは別の小鉢に盛り付けた。
 左耳にはフルーツだ。梗花がフルーツが好きなのは、今までの様子を見ていたから分かっていた。船に盛ったフルーツも、一歩が食べるパフェに盛ったフルーツもかなり食べていたからだ。バナナ、いちご、メロンを選び、小さく切って左耳に盛り付ける。
 メインとなるのは豆腐ハンバーグだ。豆腐と鶏ひき肉、たまねぎ、人参を混ぜ合わせる。醤油でほんのりと味付けをし、少量の片栗粉でかためた。一口大サイズに丸め、両面が綺麗なきつね色になるように焼き上げた。クマのプレートの中央に盛り付ける。小さく切ったミニトマトで彩った。大人用に醤油あんを作り、別の皿にも盛り付ける。
 そこまで準備ができると、一歩の声が聞こえてきた。美奈子が来たのだ。時計を見ると、約束の時間の五分前だった。ちょうどいい時間だ。
 お盆に皿を載せていく。そのお盆にもキキョウが一輪添えられていた。園子からの提案だった。
「できた?」
 キッチンに顔を出した一歩に、香織里は頷いて応える。
 美奈子は緊張した面持ちで座っていた。ぼさぼさだった髪の毛は、短くカットされており、数日前の美奈子とは全く印象が違っていた。顔の血色も良い。白のシャツに紺色のロングスカートを着ていた。喪服に近いものを選んできたのだろう。
 美奈子の前に、お皿を並べていく。
 ご飯、味噌汁、豆腐ハンバーグ、ポテトサラダ、フルーツ。
 事故がなければ、いつもの食卓になったはずだった。いつものように梗花が美味しく食べているのを見つめながら、美奈子も食べていたはずだった。
 美奈子が梗花のためを思って作った献立である。食べやすいようにたくさんの工夫をした、梗花のためだけのものだ。
 一歩は店の端から、子供用の椅子を持ってきて、美奈子の隣に置いた。幼児用のものは用意はできなかったが、梗花が座るには十分だ。
 美奈子のそばに漂っていた梗花は、おずおずと子供用の椅子に座った。
「美奈子さんの味になっているかどうかは分かりませんが、作っていると、美奈子さんがとても梗花ちゃんのことを愛していたんだなって、私も思ったんです。事故当時も、梗花ちゃんに美味しく食べてもらおうって思いながら作ってたんだろうなって。梗花ちゃんと一緒に召し上がってください。梗花ちゃん、ここにいますから」
「え?」
 美奈子は子供用の椅子を見た。
 もちろん、美奈子には梗花の姿は視えていない。だが、梗花は美奈子に手を伸ばした。
 その様子を見た香織里と一歩は、カウンター近くに戻って様子を伺うことにする。
 しばらく美奈子は箸を持たなかった。
 代わりに持ったのは、スマホだった。しばらくして、美奈子はスマホを額につけ、目を閉じた。涙が出ないように堪えているようにも見える。
「梗花、ごめんね。こんなお母さんで」
 机の上にスマホを置いた。表示されていたのは、梗花の写真だった。
 ごめん。その言葉を聞いた梗花は、母の真似をした。声にはならないが、唇は『ごめん』と動く。
 おもちゃを飲んでごめんなさい。お母さんにつらい思いをさせてごめんなさい。そう伝えたかったのかもしれない。
 もちろん美奈子には伝わらない。だが、美奈子は何か吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「お腹すいてたよね。待ってたよね。食べよっか」
 その声は、母親そのものだった。毎日繰り返された言葉なのだろう。梗花もハンバーグに手を伸ばした。
 梗花が食べたものを、美奈子も食べる。美味しいね。何度も言った。
 美味しい。その言葉を聞いた時、香織里もなんだか泣きそうになった。胸に手を当て、完食まで静かに待つ。
 美奈子は泣かなかった。その代わり、ずっと梗花には笑顔を見せていた。
 香織里の母もそうだ。どんなに体が痛くても、苦しくても、そのつらさを香織里や愛翔には一つも見せなかった。
 それが母の強さなのだ。子供を想う母は、したたかだった。美奈子は母として梗花と向き合うことを決めたのだ。梗花の死とも。
 皿がどんどん空になっていく。美奈子は箸を止めなかった。梗花も口の周りを汚しながら一生懸命食べていた。
「梗花、ごちそうさましよう」
 ぱっちん、ごちそうさまでした。
 美奈子の掛け声に合わせて、梗花も手を合わせた。合わせたというより、叩いた、のほうが正しいかもしれない。
 それを合図に、梗花は次の世に旅立った。
 美奈子は黙祷している。手を合わせ、祈りを捧げていた。
 すみません、と声がかかったので、香織里は食後のコーヒーを持っていく。
「いいお見送り、できました?」
「はい。きっと向こうでも、美味しいのを食べて、大きくなってくれるんだろうなって思うことにしました。想像ですけど」
 コーヒーを飲んでいる最中、園子がやってきて、用意した花を花束にしてまとめた。
「キキョウの花言葉を知っていて、梗花って名前にしたんですか?」
 園子はスマホに表示されていた梗花を見て尋ねた。
「いえ……なんとなくのイメージでつけました」
「キキョウの花言葉は永遠の愛、変わらない愛なの。梗花ちゃんはお母さんの愛を感じて旅立ったと思いますよ。梗花ちゃんのお母さんへの愛も変わらないと思います。はいできました。帰ったら、水切りをしてくださいね。長く保ちますから」
 花束を受け取り、コーヒーを飲み終えた美奈子は、支払いを済ませ店の外に出た。
 香織里も、園子も、一歩も、外まで美奈子を見送る。
「――またお墓の相談に来ます。ここ、いい葬儀屋さんですね」
 ありがとうございました。美奈子は礼を言って帰っていった。
 美奈子の姿が見えなくなって、香織里も一歩も、大きな溜息をついた。二人の息がぴったりだったので、園子に笑われてしまった。
「お帰りになった? いいお見送りができたかな」
 三人の元にやってきた平次がにこにことしながら聞いてくる。その笑顔は、やっぱり仏様のものだなあ、と香織里は思った。
「今までで一番いいお見送りだったと思います。少なくとも僕はそう思います」
 一歩の返事に、香織里も頷いた。
「うん、なら良かった。これで一歩君も香織里さんも一人前だねえ」
「ちょっと社長、私もでしょ?」
 園子がむっとして言うと、平次は「そうだねえ」とやんわり返した。ベテランにはもう言うことはないのかもしれない。
 あいメモリーに来てから、香織里にできることがたくさん増えた。やりたいと思うことも増えた。まだ自分では一人前だとは思っていないが、そう評価されたことはとても嬉しかった。
 ここに来て良かった。心からそう思った。

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